2009年5月10日(日) 「メシヤとしての一歩」 マタイ3:13-17 竹口牧師
バプテスマのヨハネは、ヨルダン川でバプテスマを授けていました。そのバプテスマは、当時のいろいろな宗教集団が行なっているものと、少し意味が違っておりました。
では何が違っていたかと言いますと、ヨハネのバプテスマは、 一つは、罪汚れを水によって清めるものではなかったということ。 二つ目は、ですから何回も受けるものではなく1回であったと言う事。 三つ目は、ユダヤ教ではない人が、ユダヤ教に改宗するためにユダヤ教がバプテスマを行なっていた、そういうものでもなかったという事でありました。
この三つ目の理由などは、よく考えてみますと、彼らはユダヤ人ですから改宗する必要は無く、従って彼らは、歴史を通じて一度もバプテスマを受けたことは無かったということになりましょう。ユダヤ人はバプテスマを施しはしても、受ける事はなかった。ユダヤ人は選民の一員であり、アブラハムの子であり、救いが約束されていましたので、バプテスマを受ける必要がなかった。ユダヤ人は、自分達が神から見離された罪人だとは決して思っていなかったのでした。
つまり、ヨハネが授けるバプテスマを受けようとやってくる者は、自分の罪に気づかされ、それを告白して受けるものであり、1回限りのものであったわけでありました。それは、いわば当時としては異色なバプテスマでありましたが、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が、自ら進んでやってきては、彼からバプテスマを受けていたのでした。そしてその中に私達の救い主であられるイエス様もおられたのでした。
イエス様は、バプテスマのヨハネからバプテスマを受ける為に、ガリラヤからヨルダン川にいるヨハネの所にやって来られました。ヨハネは、数多くの人たちにバプテスマを授けていましたが、誰彼と無く授けていたのではなく、当然ながら、バプテスマを受けるに相応しい人に授けておりました。
それゆえに、いざイエス様の番になりますと、態度はがらりと変わったわけでありました。それは言うまでも無く、イエス様は、ヨハネが授けるのではなく、むしろ自分こそが、そのイエス様に授けていただかなければならない、そのことをヨハネは見抜いたからでした。
ところで、私達の教会では、バプテスマは現在の牧師である私が授けておりますが、バプテスマを授ける為には、教会員の方はおわかりのように、一通りの手順があるわけであります。それはまず、バプテスマクラスに出席していただいて、バプテスマを受ける意味を知っていただきます。
そして、次に、私達の教会はどういう教会かを説明いたします。 何をどう信じ、教会規則はどうなっているか、などなど詳しく説明し、半年以上もかけてお話をし、その後に、執事会を開いて試問の時を持ちます。その人が、本当にイエス・キリストを救い主と信じているのか、教会員としてその責任を果たせるのか、証しを聞きながら、確認するわけであります。
この時、牧師、教師、カントール、執事という執事会のメンバー全員が一致して信仰を認めて初めて、次に教会員の皆さんに、執事会として推薦し、教会員例会においては、そこでまた試問が行なわれるのであります。
ですから、バプテスマを受ける事は、そう簡単にはいきません。 バプテスマのヨハネが、多くの人にバプテスマを授けていましたが、現代の私達のような教会という組織になっていませんでしたので、同じ様な過程を通ってバプテスマへと 進んだ訳ではありませんでしたがそれにしましても、ヨハネに申し出れば誰でも機械的に次から次へとバプテスマを受ける事が出来たとは思えません。
ですから、先回見ましたように、パリサイ人やサドカイ人を見て、ヨハネは、厳しく迫ったわけでありました。「まむしのすえたち。誰が必ず来るみ怒りを逃れるように教えたのか」と、でありました。それだけにきょうの聖書個所のように、今、目の前にいる方がどういうお方かヨハネにははっきりと分かりましたので、ヨハネ自身、躊躇したのでありました。
と言いますか、自分がバプテスマを授けるのではなく、自分こそが授けていただかなければならない者であるとはっきりとわかったのでありました。従って、14節にありますように、イエス様が受けようとされることに対して「しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私の所においでになるのですか。』」と問うたのでした。
勿論、バプテスマは、誰から受けるかは、あまり問題ではありません。 と言いますのは、ヨハネ4:1-2をみますと分かるのですが、イエス様ご自身バプテスマは授けておられませんで、授けていたのは、イエス様の弟子でありましたし、異邦人伝道で大変活躍をしましたパウロでさえも、あまり多くの人にバプテスマを授けたようには聖書には書かれていないからであります。
それはTコリント1章をご覧になりますと、お分かりいただけると思います。 大切なのは、誰から受けるかではなく、どういう意味があるのかであります。 でも、バプテスマのヨハネは言うのであります。 『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、 あなたが、私のところにおいでになるのですか。』」と問うのです。
そして、ここには実は隠れた真理があるのであります。 それは、バプテスマは、罪ある人間が、自分の罪を告白して受けるものでありますので、イエス様には、その告白される罪が無い。 逆にヨハネ自身は、自分こそ、罪の無いお方から私が受けるべきだ! そのように考えて言った言葉なのであります。 罪の無いあなたが受けられるのですか、という事であります。
ここには、誰からバプテスマを受けるかと言う点ではなく、誰がバプテスマを受けるか、と言う点がこの14節の言葉には含まれているのです。 本来なら、イエス様は、バプテスマを受ける必要の無いお方でした。 人としてお生まれになったイエス様ですけれども、罪においては、全く清いお方であったからであります。
一方、イエス様以外、人として生まれて来た者の中には、誰一人罪人でない者はいないのであります。聖母と言われていますマリヤもその点では同じであります。 ヨハネは、人にバプテスマを授けながら、イエス様を前にした時に、イエス様がどういうお方であるかが、はっきりと分かったのでありました。
ところでイエス様は、このバプテスマのヨハネの態度にどうされたでしょうか。 それが15節に出ているのであります。 「ところが、イエスは答えて言われた。『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。』そこで、ヨハネは承知した。」とあります。
イエス様は、人としてこの世に来られました。 罪はありませんでしたけれども、罪人の姿をとり、罪人と共に歩んで来られたのでした。イエス様は、大工の息子としてお生まれになりました。 大工と言いましても、パレスチナは、日本のように、家が木造建築ではありませんで、石造りでした。ですから、日本で言うような大工さんではなく、むしろ家具とか農機具を作る仕事であったであろうと言われています。
伝承によりますと、父ヨセフは早く死んだので、長男として、父ヨセフに代わって家計を支えなければならなかった。ですから、イエス様は一生懸命働く中で、人々の貧しさと生活の苦労を十分に味わう事が出来たであろう、そう言われています。
そのイエス様が言われたのであります。 『今はそうさせてもらいたい。このようにして、全ての正しい事を実行するのは、わたしたちに相応しいのです。』と。
繰り返しますが、イエス様に罪はありませんでした。 しかし、人として来られたイエス様は、人が受けるべき正しい事は、自分もそれを受ける事の方が正しい。だから、自分もバプテスマを受けさせてくれと言われたのでした。 イエス様は、全ての点で、私たちと同じ様にならなければなりませんでした。 それは、私たち罪人のために、なだめの供え物となられる為でした。
ヨハネからバプテスマを受けられる事によって、イエス様は、私達の罪の身代わりとなるにために十分な資格をこの時も備えておられたのでありました。 ヨハネの福音書1章を読みますと、バプテスマのヨハネがイエス様をメシヤであるという確信を得たのは、イエス様がバプテスマを受けられた後であると書いております。
ですから、今回のこの時点では、イエス様の前に立って自分の罪深さを覚え、自分こそバプテスマを受ける必要があると思ったのでありましょう。しかしイエス様は、ヨハネからバプテスマを受けることが今は「正しいこと」つまり神の御心にかなうことであるとされ、そのようにヨハネにイエス様は求められたのでありました(15)。
今はイエス様にとって新しい出発の時、人の目から隠れた生活から、メシヤとしての公生涯への転換点でもあったわけでありました。ヨハネのバプテスマにイエス様が服されることによって、ヨハネの働きが神から出たものであることが明らかにされました。
しかも最も重要なことは、やがて十字架の上で人々の罪を負うイエス様であるからこそ、公生涯の初めにバプテスマを受け、罪人の立場に立つこと、がふさわしかったのでありました。Uコリント5:21には、こういう言葉があります。 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。 それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」とです。
イエス様がバプテスマを受けられたのもその一環でありましょう。 ユダヤ人は自分の罪を認め、真の神を真剣に求めるようになりました。 罪を悔い改めて神を慕い求めるという特殊な運動が、バプテスマのヨハネによって起ってきたのでありました。そして、この時に、イエス様が、ユダヤ人の一人として、同じ立場に立って行動されたのでした。
ヨハネは、イエス様のおっしゃる事に同意して授けるのであります。 16節「こうしてイエスはバプテスマを受けてすぐに水から上がられた。すると天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」 そして17節「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
ここには、大切な真理であり、教理の一つであります三位一体の神が同時に登場される所であります。つまり、父なる神、子なる神、聖霊なる神という三位一体となって現われるところであります。それ故に、非常に大切な所と言っていいでしょう。
17節で、「天からこう告げる声を聞こえた」そしてそれは、『これは、わたしの愛する子』という部分、これは、詩篇2篇7節の言葉から来ておりまして、そこには、こう書かれているのであります。 「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。 『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言う言葉であります。
この詩篇は、メシヤが王として就任する事に関して語られた言葉であります。 ここにあります「わたしがあなたを生んだ」というのは、詩的な表現でありまして、文字通り生んだということではありません。
時々、キリスト教に興味を持った方が、ここから、生んだというのであれば、父が先に存在し、あとから子が出来た。では、時間的な差は、どれくらいあるのかと聞かれます。そこで私は聖書は永遠の初めからのことを語っていますので、そして私たち人間にとって考えるような差は無いんですよ。永遠の先からどちらもおられたんですよと答えている訳ですが、引っかかる人は、ずっと納得されない様子であります。
生んだという言葉にしましても、生むには母親がいるだろう。母親がいないのはどうした事かとも言われます。私たち人間と同じように、家族的に考えますと、決して理解できる事ではありません。
ですからもう一度申し上げますけれども、「わたしがあなたを生んだ」というのは、詩的な表現であり、メシヤを王として就任させた時の、神とメシヤとの親密な関係を指した言葉なのであります。
従って、父なる神がイエス様に向かって「これは、わたしの愛する子」と言われたのは、イエス様が王であるメシヤであり、愛すべき子なる神である、とそのように宣言された事になるのであります。更には「わたしはこれを喜ぶ」とでていますのは、イザヤ42:1から来ている言葉なのであります。そこには、こう書いてあります。
「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」と書いてあります。イザヤの言葉は、「苦難のしもべ」に関する部分にあり、イエス様が十字架の苦難を受けられ、罪人の救いを成し遂げる者として選ばれたことを意味しています。しかも、旧約において預言された、王としもべという全く対照的なメシヤの姿が、ここで一つに結び付けられているのであります。 これによりまして、旧約の預言がイエス様において成就することが示されるのであります。
イザヤ書53章には、苦難のしもべの姿がはっきりと書かれています。 イエス様は、今、この時点でバプテスマを受けられ、二つの事が明らかにされています。その一つが、イエス様は神によって選ばれた者であるということ、 もう一つは、イエス様の前には十字架があるということ、 苦難の道があると言う事であります。
イエス様は、これから公の働きをなさいますが、私たちと同じ人間の姿をとられ、 しかし、同時にイエス様は単なる人間ではなく、神様から遣わされたメシヤであることも示されるのであります。私達は、マタイの福音書の始めの部分を読むに当たってこのことをしっかりと捉えて読むことが求められるのです。
もし、このことが分からなければ、いつでもパリサイ人やサドカイ人、あるいは、律法学者の立場をとり、イエス様がされる事の全てに、いいがかりをつけ、神を見ることは出来ません。
キリスト者にされた私達は、その事をしっかりとわきまえ、聖書を私たちが読んでいくその所々で、神様が何を語りかけておられるか、正しく聞き取りたいものです。 また、まだ信仰をもっておられない方々は、この福音書の1章からこの3章までをもう一度読んでくださり、旧約と新約とは一つに繋がったものであり、イエスがキリスト、つまりメシヤであり、その道の第一歩を今始められた、ということを知っていただきたいものです。
2009年5月31日(日) 「誘惑に会う」 マタイ4:1-11 竹口牧師
先回の所で父なる神様は、イエス様に向かってこう言われました。 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とでありました。 これは、イエス様が公の生涯に入られる時に、まず初めにバプテスマを受けられた時の事であります。
さあ、これから、父なる神様から遣わされたわたしイエスは、子としての働きをしなければと使命に燃えて、人々の所に行かれた、と言うのではありません。 きょうの一番初めの所を見ていただきますと分かりますように、 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」のでありました。
神のみ子であるイエス様が、バプテスマの次に会われたのは、試練の道でありました。 これから十字架への道を進まれるその第一歩が、試練の道であった。これは、私たちがよく心に留めておかなければならない事であります。
個人的な事を申し上げますと、私は、いろんな不安や悩みの中から、この同じ福音書の中にあります11:28のお言葉、「すべて、疲れた人、重荷をおっている人は私のところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます」とのみ言葉に導かれて、救いをいただき、本当に心からの安らぎを頂いた者の一人であります。
しかし、その安らぎがずっと続いたかと言いますと、決してそうではありませんでした。信じて後、また新しい試練がやってきたのでありました。そこで私は思ったわけであります。信仰をもったら、全てがうまくいく。心配が無い。苦労がなくなる。そういうことは無いのだなぁ・・・、とであります。
今のこの年齢になってから言える事ですけれども、考えてみますと、聖書に出てくる預言者、神様に用いられた人、そういう人たちは、みんな命の危険を冒して働いてきた事がよく分かります。しかし、救われた当初は私には全く分かりませんでした。
ですから、信仰が与えられたのに、なぜこんなに悩まなくてはいけないのか、 いっそのこと信仰など捨てたほうがいいのではないか、そこまで思ったものでした。 今から考えれば非常に危険な状態であったわけでありました。
ところで、聖書の話に戻りまして、イエス様は、バプテスマを受けられた後どうされたかと言いますと、御霊に導かれて荒野に上って行かれたとあるのであります。 「御霊に導かれて」ですよ。 しかも荒野に、であります。
どうして御霊様は、荒野にイエス様を導かなければならなかったのか、普通に考えますと、分からないのであります。そして考え着くのが、神様は決して無駄な事はされないという事です。イエス様が、これから十字架への道を歩もうとされる時に、どうしても、この試練の道は通っておく必要があった、だから、御霊様はそのように導かれたのでありました。
そういう意味では、私たちが何かの試練にあっているなら、それは、今後に備えるために必要な事と神様がお考えである、そのように捉えるべきでありましょう。
ところでイエス様はまず、荒野に導かれて何をされたかと言いますと、40日40夜断食をされたというのであります。
ここでまた私の個人的なことを申し上げなければならないのですが、 ある時、非常に体調を崩しまして、精神的にダメージを受け、これはもう、断食でもして直さなければ直らないのではないか、そのように思った事がありました。そして、断食道場のようなものの資料に目を通してびっくり!それは、それは、たいへんな手順でありました。そうしないと命の危険を伴なう行為だからであります。
少しずつ食べ物を減らし、そして食を断つ。そしてまた回復の時には、胃に負担にならないように少しずつまた増やしていく。それこそ、専門家がついていないと非常に危険な事を知ったのであります。
一日3食抜くなど、断食に入りません。 食事時に食べなくて間食するなどというのはもってのほかであります。 しかし、イエス様は、40日40夜されたというのであります。 イエス様は、人でありながら私たち以上の能力を発揮された、という事はいえるでしょう。
とはいえ人でありますから当然ながら空腹を覚えられたのでありました。そして、そこへ試みるものがやって来ました。ある本によりますと、この「試みる者」という「試み」とは、二つの意味があるそうです。
その一つは、人間が真に信仰を持って従うかどうかを神が試みる事で、しばしば「試練」といわれるもの。たとえば、神は私たちに苦難や迫害に遭わせることによって、その信仰が本物であるかどうかを試される、これが「試練」だそうです。
二つ目は、悪魔の試練に誘う事で「誘惑」と呼ばれるものです。 アダムとエバが蛇に誘惑されたことが典型的な例だそうです。 そして、今回の所は後者のほうで、イエス様のメシヤ失格を狙った悪魔の誘惑であったといいます。
まあ、1,5,8,11節をご覧になりますと、「悪魔」とありますので、容易に悪魔が誘惑した事が分かるのであります。しかしこの時のイエス様の受けられた事は、悪魔の誘惑と共に試練としての意味も十分に持っていたともいえます。
神様の支配下にある悪魔が、イエス様に戦いを挑み、敗退するという結末であるわけであります。しかし、その内容たるや、大変重いもの、私たち人間であるなら、思わず手が出そうな、そんな魅力ある言葉巧みに、悪魔は誘いをかけるのであります。 この世のどれだけ多くの人が、この誘惑にひっかかって、敗れたかを思わずにはおれないのであります。
まず一つ目が3節であります。 「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」です。 断食をしているものにとって、これは非常にきつい言葉であります。 実際の所、私は一度も断食なるものをした事はないのですが、何日するかは別としまして、最初の3日とか1週間は、やはり大変なようであります。
しかし又、空腹に慣れて、食欲が完全に無くなりますと、これまた危険でありまして、やはり食べたいという意欲は無くなってはならないのであります。 そして、そういう中でイエス様は、悪魔の試みを受けられたのでありました。
イエス様は、悪魔の言葉に対して、何を持って答えられたか、それは、空腹を紛らわす為の悪魔をのろう言葉ではありませんでした。御言葉をもって答えられた。ここに私たちが見習うべき姿があるのであります。
こんなに苦しい目に遭うのだったら、信仰なんてどうでもいい。 はやく美味しいものを腹いっぱい食べて満足したいというのではなく、 「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と答えられたのでした。
この『人はパンだけで生きるのではない』という言葉は、信仰者でなくても、一般的にもよく使われます。その本当の所の意味を知ってであるかどうか分かりません。 しかし、私たち信仰者であっても、その本当の意味する所を知っていませんと、 後半に書いてあります「神の口から出る一つ一つのことばによる」が、うそになるのであります。
必要が満たされ、食べるに苦労しない。仕事はある。そのような時のこの御言葉の本当の意味は、ある意味では、表面的に捉らえているとも言えるかも知れません。 と言いますのは、会社の雲行きが悪くなってきた。給料も遅配になりがち。ローンは溜まっている。さあどうしよう。こういう状況を想像してみてください。こういう時こそ、本当に信仰が問われるのであります。
信仰なんて、どうでもいい。何しろ食べられなくては生きていけない。 仕事が見つかり、働けて、食べられるようにまずなってから。 そうなったら教会に行こう。そういう人がおられるからです。
こういう人は、まだ、この4節のイエス様のお言葉を正しく理解していないのであります。いいえ、イエス様は聖書より引用されたのですから、聖書自身を正しく理解していない事になります。この言葉は申命記8:3から来た言葉でありまして、その前後にはこう書いてあるのであります。2節からお読みしますが。
「8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、 あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、 あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。 それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」
とありまして、このようにイスラエルの食べ物が満たされている時の言葉ではなく、むしろ欠乏している時の言葉であり、ですから、その事を考えれば、その言葉の意味が分かってくる。本物の信仰かどうかが問われている時のことばなのであります。 どんな時であっても主に頼る。主に信頼する事無くして必要は与えられないのであります。
さて、悪魔は第一の質問に敗れましたので、第二問目の挑戦をします。5節6節 「すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、 言った。『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。{神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。}と書いてある。』」
今度は、神様は全能のお方である、ということでの挑戦であります。 「神様にはどんな事でもおできになる。だから、あなたが神の子ならなおのこと、あなたを守られるはずだ。やってみてごらん!」と言う具合でしょう。
5節にあります「聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて」というのが、どこを指しているのか正しくは分からないのですが、一つの説では、エルサレム神殿の城壁の南東の隅と言われています。この城壁は、キデロンの谷を見下ろす位置にありますので、確かに下を見下ろすならば、相当こわい所である事は確かです。
ここで、私たちが注意をしなければならないのは、主権は誰にあるのか。どこにあるのかであります。この主権のある位置を多くの人は勘違いしているのであります。そして、ぜんぜん、その間違いに気付いていません。
主権は、誰にあるのでしょうか。 それはいうまでも無く、真の神様にあるのであります。 どこにあるのでしょうか。 これもまた言うまでもない事であります。真の神様が握っておられるのであります。 それにも関わらず、あたかも人間が握っているかのごとく考え、行動するのであります。
そうしておいて、神様は私の願いを聞いて下さらなかったと言います。 神様は、私が願ったのであるから聞くべきだといわんばかりです。 これでは、神様は人間の奴隷か、もしくはしもべであります。
実際はそうではないはずです。 私たちは、神様によって創られた存在なのです。 そして神様の御用の為に、私達が仕えなければならない立場なのです。 とするなら、私たちは自分の都合によって、神様に願いをし、聞かれなかったからと言って不平を言う事は、間違っていると言うのが正しいのです。
しかし、世の中そうではありませんね。 偶像の神々を造り、自分達のしもべのように、商売繁盛、家内安全、無病息災、それぞれに役割を分担させ、こちらは商売の神様、こちらは、安産の神様、こちらは縁結びの神様。というように八百万の神がいると信じられているのであります。
イエス様は、はっきりと主権はどこにあるか、誰がお持ちかを、悪魔に対して言われるのであります。7節「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」 イエス様が神殿の頂から飛び降りるなら、自ら危険な状況を作り出し、神の助けを要求することになる。そのように神を自分の思い通りに動かそうとするなら、それこそ神の主権を侵すことになる。
それゆえにイエス様は悪魔の誘いにのらず、神の主権に自らをゆだねることが信頼の基本であるとして、申命記6:16の御言葉をもって答えられたのでした。
これは、出エジプト記17章に出てきますレフィディムにおいて、飲む水が無くて民たちがモーセを殺そうとした場面の事であります。民たちは飲む水を求めてこう叫んでおります。
「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。 私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
確かに荒野の旅はイスラエルにとって大変であった事でしょう。 しかし、そのような中にあっても、主権者は誰なのかを、主は強く教えられたのでありました。これは、信仰者の一人として私も今一度、確認しなければならない真理であります。 7節で言われた『あなたの神である主を試みてはならない。』と言う言葉は、とても大切である事を教えられるのであります。
3つ目の誘惑は、実に魅力的なものでありました。 8節9節にこうあります。 「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』」
悪魔はここに至っては露骨に挑戦しております。 地上の王国の魅力的な繁栄をイエスに見せていうのです。 「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」とです。
実際の所、この地球上の一番高い所に登っても、世界の全てを見渡せるわけではありません。ですから、ある人は恐らく映像的に見せたのではないかと言います。 まあ、映像にしろ、華やかな一部分を魅力的に見せたとしても、それでイエス様の心が変わった訳ではありません。
皆さんでしたら、どうでしょうか。 そんなに贅沢しなくても言いから、今よりちょっとでもよくなれば良いから、 もしなれたらいいなあと言う思いはお持ちではないでしょうか。
小さな幸せでも、大きな夢でも、自分中心の思い、それが、あなたの心を支配しているとするなら、それはもう悪魔の虜になっていると言っても言い過ぎではありません。 そして、悪魔のいう「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言う言葉に、簡単に乗ってしまうのであります。
別に一度平伏したからと言ってどうってことはない。 世界が、否世界でなくても、少しでも良い生活ができればそれでいい。 と、そう思ったとしたら、悪魔の思う壺であります。 こうして、悪魔は人を罪に引きずり込むのであります。 最初の人間、アダムとエバの犯した罪が、それを如実に表しております。 大きな罪ではない。園の中央にある木の実をたった一つ食べるだけではないか。 そんな事はたいした事ではない。
ところがどっこい、その罪が現在まで続いているのであります。 この世の富と権力を手にしようと、多くの独裁者が生まれては消えていきました。 実に魅力的ではありますが、人間には非常に危険なものなのです。
イエス様は毅然とした態度で言われました。 10節「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」まさにその通りであります。
神様が私たちを造ってくださり、その造られた私たちは、絶対的主権を持っておられる真の神様にお従いするだけなのです。イエス様は、人としての歩みを始められ、まず、その人間としての立場を神様のみ前に明確にされたのでした。私たち信仰者一人一人もまた、神様のみ前にお仕えする身である事を今一度確認しようではありませんか。
お分かりのように、イエス様は悪魔に対して御言葉を用いられました。 それも正しく用いられたのでした。 私たちもまた、御言葉をより多く覚え、いざと言う時、正しく御言葉をもって対処していきたいものであります。
11節には「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」とあります。確かに悪魔はこの時イエス様から離れていきましたが、二度と試みを受けるようなことはなかったということではありません。(16:23)。
ですから、私たちもまた絶えず、そういう危険にあるわけです。 従って、悪魔に勝利されたイエス様に信頼して、私達はこれからも歩ませていただきたいものです。
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