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2009年4月26日(日) 「主の道の用意」  マタイ3:1-12   竹口牧師

マタイの福音書を読み始めまして、今回で5回目であります。最初にまず復習となりますが、マタイはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図から書き始めておりました。救い主が、アブラハムから出ていることをまず書きました。

その次に、誕生の次第を書いておりました。救い主は、インマヌエル、訳すと「神は私たちと共におられる」というお方であると言いました。

そして2章に入りまして、東方の博士達がイエス様の誕生を祝う為にわざわざ遠くからやって来た。その東方の博士たちの言葉に、ヘロデは強く興味と恐れを示し、「行って幼子の事を詳しく調べ、分かったら知らせて貰いたい。私も行って拝むから」と言いましたが、神によってそのことは叶わず、結果的には、ヘロデは、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を残らず殺させたのでした。

一方、マリヤとヨセフとイエス様は、主の使いの知らせで、エジプトに難を逃れました。これがイエス様のお生まれになった頃の事の次第であります。それから時が過ぎまして、マタイは、今日の3章に入りまして、30年あまり時代を飛ばしまして、イエス様の公の生涯へと一気に入り、その始めに何があったかを書き始めております。

そして、そのイエス様の公の生涯を書き始めるにあたって、イエス様のお働きの前に準備をしましたバプテスマのヨハネのことをマタイは書くのであります。それは又、旧約聖書からのつながりであると言います。

突然にイエス様が現われて、公の働きをされたのではなく、ちゃんと旧約にあるように、メシヤが来られ、働きを始める前に、道備えをする人が現われると言われていた事が成就する為であった、と、そのように書いております。

マタイはイザヤ書40章3節を引用して、ユダの荒野で教えを宣べ伝え、バプテスマを授けているこのヨハネこそ、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。」と言います。

そして、その姿たるや、きょうの個所4節にありますように、「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」と書きまして、U列王記1:8に出てきます預言者エリヤの姿と同じ服装であり、しかも旧約聖書の最後の書マラキ書の4:5-6には、

「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」とありまして、メシヤによる裁きの日が来る前に、神はエリヤを遣わし、父なる神に背いているユダヤ人の心を再び立ち返らせる為に送る、まさにその者がバプテスマのヨハネだとマタイは書き進めるのであります。

バプテスマのヨハネは、ヨルダン川でバプテスマを授けていました。
それは、神によって自分の罪に気付かされ、悔い改めの必要を自覚した者が、ヨハネのところにやってきて、悔い改めのバプテスマを受けていたわけであります。

その当時、水によって身を清める仕方は、色々な宗教が行なっておりました。
旧約聖書にも、レビ11‐15章にはきよめの洗いの規定があるのですが、ヨハネのバプテスマはそれと違い一度限りなものだったようであります。

多くの宗教が、身を清めるために何度もする行為が、ヨハネの場合、一度だけでありまして、もう自分達はバプテスマを受ける必要のない、とそう思っている人たちに、語りかけ、自分の罪を示された人が、バプテスマを受けていたのでした。

つまりユダヤ人にバプテスマを要求する点で違っておりました。
またユダヤ教へ改宗する人が受けるバプテスマとも異なっていました。

5節6節「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
とあるとおりでありまして、大変大きな運動へと発展しておりました。

ところで、ヨハネからバプテスマを受けようと集ってきた者の中には、パリサイ人やサドカイ人も大勢含まれておりました。そこで疑問がおこるのであります。
なぜ彼らはやってきていたのだろうか。彼らは必要性を感じてやってきていたのだろうかとであります。

本来なら、宗教的に厳格であり、律法には厳しく、悔い改める事も知っており、何もヨハネの訴えに応答する必要は彼らには無かったのではないか、そのように思えるのであります。それにも関わらず、彼らは大勢やってきていたのでありました。

バプテスマのヨハネとしましては、この現象は、大変喜んでよかったのではないかとさえ思えるのですが、実際に、ヨハネが彼らに応対した模様は全然違っておりました。むしろ彼らの謙虚な姿らしきものに、水を指すといいますか、怒りを覚えると言いますか、そのようなことを言うのであります。

7節の真中辺りからありますが、こう言っております。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。
あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、
アブラハムの子孫を起こす事がおできになるのです」と言ったのです。
「まむしのすえたち」とはすごいことばであります。まむし、即ち毒蛇であります。

まむしで私が思い出しますのは、私の父が、年に何匹かは必ず捕らえ、すぐさま皮をはがして、生きている肝を丸飲みしていたものであります。しかし、年を重ねてきてからは、マムシを捕えることに失敗したこともあり、指が一本変形しておりました。下手をすると、死に至る恐ろしいヘビ、それがまむしであります。

創世記に出てきます蛇もやはり悪の象徴であります。人間最初のアダムとエバが罪を犯す原因になったのが蛇でありました。そういうことで、ヨハネは、パリサイ人、サドカイ人をそのようなまむしのすえたちと厳しく非難しているのであります。

しかし、考えてみますと、選民であるイスラエルが、ローマ帝国という他国に支配され、現実的には、厳しさを強いられている中ですから、ともすれば、神様の祝福の約束に与かれていない事に、人々は失望しがちでした。それにも関わらず、パリサイ人やサドカイ人は、誇りを捨てていなかったと言うのは、誉めるに値するものです。

しかし、バプテスマのヨハネは、そうは取らなかったのでありました。むしろ彼らに厳しい非難を浴びせ掛けたのであります。なぜ、ヨハネがそう言わざるを得なかったのでしょうか。それは、これから読み進むうちに分かってきますが、時代的な厳しさの中にあっても彼らが誇りを失わなかったのは良かったのですが、それによって、人を裁くという落とし穴に陥っていたからであります。

パリサイ人は、神様のお言葉に従おうと一生懸命でした。
それだけに、神様のお言葉に従っていないと思われる人々を見下していたわけであります。

一方サドカイ人は、パリサイ人ほど律法に厳格ではありませんでしたが、ユダヤ人社会において宗教的祭儀をつかさどる支配階級であったため、パリサイ人と同様、自尊心があったわけであります。

ですから、先ほど私は、なぜ彼らがバプテスマのヨハネの所にやってきたのかといい、「本来なら、宗教的に厳格であり、律法には厳しく、悔い改める事も知っており、何もヨハネの訴えに応答する必要は無かったのではないでしょうか。」と言いましたが、

しかし、5,6節にありますように、エルサレム、ユダヤの全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が集ってきていましたので、どうやらその様子を見る為に、パリサイ人、サドカイ人は来ていたのかもしれないと言われます。そこで、ヨハネは、あのような厳しい言葉を投げかけたのでしょう。

ヨハネは「悔い改めに相応しい実を結びなさい」と彼らに迫ります。まことに考えさせられる言葉であります。
罪を指摘されても、指摘されても痛みを感じない人。
痛みを感じるのですが、どうする事も出来ない人。
何とか、悔い改めの実を結びたいと努力し、敗れる人。
人によっては、出来ない故に落ち込む人もおられます。
長い信仰生活の中で、キリスト者は、そのどれも経験してきているはずであります。

ですから、バプテスマのヨハネが言います「悔い改めに相応しい実を結びなさい。」という言葉は、考えてみますと、現代の私たちにも十分に通じるものがあるといえましょう。行ないが天国への切符ではありませんが、功徳を積む事によって、それが救いの何かに影響を及ぼす、足しになると言う事でもありませんが、やはり、キリストに繋がっているなら、それに相応しい実もまた刈り取らせていただけるのではないか、と、そう思うのであります。

ヨハネの前にいたパリサイ人やサドカイ人は、その点において、天の御国には、遠い存在であったのではないでしょうか。それ故にバプテスマのヨハネは、彼らに厳しく迫ったと言えましょう。9節「『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と。

これは、彼らに対して痛烈な皮肉であります。
パリサイ人やサドカイ人達が、何の価値もない石ころのような者と見ている下層階級の人達、律法もあまり守らず、宗教的に汚れている人々の中からでも、神様は、心から悔い改める人を起こして、彼らを救う事がおできになるとヨハネは言いたかったのであります。

10節では、もはや審きは目の前にあるといいます。
「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とまで言うのです。

私達は、この御言葉より、斧はすでに木の根元に置かれているという緊急事態を思い浮かべなければならないでしょう。良い実を結ぶか、切り倒されて火に投げ込まれるかどちらかである、という事です。パリサイ人やサドカイ人のように、「我々の先祖はアブラハムだ」と言って、アブラハムの子孫であることによりかかっていてはいけないのです。

この際、アブラハムの子孫であるかどうかが問題なのではなく、良い実を結ぶかどうかであるのです。

こんな話があるそうです
アブラハムが神と議論していった。
「あなたは双方をたてることはできません。
もし、徹底的に正義を要求されるなら、世はこれに耐える事は出来ません。
もし、世を救おうとされるなら、正義がこれをゆるしません」と。
この世は、神の憐れみと人の悔い改めがなければ存続する事ができない。ただ神の正義だけであれば、全ての人、全ての物は滅ぼされる。」

このような現実を突きつけられますと、私達は、本当にどこにも逃げ場の無い事態にあることを思わされます。それ故にこそ、私達の罪のために、身代わりとなる為に、神の子が人となってきてくださった、救い主イエス・キリストの存在が分かるのではないでしょうか。

私達は、生涯、罪と戦わなくてはいけません。そして、敗れ、苦しみ、そしてキリストに助けを求めるのです。悔い改めは、そこから出てきます。この方の登場なくして、私たちに救い、平安、喜びはないのです。そして、その救い主をヨハネの言葉によってマタイは紹介するのであります。

3:11「 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。
私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」とであります。

ヨハネは、自分の与えられている使命をよくわきまえ、次に来られる救い主のお働きを人々に伝えるのであります。人々の目から見れば、このヨハネこそがメシヤではないかと思ったとルカ3:15には書いてあります。

それほどヨハネの働きは素晴らしく、また、神様に用いられた人であったのでありました。そしてまた、救い主が登場するに相応しく整える役を十分に担っていたともいえましょう。ヨハネは自分のことを、その当時奴隷が行う事とされていた履物を脱がせてあげる値打ちすらもないと言っています。

この言葉は、人々にはヨハネの謙遜に受け取られたかもしれませんが、実際は、まさに彼の言ったとおりでありました。

彼は水でバプテスマを授け、救い主イエス様は、聖霊と火によるバプテスマをお授けになるのであります。旧約聖書では、メシヤが来る時は、聖霊が注がれると預言されていました(イザヤ44:3、エゼキエル36:25-27、ヨエル2:28)そして、火は審きの象徴として言われています。従って、これから登場されるイエス様は、祝福と審きをもたらされるお方であるということであります。

12節で、イエス様は「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」そういうお方であるとバプテスマのヨハネは言うのです。

いつでしたでしょうか。
バイクで走っていて、信号が赤になりましたので止まりました。
当然ながら、私だけでなく、次々に来る車はみんな足止めされました。
その赤になった信号が、いくら待っても青になりませんでした。
青になるどころか、反対方向の信号も赤になって、遂には、交差点には車は一台もなくなりました。

よく見ると、白バイの警官が、信号を操作しておりました。
しばらくすると、おもむろに二頭の白馬がカポカポと音をたててやってきまして、
その後を馬車がやはりカポカポと音を立てながら通り過ぎて行きました。
なんとも優雅な、のんびりとした時間でした。
そしてその後、信号は一斉に通常通りになりました。

なんだ、さんざん待たせておいて!そういう理由だったのか!
そのように後で思いました。
急いでいたわけではありませんでしたので、
その時は、あまりカリカリはしませんでしたが、おかげで道路は大渋滞でした。
しかし、偉い人が通るには、その前に備えをする人が同じ様に必要である事が分かります。

実際の所、その馬車に誰が乗っていたか私は知る由もありません。
まあ、偉い人が乗っておられたのでしょう。

ところで、ヨハネは、道の備えをする人でありました。
しかしまた、その備えられた所に来られたお方は、この世の偉い人が通る為の道ではなく、十字架へと続く道、それはまた茨の道、私たちがこの世で味わう辛苦の道、それを人として味わってくださるお方の為の道でありました。
神が人となって来て下さり、まさにその働きを公になさろうとしていたのでありました。

バプテスマのヨハネは謙遜に自分の果たすべき働きを果たしました。
そしてキリストが来て下さった現代では、私達の罪のための贖いの死を遂げて下さったという状況にある私達は、私たちそれぞれに与えられています使命を確認し、それを喜んで果たす者とされているのではないでしょうか。

私たちの使命とは、言うまでもなく、イエス・キリストの福音を伝える事であります。
神様からいただいた無償の愛を喜びを持って伝えさせていただく働きです。
その働きを、この教会を通して、より多くの人にお知らせしたいものです。

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