2009年8月9日(日) 「祝福の到来」 マタイ5:1−12 竹口牧師
きょうから有名な山上の説教を学ぶことになります。 この山上の説教は、長い説教でありまして、8章1節でイエス様が山を下りられるまで、 何と5章から7章まで3章にまでわたっております。
説教の長さから、これは一度の説教ではないであろう、という先生もおられ、マタイがイエス様の公生涯の中で、折に触れて語られた言葉をあとで一括編集したのではないか、そのように言う人もおります。
しかしまあ、3章全部を通して読みましても、1時間もかかりませんし、イエス様が召天された後で信仰者となるパウロは、第3回伝道旅行の時、トロアスで次に行くのに時間があるというので、夜中まで語り続けて、ついには聴いている人の一人が眠気をもよおし、3階から落ちたという話が使徒の働き20:7以下にでておりますので、それに比べたなら、それほどは、イエス様のお話は長くはなかったと思われます。
しかし、その内容たるや、ゆっくり、じっくり考えて読まなければならない、意味の深い話をイエス様はしておられるのであります。今回私達は、そのほんの一部分をかいつまんで見ていく事になります。では早速見てまいりたいと思います。
きょうの5章の1節を見ますと、「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。」とあるのですが、どこの山かは書いてありませんので分かりません。しかし、イスラエルに行きますと、イエス様は、このあたりで話されただろうと言われている所があります。そこには、1938年に建てられたという美しい8角堂のフランシスコ会教会があるのであります。
その山からは、ガリラヤ湖の美しい景色を見渡すことの出来る、素晴らしいところであります。春には、湖畔への斜面に美しい花々が咲き乱れ、とても美しいのだそうです。 私は残念ながら、真夏に行きましたので、花は見ることが出来ませんでしたが、緑のあるなだらかな山でした。
ところで、今みました1節には、イエス様は山に登られ、お座りになったとあるのですが、その当時、ユダヤのラビが正式に教える時には座って教えたそうです。 最近の若者は、所かまわず座る、マナーの悪さといいますか、そういう声をよく耳にするのですが、イエス様の場合、今言いましたように、当時のユダヤの習慣に従って、 座られたわけでありました。更に2節を見ますと、「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」とあります。
が、私達が誰かに何かを話そうとしますと、どうしても口を開かなければ話せないので、当然な事を書いてある、そのように思えるのです。 ですから、どうしてこういう分かりきったことをマタイは書いたのか、 疑問を持たれる人もありましょう。しかしこれもまた「口を開き」と言う事には 意味があるようでありまして、それは、美しく間接的に言ったのではないとある注解書にはあります。そして、二つの点が取り上げられております。
その一つは、厳粛な、真剣な、権威ある発言であるというものです。 たとえば、託宣を述べる場合などに使われ、重みのある言葉、という意味になるのだそうです。もう一つは、人が心を開いて、思っていることをみな披瀝する時に使われる。 それは、心と心の触れあいの中で親しく教えるという意味で、この言葉が使ってあるのは、山上の内容の教えが、ただその場限りの教えではなく、大事なことが真剣に、厳粛に話されていることを意味している、そのようにある本にはありました。そういう意味で、真剣に、これからイエス様の話された言葉に私達も、耳を傾けたいと思うのであります。
さて、今回見ます範囲の中で3節から10節までは、共通の構文になっております。 原語ではいずれも「幸いです」(マカリオイ)という幸福の宣言が一番初めに来ております。次に「・・・者は」という幸福の条件が示され、最後に「・・・だからです」という幸福の理由が述べられております。
その当時、ローマ帝国の圧政のもとに高い税金などで苦しんでいた人たちにとって、最初が「幸いです」という始まり方は、人々の心を引き付けたに違いないのであります。 老若男女を問わず、身分の高低を問わず、多くの人が幸せを求めていたと言うのは、 外国の支配下にない私達でも同じでありますから、まして、外国に支配されていればなおのことであります。
ですから、イエス様の話されるこれからのお言葉は、現代の私達にも十分通じるものがあるのであります。しかしながら、ちょっと読んでみて、皆さんお気づきのように、イエス様の話しておられることは、不思議な言葉ばかりなのです。 少し頭をやわらかくして聞かないと、疑問で終わってしまい、イエス様の話された意図が理解できないのであります。それではまず3節から具体的に見て行くことにいたします。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」とあります。 ここに、心の貧しい者は幸いです、とあります。 これなども、心の豊かなほうが幸いだと私達は思いやすいものです。 でも、そこをイエス様はあえて、そういわれないところに、深い意味があったわけでありました。
この貧しいという言葉は、ヘブル語では4つの段階を通して、意味が変化してきたと言われます。最初は、単に「貧しい」と言う意味であったそうです。それが二番目には、「貧しいゆえに」、勢力も権力も援助も、名誉もないという意味になり、第三番目は、やがて「勢力がないゆえに、他人から踏みつけられ、圧迫される」と言う意味に変化し、第4番目の最後は、「この世から完全に見放されて、すべての希望を神にかける人」というようになったそうです。
そこで、「貧しい」というヘブル語は、ただひたすらに神により頼む卑賤(ひせん)な無力な人を意味していた。ですから、詩篇などに出てくる貧しい人というのは、こうした意味で神に近い、神に喜ばれる人のことであるといわれます。因みに詩篇には、貧しいと言うのはこのような使い方をされています。
詩篇9:18 「貧しい者は決して忘れられない。」 詩篇72:4 「彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。」 詩篇132:15「わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。」と言う風に、です。
つまり、「心の貧しい者」とは、自らに頼る者は何もない者、そのような人は、ただひたすら神様により頼むしかない。そのような人は、この世が見たなら、それは真に哀れです。しかし、神さまはそのような者に目を留められ、祝福してくださるとイエス様は言われるのです。無条件で、イエス様に頼る者に、無条件で受け入れてくださるのです。何という素晴らしいお言葉でしょうか。
次に4節には「悲しむ者は幸いです」とあります。 この「悲しむ」と言う言葉は、ギリシャ語の中では、悲しさを表す一番強い言葉といわれます。これは、死んだ人を悼み、愛する者を慕って狂うばかりに嘆く場合に用いられるそうです。
旧約で言いますと、創世記に出てきますヤコブが、自分の息子ヨセフが死んだものと思い、嘆き悲しんだ。その時に使われています(創世記37:34)。この悲しみは、抑えても涙が出てくる種類のものであります。それがなぜ幸いなのかと言いますと、一つは、何にもまして人の情けをしみじみと感じさせる。もう一つは、神の慰めと憐れみが何にもかえられないことを知らせる。
そして、この二つの意味以上に大切な教えは、「自分の罪と自分の無価値を、絶望するほどに悲しむ者は幸いである」ということであります。 自分の罪を悲しまなければ悔い改めることは出来ません。 人間が本当に変えられる時というのは、自分勝手な歩みをしていて、それがどんな結果を招くか、考えても見なかった者が、事の重大さを知らされ、十字架を仰ぎ見るとき、そこからくる慰めをいただくことが出来る。自分の罪を深く悲しむ者、神とイエス・キリストに対してなした罪のわざを思って嘆き悲しむ者、十字架を見上げ、罪のもたらした滅亡に恐れおののく者、その人が幸いなのです。そのような人こそが、神様から慰めを受けるからです。
更に6節では、「柔和な者は幸いです」とあります。 この柔和と言うのは少し難しいようです。 アリストテレスは、全ての徳は、両極端の中庸にあると言うそうです。 一方の極には過剰があり、他の極には欠乏があり、その中間に中庸がある。 一方では浪費者があり、他方では守銭奴があり、その中間に寛容な人がいるというように、であります。 一方では過剰な怒りであり、他方では行き過ぎたおとなしさ。その中間です。
怒るべき時に怒り、怒るべき時でない時に怒らない。 これが理想でありますが、なかなかそうはいかない。 どういうときに怒るべきか、どういうときに怒ってはならないか。 そこがなかなか難しいのであります。
ある人は、自分に対する侮辱や損害については怒らないといいます。 クリスチャンを怒ってはならない。 しかし自分ではなく他人が傷つけられた時には怒らなければならない。 まあ、このようにして具体的な例を挙げながら、結論として、
ある人はこう言います。 怒るべき時に怒り、怒るべきでない時に怒らない人。 神の支配を受けているために、全ての本能、衝動、激情を抑圧することの出来る人、 自分の無知と弱さとを知っている謙遜な人、その人こそ幸いである。 その人は、人の間にあって王であるからである、とです。
そんなこと、なかなか難しいことであります。 しかし、神様に頼る者に不可能はありませんので、それ故に希望があるのです。
次に6節、「義に飢え乾いている者は幸いです」とあります。 この場合の「飢え渇き」というのは、並みの事を言ってはいません。 それこそ、飢え渇いて死のうとする人が食物を求めるような、あるいは、渇いて死のうとする人が水を求めるような、そんな激しさ、完全な義を慕い求める人は幸いである。 その人は本当の満足を得ることが出来るからですと言われます。
殆どの人がそうではない故に、そうイエス様は言われたのでした。 7節には「あわれみ深い者は幸いです」とあります。 新約聖書の中にも「あわれみ」については、ヤコブ書(2:13)でも、またこのマタイの6章14-15節に出ていますし、18章にもでております。
あわれみを行なわなかった者、兄弟を赦さなかった者、負債のある者を赦さなかった者というようにいろいろな例があります。しかし、この山上の教えには、それ以上の教えがあるといわれます。相手を気の毒に思うだけでなく、真剣に努力して相手と一体になる、ということです。
そしてそれをつきつめて考えれば、イエス様こそがそれをして下さった。 神がイエス様においてされたことである。イエス・キリストにおいて、神は真実の意味で、人間の体の中に入ってこられた。イエス・キリストは、人となって来られ、人間の目で見、人間の情で感じ、人間の心で考えられた。神が人間の生活を知っておられるのは、ご自身が人間の生活のただなかに入ってこられたからである、そのように言う人がいます。
神様は、全知全能のお方であるということを知っていてもなお、イエス様がこの地上に来てくださったことは、説得力があります。
次に8節の「心のきよい者は幸です」と言う部分ですが、 この「きよい」という言葉は、ギリシャ語では三つの意味があると言われます。 一つは、単に清潔を意味します。二つ目は、脱穀され、もみがらを取り去られた穀物を意味します。同じ意味で、兵卒の中から、不服な者、不精な者、臆病な者などなど、そういう者を取り除いた精鋭なる兵からなる戦力をあらわす。そして三つ目は、混ざり物のない、水で薄められていない、混合物のないという意味がある。
そこからある人はこういう風に訳せると言います。 動機が常に純粋である人は幸である。その人は神をみるであろう、と言う風に、であります。非常に立派な行為であっても、その動機が絶対的に純粋であると言う場合は殆どない。
たとえば、何か有益な事のために、お金を惜しみなく喜んで出したとしても、心の底には、自分が良い事をしたという満足感、あるいは人から誉められ、感謝され、信用される快感が潜んでいる。
それだけに、このイエス様の教えは、最も厳密に自分自身を吟味する必要があるといわれます。見返りを要求しない、無償の行為である必要がありますが、なかなか、それが難しいのが現実であり、それ故に又イエス様は、その人は神を見ると言われるのであります。
次に9節の「平和をつくる者は幸です」とありますが、 平和と言う言葉は、へブル語の平和には否定的な意味がないそうです。 つまり、平和は人間の最高の幸福を作り出すすべてのものを意味しておりました。 聖書では、平和とは、すべての心配事がなくなることではなく、全ての幸福を楽しむ事であると言う人もおられます。
もう一つは、祝福されているのは、平和を作り出す人であって、必ずしも平和を愛する人ではありません。なぜなら、平和を誤って愛した為に、かえって問題を起こした場合が度々あるからです。問題を起こさないように黙っている事、何もしないでいること、 それによって後々に危険になる事もありますので、やはり平和は作り出さなければならないわけです。
聖書が祝福する平和とは、問題を回避する事ではなく、問題に直面し、それと取り組み、それを克服する事によって生まれる。従って、平和を作り出すとは、問題に積極的に対処し、平和を作り出すことです。たとえ平和への道が苦闘の道であっても、あえて、それをする事なのです。その人は、神の子と呼ばれるからです、とあります。
平和を作り出す人は、平和の神がなされるその業に励んでいるのです。 仲たがいを調整し、不和を和らげ、対立関係を解消するような人、 そういうような人は、神の働きをしているといえます。 なぜなら、神の遠大なご計画は、神と人との間に、また、人と人との間に平和をもたらすからです。
10-12節は、一まとめにしてみたいのですが、 10節に「義のために迫害されている者は幸いです。」とあります。 また11節には、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」とあります。これらはどれも、誰でも出来たら避けたいものであります。しかし、イエス様は、そのような人は幸ですと言われるのです。
なぜでしょうか。 実際の所、聖書に出てくる神と共に歩んだ多くの人が、迫害されてきたのでありました。聖書に記された最初の殺人、カインとアベル。 アベルは神様に喜ばれる事をしたのにカインに殺されました。 モーセは、神様に立てられた指導者ですが、民たちから殺されそうになりました。 ダビデは、サウルの忠実な部下でありましたが、命を狙われ、預言者エリヤは、アハブ王の妻イゼベルに脅迫され、エレミヤは、神の使信を語った為に牢に閉じ込められました。というように、あげればきりがありません。
教会の歴史も迫害と殉教の歴史だと言えましょう。 それが、どうして彼らが幸せなのか、ということになってきます。 それは、キリストの名の故に迫害されることこそ、その人が、天国の市民である事のしるしだからです。キリストを信じる故に困難や迫害に遭っている方がおられますなら、その方は、どうぞ勇気と力を神様から頂いて欲しいものです。
迫害に会った弟子たちは経験しました。 エルサレム会議で鞭打たれたペテロは、「御名のために、辱められるに値する者とされたことを喜びながら」仲間の所に帰って行きました。鞭打たれた傷がうずきながらパウロはシラスと共に神を讃美しました。それが、歴史に綿々と続く殉教者たちの姿でした。
こんにちでも、世界のそこここで迫害に会っている兄弟姉妹がいるのです。 イエス様は、そういう人たちに「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」と言われるのです。自分達の国籍が天にあること、自分は地上では旅人であり、やがては神のもとに帰る者であることが、よく分かります。
イエス様が、まずその見本となってくださいました。 イエス様が、まず、それを体験してくださいました。 それ故に、迫害によって受ける報いが大きい事を忘れないようにしましょう。 そして、この世との妥協によって、滅びへの道を行くのではなく、 犠牲から来る祝福を忘れないようにしようではありませんか。
2009年8月30日(日) 「地の塩、世の光」 マタイ5:13-16 竹口牧師
この朝のみ言葉は、イエス様のお言葉を聞こうとする人たちに対して、あなた方は、地の塩ですと言われ、また世の光ですと言われた、大変重みを持った言葉の所であります。
「あなた方は、地の塩です」ということで、百科事典で塩という項目を引いて見ました。少しデータが古いのですが、日本では、1997年度で年間798万トン輸入し、輸入依存度は85パーセント以上に及んでいるとありました。
日本のように周りが海に囲まれ、塩はいくらでも取れそうな感じがするのですが、輸入に頼っていると知らされ、驚いた次第であります。外国では、岩塩によって取ることが出来るそうですが、日本では塩田によって海水から取っていましたし、今もそういう方法も特別に用いている場合もあります。が、ほとんどはイオン交換によるといわれます。
戦国時代のこと、越後の上杉謙信が甲斐の宿敵、武田信玄が塩不足で困っているのを知り、塩を送らせたという故事から、敵に塩を送るということわざがうまれたようです。 競い合っているライバルの弱点に付け込まず、かえってその苦境から脱出できるような援助の手を差し伸べたという、大変勇気ある行動を上杉はとったのでした。
ところで、人間の身体にとって塩はなくてならないものであります。 その塩があなた方です、とイエス様は言われたのです。 塩は、食用であったり、調味料製造に使われたり、食品の保存に、またソーダ工業用原料などにも使用され、きわめて用途も広く、需要量も大変大きいものであります。 いわば、この世にあって無くてならない物の一つにこの塩が挙げられます。
そしてそのなくてはならないものの一つとして、あなたがたは、地の塩です、とイエス様は言われたのでした。しかし、そう考えますと、果たして、私たちは、そんな大切な働きをこの世でしているのか、そういう質問が突きつけられるのではないでしょうか。
否、もし、そのような働きをしていなければ、これからはそのような働きをする者となるべきであり、果たしてそうなれるのか、そう考えさせられるのであります。 料理を一度もしたことのない私が言うのも恥ずかしいのですが、物の味を甘くするために砂糖を入れればよいというものではなく、塩を少し入れることによって甘さが増すとも言われます。
また、料理そのものに塩が入って、味を引き立たせてくれるのですが、しかし、塩そのものは、どこに入っているのか見えないのであります。その料理の中に溶け込んで、味を出している。そういう見えない部分で塩は働きをしている場合もあります。そうかと思えば、魚を獲ってそれを氷に入れることも出来ますが、塩でまぶして、腐るのを防止することもしているのであります。これは、見える働きであります。
そのように考えて見ますと、私達キリスト者は、この世の人と同じような事をしていて、実は目には見えない、そういう部分も、この世においてキリスト者として、しなくてはならない必要が求められているといえましょう。そのためには、イエス様の教えをしっかりと心のうちに保ち、料理の中の塩のように、すっかり溶け込みながら、キリストの味わいを出すことも大切でありますし、この世の腐敗を止める意味で、堂々とこの世にあってその存在感を示し、悪に対しては腐敗防止に当たらねばならない、そのようにキリスト者はイエス様より求められている、ということができるでしょう。
この世には、してはいけないこと、言ってはいけないこと、考えないほうが良いことなどなどがあります。それは、この世の秩序が乱れないための約束事のようでありますが、しかし、キリスト者は、そのような事の為だけではなく、神の子とされているが故に、それに相応しくあって、この世と同じようなことはしない部分もあります。
つまり、基準はいつも神様にあることを私達は確認したいのです。 それが、塩は塩でも、良い働きをする塩であります。塩は、身体に必要ですが、必要以上に摂取しますと、高血圧の人には危険であります。しかし、イエス様の言われます地の塩としての働きは、決して、人には害を与えないものであります。 そういう塩でありたいと私自身も願います。
塩が塩気を無くする事が実際にあるのかどうか分かりませんが、ですから、もしかしたらイエス様は、例えば、の話かもしれませんが、こう言われているのであります。
「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」という風に、であります。
踏みつけられると言いますと、実際にあったことなのでしょう。 神学者バークレーという人は、こういうようなことを書いております。 「初代教会が、この聖句を非常に奇妙な方法で用いたことを付け加えておこう。 これは、ユダヤ人の会堂で行なわれたことである。一度背信したユダヤ人が再び信仰に立ち返った場合には、会堂に受け入れられる前に、会堂の入口に伏して、会堂に入る人達がその上を踏んでいくように依頼した。これは、悔い改めのしるしであった。
あるところでは、キリスト教会がこの習慣を取り入れた。 そして、一度教会から除籍された人が復籍を許される前に、教会の入口に横たわり、会堂に入る人達に『私を踏んでください。私は塩であるのに、味を失った者なのです』といったという」そのように書いてありました。
まさか、実際にそのようなことが行なわれようとは、思いもしませんでしたが、歴史の中ではあったようです。バークレーという人はまた、このようにも言っております。
「クリスチャンは、徹底した正直という基準からそれてはならない。 罪の誘惑が町々にあふれるこの世にあって、クリスチャンは、道徳的水準の低下を軽視してはならない。悪を連想させる下品な冗談は社交の一部になっているが、クリスチャンはそれに加わってはならない。クリスチャンはこの世から隠遁することは出来ないが、ヤコブが言っているように、世の汚れに染まらずに、身を聖く保たなければならない(ヤコブ1:27)」という風に、です。
私は、塩の働きの一つひとつを考えますときに、果たして、いろいろな塩の働きのある中で、どれだけの働きをしているのだろうかと問われてきます。そして、自信さえなくしそうになるのであります。しかし、よくよく考えてみますと、「あなた方は、地の塩です」とイエス様が言われたということは、そして、神の子として選んでくださったということは、更には、教会につながり、その働きの小さな一部分でも担わせて下さっているということは、何らかの働きをこの世に向かって発信しているのではないか、そのようにも思えてくるのであります。
自分が会う人に対して、私がクリスチャンであることを知っていただければ、相手はもう、そのつもりで話を進めますし、私の話すことにも理解を示してくれるのであります。そうしますと、ああでなければならない、こうでなければならない、そのように自分を自分で追い詰めていくことが果たして正しいと言えるのかとも考えさせられるのであります。
クリスチャンであることによって、この世にあって決して萎縮してはならない。 生き方において、恥じることではない。むしろ、塩味をこの世に効かすべきであると気づかされるのです。そうではないでしょうか。
キリスト者にしていただいたことの恵みを、神様に感謝しつつ、たといこの世には明らかにならなくても、この世に解けつつ、しかし、キリストの味わいを出して行きたい、そう教えられます。
さて、この朝、もう一つイエス様の言われたことは、 「あなた方は、世界の光です」といわれた言葉であります。 これは、塩の働きとは違って、隠れることの出来ない働きです。 隠れるどころか、目立つ働きであります。 灯台であるなら、そこから放つ光は、沖を通る船の目印です。 道路についている街灯であるなら、事件や事故の防止の働きであります。
明らかに人の目に付く働きであります。しかも「あなた方は、世界の光です」と言われるのですから、この目黒の光、東京都の光、関東の光、日本の光というのではなく、まさに世の光なのです。世界の光なのです。そのような光に、果たして私たちはなれるのでしょうか。
地の塩という働きを見たときも、私たちのその働きは、本当に心もとない働きと思えました。そして今言われているのは、光であり、光は人に見られる働きです。これは、15節にありますように、「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。 燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」 というくらいに、隠さない働きなのであります。隠してはならない働きなのであります。
では、私たちは、それほどの働きをすることが出来るのか、そういう疑問がわいてこないでしょうか。過去の歴史を振り返ってみますときに、キリスト者がこの世で光であろうとして、逆にこの世の非難をあび、更には迫害にあったという時代もあります。殺された人もいるのであります。
ですから、この世の光となることが即ち、この世に認められることかといいますとそうとも言えない。光のはずなのに、この世にとってはその光が邪魔になる。そういう場合も生まれてくるのであります。光は、人に見られ、光は人を導き、光は、この世を照らす。
しかしその働きの全てが、この世の人に受け入れられるとは限らない。 この厳しさが、キリスト者には求められるのであります。 この点を確認しておかなければなりません。
クリスチャンはかっこいいとか、結婚式はキリスト教でしたいとか、 キリスト教に対して、ある種の憧れというものを持っている方もおられますが、 実は、厳しさというものを持ち合わせているのであります。
ところで、私たち信仰者は、世の光として輝きますけれども、光そのものは、自分自身から発するものではない、という事も覚えておきたいのであります。 あくまでも、「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)。と言われたイエス様の光を放つものであります。そのことをしっかりと捕らえておきませんと、わたしには、何の良いものも見当たらない。この世にあって光となるなんてとんでもない。そう思って落ち込むのであります。
それは決してキリスト者としての正しい姿勢ではありません。あくまでも、キリストが輝いてくださる。だから、その光が出て行くようにすれば良いわけであります。そのためには、しっかりとキリストにつながっている必要があります。
太陽のように自分から光り輝くのではありません。 キリストが光り輝いてくださるのであります。 この世の暗闇の中では、ローソクの光のような小さな光でも、十分に明るくしてくれます。 昔ほどではないにしましても、教会が暗かったり、キリスト者自身が暗かったりするなら、そしてそれが今もそうであるなら、教会は変わらなければならないでしょう。
というのは、こんな話があるからです。 ある人が日記をつけていまして、こう書いたと言うのです。 「きょうは教会に行ったが、気が滅入らなかった」とであります。
ということは、普段は気が滅入っていたということですね。 これは、何という皮肉でありましょうか。 よほど教会が暗いんでしょうね。 それは勿論、物理的な明るさではなく、霊的な明るさであります。
キリストの光で満ちているはずの教会がそうであるなら、まして、教会からまたそれぞれのところに帰っていく皆さんは、いったいどんな状態でありましょうか。こんな事も書かれておりました。
「もし、わたしの知っているある牧師が、葬儀屋を思わせるような態度や行動しなかったなら、わたしは牧師になっていたかもしれない。」これなども、教会に対する痛烈な皮肉であります。教会といいますか、牧師であるわたし自身に対する貴重な言葉です。牧師自身の私は、大いに考えさせられる言葉であります。
少なくとも教会の中が、まずキリストの言葉によって満たされ、一人ひとりの信仰が燃やされなければ、ここから出て行って、この世に遣わされても、決して明るい光を放つとは言えません。
そういう意味では、キリストに限りなく近づくことが、光をイエス様から受ける事であり、この世において光り輝くことができるというものであります。 モーセが神から呼び出されて、シナイ山に上りました。そして40日40夜過ごした後降りてきました。モーセは山から降りてきたとき、光を放っていましたが、モーセ自身は、そのことに最初気づきませんでした(出34:29−34)。 イスラエルの民が近づけないことで、分かったのでありました。
そのように、光は、人々に見せるためのものではなく、人々が認めるものであるとも言えましょう。キリスト者が、キリスト者であるためには、キリストに似ることであります。キリスト者が、この世で地の塩、世の光であるためには、キリストにより近くあることであります。その時に、地の塩としての働き、世界の光としての働きを担うことが出来るようにしてくださるのです。
その事を考えるときに、まだまだ私たちは、キリストから遠く離れすぎていることを認めざるを得ません。イエス・キリストの言われた「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」のご命令を行なうために、もっともっと私たち自身がキリストに近づき、キリストから(ガラテヤ5:22)「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶ者としていただこうではありませんか。
そうすれば、私たちは、あなたがたは地の塩、世の光ですと言われるに相応しくならせていただけるといえましょう。一生懸命努力して光になったり、塩になったりするものではありません。またなれるものでもありません。
キリストの間近に行くことこそが、その秘訣であります。 心静かに主に心をさぐっていただき、十字架にかかってくださった主を見上げ、こんな私でも、主が憐れんで滅びの淵から救ってくださった。その愛に、まずは感謝することからはじめようではありませんか。
あなたを選ばれた神様は、必ず、あなたにしか出来ない働きを、神様の御用のためにさせてくださるのですから。あなた自身の中で、神さまが輝いてくださり、地の塩としての働きも、内側からあふれさせてくださるようにと祈ります。
|