2009年2月8日(日) 「神に任せて」 マタイ1:18-25 竹口牧師
つい1ヵ月半ほど前にキリストのご降誕を祝ったばかりでありますが、今朝また、イエス・キリストの誕生に関わる素晴らしい出来事を見てまいりたいと思います。
マタイは、イエス・キリストの誕生は次のようであった、と言って事の次第を述べるのであります。「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とまずあります。
この18,19節には、それぞれ一つずつ大切な点が述べられています。 その一つは、18節で、マリヤは聖霊によって身重になったという事であります。 この事実は、今日キリスト教信仰を否定する人々の中では、必ずと言っていいほど間違いだとしてあげられる点であります。そんなことはありえない、医学的にもありえないと真っ向から否定するのであります。
しかし、事実は事実であります。 私達の頭では理解できないからといって神様のなさった事に、私たちが疑問をいだくことは出来ないのであります。事実は、そのまま受け入れる事であります。とは言いましても、ある人が、この事実をそのまま受け入れる事ができるか否かは、100%、神様の御心にかかっていることも現実であります。
さてもう一つは、19節にある点でありますが、それは、ヨセフは、この事実に対してどうしたらよいのか、どう対処したらいいか悩んだことであります。自分の身に覚えがあって、マリヤがはらんだのであれば、それは、悩む必要はなかったでありましょう。しかし、自分の身に覚えがない。そして事実だけが伝えられる。そこでヨハネは悩むわけでありました。
とは言いましても、私たち読者には、どのようにしてヨセフにこの事実が知らされたのかは明らかにはされてはいません。マリヤが告げたのか、夢で知らされたのか、分かりません。が、ともかくヨセフは、その事実を知って悩むわけであります。
その事実を確かめるのは時間の問題であったのでありました。ヨセフはマリヤを愛しておりました。それだけに、マリヤが法のもとに裁かれる事をヨセフは恐れたのでありました。できるだけ穏便に、マリヤと別れる事を考えたわけであります。
では、その法とは何だったでしょうか。ユダヤ人の婚姻法では婚約中の2人はすでに夫婦であるので、マリヤは「妻」と呼ばれ(20,24)、そして、婚約者は普通1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入り、その後に子どもが与えられるというのが順序でありました。
しかし、マリヤとヨセフとの関係は、まだ婚約中であったのでした。にも関わらず、内密に去らせなくてはいけないと感ずる事が起きた。なぜなら、律法において、婚約中の女性が婚約者以外の男性と同意の上で性交に及ぶなら、2人とも石で打ち殺される。 あるいは、無理やり犯されたのであれば、男だけが殺されなければならないとあるからでした。(申22:23‐27)
この時代に、この件に関して言いますなら、律法が文字通り実行されたわけではなかったようであります。がしかし処女でなくなった女性との結婚を禁止する規定もあった為に正しい人であったヨセフは悩んだのでありました。
先ほど言いましたように、どのようにしてマリヤの身体の事をヨセフが知ったのか分かりませんが、マリヤにとって最善の策と考えていた「内密にさらせる」ことを思い巡らしている時に、主の使いが夢に現れたのでありました。
20節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と。ヨセフは、この御使いの言葉をどう受け取ったのでしょうか。御使いは更に言葉を続けます。21節「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と。
女の子ではなく、男の子を。しかも、名前を「イエス」とつけなさいとまで言われるのであります。ヨセフは、御使いの言葉をこの時、どのように受け取ったでしょうか。ヨセフは、まず、マリヤを不貞の女と取る事も可能でした。あるいはまた、聖霊によって身ごもるとはどういうことか、それを考えたかもしれません。
或は更に、もしかしたら、夢の中であって、本当は、全く違うのではないかとその時は捕らえたかもしれません。言うまでもなく、あのヨセフの時代、現代ほど情報網の発達した時代ではありません。
携帯電話で確かめると言う事などは即座に出来ない。しかしながら、やがてはマリヤの妊娠という事実にヨセフは直面することになるのです。その時に、彼は自分が見た夢をどう受け入れるかは、大変大きな問題であったのでありました。
夢と言いますと、私的なことを申し上げますと、私もどちらかといいますとよく夢を見ます。教会員の誰かが登場しますし、情景は見た事のないような場であったり、田舎の風景であったりします。なんでこんな夢を見たのだろうと考える度々であります。
怖い夢で、これは夢であって欲しいと夢の中で考える事もあります。 また、夢から覚めて、ああ、夢でよかったと胸をなでおろす事も、これまでに何度も経験しておりますが、それと神様の導きとは結び合わせたことは一度もありません。なぜなら、旧新約聖書66巻が完結している現在は、神様がそのことを通して何かを語ってくださるということは、今では決してないことを知っているからであります。
しかし話を聖書に戻しますと、ここのヨセフの場合は、違うのであります。 神様は、この時にはまだ、夢によって語られていたのでありました。 後に、ペテロも夢で救いは異邦人にも与えられる事を示され、パウロも幻によって、ヨーロッパへの伝道へと導かれるのであります。
ですから、ヨセフがここで夢をそのまま受け入れる、 或は信じることは、決して間違いではありませんでした。 それだけにまたヨセフは、夢の中で真剣にその事を受け止めるのです。 「その胎に宿っているものは聖霊によるのです」とはどういうことか。 それは、神によってなされたということであり、これは、神様の奇跡を信じるか否かに しかし、あまりにも大きな知らせに、ヨセフは、どう考えたらいいのか、恐らく戸惑ったに違いないのであります。
この時に語られた内容、それは、この時のヨセフがそうですが、しかしまた、今日の、これを聞かされた人もみんな同じではないかと思うのであります。人には理解できる範囲があります。それを超えると、もう、それを否定するか、そのままうけいれるかしかありません。奇跡と言うものが、受け入れられなければ攻撃さえしてくるのです。
ところで、私が思いますのは、なぜ神様はこのような方法を取られたのかであります。 もっと別の方法はなかったのでありましょうか。 その答は、やはり昔に遡って、旧約聖書に出てくる人の罪の贖いの方法を読みませんと 分からないのであります。旧約聖書を読みますと、どうしても処女降誕という奇跡でないと、私たちの罪の贖いが完成しない。また、使命が果たされない事が分かってくるのであります。それは、通常の出生では、神の前に犠牲とはならないからです。
アダムとエバの犯した罪を持った人間では、罪の贖いは出来ないからであります。 それ故に、神様は処女降誕と言う方法を取られたのでした。 主の使いは、ヨセフに対して、神様の奇跡によってマリヤは身ごもったと告げました。 ヨセフは告げられたことを神の啓示と信じました。マリヤを迎え入れることによって、これから受けるであろう問題も、全て神様に委ねたのでありました。
こうしてイエス様はヨセフとマリヤという両親のもとで生れることになっていくのでありますが、2人はイエス様がお生まれになるまで性的な関係を持ちませんでしたし、その後は普通の夫婦の関係に入ったのでありました。ですから、イエス様の兄弟が後に生まれるのであります。それゆえにまた、マリヤが永遠にわたる処女であったなどというのは、全く受け入れられない事であります。また、処女である必要性もないのであります。
さて、主の使いは、マリヤの胎に宿っているのは聖霊によるというだけでなく、更に男の子を産むと告げます。更に又、その名をイエスと付けるようにとまで告げました。
なぜ、そこまで主の使いは指定しなければならなかったのでしょうか。 受胎告知から、性別から、名前まで、全て決められていた。 そのような人が一体この世にいるのでしょうか。 男の子だったら、こういう名前にしよう、女の子だったら、こういうのがいいだろうなどと、夫婦でいろいろ考えるのが普通であります。今でも、妊娠の初期には、男の子か女の子かなど分からないのです。
しかし、主の使いは、神様のご計画をはっきりと告げたのでした。 因みに、イエスという名前は、旧約聖書ではヨシュアと言う名前で、それをギリシャ語化したものであり、「主は救いである」と言う意味を持つのであります。
ですから、主の使いは「イエスとつけなさい」と言った続きで、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と、罪からの救い主である事を告げているのであります。まさに、人々を罪から救う。そのために誕生される。それはまさに「イエス」と言う名前が相応しいといわざるをえません。
見た目には、私たちと同じ、女から生まれた者でありますが、単なる一人の人間ではなく神から遣わされた救い主であったのでありました。
ところで、御使いが事実を伝えただけでなく、もう一つ大切な事がここには述べられているのであります。それは、御使いが告げた全ての出来事は、主が預言者を通して言われていたそのことが成就する為であったと言う事であります。
この世には、預言者と言われる者がいろいろと出てきて、預言をしますが、なかなか当たったためしがありませんし、外れたと言って大変な非難を浴びた人もいるのであります。
たとえば、2000年問題がありました。世の終わりがまさに、この時にやってくると、あちこちでささやかれ、大騒ぎしたものです。しかし、何も起りませんでした。
その一方で、1500年頃に書かれた本で、一時期、ノストラダムス(1503-1566)の大預言という本が、大変よく売れた時期がありました。そしてその予言のあれが当たっているとか、これが当たっているとか大変騒がれた事もありました。
しかし、出来事があったことを、振り返ってあれに当てはめたり、これに当てはめたりして、当たっている、まさにそうだと、騒ぎ立ててる事は、果たして正しい事でしょうか。何の権威もなく、また根拠もなく、解釈され、心が乱される。果たしてそれでいいのでしょうか。少なくとも私達クリスチャンはそうであってはならないといえましょう。
マタイがこの22節で「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」と言った時、そこには、神のご計画、旧約聖書の預言の成就であり、その重さは全く他のものとは違うのであります。
22節のこの言い方は、マタイが好んで用いる言い方であり、これからも度々、使われる言葉でありますが、それはまさに、神様の預言の成就を表していたのであります。だからこそマタイが書いてから今日に至るまで信じられてきましたし、これからもその価値、権威、は変わらないのであります。
神の言葉に基づいての成就だからであります。 因みに、その預言というのが23節の言葉であります。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
これは、マタイよりも700年も前にイザヤという預言者が、書いた言葉であります。 イザヤはもうすでに、700年も前に、処女が身ごもる事、そして男の子を産む事という性別までを言っているのであります。これは、大変な驚きであります。こうして、神様のお言葉は確実に成就していくのであります。
22節の後半の言葉も、私たち信仰者にとって、非常に素晴らしい言葉であります。もう一度読みますが、「その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」であります。
神様の存在を全く知らなかった私でありますが、こんなにも身近にいてくださり、ともに歩んでくださるお方であった、その事を知ったのは、神様が進行を与えてくださったからであります。喜びの時も、悲しみの時も、苦しみの時も、寂しい時にも、共にいてくださる方がおられた、その事を知ったときの喜びは、何と言い表したらいいでしょうか。本当に、感謝な事でありました。
新しい1年が始まってまだ2ヶ月。あるいはもう2ヶ月でありましょうか。 神様は約束をし、そしてその約束を必ず果たされる。 否、果たされるだけでなく、信じるものと共にいてくださる。 この事の幸を、神様に今一度感謝しようではありませんか。私たちの全ての罪を負う為に、この罪の世に来て下さったイエス・キリストのその辿られた道をこれからも学びつづけたいものです。
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