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2009年7月5日(日) 「招かれたイエス」  マタイ4:18−25  竹口牧師

先回の所で私達は、イエス様が伝道の拠点をエルサレムではなく、ガリラヤの湖のほとりにあるカペナウムにされたのを見ました。それはまた、預言者イザヤが預言していたことの成就であったと、そのようにマタイは書いておりました。

そして今回見ます所は、これから本格的な宣教活動をされるために、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩かれて、弟子を募られる場面であります。そして弟子は一人、また一人と加えられていくのでありますが、その加えられ方を見たいと思うのであります。

が、その前にルカの福音書5章を見ていただきたいのです。そこには、これから弟子となるペテロやアンデレがどのような手順で聞き従ったのかが分かるからであります。
そのためにルカ5章を少しだけ読んでおく事に致します。頁で言いますと106ページの下の段に当たります。

「群衆がイエスに押し迫るようにして神の言葉を聞いた時、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、(ゲネサレとは、ガリラヤ湖のことであります)
2節 岸辺に小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3節 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。(この教えられたと言う事に注目しておいて下さい。)
4節、 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」
(捕れなかった魚が捕れた事を覚えておいて下さい。)

まあ、そこまでにしておきます。
で、ここには、アンデレのことは書かれていないのですが、おそらくアンデレも入っていた事でしょう。そしてシモン・ペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエス様に従っていくことになるのであります。

この点をしっかりと捉えていてくださって、きょうの聖書個所、マタイ4章19節に戻っていただきますとある点に気付かされるのであります。それは、彼らは、イエス様の事を何も知らないで、いきなり19節の「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」という言葉に、従ったのではない、ということであります。

彼らがイエス様のお言葉に従うには、今読みましたルカ5章の事があって、従ったということであります。つまり、彼らはイエス様の話をよく聞き、そしてまたイエス様のなさった業をよく見て、そしてイエスの招きに従ったと言う事です。

これは、ものの順序としてとても大切な点であります。
もし、私達が誰かの誘いに従う時、初めての人に、そして何の疑いもなく従うとするなら、それはとんでもない恐ろしい事であります。

言うまでもない事ですが振り込め詐欺のような、手の込んだやり方に、多くの人が手を焼き、騙されつづけている、そのような現代では、私達は非常に残念ですが、とても疑い深い、人間不信というものに陥っている。そういう現代だからこそ、私がこの朝、聞いて、そして見て、従う事を強調しているわけではありません。

ペテロ達がイエス様に従った過程には、その時代に今言いましたように、イエス様のお言葉を聞き、見て、従った。それが、今の時代にも必要な大切な原則だからであります。現代のように、信じられない時代では、そんなこと言われなくてもちゃんとしているとお思いの方もおられましょう。しかし、その自信が実は怖いのであります。

振り込め詐欺の例で申し上げるなら、騙されてもいいから振り込ませてくれ、と言って、振り込んだ人がいるとも聞いております。こうなったら、もう悲劇としか言い様がありません。ですから、ここで私どもは確認しておきたい事は繰り返しますが、よく聞いて、よく見て、そして従うと言う事であります。弟子になった彼らはそうした、と言う事実に目を留めていただきたいのです。

次に、きょうのところで第二番目に注目させられます事は、
20節にありますように、彼らはすぐに網を捨てて従ったという点です。
私達は、イエス様から何かを命じられた時、お断りする理由と言うのは、いくつでも探し出す事が出来ます。

私は長男で、両親を最後まで看取らなければなりませんからとか、今、私は会社の中で重要な部分を担っていて、私がいなければ会社は潰れ、社員だけでなく、社員の家族さえも巻き込んで路頭に迷わせることになるのですとか、
私がイエス様にお従いして何が出来ましょう。私には何も出来ないのです。否、できる賜物がないのです、という風に、です。
今すぐではなくても、もう少し後でお従いします、とかいって、引き延ばす理由もいくらでもあります。きょうはダメ。明日なら大丈夫。今年はダメ、来年なら大丈夫というように、です。

ルカの福音書からもう一度、別の個所の話を引用しますが、まあここではお聞きくださるだけで結構ですが、ルカ14章でイエス様が例え話をしておられます。
ある人が盛大な宴会を催す為に招いたけれども断った例です(18-20)。
その断った理由というのがこんなものです。

最初の人はこう言いました。
『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
もうひとりはこう言いました。
『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
また、別の人はこう言いました。
『結婚したので、行くことができません。』とであります。

これら3人が断ったのは、盛大な宴会ですからこの日この時を逃しては、招きには応じられないのですが、一方、イエス様の招きの場合、その日、その時が過ぎても、イエス様のお言葉に従おうと思えば、従えない事はありません。

しかし、考えてみてください。
イエス様にお従いするチャンス、時と言うのは、そう、いつでもあるわけではないのです。だから、福音書を読んでいて気付かされますのは、イエス様のお名前を聞いた時、イエス様が、どこそこにおられると病人が聞きますと、この時とばかりに、それこそ、狂ったように叫び求めるのであります。

それは、神様の備えてくださった時というものが、次にはいつ訪れるかわからないからです。それ故に、イエス様が招いてくださった時が、最善の時なのです。

弟子たちは、イエス様のお話を湖のほとりで聞いた。魚が捕れなかったのに、大量に捕れると言う奇跡も見た。もはや、この時に従わずして、いつ従う決心が付きましょうか。「彼らはすぐに網を捨てて従った」のでありました。22節では、「舟も父も残してイエスに従った」とあるのです。

自分の生活のための大切な用具である舟。
それに、家族である父親を残してイエス様に従ったとあるのです。
これは、よほどのことでないと出来ません。
イエス様に従って、これから先、どうやって食べていこうか。
と、そんな事を考えていたら、従う事などできるはずもありません。
しかし、彼らは従ったのでした。それも、「すぐに」であります。

この「すぐに」ということばは、非常に大切です。
多くの人が悩んでいるその悩みの中の一つには、決断力のないことが上げられるでしょう。右がいいか左がいいか。上がいいのか下がいいのか。あの人のアドバイスがいいのか、この人のアドバイスがいいのか。あの会社がいいのか、この会社がいいのか。
私達は悩むわけです。

十分なデータがないままに悩みます。同じ事を繰り返し考えるわけです。
一方、十分なデータがありすぎてもまた悩むのです。こちらは、この点がいいけれども、あちらは、別の点がよい。さあ、どっちがいいかと考え、そうやって時間をいくらでも使うのです。悩みつづけるのであります。

で、結論から言いますと、判断がつかないような場合は、どちらを選んでも、そう大きな差はないことが殆どでしょう。勿論、社会的な地位によっては、違いますけれども。
たとえば、一国の総理ともなれば、国益を大きく左右します。しかし、幸な事に、私達はそんなに大きな責任を任されていません。ですから、極めて個人的であります。

そしてその個人的な選択で、悪く行ったなら、選択を間違えたと思うかもしれませんが、そうではなく、選んだほうをこれが最善だと信じて、頑張らなかっただけの事であって、別を選んでもあまり変わりはないでしょう。差がない選択は、どちらを選んでも、結果の差はないのです。

しかし私達はそれでも、あちらがいいか、こちらがいいか悩むのです。
でも冷静に考えますと、それは無駄である事がお分かりでしょう。
人生で、最も大切な選択、決断があるとするなら、それは、たった一つだけであります。自分は、どこに行こうとしているのか、です。

目指す所が間違っていますと、行き着くところも間違いであり、それはまた、後悔しながらの人生の幕引きとなります。神様が、その幕を引いてくださるのです。

この世では、さまざまな決断に迫られます。その時に、何を基準に、何を求めて決断するか、それが大きくかかってくるのであります。弟子たちの、このときした決断は、彼らの人生の方向を決定的なものとしました。それは、イエス様と人生の苦楽を共にする始まりでありました。それは、殉教への道でもありました。

そんな恐ろしい道に行きたくないとお思いでしょうか。
不思議な事に、恐ろしい道であるはずなのに、今もイエス・キリストのしてくださった愛の業に感謝し、従う人が増えているのです。イエス様と共に歩みたいと願って、イエス様の招きに従っている人が大勢いるのです。

あなたも、きょう、イエス様に招かれている、その事を知っていただきたいのです。
そしてその招きに直ぐに従って欲しいものです。

一方、イエス様の招きに従って歩んでいる方々は、イエス様の素晴らしさをもっともっと知っていただきたいのです。イエス様の素晴らしさが分かれば分かるほど、お従いして良かったという感謝と喜びが与えられるからです。

さて、この朝、第三番目に申し上げたい事は、そのイエス様の素晴らしさであります。
それが、23-25節に書かれております。もう一度読んでおきます。
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」以上です。

ここを読んでお分かりのように、イエス様の噂は、瞬く間にガリラヤ全土、シリヤ全体に広まったと言う事であります。それ程、イエス様の働きはものすごいものがあったという事でしょう。

ものの本によりますと、当時の礼拝は三部に分かれていて、一部は祈祷、二部は律法の書と預言の書の朗読で会衆が参加、そして三部が説話と呼ばれるものでした。そして、この説話と呼ばれるものは、一人の人が専門で説教をしたのではなく、誰でも有名な人がくれば、話が依頼されたそうであります。そしてその依頼をする人が、会堂管理者でありました。

ですから、イエス様のように、多くの人に知られますと、イエス様の行かれる所どこででもイエス様は話す事が出来たわけです。イエス様は単に語るだけでなく、多くの人を癒されたものですから、当然ながら、イエス様の行かれる所はどこかが予測され、イエス様の行かれる所どこででも、大勢の人が集まったのでした。

イエス様は、あらゆる病気を癒されました。そして、そういうイエス様に多くの人がつき従ったのでした。弟子たちは、そのイエス様の姿をそばでずっと見ながら、これからすべき事を学んでいくのであります。

ところで、最後に一つの伝説を紹介して終わりたいと思いますが、
しかも、これまでの話では、イエス様が人々を招かれていたのですが、
この伝説は、イエス様が招かれたという話であります。
それはこういう話です。

エデッサにアブガルという名前の王様がいた。
この王が病気になったのでイエスに次のような手紙を書き送った。
「エデッサの王アブガルは、エルサレムにある最も尊い救い主、イエスに挨拶を送ります。私はあなたの噂を聞き、あなたが薬品や薬草を使わないで病気を治しておられると聞いています。
あなたは盲人の目を開き、半身不随者を歩かせ・・・慢性の病気をなおし、死人を甦らせるとの事です。わたしはあなたが天から降って来られた神なのでこのようなことができるのか、あるいは、このようなことをされるので神の子であるのか、どちらかであるに違いないと思っています。

そこであなたにお願いします。
どうか来て、私が今苦しんでいる病気を治してください。聞くところによると、ユダヤ人があなたに対してつぶやき、色々悪い事を計画しているとのことです。
私の町は小さいですが、大変住み良く、二人のために広さも十分です。」

これに対してイエスは、次のような返事を書かれたといわれている。
「わたしを見ないで信じるあなたは幸です。私を見た者は信ぜず、私を見ないもの者は、信じて救われると書いてある通りです。さて、あなたの所に来るようにとのお招きですが、私はまず、遣わされた使命を果たした後、私を遣わされた方の許にあげられることになっています。しかし、私が天に挙げられた後、私は、私の弟の一人を遣わしてあなたの病気を治し、あなたとあなたの家族に生命を与えましょう」

この伝説によるとタダイはエデッサに行ってアブガルを直したという。
これは、単なる伝説に過ぎないが、一つの事を表している。
それは、みながイエスを信じたので、遠くのシリヤの人たちも噂を聞いて、イエスだけが与える事ができる助けと癒しを、真剣に求めに来たという事である。」以上であります。

こういう伝説ができるくらいに、イエス様のお働きには、宣教を始められた時からものすごかったと言えましょう。そしてこんにち、私どもの所まで福音が届いた所以が分かるような気が致します。

弟子たちは、聞いて、そしてイエス様の業を見て、弟子となりました。そして直ぐに従いました。ガリラヤ全土、シリヤ全体へと広がりました。
私たちは、そのイエス様の弟子とされている事に感謝と誇りと、光栄を覚え、イエス様を救い主と信じさせていただいている事を感謝しようではありませんか。

あるいはまた、まだ信じておられない方は、イエス様とはどういうお方か、どうぞ調べていただきたい。そして知っていただきたい。そして信じていただきたい。イエス様の招きに応じていただきたい。そう願っております。

イエス様を信じている方も、また求めておられる方も、イエス様が求めておられることは、イエス様のもとに来るようにということ、そして、身体も魂も健康であるようにということです。そのイエス様のもとにここにおられる全員がいる。そうありたいものです。



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