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2008年12月28日(日) 「神から出た者」  Vヨハネ9−15   竹口牧師

先回は、ヨハネの手紙第三の前半を見ました。
その前半には、ヨハネが愛するガイオにあてた手紙であり、また、ヨハネ自身、ガイオを大変愛しているということでした。それは、兄弟達がヨハネのところにやってきては、ガイオが真理に歩んでいることを証言してくれるからだ、とそう書いていました。

そして、そういう良い知らせを聞くことほどヨハネにとって大きな喜びは無い、それほどまでにヨハネはガイオを賞賛しておりました。ガイオという人は、御言葉に仕えている人をもてなし、次の旅に送り出し、異邦人からは何も受けなくてもよいようにした、それほど、そのもてなしは十分なものであったと述べていました。これはまた、真理のために働いている者と同労者となれるのですと言って、直接的なみことばの伝道の働きをしなくても神の働き人を支える事によって同じ神の働きに与る事でもある、そのように書いておりました。

ところで、今回見ます後半9節には、ガイオとは違って、よくない者もいる事が書かれているのであります。それは、デオテレペスという人で、きょうの最初の節9節に出ております。「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。」とです。

ヨハネはここで、「私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが・」とありますが、それが、ヨハネの手紙の第一を指すのか、第二を指すのかと言いますと、どうもどちらも違うようであります。

それは、この手紙がガイオ個人に宛てた手紙であるようでそうではない、教会に宛てた正式な手紙であり、しかも、もてなしについて第一、第二の手紙では扱われていないからであります。

ですからもしかしたら、この第3の手紙の前にもう一つの手紙があって、その手紙は失われたのかもしれないと言われます。あるいは、デオテレペスが破棄してしまったのかもしれない、そう考える人もいます。が、いずれにしましても、このデオテレペスという人は、教会の中で頭になりたがっている。しかも、長老の言う事を聞かないというのであります。

一軒の家庭を想像してみて下さい。
あるいは、皆さんの家庭でも良いでしょう。家族みんなが一致して誰一人、全く同じ考えという事はないのであります。考え方、感じ方、受け止め方、好み、みんな違います。まして、キリストの教会という一つの群れは、色々なところから神様に導かれて集っているわけであります。

そして、そこには、リーダーが必ずいるのですが、そのリーダーがそれに相応しい人であるといいのですが、そうではない場合があります。そうしますと教会は混乱するのであります。

また、教会の多くは、何々の係りをやってくださる方はいませんかといって募る場合、なかなか手を上げる人が少ないものであります。それは、真に謙遜しているわけではなく、その多くは自信がないというのが、実際ではないでしょうか。

私よりもあの人のほうが、そういう思いが先立つのであります。
でも、どうやらデオテレペスという人は、そうではなかったようであります。
彼は積極的に前に出る人であったようであります。
しかしそれはまた、良い意味での積極性ではなかったことが、よく読みますと分かってまいります。彼は、人の言う事を聞き入れないという欠点がありました。単に聞き入れないと言うのではなく、ある聖書の訳では、「私の権威を認めない」と訳しているほどに使徒ヨハネの権威さえ認めない、そういう態度であったようです。

ですから10節でヨハネは、「それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。」と厳しく警告を与えています。デオテレペスがこのようになった原因は何か。その動機は何か、色々推測されているようですが、ハッキリした事は分かりません。

もし、神学的な理由であったなら、第一の手紙、第二の手紙というように、ストレートに書いたに違いない。しかし、そう書いていないところを見ますと、やはり原因は個人の問題であり、それは野心にあったということに落ち着くのであります。

この手紙の前半部分を扱いました時に、ガイオという名前は、ごくありふれた名前だと申しあげましたが、一方、デオテレペスという名前は、珍しい名前だったようです。ですから、彼の行動をいろいろ考えられ、説があるのであります。その一つは、この名前には
「ゼウスが後ろ盾、ゼウスの秘蔵っ子」と言う意味があり、「貴族や旧家」にのみ見られる名前なので、デオテレペスは、ペルガモという「ギリシャ旧王都の貴族出身」であって、この手紙は、ここの教会に宛てられたものである、という考えであります。

そして、もしそうならデオテレペスの人騒がせな行動の背後には、社会的な誇りがあったことになると、ある人は考えます。或は別の学者は、ヨハネとデオテレペスの対立に紀元一世紀末の教会秩序の変動を見ようとするものがいると言います。使徒たちの時代が終わりに近づいた。そんな中で長老ヨハネが使徒である事を否定する人たちもいて、使徒たちの時代はすでに終わったといえる。そういう転換期に入っていたのではないかと考える者もいる、というようにであります。

確かに、ヨハネは一番長く生きたと思われますので、教会の指導体制というものが変化しつつあった事だけは確かであります。転換と緊張の時代こそ、外国人宣教師からその土地の教会に責任が移行していた時代であるとも考えられます。更には、次のように言う者もいます。単独司教制度はすでに導入されており、

教会の正式な司教だったデオテレペスは、
ヨハネの使徒もしくは使徒代理としての権威に不満を抱いていた。或は他の説では、デオテレペスはむしろ司教職に就こうとしていたのであって、ガイオがヨハネに好意を持たれていた、そのライバル候補者だった。

又、別の人は、使徒たちや預言者たちの広範な伝道と、地方教会の長老達との間にあった緊張関係だと言います。彼は、デオテレペスは、地方教会の長老であって自治を擁護しようとして、ヨハネの遠隔統治に反抗し、「受け入れたいと思う人々の邪魔」をしたのであると考えます。

なるほどデオテレペスの立場如何によっては、教会員の破門は正しい権威の行使にも、また越権行為にもなりうるものです。ある者は、デオテレペスは、ヨハネに代表される旧体制に反抗したのではないかと言います。

しかし、ヨハネ自身がデオテレペスに対して異なった見方をしていることは明らかで、
もしヨハネを聖書記者と認めるなら、当然その見方を受け入れるべきであると、ドッドという学者は言うそうです。

ヨハネの目から見ますと、デオテレペスの行動を支配していた動機は、神学的でも社会的でも、教会運営上の事柄でもなく、道徳的なものであって、その問題の根底には罪があった。デオテレペスは頭になりたがっていた。長老に敬意を払おうともしなかった。彼は、自分が一番えらくなりたかったのである。彼は、「貪欲に権力をもった地位を欲し」、野心と支配欲についてのイエスの警告に注意を払わなかった。彼の心にあった利己心が、その反社会的言動に噴出している様子が10節に書かれている。そのようにティンデル聖書注解にはあります。よくその時代性を捉えて書いてあります。

ところで、その10節には、ヨハネの意気込みが書かれています。
「それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。」と。
ヨハネは、自分が使徒として、その権威に挑戦するものは、見過ごす事は出来ないというのであります。確かに時代の流れは確実に起っておりました。イエス様がおられた時代から、その後、イエス様の弟子達が活躍した時代へと進み、そして、そのイエス様の弟子達に教わった教父といわれる時代。そのように変わっていきます。

そして今、取り上げていますヨハネの手紙第三の時代は、弟子達がだんだん少なくなっていく時代の変わり目であります。正しく主の教えが引き継がれていかなければならない、そういう大切な時代でありました。それ故に、ヨハネは厳しくその決意を語るのであります。

では、デオテレペスは何をしたのでしょうか。
10節に3つの点が挙げられています。
その一つは、「意地悪いことばで私たちをののしり」であります。
意地悪い言葉、これはどんな言葉なのでしょうか。古典ギリシャ語では、「意味のないことをいう」のだそうです。あるいは「単に言葉が悪いだけではなく、意味がないというニュアンスである」ともあります。

相手を傷つける為には、どんな言葉が良いかと言いますと、傷つける相手にとって全く的外れな事を言っては、あまり効果はありません。やはり相手を傷つけるには、周りで聞いている人もそれらしく納得の行くようなものでなければならないでしょう。逆に、全くありそうもないことを言う場合は、繰り返し言う事によって、聞いている人を信じ込ませる事もあります。

いずれにしましても、教会の秩序を乱すような者は、決して神の栄光を現わす者とはいえません。ヨハネも腹に据えかねての行動でありましょう。デオテレペスのもう一つの悪行は、「それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか」とあります。入ってくる兄弟を拒絶しているのであります。

同じ主にある兄弟姉妹を愛するようにとヨハネは勧めていました。また、愛するとは受け入れる事でもありますので、それを拒否する事は、ヨハネの心とするところではありません。ヨハネは前半で、兄弟をもてなしているガイオを賞賛しました。

しかし、デオテレペスは、自分の兄弟を受け入れないのです。巡回伝道者を彼は迎え入れなかったのでした。第三の罪は、「受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。」何という酷い業でありましょうか。

善い業と言われていることをしようとする者を、逆に教会から追い出していると言うのです。これは、明らかに神に敵対することを行っていると言うことです。そしてこういう事は、確信を持って行なうゆえに恐ろしさがあります。

善い事をしていると恐らく、このデオテレペスは信じていたに違いありません。そうでなければ、ヨハネが9節で書いているように、ヨハネの注意に対して聞き入れないような事は無いはずです。間違った確信ほど恐ろしいものはありません。

デオテレペスは、正しく振舞っている者をののしり、さらには、兄弟達を受け入れず、
さらには受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出す。ある人は彼のことを利己心からであると言います。自分の利害だけを念頭に置いて、他人の迷惑を考えない。そしてそれは、全ての人間関係を壊すのであります。教会の中で、自分の働きがどういう位置関係になっているか、このデオテレペスの行動から教えられたいものであります。

私達は、今の自分から更によい自分へと変えられるには、やはり良い見本が必要であります。ですからヨハネは11節でこういっています。「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。」

私達は、神から出たものか、悪から出たものであるかを、イエス・キリストを通して判別できるようにしていただかなければなりません。そうしませんと、常にふらつくことになってしまうからです。ヨハネは12節で、よい人の名前を挙げています。

「デメテリオは、みなの人からも、また真理そのものからも証言されています。私たちも証言します。私たちの証言が真実であることは、あなたも知っているところです。」と。

この手紙には、ガイオという兄弟は魂に幸いを得ているが、健康に少し問題の有る人を挙げたり、そしてもう一人は、神の民、兄弟とはいえない、いいえ、兄弟ではないと思っていたかもしれないデオテレペスを挙げ、そして3人目は、デメテリオを挙げています。デメテリオは、人々からもまた、真理そのものからも証言されているとして推薦されています。

デメテリオという名前の人は、聖書には他に、使徒19:23,38に出てきますエペソの銀細工人で、大女神アルテミスの神殿の模型を銀で作り、職人たちにかなりの収入を得させていたことででていますが、別人でしょう。使徒19章にもデメテリオがでてきますが、やはり違うと言われます。あるいはデマスと同一人物と考える者もいるとありますが、全く別人として考えることにします。

ヨハネは、デオテレペスに対して3つの悪行を挙げていましたが、デメテリオに関しては3つの善いことを挙げています。
一つは、「みなの人からも、・・・」証言されていること
二つ目は、「真理そのものからも証言されています」といい、
三つ目は、「私たちも証言します」と言って、三重に推奨しているのであります。
これは、キリスト者として素晴らしい歩みであることを、誰が見ても言えるのではないかといっているということでしょう。

彼が告白している真理は、彼に身についていて、彼の生き方は、信仰と生活とがいわば合致しているということです。何と言う素晴らしいことでありましょうか。私たちの歩みも、その様でありたいと願うものであります。少なくとも、他の人に対して害になるようなことだけは、何としても避けたいと言うのが、正直な思いですが、それではあまりにも消極的でありましょうか。

さて、ヨハネは13,14,15節の3つの節を使って、この手紙の最後を締めくくっております。13節「あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくはありません。」とまず書きます。理由は14節「間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。」これが何よりであります。

皆さんはどうかわかりませんが、手紙を一通書くのに、昔は、鉛筆で下書きをして、そして、その後で万年筆で書き、その後で、鉛筆書きを消したものです。読み返したら、もう一度書き直そうかと思ったことも度々でした。

現在はパソコンで書きますので、訂正、修正自由自在です。それでも、相手に出すとなりますと、推敲に推敲を重ねるわけです。自分の気持ちを正しく伝えるために、言葉を選ぶわけであります。しかし、そんなことをしないで、顔と顔とをあわせれば、親しき間であれば、言葉は要らないのです。顔と顔とがあっただけで、何通分もの手紙の分量が省けるのです。

ヨハネも恐らく、同じ思いであったでしょう。親しき友に会いたい。そして、互いに信仰を強められたい。使徒ヨハネとて、同じ信仰の友に会うことほど励まされることは無い、そういえます。それを願いつつ、最後の挨拶となるわけであります。

15節「 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。」と。

短い手紙ですが、喜びと怒りと悲しみと、そして最後に楽しみが書かれております。この手紙を読みながら、主につながっていることの幸いを私は覚えます。
まるで、私がヨハネから手紙を貰ったような気分であります。
勿論、愛するガイオやデメテリオほどではありませんが。

神様は、この短い手紙を通しても、キリスト者として相応しい歩みをするように教え導いてくださっていることは何という感謝なことでしょうか。一年間を振り返りまして、主にある皆様と共に歩めましたことを神様に感謝するものであります。


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