東京聖書教会TOP /毎月の説教

毎月の説教

[先月] [来月] [最新の説教]

2008年9月14日(日) 「神に対する信頼」 Tヨハネ5:13-15 竹口牧師

ヨハネの手紙を読んできまして、間もなく最終段階に入ろうとしております。予定ですと、次回で終わることになります。そこで、これまでの事を少し振り返りまして、思い出していただきたいのですが、ヨハネがこの手紙を書きました目的というものが4つありました。その事を、この手紙を読み始めて3回目の時点で申し上げました。
復習の意味を込めて、もう一度申し上げておきたいと思います。

その一つは、1:4がそれであります。即ち、「 私たちがこれらのことを書き送るのは、
私たちの喜びが全きものとなるためです。」でした。御父と御子との交わりによって喜びが全きものとなる。だから、その交わりを大切にするように、でありました。

そして二つ目が2:1にありました。「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」でした。罪によって神との関係が崩れないように、神の命令を守りなさい、ということでした。

三つ目は、2:26にありました。「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。」であります。つまり、反キリスト者に気をつけなさい、ということでした。御父と御子のうちに留まる事の大切さが述べられていました。

そして最後の4つ目は、きょうの一番最初の節5:13の言葉であります。「私が神の御子の名を信じているあなた方に対してこれらの事を書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」であります。

この4番目の言葉、きょうの最初の言葉をお読みになって、ある方は、何かほっとされたのではないでしょうか。と言いますのも、これまで見てきましたヨハネの手紙は、大変厳しく私達の信仰に問い掛けてきたからであります。例えて言いますと1:6で「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」と書いていましたし、

また、2章11節では、「兄弟を憎む者は、闇の中におり、闇の中を歩んでいるのであって自分がどこへ行くのか知らないのです。闇が彼の目を見えなくしたからです。」とありましたし、更に3章に至りましては15節において、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」といって、私達の罪の指摘を厳しく糾弾していたからです。

そして、このような厳しい言葉をもって臨んだヨハネは、実は、あなた方にこれらの事を書いたのは、「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」というのです。決して、永遠のいのちを持つ為に、こうしないさいではないのです。もう、すでに持っている。それがよく分からせるためなのだとヨハネは書いているのです。

実は、ヨハネは、この手紙を書く前に、福音書を書きました。そして、その福音書を書いた目的を彼は明らかにしておりました。それが、そのヨハネの福音書20:31の言葉でありますが、そこにはこう書いてありました。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とであります。

つまり、今まで私達が見てきましたヨハネの手紙にありましたように、あれほど厳しく手紙を書いてきたのは、先に書いたあの福音書によってあなた方はイエス・キリストを通して永遠の命を持つようになった。それならば、その永遠のいのちを持っていることを、分かってほしいということであります

ヨハネは、書いていました。反キリストに対しては注意するように。また、すでに救われて永遠の命をいただいているあなた方は、兄弟を愛するように、とであります。

ヨハネは手紙の中で、4:20、21の所で、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」と書いていました。

ヨハネの生きていた時代、ローマによる迫害が益々激しくなっているそのような時でした。そのような外敵に対しては、御言葉の真理に立って向かい、一方、そのような時だからこそ内側に対してはなおのこと、兄弟姉妹が互いに愛し合う事の大切さがあり、もしそうでなければ、外敵に対してというよりも、内側から崩壊してしまう。そういう恐れをヨハネは感じとっていたといえるかもしれません。

そして、どんな危機的な状況になってもキリスト者一人ひとりには、逃れの道、解決の道、守られる道があることを次の14,15節の二つの節でもって読者を励ますのであります。

14節「何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と。何という素晴らしい確信でありましょうか。私達が、主の御心を正しく知る事ができるなら、そして、それを求めるなら、確実に主はそれに答えてくださるというのです。

ここで、私達が気をつけなくてはならないのは、神の御心と思いつつおこなったけれども、実はそうではなかったという事があるという点です。そのようなとき、御心と思って行なったけれども、神様は私の願いを聞いて下さらなかった、という誤った結論を出してしまう恐れが出てくるのであります。

神様の思いと人の思い。神様のご計画と人の計画、その違いに私達は細心の注意を払い、御心に適う願いをしなければならないと教えられるのであります。そうしませんと、サタンは人が陥りやすい弱さを利用して神様に対する不信感を私達信仰者に持たせる事すらするのです。神様の為だと思っても、そうではない場合が多分にあるのです。一つの例を挙げてみましょう。

パウロは3回の伝道旅行をしましたが、そのうちの第2回目の伝道旅行の時の事であります。使徒16:6-10にでているのですが、パウロとシラスは「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。」と、このようにパウロの行こうとする先々でパウロのしようとする事にストップがかかったのでした。

しかし、そんな「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。
パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」

こうしてパウロは、アジヤからヨーロッパへと導かれるのであります。
御言葉を伝える事は、神の御心です。
しかし、伝えるのであればどこでもよいというのではなく、神様のご計画に沿ったものである必要があるわけです。そういう意味で、きょうの聖書個所の14節にあります「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」というお言葉は、非常に愛唱されている御言葉の一つでありますけれども、「神のみこころにかなう願いをするなら」というところに非常に慎重さが必要なのであります。

これは、ローマ8:28の御言葉とも共通しています。
これも、多くの方に愛唱されている御言葉であります。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
これもとても素晴らしい御言葉でありますけれども、「神を愛する人々」でなければなりませんし、「神のご計画に従って召された人々」でなければならないのです。

と、まあこう言いますと、ある方は心配になってこられるかもしれません。
「神のみこころにかなう願い」をしているのだろうか。
「神を愛する人」の中に自分は入るのだろうか、とであります。

私は、このようなときにまず、確認することがあります。
それは、私は自分の力で神様を信じたのだろうか、であります。
そうではないはずです。神様が、一方的に選んでくださり、信じさせてくださったのでありました。ですから、私は自分の力で永遠の命を得たのではなく、御子を信じる者にさせてくださった神様が永遠の命を与えて下さった。
とすれば、私達は、その方に全面的に信頼すればよいわけであります。

そこでヨハネが13節で「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と言い、更に、それが分かっているならと大胆に、「神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私達の確信です」とヨハネは、言い切ることができたのでありました。

神の子イエス・キリストを信じる私達は、キリストにあって神様との永遠の命の交わりを持つ神の子らであり、キリストにあって限りなく、私達を愛してくださる神様が、私達の父であられるのであります。私達がいつも、どんな時でも、こうした神様との関係の中にあるという揺るぎない信仰に生きているという事は、私達信仰者にとって何事にも替え難い大切な事であります。

神様に対する信頼が強まれば強まるほど、15節のお言葉は更に真理だと言えましょう。
「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」何という大胆な言葉でありましょうか。

私達は、父なる神様と、御子なるイエス様に対する確固たる信頼、信仰的確信がなければ私達は祈りにおける大胆さ、自由さを持って祈る事は出来ないのであります。私達はイエス様によって神の子とされた事、そして子とされた私達は、神が私達の父となって下さった。しかも、御霊のお働きによって「アバ、父」と呼ぶ事ができるようにされたのであります。

アバとは、砕けた言葉で言いますと「おとうちゃん」だそうです。
子供が父親にねだる時のその呼び方で呼ぶ事が赦されている。
そういう関係に私達信仰者は、入れていただいているのであります。
ですから、私達が神様に対して「何事でも」祈り求めるなら、神はその願いを聞いてくださる、という確信が与えられるのです。
祈りは、信仰のもっとも自然な現れです。御子イエス様にあって神を父としてもつ私達子供は、父なる神様に遠慮なく求める事ができるのであります。

ところで、父親のイメージというのは、自分を育ててくれた親が、どんな父親であったか、それによって人それぞれ大きく違っている事でしょう。
非常に厳しい父親もいれば、求めれば何でも与えてくれたという甘い父親もいれば、父親の存在さえ感じさせない、いつも自分のそばにはいないで、仕事ばかりしている父親もいます。子煩悩で、子供と常に遊び、間違った事をした時には厳しく叱る、そういう父親もいるでしょう。

そういうさまざまな人間の父親を見ながら、真の神様を見るなら、私達は誤った父親像で願い事をする事になるかもしれません。ですから、人間的な父親感覚で、願い事をするのではなく、聖書から正しい父親像で、真の神様を見上げて、信頼して祈りたいものです。

よく祈りは、呼吸に例えられます。祈らない信仰者は、信仰者とはいえない。それは、呼吸しない生きものはいないのと同様である、とです。しかしまたその一方で、生物が呼吸するのは自然で無意識にしている。しかし、祈りは意識してするものであり、祈らない事は、事実上の無神論者であるという人もいます。それだけ、どんな宗教でも祈りはあるのであります。

がしかし、私達キリスト信仰者の祈りは、御子イエス・キリストにあって、神が父であり、私達が子であるという深い真実な事実に基づいているのであります。子とされているが故に、父なる神になんの遠慮もなく祈り求める事ができるし、また祈り求める事が赦されているのであります。

私達がどんなに苦しい状況にあろうと、厳しい事態に追い込まれようと、父なる神様は、それを聞き、受け止めてくださるとの確信があるからこそ、大胆に、そして自由に祈れるのであります。

イエス様は、十字架にかかられる前の晩、ゲツセマネの園で、祈られました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」とでした。そして、父なる神様は、それをなさったのでした。それをイエス様も受け入れられました。

私達信仰者にとって御心がなる事が喜びなのです。また、そうあるべきなのです。
ですから私達の願う事と御心とが一致して、それを願う事はなんという幸いでしょうか。神様は必ずその願いを聞いてくださるからです。最後にペテロの言葉を引用しておきましょう。

Tペテロ5章7節の言葉であります。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
子とされている私達は、一切の事をご存知で心配していて下さる父に、
ゆるぎない確信と信頼を持って願い事をしようではありませんか。

[先月] [来月] [最新の説教]

 東京聖書教会TOP /毎月の説教