2009年9月20日(日) 「必ず成就する律法」 マタイ5:17−20 竹口牧師
私が生まれて初めて教会の門をくぐったのは、大学生のときでした。何も分からず、通い始めました。そのうちに、全ての人は罪びとであるということがわかってきました。しかし、人は罪人だから罪を犯すのは当たり前だ。それは仕方ないんだ、と開き直るようには教えられませんでした。当然ながら、むしろ、神様の喜ばれるような生活、罪を犯さない生活へと変えられなければならないと言われました。
とは言うものの、一生懸命努力しましたが、なかなか教えられたように完全に出来るものでもなく、そのうちに、罪意識が強くなり、教会に行くことに息苦しさを感じるようになりました。罪、罪、罪、と常に責められ、心の安らぎというものがありませんでした。
ところで、きょうの最初のイエス様のお言葉、17節にはこう書いてありました。 「わたしが来たのは、律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。 廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」とです。
ここで言われています律法とは「モーセ五書」を指します。 即ち、旧約聖書の一番最初の創世記からはじめて5番目の書、申命記までを言います。 また、預言者とは、その他を指すととっても差し支えないでしょう。 つまり、イエス様は、旧約聖書全体を指して言っておられるわけです。 「廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われるのです。
イエス様がなぜ、このようなことを言われたのかといいますと、それには理由があるわけであります。つまりマタイの福音書では、まだイエス様の活動は始まったばかりですが、他の福音書を見ていただきますと、実はもうすでにあちこちで活動されていて、 その上で、このように語っておられることがわかります。
それゆえに、イエス様がこのように言われたのは、すでにパリサイ派を中心とするユダヤ人から攻撃を受けておられて、この言葉となったと言うわけであります。つまり、イエス様は、パリサイ人達からは、旧約聖書を無視しているように見られ、誤解されていましたので、今回のような事を言われた訳でありました。
実はイエス様は、ユダヤ人達が考えているような律法観をもって教え、また行なわれてはいませんでした。たとえば、食事の前にきよめのための手洗いをされませんでした。 きよめのためですから、現在の私たちが、衛生上手を洗うのとは、理由が違うわけであります。また、安息日に病人を癒すことをされました。あるいは、安息日に弟子達が穂を摘んで食事代わりにしたことを止められもしませんでした。 ですから、パリサイ人や律法学者達の反感を買われる事になるのです。
そして後々にイエス様が十字架に架けられる理由といいますのは、表向き、イエス様ご自身が自分を神としたという冒とく罪でパリサイ人たちは訴え、罪にしましたが、裏では最初から反対勢力として大きくなることを恐れ、普段から、律法に従わない、律法を破る者としてマークされていて、罪に定め、十字架へと突き進んでいったのでありました。
さて、きょうの18節において、イエス様はこう言われました。 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とでありました。 ここに出てきます「律法の中の一点一画」と言いますのは、ヘブル語文字のアルファベットの「ヨード」に当たりまして、文字の中で一番小さい子音であります。
そのような文字ですら、神の言葉である律法から無くなることはない。 全部が成就されると言われたのでありました。 ユダヤ人たちは、書かれた律法の他に、言い伝えと言う口伝律法を持っておりましたが、そのようなものが、神の言葉の上にくることはない。そしてユダヤ人たちが、律法を正しく聞き取らないで、曲解していることに対して、イエス様は厳しく非難されたわけでありました。
では具体的にはどんなことをユダヤ人は曲解していたかと言いますと、バークレーの本から引用しておきますと、そこには、このように書かれております。 「律法は安息日に聖く保ち、この日は働いてはならないと定めている。これは、大原則である。しかし、これらのユダヤ的律法主義者たちは、何事も規定しないではすまされなかった。
そこでまず、働くとは何か、と問うた。いろいろなことが労働として定められた。 たとえば、安息日に荷物を運ぶことは労働であるとされた。 すると次に、荷物とは何かを規定しなければならない。
そこで律法学者の律法では、『乾(燥)いちじく一個と同じ重さの食物、大杯一杯に混ぜるだけの酒、一口に飲めるだけの牛乳、一つの傷口にぬれるだけの蜂蜜、身体の小さな部分につけられるだけの油、目に貼る膏薬をぬらすだけの水、取税所の通告書を書くだけの紙、アルファベットの文字を二つを書くだけの墨、一本のペンを作るだけの葦』・・などなど数限りなく続く。」
律法学者は来る日も来る日も論議した。 安息日にランプをある場所から他の場所にうつしてよいだろうか。 仕立て屋が衣に針をつけて外出したら、罪をおかす事になるだろうか。 女の人が襟止めのピンをつけたり、かもじをつけて外出してよいだろうか。 安息日に入れ歯や義肢をしたままで外出してよいだろうか。 安息日に子供を抱き上げてよいだろうか。」 というように、実にこまごまとしたことが考えられ、決められ小さな点にまで徹底して守ることを要求したのでありました。
もう少し付け加えるとしますと、こう書いてあります。 「癒すと言うことも安息日における(してはいけない)働きであった。 勿論、これも規定されなければならなかった。 癒すことは生命が危険である場合、特に耳、鼻、のどの病気の場合は許された。 しかし、これもそれ以上悪くならない程度に止めておくだけで、 少しでもよくなるような処置をとってはならなかった。
そこで、薬のついていない布を傷口にあてることは許されても、油を塗ることはゆるされなかった。ただのつめ綿を痛む耳につめることは出来ても、薬のついたものをつめることが出来なかった。律法学者とは、これらの法則と規定を作成する人達であった。 パリサイ人とは分離された者、という意味であるが、彼らは日常の生活から分離して、ただ法則と規定の作成に専念していたのである。」以上ですが、
このように、パリサイ人のしていることは、神様がみ言葉を通して人々に求めておられ意図されたことから格段に離れていたのでありました。 ですから、イエス様の言われている律法の正しい意味と行ないと、パリサイ人たちが行なっている間違った解釈とでは、大変大きく違っていたわけでありました。
ですから、イエス様はことあるごとに、その彼らの間違いを指摘され、正しいあり方に戻ることを求めておられました。イエス様は19節でこういわれております。 「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます」と。
律法学者やパリサイ人達がいうのが、神様の教えから、遠く離れているとしましても、 彼らは決してそうは思っていませんし、また認めません。むしろ、完全に守っていると言う自信すら伺えます。
では、こんにちの私たちが御言葉を実際に読んで、それを実際に忠実に行っているかと言いますと、非常に心もとない気が私はするのであります。と言いますか、守りきれていないと言うのが現実でありましょう。そしてそれは、イエス様の20節の言葉が、私たちの今後を決定的なものとするのであります。 そこにはこうあります。
「まことに、あなたがたに告げます。 もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、 あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と。
これは、実は大変なことなのであります。 大変恐ろしいことであります。 パリサイ人と比較してどうのこうのではありません。 19節で言われていることが実際に起きるとしたなら、それはそれは、真剣に私たちは考えなければなりません。「律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と言われるのですから。
とは言いましても、では、旧約聖書のあの律法の一つひとつを、正しく、文字通りに行なうことの出来る人がいるのかと言いますと、恐らく、いないでありましょう。
それこそ、私が生まれて初めて教会に行った時から、それまで気がつかなかった罪まで意識するようになり、その意識によって罪に責められ、信仰に入るどころか、こんな私では信仰には入れないのではないかとまで思いつめる、そのようなことが、起こるからであります。
でもそれは、私以外にも多くの方がそのように感じられるとしたなら、これは、これは大変大きな問題であります。教会に救いを求めてきて、挫折する人が出てくるからであります。そしてそれは、人に躓きを与える事はあっても、恵みとは言えません。
しかし、そうはいうものの、完全に守られないからと言って、では、それは聖書の教えであって、だから実際は、それを守るよう努めるべきであって、できなければそれでいいのよ、というわけではないのです。
ある牧師の息子が、教会学校の新聞にこう書いたそうです。 「自分が一番やりたいこと、それは、安楽な仕事をして楽しむことだ しかし、教会学校で教わる聖書の教えは、どうも自分の理解するところ、楽をしてはいけない、苦しむことが大切だ、ということらしい。その間に挟まって、ぼくは困っている」と、そのように書いていたそうです。
子供らしい、実に素直な思いが出ております。 そして、これは私たち大人もそうのように感じているとするなら、 少し立ち止まって信仰のあり方を考えて見なければならないでしょう。 楽をしたい。罪びととして責められたくはない。 もっと自由に生きたい。 それが、罪ある人間の姿であるなら、 ますます人間には律法が必要であると言わざるを得ません。
ところで、天から来られたイエス様は、真の人として歩まれ、その完全な歩みを通して、このようになりなさいと見本を示し、そうなることを求められ、それが出来なければ、必ず神に審きにあうと宣言された訳ではありません。
パウロは、ローマ人への手紙7:24-25でこのように告白しています。 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」と。
そして8章に入って、 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
その結果、エペソ2:8−9のパウロの言葉となるのです。 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
何という素晴らしい言葉でしょうか。 イエス様が、言われたように、 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とありますように、み言葉は全部成就するのであります。
更には、19節にありますように、 「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」と言う厳しさがあります。
けれども、弱さの中に完全に表される神の義は、私たちを罪の奴隷から解放し、自由に生きる者とされているのです。
律法を完全に守っていると言う傲慢な罪。律法のたった一つさえ完全には守りきれないと自分を責める罪。こんな罪びとの私など主は省みて下さらないという間違った思い込み。それらを神様の御前に出て悔い改め、主が、憐れみを持って生かしてくださり、キリストの恵みの中に入れてくださっていることを、まず感謝しようではありませんか。
この世に完全な人は一人もいないことを自覚しつつ、だから、みんな罪びとで同じだと開き直ることなく、謙遜に神様の前に、神の子の一人としての歩みが出来るよう、願いつつ歩ませていただきましょう。
律法は私たちにとって必要です。 それを通して神の完全な義を知ることが出来、神の御心を知ることが出来、 神を恐れ、罪を認め、救い主イエス様へと近づくことが出来るからです。 そしてイエス・キリストによる贖いの業によって、私たちは、大きな慰めをいただいているのです。
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