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2009年10月18日(日) 「兄弟との和解」   マタイ5:21-26  竹口牧師

2009/10/18 マタイ5:21-26  兄弟との和解
今、私たちが読んでいます聖書箇所は、イエス様が山の上でお話をなさった話を見ているのですが、そして、それは7章の終わりまで続く大変長い話であります。
きょうはその中の一部分を見るのでありまして、その部分の聖書箇所のまず最初を読みまして、私の心に引っかかるものがありました。

それは、イエス様が「昔の人々に・・」と言われている所であります。
イエス様はなぜ、このような言い方をされたのだろうかと思う訳であります。
「昔の人々に・・」ではなく「モーセの書に」とか「律法書に」とかと言われるほうが、聞いている人々には権威があり、説得力があるのではないか、そのように私は思った次第であります。

ですから、イエス様がこのように言われたのには、何か意味があり、あえて言われたのではないかとさえ思えてくるのであります。実際の所、この言い方は、もう一回、5章33節で言われているだけで、他では言われていません。福音書以外では、ヘブル人への手紙11章2節で使われています。

ところで、イエス様の話を聞いている人達は、イエス様の話をずっと聞いた後で、その聞いた内容に対してどのような反応を示したかと言いますと、このマタイの福音書の7章最後のほうに、このように書かれています。7:28−29の通りであります。

「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、
権威ある者のように教えられたからである」とであります。

そこで、ますます疑問が湧いてくると同時に、またその一方で、ここにその疑問を解く鍵があることに気づかされるのであります。イエス様のお言葉を聞いたユダヤ人たちが、どれほどの驚きを示したか、その状況は、あるいはまたその程度は、分かりませんが、少なくともユダヤ人たちは、律法をこよなく愛し、どんなに尊んでいたかがこんにちの私たちにも想像できると思います。

ある人は「律法は神聖であり、神から与えられたものである」とか、また別の人は、「モーセの掟は、不滅、不変、不動であり、大自然が署名して封印したものである。」とまで言います。あるいは、ユダヤ教の教師はこう言います。「律法が天から下ったことを否定する者は、来るべき世に何のかかわりもない」という風に、です。
それくらい、律法には権威があったのであります。

その権威ある律法という言葉をイエス様は持ち出して言われないで、「昔の人々に」と言われたのでした。これは一体どういうことなのか、ということになってきます。
それは、これからイエス様が話される内容と大きく関係があるのであります。
ユダヤ人たちは、モーセの律法に大変重い思いを持っておりました。

先ほども言いましたように「律法が天から下ったことを否定する者は、来るべき世に何のかかわりもない」というほどに、律法には権威があったというわけであり、今もそうであります。

しかし、現代のある人は言います。「聖書は間違いだらけである」とです。また別の人は言います。律法は神の言葉であるが「この箇所とあの箇所」は神の言葉ではなく、モーセが自分で言ったことばなのである」という風に、です。

そんなこと言うのは、ユダヤ人には、決して赦されないことです。
いいえ、ユダヤ人だけではなく、私たちキリスト者もそうでしょう。
私達は聖書が神の言葉であり、どこにも間違いはないと信じているからであります。
そう信じているがゆえに、これからイエス様が述べられる言葉に、あるユダヤ人は、頭にカチンと来るのであります。

なぜならイエス様はこれから、こういう風な言い方をされるからです。
「・・と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います」という風に、であります。これは、ちょっと私たち日本人がこの所を読んだくらいでは、イエス様が、一番最初に「昔の人々に」と言う言葉で始められていますので、ああ、ここで言い伝えについてイエス様は反論しておられるのだなと思いますが、
ここでの聖書の場合、ユダヤ人達にしてみますと、これは律法書を否定したのと同じでありました。と言いますのは、その当時、聖書というものは、現在の私たちが持っているような、印刷機で印刷され、同じ物をみんなが持ってはいなかったからであります。

つまり、当然ながら原本は一つであり、それも実際は残っていません。
実際は写しがあり、それをどんどん書き写していくのですが、
ですから、写本は大変少ないものでありました。
従って、多くの人は直接律法書を読むことは出来ませんでした。

読まれるのを聞くというのが、ほとんどの人でした。
そして神の言葉は、律法学者などが教えてくれる言葉によって、それが神のお言葉だと信じていたわけでありました。そこに問題が発生したのでありました。

昔も今も、聖書に間違いはありません。
ただ、聖書をみんなが読むことが出来なかったために、言い伝えによります律法、口伝律法なるものが出来上がったのでした。ユダヤ人は、律法書と共に、学者による言い伝えも神の言葉として、権威あるものとしていたわけでありました。

その権威あるものとしていた教えの中の間違いの部分を、イエス様は、これから指摘されていくのでありますから、人々は大変驚いたわけであります。
権威あるものを、その上を行く権威あるものとして語られたからです。

聖書が正しく解釈され、それが正しく語られ、それが口伝律法として教えられていたなら、それは、少しも問題にはならなかったでしょう。しかし、ご存知のようにユダヤ人は、エルサレム神殿崩壊以降、捕囚になり、後に第2神殿時代が来るとはいえ、迫害の時代を通り、王朝を築くとはいえ、短期間に終わり、やがてローマの支配下に入るのであります。

そういう歴史的な流れの中で、聖書とその聖書を解釈した口伝律法とは、権威あるものとされていたのです。そしてその口伝律法の中には、聖書から大きく離れていたために、イエス様は、これからそれらを一つ一つ指摘され、正されていくのであります。

ですから、ここでまず私たちは一つの大事なことを確認しておかなければなりません。
それは、イエス様がこれから(22、28、32、34、39、44)
「・・・と言われたのをあなた方は聞いています。しかし、私はあなた方にいいます」と言われている所が繰り返しでてきますが、それは、イエス様が律法の教えを決して否定なさっている訳ではない、と言うことです。

これは、とても大切な点です。
聖書は誤りなき神の言葉である。
モーセはそれを書き記し、今も神の言葉として変わらずに有効である。
ですから、安心して聖書を読んでいただきたいのであります。

さて、では具体的に、これからイエス様が指摘されたことを取り上げていくことに致します。今回は1つの点を取り上げることに致します。まず言い伝えのほうでありますが、こうあります。

「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」とあります。そして22節に「しかし、わたしはあなたがたに言います。」と続くのであります。

ここで、しかし、と続いていますが、前に言われたことを決して否定をされているわけではない、その事を理解して読んでいただきたいのです。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」
と言われているのであります。

これを読んである方はお気づきでしょう。律法の教えは、人殺しという行為であります。しかし、イエス様の言われているのは、心の中の思いであり、吐き出す言葉であります。イエス様は、律法で禁止されているその根本にまでさかのぼって、今、指摘されているのです。

現代は、理由なき殺人。
ただ、人を殺してみたかった、という殺人があります。
しかし、これは特殊な例でありまして、殺人という罪を犯すには、それなりの理由、思い、わけがあり、殺人に至るのが普通であります。そこでイエス様は、その点を指摘されたのでした。

イエス様は言われました。
「人を殺さなければいいというわけではない。それ以前に人を殺したいと決して思ってはいけないのである。」とであります。

あるいはまた、次回に見ますところにあります姦淫についてですが、
「姦淫を犯さなければいいのではない。その行為をしたいと願ってはいけないのである」と言われています。ある行為に至る前には、その行為に至る思いがある。
その思いがすでに罪なのであり、
人には、行為しか見えないけれども、神様には心の中の思いも見えている。
そして、その罪も裁かれる。だから目には見えない思いも罪であるとイエス様は指摘されるのです。

現代に起こっている殺人事件。
それをさばく裁判官。
特に殺人の場合、その計画性があったかなかったかが、大きく量刑を左右します。
残虐性がどれくらいあったかも考慮に入れられます。
しかしあくまでも殺人犯の心のうちの全てが見える訳ではありません。
結局は、見える部分は一部分なのであります。

ですから、人に出来ることは、その見える物的証拠、あるいは殺人行為に至った動機、などから推測して、量刑を決めます。神様のみ前には、一人殺すも二人殺すも、あるいは、殺そうと計画するのも、殺したいと憎むのもみな同じ罪であります。

兄弟に向かって腹を立てる者、兄弟に向かって『能なし。』と言うような者、あるいはまた、『ばか者。』と言うような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれますとイエス様は言われます。これは死刑であります。

ゲヘナといいますのは、エルサレムの南西にあるヒンノムの谷の事で、偶像の教えに従っていけにえとして子供を火で焼いたり(エレ7:31)、当時、ごみや死骸の焼却場であり、常に火が燃えていたところから死後の恐ろしい刑罰を表す「地獄」と同義語になった言葉であります。

やはり、殺人という行為の前に、先立って悪い思い、ことばがある。
そこからもうすでに、罪は始まっていることをイエス様は、指摘されておられるのであります。行動以前の罪の根にまで遡っておられる。これは、私たちが見落としがちな点ですから大変な注意が必要です。

そして、ここでもう一つ大切なことは、23節以下のイエス様のお言葉であります。
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」であります。

この順序に目を留めてほしいのであります。
真の神様の優先順位であります。
献げ物をしてから、仲直りしなさいではなく、仲直りしてから、献げ物をしなさいなのであります。これがイエス様のおっしゃる言葉なのです。キリストの教えなのです。
私たちの霊的な状態がまず最優先されるのであります。

献げ物をする行為が重要なのではありません。これは、多くの他の宗教との違いではないでしょうか。まずはお献げして、そして願いを聞いてもらう。お献げが少ないと、ご利益も少ない。神様も願いを聞いてくださらない、というのではないのです。

神様のほうからまず、私たちを恵み、そして、その恵みが分かったなら、神様にこたえていく。これが、キリスト教信仰の順序ではないでしょうか。キリスト教はいつも神の恵みが先行しています。その恵みにこたえていく信仰であります。

心にわだかまりを持ったまま、神様にどんなに素晴らしいものをお献げしても、真の神さまは喜ばれない。むしろ、和解を先にしなさいといわれるのです。そして、喜びを持ってささげるように勧められるのであります。

ところで、ちょっと昔までは、少々のことは我慢していました。
しかし現代は、我慢の時代ではありません。むしろ我慢しないで自分を正当化し、相手をいかにしてつぶし、賠償を請求するか、そんな時代のような気がしております。

ですから、身近な法律相談のテレビ番組や雑誌や、実際に身の回りに弁護士と関わりあっておられる方が多々おられます。本当に恐ろしい時代になったものだと言いたいのですが、そうではなく、聖書にも、このような話があるということは、昔も今も変わらないということでしょうか。まことに残念であります。

自分の主義主張はあるでしょう。
自分の方が正しいかもしれません。
しかし、たとい正しくて戦いに勝ったとしても、平安が得られなかったなら、何のための勝利なのでしょうか。神様との正しい関係に入るには、まずは、隣人との和解に入らなければ、神様はお喜びにはなられないことを、この朝覚えようではありませんか。

人を殺す。こんなひどいことは私には出来ないと思いがちです。
しかし、心の底には、その素地は十分にあることをわきまえたいものです。

Tヨハネ3:15に
「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、
永遠のいのちがとどまっていることはないのです」
とそのようにあります。非常に厳しい言葉であります。

「腹を立てる」「能なしという」「ばか者という」そう叫びたい。
そういう時もあるでしょう。
しかし、神様が私たちに求めておられる姿は、少なくともそのような姿ではありません。
身を切るような辛さがあるかもしれません。
イエス様があなたの罪のために身代わりとなって死んでくださった、その事の感謝を覚えつつ、そのイエス様が、相対する兄弟姉妹のためにも命を捨ててくださったのだ。
その事の重みを覚えながら、赦す方向へと導いていただこうではありませんか。

そして、何よりも主が喜んでくださる方向へと私たちの思い、生き方を変えていただき、和解へと進ませていただきたいものです。
もう一度言いますが、十字架にかかってくださったイエス様は、あなたを愛しておられると共に、赦せないという思いの兄弟姉妹をも愛しておられるのですから。


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