東京聖書教会TOP /毎月の説教

毎月の説教

[先月] [来月] [最新の説教]

2008年10月5日(日) 「真の神、キリスト」  Tヨハネ5:16-21  竹口牧師

いよいよきょうで、ヨハネの手紙の第一は終わる事になります。ヨハネが、先に書きました福音書では、「イエスの御名によって命を得るためである」と、その目的を書いておりました。そしてこのヨハネの手紙第一では、「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と書いておりました。

ヨハネがこの手紙を書く頃には、キリスト信仰者が、すでに神様から与えられているものに対して、しっかりとした確信を持つ必要をヨハネは感じていたのでしょう。あなたがたが永遠のいのちを持っていることを言うまでもない事ですが、よくわからせるためと書きました。

そして、そんな中で先回見た事ですが、ヨハネは祈りについて書いておりました。
神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる、
ということを確信しているとでありました。しかも、聞いてくださるだけでなく、すでに叶えられたと知る、とまで書いておりました。こういう大胆、且つ、積極的なヨハネの言葉に、ある方は、戸惑いを覚えられたのではないかと思います。

そんなに私の信仰は強くないとか、
そんなに力強い祈りは、私には出来ないとか、
自分の歩みを振り返ってみますと、そう思われるかもしれません。
確かに、自分の日々の歩みを振り返れば、弱さは歴然としております。

一方、そう感じられるのは又、多くは、自分に厳しい方がそう感じられるのかもしれません。しかし、ヨハネは13節に書いていましたように、キリストこそ私を罪から救ってくださった方だと信じた人、その人は永遠の命を持っている。だから、その人が神様に祈る祈りを神様が聞いてくださる。それも御心にかなう願いをするなら、とヨハネは言うのであります。

その人の信仰の強さ弱さではなく、また、表に現れているものによってではなく、
あくまでも、キリストのお働きによって永遠のいのちが与えられ、また、願いも聞いてくださるという特権もいただいている、ということでもありました。

私はクリスチャンになってしばらくして気づいたことなのですが、初めの頃の祈りは、自分の為ばかりに祈っておりました。しかし、ある時ふと気が付いてみると、自分の為だけの祈りではなく、教会の兄弟姉妹のために、また、まだ救われていない友達のために、肉親のため、受験生のために、病気の人のために祈っている、その事に気づかされたのであります。そしてクリスチャンとはすごいなと、自分ながらに思ったものでした。

自分のことしか考えられなかった者が、自分のことだけでなく、自分の身の周りの人たちに対して目を向けられるようになった。そして、御心が行われる事を求めるように変えられた、その事を大変嬉しく思ったものでした。そして、その祈る姿勢は勿論、今でも変わらないのであります。

ところで、きょうの聖書範囲の中で、特に16,17節には、前からの祈りの続きとして、求めなさいとあったり、また、願うようにとは言いません、とあるのであります。

では、何を神に求めるべきであり、何を願うようにとは言わないのかが問いとなってくるのですが、実は、これはとても難しい個所の一つとして挙げられているところでありまして、実際、難しいのであります。

この個所を読みますとまず、死に至る罪と、死に至らない罪とがでています。
どういうことが死に至る罪であり、どれがそれに当たらないのか、よく私達には分からないのであります。しかし、幸いな事に、神様には分かるのであります。

ですから、私達は、どれが死に至る罪であり、どれがそうでないか、あまり、もしかしたら、考えなくても良い。なんの遠慮もなく申し上げればよい。そうすれば、人の全ての考えに勝る神の平安が与えられる、神様が最善に導いて下さる、それで私達は満足すべきではないかと思うのであります。

注解者が、色々な事を言っておりますが、結局のところ、正確にはわからないのであります。ただ、言えます事は、兄弟姉妹のことを祈る為には、兄弟姉妹のことをよく知って祈らなくてはいけないという事です。それだけ、兄弟姉妹とよく結び付いて、その人の必要を知らなくてはいけない。でないと、祈りそのものがあやふやであり、正しく祈れないからです。

私達は、自分の為だけでなく、兄弟姉妹の抱えていることを自分の事のように考え、真剣に祈るように導かれました。それは、キリスト者だからこそできる特権であるといえましょう。ですからヨハネは、祈りなさいと勧めているのであります。

まあ、とはいいましても、ここでちょっとだけ何が死に至る罪であり、何がそれに当たらないかに触れておきますと、先ほども言いましたように大変難しいのでありまして、注解書を見ましても、いろいろなことが書かれております。

そこでまず私達は、ローマ6章23節のお言葉を確認しておきたいのです。それは「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」という言葉であります。

この言葉によりますと、どんなに小さな罪でも、罪は罪ですから死を招くことが分かります。仮に大罪、小罪と分けられたとしても、やはり罪は罪でありますので、その報酬は死なのであります。

ですから、ある人はマタイ12:31-32を取り上げる方もおられます。
そこにはイエス様のお言葉がこう書いてあるのであります。
「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。
しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」とであります。

つまり、聖霊に逆らう罪は赦されないという事です。
これは、イエス様ご自身が言われたお言葉ですから、記憶に留めておく必要があるでしょう。

ところで、ヨハネは18節でこう書いているのであります。
「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。
神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」と。

神から生まれた者、つまりキリストから生まれた者は罪の中に生きない。
罪の中に生きながら、しかも罪に生きようとしない、これがキリスト者なのです。
私達は、神様によって生まれ変わらせて頂いた者です。その私達は、神様から大いなる力をいただいていますが、決して罪を犯さなくなったのではありません。
罪を犯さないように、そのように生きようとする者とされたのです。

自分の力では到底無理だと思えるような場合でも、キリストが守り、支えてくださる。
罪のない世界に生きているのではなく、罪のある世界に生きている。
巧妙にサタンが働きかけてくる。
そういう世界に生きているのでありますが、キリストが支えてくださり、守ってくださるのであります。だから「神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです」とヨハネは書いています。

一生懸命、力を尽くして頑張らなくては、地獄へと落ちてしまうのではなく、神様の方から手を差し伸べ、悪い者が触れる事ができないように、守られているとヨハネは言うのです。何という感謝な事でしょうか。

キリスト者は、神から生まれた者でありますから、神からの命の原理がキリスト者の内に留まり、キリスト者である私達を生かしているのであります。従って、キリストにある赦しの恵みから全く遠ざかり、もはや、神とどのようなつながりもない無関係なものとなるように神から離れてしまう事はありえないのです。

しかし、私達が神から生まれた者であり、罪を犯さない、即ち、死に至る罪を犯さない私達が、キリストにある赦しと救いの恵みに中にいれられているということは、私達が少しでも、罪について無関心になり、日常の生活のなかで罪との戦いや、罪に対する抵抗をなおざりにすることは赦されないのです。

神様は、私達を神の聖い民として栄光の御国を継ぐように子としてくださいました。
従って、神から生まれた者として、相応しい聖い生活をもって神に仕え、自らを神から生まれた者として証ししていくことが求められているのであります。
罪との戦い、サタンとの戦いはキリスト者であるなら、この世においては、当然あるのであります。私達は、罪を憎まなければなりません。罪に対して戦って血を流して抵抗しなければならないのです。

もし、私達が罪を憎まず、罪と戦わず、罪に対して無抵抗であるなら、私達は神から生まれた者、神から出た者ではありません。悪魔の私達に対する攻撃は激しいものがあります。ですから、いつも私達は最大の、細心の注意が必要なのです。

しかし、だからと言って、私達は恐れる必要はありません。
悪魔は、私達を死に至る罪を犯すように神から引き離したり、堕落させる事は出来ないからです。私達は、その悪魔よりもはるかにすぐれた、他の何ものによっても比べられないお方、「神から生まれた方」が守ってくださるからであります。この「神から生まれた方」のことをイエス・キリストであるとヨハネは言っているのであります。

ところで、ヨハネは、18,19,20節の3箇所に「知っている」と書いています。
「18節、 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。19節、 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。20節、 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えて下さった事を知っています。」というふうにです。

特に20節の「知っています」というのは、私達が決して死に至る罪を犯して神様から引き離される事はない、その事を私達に確信させてくれるのではないでしょうか。
神のみ子が来て、真実な方を知る理解力を私達に与えてくださったからです。

私達が自分の知恵によって知ったのではない。
私達が、さまざまな事を体験して知ったのではない。
私達が探り求めて、追求の結果、得たのでもない。
神の御子ご自身が、理解力を与えて下さったゆえに、知る事が出来た。教えられたのであります。

だからこそ、間違いがないのです。
だからこそ、確かなのです。
だからこそ、信頼できるのです。
ヨハネは、「それで私達は、真実な方のうちに、即ち、御子イエス・キリストのうちにいるのです」とヨハネは言います。そして「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」といいます。

イエス・キリストは、真の神、永遠の命なのです。
私達は、その方を知らされているのです。イエス・キリストは「神から生まれた方」、
永遠に神とともにおられたひとり子であられました。その意味で、私達とイエス様とを比べるなら、私達は決して「神から生まれた者」ではないのです。

しかし、キリストの犠牲によって罪が贖われ、キリストに接木され、キリストの命に与かる者とされたのでした。それゆえにまた、神の子とされたのです。そして神の子としての歩みをするように導かれているのであります。「神から生まれたかた」が「神から生まれた者」を守って下さるとは、私達の主イエス・キリストとの命の交わりの関係、それが決して変わる事がないということであります。

この故に「神から生まれた者」である私達は、罪を犯す事から守られるのです。
サタンは執拗に攻撃を仕掛けてきます。あらゆる手段を使って攻めてきます。
それは困難を用いたり、苦しみを与えたり、生活の厳しさで試みたり、逆の場合もあります。

金銭が必要以上に満たされたり、時間が有り余るほどあったり、あるいは、地位、名誉、などが何の苦労もなく与えられる事によって、人は簡単に、罠にはまるのであります。
欠乏も試されますが、豊かさによっても試されるのであります。
それ故に、ヨハネは最後に、「偶像を警戒しなさい」というのです。

神様の下さったもので満足しないで、不満を漏らし、与えられた地位が、あたかも自分の力で得たかのように錯覚したり、それから離れられなくなったり、そういう場合はもうすでに、それが十分な偶像礼拝になっているのです。
神でないものを神のように第一としているからです。

悪魔の攻撃は執拗であります。
しかし、その執拗さを感じさせないのも悪魔の策略であります。
だから、気をつける必要が常にあるのです。細心の注意が必要なのです。
私達が悪魔と戦う時、真剣勝負となりますので、傷を負わないというような事はありえません。常に、傷だらけかもしれません。悪魔の策略に引っかかるかもしれません。

けれども、悪魔が直接手を私達に下して、命に触れる事は出来ません。
私達は確かに傷を負うかも知れませんが、しかし、神によって命は守られるのです。
「神から生まれた方」が私達「神の子」とされた者を守ってくださるからです。

神によって生まれさせていただいた者は、全世界が悪い者の支配下にあっても、罪の中に生きず、真実な方を知る理解力を与えてくださった神であるキリストによって守られるのです。キリスト信仰者である私達は何という幸いでありましょうか。

最後に、私達は、あらゆる偶像に対して警戒し、ヨハネが言っていますように、御子イエス・キリストこそ、まことの神、永遠の命である事を否定する異端に決して近づかないようにしようではありませんか。

                                   完

2008年10月26日(日) 「愛のうちに歩む」  2ヨハネ1-6   竹口牧師

先回まで、ヨハネの手紙第一を見てきましたが、今日からヨハネの手紙第二に入る事に致します。

ご覧になってお分かりのように、ヨハネの手紙第二、そしてそれに続きます第三は、それぞれ1ページしかありません。しかしそれは、その長さによって重要度が違うということでは決してありません。

それは、旧約聖書の中に大預言書、小預言書と呼ばれているものがありますが、あの呼び方が典型的な例でありまして、イザヤやエレミヤが大預言者で、ホセヤやヨエルが小さな預言者というわけでは決してないのと同じであります。

単に量が多いか少ないかでそう呼ばれるようになったのでありまして、従って、これから見ようとしていますヨハネの手紙、第二、第三が、内容とか重要度とか、そういうもので劣る、そういう事ではありません。神様が必要と認められたので、僅か1ページであっても決して省く事は出来ないとして聖書の中に加えられ、私達は、それを手にしているのであります。そういう意味からしまして、短いながらも、私達は、大切に取り扱わなくてはならないと言えましょう。

さて、先回まで見ましたヨハネの手紙第一は、あまり手紙らしくない始まり方と終わり方をしておりました。つまり、受け取り人とか挨拶とかがなく、いきなり始まっていました。

がしかし、このヨハネの手紙第二、第三の手紙は、まず初めに、誰に宛てて書いたかが書いてありますし、そして最後には、挨拶で終わるという、きちんとした手紙形式をとっております。

以前にもお話した事でありますが、私の両親は、手紙を殆ど書いた事がありませんでしたが、その両親は私に、一般に言われています書き方、拝啓とか前略とかではじまり、敬具とか敬白、とか、まずはお礼まで、とかで終わる、あと日付と名前を入れるといった常識について教えてくれました。

それが焼きついているものですから、最近はパソコンで送るメール、便利な電子メールで送る場合でも、必要のない日付を最後には必ず入れ、私の名前で終えております。
ある方から日付は必要ないのではないかという指摘も受けましたが、これが私流ですと言って通しております。その手紙を書き終えたのはいつかを、記録に残す為でもあります。といいますのは、書き始めと書き終わりが数日経っている場合もありえるからでありますが。

まあ、手紙とは一般的にこうした初めがあり、終わりがあるものです。
そして、今回見ます第二の手紙の出だしはこうであります。
「長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。」であります。
つまり、誰から誰に宛てて書いたかが、はっきり書いてあります。
ところが、その中身と言ったら、受け取った当時の人たちには直ぐに理解できたのでありますが、今日の私達には大変、難しい問題を含んでいるのであります。

何が難しいかと言いますと、まず一つの点は、「長老から・・・」と始まっていますが、その長老とは誰のことを言っているのか、よくわからない事です。
第2の疑問は、受取人の「選ばれた夫人とその子どもたちへ」とありますが、これは誰を指すのか、これもよく分からないのです。

私達は、ヨハネの手紙第一は、ヨハネの福音書を書いたヨハネ、つまり、ゼベダイの子であった使徒ヨハネが書いたものである、そのように理解し、又そのように受け取っています。しかし、第二、第三の手紙は「長老から」といって、「使徒」とか「使徒ヨハネ」とか書いていませんので、なぜ、ヨハネがそのように書かなかったのかということで、使徒ヨハネではなく別の人が書いたのではないか、という考えが生まれました。

しかし、使徒ヨハネではないという根拠もなく、あるいは、ペテロ自身が自分のことを手紙の中で、長老と言い、イエス・キリストの使徒ペテロから(1:1)という言い方もしていますので、このヨハネの手紙が、「使徒から」とは書いていないから、著者が使徒とはいえない、またそのようにはとれないとはいえないのであります。

ですから、使徒ヨハネが書いたと取っても決して間違いではない。そして、多くの学者がそう認めているのであります。

ところで、では次の疑問点、あて先はどうなのかという点ですが、「・・選ばれた夫人とその子どもたちへ」とは誰を指すのか、そういう問題があるのであります。この選ばれた夫人という表現に対して、色々な解釈があります。

その一つは、「選ばれた」と訳されたギリシャ語エレクタから、「エレクタ婦人」とする説であります。二つ目は、「夫人」と訳されたギリシャ語キュリヤから、「選ばれたキュリヤ」とする説があります。三つ目は、「エレクタ・キュリア」という女性に宛てられたとする説、四つ目は、教会はギリシャ語では女性名詞ですから、そして、第二コリント書(11:2)、エペソ書(5:29)では、キリストの花嫁に教会は例えられていますので、「夫人」は教会をあらわし、「その子どもたち」は、教会員を指すというように、実にさまざまな解釈があるわけであります。

しかし、その中でもこの手紙の内容から見て、やはり落ち着いた解釈は、第四番目の解釈が多く取られています。

そうしますと、次回見るのですが、最後の13節の「選ばれたあなたの姉妹の子どもたちがあなたによろしくと言っています。」というのは、ヨハネがこの手紙を書いた所といいますのは、多分エペソであろうと言われていますので、姉妹教会であるエペソの教会の会員、信者であり、この手紙を受け取るべき教会、その教会への安否を問う挨拶と受け取る事ができるでしょう。

また、この手紙の中には、たとえば、4節にはあなたの子供達とあり、10節には、あなたがたの所に来る人で、・・とあり、あなたであったり、あなたがたであったりで単数、複数が混在しておりますが、決して理解できないわけではないということであります。ですから、そのようにこれから読んで行くことに致します。

ところで、ここでなお、素朴な疑問が起きてくるのでありまして、それは、ではなぜ、はっきりと分かりやすくヨハネは書かなかったのだろうかという点でありますが、それにつきましては、恐らく、時代的な背景がそうさせたのではないかと言われております。つまり、この頃迫害が予想された時代ですから、教会が警戒をして、教会外の人の手に渡っても大丈夫なように、いわば、暗号のように書いたと、そのように解釈する人もいます。

まあ、いずれにしましても、この手紙の著者は使徒ヨハネであり、受取人は、エペソの教会を含む小アジアにある教会の信者達、ということになるでしょう。ですからヨハネが続けて「私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。」となる訳です。

つまり「わたしが、真理にあって愛している教会と全ての兄弟達」否、それ以上に「私だけでなく真理を知っている人々みなが本当に愛しているところの教会員のみなさんへ」となって、一つの主にある教会の中の兄弟姉妹たちへということになります。

そしてヨハネは、ここでも真理について語っています。
ヨハネはここで、真理と言う言葉を1節から4節までに5回も使っています。
1節で「真理を知っている人々」2節で「私達のうちに宿る真理」そして同じ2節に「真理はいつまでも私達と共にあります」とありますし、3節では「真理と愛のうちに」そして最後4節に「真理のうちを歩んでいる人たちが」と言う風に「真理」「真理」「真理」と続いている訳です。

一体、ここで繰り返されている真理とは何なのでしょうか。
イエス様は、あるとき弟子のトマスにこう言われたと、ヨハネは福音書の14章6節で書いていました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と。つまり、イエス・キリストのことを真理と言っているわけです。ですから、真理と言う言葉を、イエス・キリストに置き換えて読んで頂ければ、とてもよく分かっていただけるのではないでしょうか。

真理(イエス・キリスト)を知っている人々
私達のうちに宿る真理(イエス・キリスト)
真理(イエス・キリスト)はいつまでも私達と共にあります
真理(イエス・キリスト)と愛のうちに
真理(イエス・キリスト)のうちを歩んでいる人たちが

というようにです。ですからおわかりのように、神が人となって来て下さったイエス・キリストの事を指しているのです。

ヨハネは1節で、あなた方を愛していると言います。
いいえ、自分だけでなくイエス・キリストを知っている人はみんなそうだと言います。
そして2節では、なぜ愛するかを書いています。それは、自分達のうちに宿るイエス・キリストによるのだと、そういうのです。

イエス・キリストは、一旦わたし達を捉え、私達のうちに入ってくださったなら、いつまでもわたし達とともにいてくださるとも言っています。そして、そのようなキリスト者の心のうちはどうなのかを3節で言うのです。
「真理であるイエス・キリストと愛のうちに、即ち、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。」とです。

キリストにある者には、神から来る恵みがあり、憐れみがあり、平安がある。
それらが、わたし達とともにあるというのです。

現代に生きる私たちの信仰生活を考えてみたいのです。
わたし達も、キリストにある者です。
そのわたし達も、キリストから来る恵みを味わっているでしょうか。
憐れみをいただいているでしょうか。
色々な事で心悩まされないで平安をいただいているでしょうか。

ヨハネは、キリストにある者を愛していると言います。
自分だけではない。
キリストを知っている者もみんな愛していると言うのです。
そしてその理由が今述べたとおりです。
恵みと憐れみと平安をキリストからいただいているからなのです。
イエス・キリストを信じた人の中では、確実にそれが育っているのです。
ですからヨハネは4節で喜んでいるわけです。
「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」と。

イエス・キリストによって造りかえられた人は、自分勝手な道を歩むのではなく、
また、そのように歩む事が嬉しいのではなく、むしろ変えられた人間ですから、
それまでとは違った歩み、神の命令を行う事が喜びとされているのです。

私たちは、神様によって内側から変えられていきます。
内側は変えられても、人によっては中々外側まで変わらない。
と言いますか、外側に現れてきているのですが、人にはそれが見えない場合があります。それだけに、キリストにあって歩んでいる人が、どんどん育っていくその姿を見るとき、同じキリスト者であるヨハネは、それを見て喜んでいるのです。

わたしたちとて同じではないでしょうか。
イエス・キリストを伝えたけれども、そして神様は確かに、伝えた人を造り変えて下さったのだけれども、それなら、こうなって欲しい、ああなって欲しいと、救われた人に対して期待や希望が高くなってしまいます。

でも神様はご自身のご計画のうちにその人を成長させて下さいます。
成長が見えなければ、がっかりしますが、しかしまた、成長を私たちが目にする時、喜びとなるのであります。ヨハネは4節で「私は非常に喜んでいます」と書いています。
それは、決してお世辞でも何でもないでしょう。
目に見える結果というものは、それも良い結果であるならなおのこと、嬉しいものであります。

しかし、4節を見てお分かりのように、「あなたの子どもたちの中に・・・」と言って限定している事にお気づきでありましょう。そこにヨハネの痛みがあるわけであります。
そして、その痛みは願いとなって現れるのであります。今まで1節から4節まで真理と言う言葉を繰り返し使っていました。そして今度は、1節で使っていましたが、5節、6節では、「愛」と言う言葉を3回使って願い事をするのであります。1節も加えますと4回使っている事になります。

1節では「本当に愛しています」とあります。
真実に、心から、愛していますと言う事でしょう。
そして5節、6節では、願いの中心をなすものです。
5節では、「互いに愛し合うということ」
6節では、「愛とは、御父の命令に従って歩むこと」
それと「愛のうちを歩むこと」と言う風に出ています。

なぜ、ヨハネがこんな事を言わなければならなかったかと言いますと、それは次回見るのですが、6節以下に書かれています。反キリストに対しての対処のためでありますが、それは次回に回すとしまして、ここで大切な事は、ヨハネは「愛」を強調していますが、その愛が、真の神様から来る愛であることを、私たちキリスト者は忘れてはならないのです。

そしてそれは、キリスト者とされた者は誰でも与えられたものである、その「愛」での行動でなければならないのです。

ヨハネは5節で言います。
「私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが」とであります。6節では「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり」その命令とは、
「あなた方が初めから聞いている通り、愛のうちを歩む事です。」と。

私は思うのです。
教会には色々な人が自由に出入りできます。
キリスト者であるといえば、なお親しく交わりを持とうとします。
しかし、そこで気をつけなくてはいけないのは、イエス・キリストの福音とはどういうものであるのかを、キリスト者はしっかりと持っていないといけないと言う事であります。そうでありませんと、教会が根底から引くリ返ってしまう、そういう恐れが非常にあるのです。

4節で、ヨハネが「非常に喜んでいます」という喜びが、どれほど強いものであるかお分かりでしょう。「御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って」喜んでいるのであります。

ヨハネは前の手紙第一、3章16節でこのように書いていました。
「キリストは、私たちの為に、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」と。そして、その命を捨てて愛してくださったイエス様の働きは、これもまたヨハネの手紙第一、1章9節にありました「御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます」であります。

私たちが生まれながらにして持っている罪、そして、犯してきた罪、更にはこれからも犯すであろう罪、それが、許される事を前提に犯す罪でないことを願いますが、それはともかく、全ての罪が赦され、きよめられ、神様から愛を受けたその愛に生きる。
これが私たちキリスト者の正しい歩みであります。
常に、キリストの行なってくださった愛ある業を覚えながら、神の愛のうちに歩ませて頂こうではありませんか。


[先月] [来月] [最新の説教]

 東京聖書教会TOP /毎月の説教