2008年11月9日(日) 「キリストに留まる」 2ヨハネ7-13
先回、ヨハネの手紙第二の前半を見ました。1-3節までは挨拶が書かれていまして、4節から本題に入り、御父の命令に従って歩む事、愛のうちを歩むようにとの勧めがありました。そして今回は、そのように勧める理由を述べている所から始まります。
7節「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」とあります。
当時の諸教会を惑わしていましたのは、グノーシス主義的な異端でありました。 グノーシス主義と言いますと、何回も言うようですが、大切な事ですので、今回も申し上げなければならないのですが、霊は善であり、肉は悪であると言う二元論的な考え方でありました。
肉が悪ということは、神であるお方が、肉体を持って来られる筈がないと言う考えに立つのであります。従って、キリストが肉体を持ってこられたことを否定しますので、当然ながら、十字架の死をも否定しますし、そしてまた復活をも否定するのであります。これでは、この地上でのイエス様の神の子としてのお働きを、全く否定する事になります。
そして、そのようにイエス・キリストが人として来られた事を告白しない者が出てくるものですから、教会に混乱が起きてくるのであります。そしてこのことはまた、何時の時代でも、次から次へと出てくるものですから、常にそういう異端との戦いがキリスト教2000年に歴史に続きました。今も続いております。
2世紀のイグナティウスという人はこう言ったそうです。 「再三再四、イエスは真に誕生され、真に人間になられ、真に受難され、そして真になくなられた、と力説している。あなたかも、すべての真にと言う言葉は、赤インクで、イタリック体で書いた上に、アンダーラインが引かれているかのようであった。」 とある本に書いてありました。
それだけ、イエス様のこの地上でのお働きは、真実であり、大切であると言う事はいうまでもありません。神が人となってきてくださり、大切なお働きをなさった。この事実を、私たちは繰り返し繰り返し確認しなければなりません。そして、真に・・真に・・真に・・とあることの意味を、しっかりと受け止めなければならないでしょう。
あるいはまた、時代をずっと下って来まして、宗教改革時代、ルターがこう言ったそうであります。「イエスは飲食し、眠り、起床された。疲れ、悲しみ、喜んだりされた。泣いたり、笑ったりなさった。飢え渇きを感じられ、汗もかかれた。話も労働も、祈祷もされた・・・・そうして、イエスは神であり、罪なき者であったほかは、常人と寸分も変わらないのであると。」というふうにであります。言うまでもない事ですが、ルターもまたイエス様が神であり人であられたことをはっきりと述べているのであります。
多くの人が正しい信仰を持っているのですが、しかし、それに負けずと劣らず、異端も大変強い力を持っている、その事の怖さを私たちは意識しなければならないでしょう。
ヨハネの時代「人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。」とあり、キリスト教の初期からもうすでに教会の中からそういう人が出て行ったということで、サタンの働きの強さを思わずにはおれません。キリストの名前を語りながら、全く違った教えへと走っていった。キリスト教2000年の歴史は、まさにこの偽者との戦いであったといっても言い過ぎではありません。そしてそれは現代まで続いているのであります。
イエス・キリストの神性を否定し、神ではなかったといい、 また、三位一体の教理を否定し、キリストは、ただの人であったというのであります。
残念な事に、キリスト教について全く無知な人は、そういう偽の教えを何の疑いもなく信じて、イエス・キリストとはどう言うお方なのか、全く違った教えを受けるのであります。そしてそれは、大変恐ろしい事であります。
ヨハネは、このように間違った教えを伝える者を、反キリストと呼んでいます。 厳しい言い方でありますが、人の永遠の命に関わる大切な事である故に、私たちは心して、そういう敵から自分の身を守らなければならないのです。
ですから、ヨハネは8節で、「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」と教えています。 間違った教えも、繰り返し聞かされておりますと、それが、さも真実であるかのごとく思い込んでしまいます。そしてそれが更に、恐ろしい事に確信へと進み、滅びに向かっていても、自分は神様に愛されていると信じていますから、始末に負えなくなるのであります。
ですから、よくよく気をつけて、私たちの労苦の実を台無しにしないように、また、豊かな報いを受けるようにとヨハネは勧めるのであります。マルコの福音書13章でイエス様はこう言われています。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とであります。
真に何時の時代でも、偽の救い主が現れるのであります。そのような時、偽者であるかどうかは、御言葉から以外に正確に区別できるものはありません。田んぼに行って一生懸命収穫しても、その中には、毒麦も混ざっている。これが現実であります。
しかし、それを正しく選び分けてくださるのは神様であります。私たちは常に御言葉によって、真理とは何かを教えられ、その真理から離れないようにしたいものであります。
イエス様は言われました。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、 天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:15-21)
私たちは、この地上での歩みをしている時に、人を惑わす者が必ずいる。その事を承知しておきながら、御言葉から正しい教えを受けて、間違った教えを見分ける力を常に養っておきたいものです。
現在のような状態が何時まで続くか分かりません。 聖書を読んでおりますと、今現在生きている私たちは、イエス様の再臨を経験するか、 あるいはまた、再臨に間に合わなくて、死を持って天に召されるかどちらかであります。どちらにしても、主に喜ばれる歩みをしながら、主にお会いしたいものです。
さて、8節でヨハネはこう書いています。 「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」と。ここにあります「私たちの労苦の実」とは何かが気になります。そして、それは何かと考えます時に、神様からただでいただいた救いの恵み、それに対して、この手紙を書きましたヨハネを含む、この手紙を受け取った信仰者全ての働きに対する報いが、その働きは、正しい信仰に基づいたものでありますが、 それを豊かに受けるようにということでありましょう。
人を惑わす者が出て行く中で、真の信仰を与えられた者に、神様が豊かに祝福されるように、そういう意味でありましょう。9節には「誰でも行き過ぎをして・・」とあります。これもまた、注目させられる言葉であります。熱心さがあまって、つい行き過ぎた事をしてしまうのか、そのようにも考えてしまうのですが、どうもそうではないようであります。
ある本によりますと、異端者たちのよく使う言葉だそうです。そしてそれをヨハネは借用していると言うのです。異端者の主張は、自分達の見解のほうが「進んで」いて、よりすぐれた知識であり、それによって一般の群れの人々が「とどまって」満足している初歩的信仰よりもはるかに進む事が出来ているというのだそうです。
それに対してヨハネは、彼らは確かに進んではいるが、「神を通り越すという行き過ぎをしている」と語っている。なぜなら、誰でもキリストを否定するなら、それによって神を捨てる事になり、また、キリストを否定して神を持つことは出来ないし、神との交わりを持つという意味で「神を持つ」ことも出来ない。と言います。
何を持って進むとか遅れるとかというのは別としまして、真理とは本来、変わらないものであります。昔も今も変わってはならないものであります。変わるとするなら、それは真理ではないのです。だから、ヨハネは9節で言うのです。
「キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」と。真理が変わらないのですから、教えも変わりません。どんなに時代が変わっても、つまり、弓矢の時代から、刀の時代に、銃の時代から、ミサイルの時代に、コンピュータ社会に変わっても、真理は依然として変わらないのです。
キリストの教えは、何時の時代にも通用し、御子を受け入れずして、御父を持つことは出来ない。御子を受け入れる事は、御父を持つことであり、御子を否定する事は、御父を失う事なのです。神が人となって来られたことの否定。バプテスマと受難との間だけ人の形をとったとする考え。
ヨハネはそのような「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者」たちを、断固として退けるのであります。そして、10節、11節では、その告白しない者、そういう人と交わる事を拒否するように言うのであります。
「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります。」と。実に厳しい態度であるように言っております。
教会は、色んな人が来るところであります。キリスト教に好意的な人もいれば、批判的な人も来ます。自分の主義主張を決して曲げない人。最初からけんかを売ってくるような人もいないわけではありません。
でも、中でも気をつけなければならないのは、私たちと同じ様な信仰を告白しながら、実は微妙に違う人であります。それには、相当な注意が必要なのであります。なぜなら、真理がすり替えられ、変質させられる恐れがあるからです。それだけに、私たちは、何が正しく、何が間違っているのか、バプテスト教理問答や、第二ロンドン信仰告白によって、聖書の教えを体系的に知っておく必要があるのであります。
ヨハネは、「世に出て行った」偽預言者が、真理に気付かず、再び戻ってくる事を警戒しております。「家に受け入れてはいけません」と言います。「その人に挨拶の言葉をかけてもいけません」と言います。交わりの大切さと共に、交わりによって受けるよくない影響、それをヨハネは指摘していると言えましょう。
もっとも、ヨハネがここで指摘していますのは、一般信徒ではなく、偽りの教義を持った教師達の事であります。非常に害と影響が大きいからであります。だからこそ、私たちがいろいろな集会をする時外部からお招きする教師の場合、慎重には慎重を要するのであります。個人であれば、勿論正しい教えを伝えていけばよいわけであります。
さて、ヨハネは、まだまだ書きたかったようであります。がしかしまた、それ以上に会いたかったようです。「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」
やはり手紙となりますと、会って話すようには伝わらない。紙面も限られてくる。そういう意味から、ヨハネは直接会う事を求めたのでありましょう。ヨハネは、命令と願いの二つをこの短い手紙に託しました。キリストに従う者なら、これだけはと言うものだけに限定しました。それはまた、この忙しい現代においても、適切な長さであり、用件がよく伝わってくると思います。
異端に対して、私たちは敏感に、そして特別な警戒を持って臨むべきであると教えられるのではないでしょうか。単純な信仰。けれども非常に大切な信仰。神が人となってこの世に来てくださり、私たちの罪のために贖いの死を遂げてくださった。この神の業を、心から受け入れ、信じ続けようではありませんか。無償で与えられたこの信仰は、私たちを全き喜びへと導いてくれるのですから。
2008年11月30日(日) 「み言葉の同労者」 Vヨハネ1-8
先回と先々回の2回で、ヨハネの手紙第二を見てまいりました。 これからヨハネの手紙第三を見ようとしているのですが、第二を見た時と同じ様に前半と後半の2回に分けて、この手紙を見ていきたいと思っております。まず前半は、週報でお知らせしておきましたように、1-8節を見る事に致します。
まず、この第3の手紙の著者のことですが、この手紙の初めにありますように「長老」とありまして、第2の手紙で説明しましたように、広く支持されています使徒ヨハネとして話しを進めて参ります。次に受取人は「愛するガイオへ」となっておりまして、ガイオという個人の名前が挙げられています。
そして、このガイオという名前の人物は、その当時、ごくありふれた名前であったと言われております。この手紙に登場するガイオの他にも同じ名前の人が3人登場しているのであります。一人目は、使徒の働き19:29でありましてエペソでパウロが伝道しておりました時に、暴動が起きましてパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオが登場し、この人は捉えられるのであります。
二人目は、第3回伝道旅行に際して、エルサレムに向かうパウロに同行し、トロアスでパウロが来るのを待っていた一団の中にデルベ人ガイオがおりました。 そして第三番目は、Tコリント1:14に登場しますガイオで、パウロからバプテスマを受けたと言われる人物であります。しかし、先ほども言いましたように、当時ガイオという名前の人は、「おそらくローマ帝国でも、ことによくある名前だった」ので、特定しないほうがよいだろうといわれています。
まあ、というわけで第4人目のガイオがここに登場する訳であります。 では、その4人目に登場するガイオとはどんな人であったのでしょうか。 ヨハネは、こう書き表しているのであります。「私はあなたを本当に愛しています」と。そして、その愛は勿論、主にある愛であり、主にあって愛しています、という事であります。
本では、「本当に」ではなく「真実に」と訳すのが正しい、そう書いてあります。 そして、そんなに愛されているガイオがどう言う状態か、霊的状態と肉体的状態とが2節に書いてあるのであります。「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とです。 つまり、霊的には非常に良かったようですが、肉体は少々弱かったようであります。
私達が兄弟姉妹に手紙を書く時に、その人の魂が守られる事を祈ると共に、肉体も支えられるように祈り、またそう書くのであります。その時、その時の季節を考慮しながら。
それは、挨拶と共に、心からの願いであり、祈りであります。 ある人は、本当に祈らないのに、そのように書くのは正しくない、その様に言う人もおられますが、私は、その手紙そのものが祈りとなっている、神様にそう願っていますので、手紙の形式であると共に、心を込めて書くことにしているのであります。それがまた普通でありましょう。
パウロが手紙のまず初めに書いていますのは、魂に幸いを得ているガイオが、肉体的にも幸いであって欲しい、そのように願っている事がよく伝わってきます。どうしてガイオが魂の幸いを得ていると言えるのかといいますと、次の3節から容易に分かるのであります。
「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。」であります。こんなに神様に喜ばれる事していると自画自賛しなくても、他人が、その人がよく神様に仕えているのを見ているというのは、本当に素晴らしいものであります。
しかしまた、たといそうではなくても、つまり、人が見ていてくれなくても、神様はご自身の為に心を尽くしている人の業の全てを見ていて下さる、ですから、人の目を気にする必要はないのであります。つまり、人が見ていてくれる、見ていてくれないの問題ではなく、真に喜んで仕える事が大切であると教えられるのであります。
私達は信仰において大人であります。また、大人であるべきであります。 小さな子供が、「ママ、見てて」「パパ、見てて」と言って、坂をよじ登って得意になったり、鉄棒でくるくる回って自分がどんなにすごい事をしているか誇るような、そのように、信仰の大人である私達が、人に対して、また神様に対して、「私はこんなによくお仕えしているんですよ」ということをアピールする必要は少しもないのであります。
ただ、今回のヨハネの手紙には、ガイオの働きは、ヨハネの耳に入ったと言うことで、 使徒ヨハネは、そのガイオの働きを殊のほか喜んでいるのであります。 ヨハネは言います。4節「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、 私にとって大きな喜びはありません。」とであります。
御言葉の宣教者にとって、あちこちで蒔いた福音の種が、神様のお働きによって豊かに成長させてくださる事を耳にするのは、とても嬉しいものであります。ヨハネの手紙が、どのくらい多くの人の目に留まったか分かりません。しかし、ヨハネによって撒かれた御言葉の種が芽を出し、花が咲き、更に次の実を結ぶように神様が導いて下さっている事をヨハネが耳にするなら、それは嬉しいに違いないのであります。
言うまでも無いことですが、4節の「私の子ども達が真理に歩んでいることを・・」とあります「私の子ども」というのは、肉のヨハネの子供ではないということは、ご存知の通りであります。ヨハネの伝道によって撒かれた種が実を結ぶようにしてくださった神様のお働きによって与えられた子供、ということであります。しかも真理に歩んでいると聞けば、なおのこと嬉しいものであります。
しかしながら、手放しで喜ぶことも出来ないのが現実であります。 それは、この手紙の後半にでて来ますように、嬉しくない情報も耳にする事になるからであります。そして、喜びと共に痛み、悲しみ、苦しみも経験する事になるのです。しかし、それらは全て、神様がご存じでいてくださる故に、ヨハネは勿論の事、福音の宣教者は慰められるのであります。
まあ、後半の記事につきましては、次回に譲るとしまして、次に進みまして5節に入りますが、「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。」とあります。
ヨハネの活躍した時代、旅人をもてなす事は、いわば、神聖な義務であったそうです。 そしてそれは、使徒時代が終わってもなお、いろいろかたちを変えて現代にまで続いていることであります。勿論、旧約時代にも旅人をもてなすという事は行なわれていましたし、ヘブル人への手紙13章2節によりますと「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使い達を、それとは知らずにもてなしました」とありまして、旅人をもてなしたら、なんとそれは御使いであった、そういう場合が、あったのであります。
たとえばアブラハムが日の暑いころ、天幕の入口に座っていますと、3人の人が前に立っていて、それを見たアブラハムは急いで、奥さんのサラに命じて最上の料理を出して、もてなすのであります。(創世記18章)
ギデオンもそうでありました(士師記6章)。主の使いであるとは知らず、自分に与えられた命令を聞き、恐れをなしてしるしを求め、料理を差し出し、主の使いであることをして、びっくりして言うわけであります。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いをみてしまいました」とそう言って恐れたのでありました。旅人をもてなしたら、何とそれは、大変なお方であった。そういうこともあるのであります。
旅人をもてなす事の大切さは、旧約のみならず新約でも、あちこちに書いてあるのであります。たとえば、Tペテロ4:9「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」とありますし、あるいはまたTテモテ5:10には、「良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」とであります。
更にはローマ12:13には、「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」というようにです。まあ、考えてみますと、ヨハネの時代、キリスト教が広く広がっていく時代にあって特に、このもてなしの行為が求められていた事は確かであります。
旅をしている兄弟姉妹に、もてなしの愛、親切を働かせる事は、どんなに必要であったかが容易に想像がつきます。しかし又その一方で、そのもてなしの親切、行為を悪用する者もでてきます。これが世の中の現実であります。
ここで私たちはまた、もてなしをキリスト者であるなら誰にでも等しく行なうようにと言われていない事には注意が必要です。キリスト者に親切にする事は大切ですが、このヨハネの手紙第三で言われています事は、非常に限定的に書かれている事には注意が必要でしょう。
5節、6節、7節を読みますとハッキリしてきます。 「 愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神に相応しい仕方で彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それは立派な事です。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。」という風にであります。
このように伝道者として出て行った人には格別、そのもてなしを求めているのであります。いわゆる巡回伝道者であります。しかしながら又その当時、巡回伝道者について問題があったようです。それは、彼らは驚くほどの特権をもっており、そのため、最も不適格な人物でもこの地位に一端つきますと、方々を渡り歩く生活が出来たからであります。
抜け目のない悪党であるなら、巡回伝道者として非常に恵まれた生活が出来たであろうと言われています。ですから、後に出来たものですが1,2世紀頃、シリヤでまとめられたと言われています「12使徒の教訓」というものには、悪いものに対してはっきりと対処するように明白な規定が設けられたようであります。その規律は非常に長いのですが、一部分を引用しておきます。
「それゆえに、訪れて、前述の事柄をことごとく教える人は、誰でも受け入れなさい。 だが、もし教師が背いて、邪道に導く別の教義を教えたなら、聞かぬようにしなさい。 主の正義と知識を増すならば、彼を主として迎えなさい。福音の述べるところに従い、使徒と預言者に関してあなたもそうしなさい。あなたに来るあらゆる使徒を主として迎えなさい。そして一日彼を泊めなさい。もし必要ならば、もう一日泊めなさい。 だが、三日泊まったならば、彼は偽預言者である。
そして、使徒が出発したなら、彼が宿屋に着くまでは、パンのほかは一切上げてはならない。もし彼がお金を要求するなら、それは偽の預言者である。御霊により語る預言者は、裁いたり試みたりしていけない。・・」云々であり、まだまだ続きますが、それくらいにしておきましょう。
このように、基準と言うものが設けられなければ成らないほど、悪くなっていくさまが分かるのであります。主のために働く者には、もてなす事を惜しまず、しかし、偽伝道者には気をつけるようにということでありました。
ところで7節にはこう書いてありました。 「彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。」と。 この後半の部分「異邦人からは何も受けていません」といいますのは、伝道者が、未信者から差し出された贈り物を拒絶して何も受け取らないように、ということではありませんで、イエス様が罪深いサマリヤの女から水の一杯を求められたように、ここで言われています事は、原則として未信者の援助を求めるべきではないという事であります。そして、実際彼らは、あえて未信者から求めることはしなかった。
当時のキリスト教でない教師達の行なった托鉢(たくはつ)即ち、修業僧が、各家庭の戸口で施しを求めて回るのとは、異なっていたのでありました。その事に関連して言いますなら、ある学者はこう言っているそうです、
「さまざまな宗教の献身者たちが思い思いの神々の加護を語り、人々から寄付を集めながら道を通っていた。そんな、あるシリヤの女神の『奴隷』の記録には、女神のおかげで彼がどのように旅したかと、各旅行で七十の(お金の)袋を持ち帰ったことが書かれている」。
これとは対照的に、イエスは12人に、またある時は70人に向かって、「袋も持って行ってはならない」(マルコ6:8、ルカ10:4)と言い、パウロも「神のことばに混ぜ物をして売るようなこと」をした人々を責めている(Uコリ2:17、Tテサロ2:5−9参照)。
確かに、キリスト教の牧会者や教師達が、彼らの奉仕から益を受ける人々の援助を受ける権利がある事は、パウロが何度か主張しているとおりである。特にTコリント9:1−18やガラテヤ6:6やTテモテ5:17−18などがそうです。しかし、キリスト教会が牧師を支えるのと、伝道者達が未信者にお金を請い求めるのとは、まったく別のことである。」以上であります。
ここで言われていますことは、巡回伝道者や巡回教師のことを指しているのでありまして、旅行しながら伝道に携わっている人のことであります。こんにちの私たちの状況で言いますなら、国内国外を問わず、福音宣教者に対して、その働きが停滞しないように支えるべきであると言うことでしょう。
ヨハネは8節でこう書いています。 「ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」神様は、いろいろな人の中から選んでキリスト者にして下さいました。それは、神様の御言葉の宣教の業のためであります。
ある人は直接に、またある人は間接にであります。 間接的にということで、神様の御前に働きが悪い、と言うことでは決してありません。 神様はそれぞれの働きをとても大切に考えておられます。それを通して、御言葉の宣教に参与させていただけるのであります。
ガイオという人をみてください。 体は弱かったかもしれませんが、旅をしている兄弟にちゃんともてなしをしていたのであります。自分が出かけていくことが出来なくても、献金や祈りを持ってサポートし、自分の職場、家庭から離れることなく、伝道に当たることが出来たのであります。
私どもは、地域の人達に伝道すると共に、ラジオ放送という電波を通して、私どもが行くことの出来ない所にも、福音の種が撒かれ、石田宣教師を支援することによって、アフリカの地においても、御言葉の種が撒かれているのであります。あるいは、神学校に献金することによっても、将来、御言葉を伝える働きをする方々に対する支援をしていますし、中学生や高校生などに伝道している団体にも献げて、あらゆる階層に、私達は献金を持って、その働きに携わっています。
私達は、決して自分達だけの教会のこと考えては活動していません。福音をより多くの人に送り届けるために、教会を通してさまざまな方面で用いられていることを覚え、私どもみんなが、御言葉を伝える同労者であることを改めて確認し、これからも積極的に献げて行こうではありませんか。そして魂の収穫の喜びを共にし、神様の御名を高らかにほめたたえたいものです。
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