2009年11月1日(日) 「最善の道」 マタイ5:27−30 竹口牧師
2009/11/1 マタイ5:27−30 最善の道 先回は、5:21−26節までを見まして、特に21節の最初の言葉、「昔の人々に・・と言われたのを聞いている。しかし、わたしはあなた方に言います」と言われたイエス様のお言葉から、イエス様は、決して律法を否定されたのではないということを申し上げました。
そして、人に対して腹を立てるとか、「能無し」とか「ばか者」とか、そう呼ばわりする者は、燃えるゲヘナに投げ込まれるという、殺人の罪かあるいは、それ以上の罪の刑を受けるという、神様の大変厳しい審きというものを見てきました。ですから、兄弟姉妹がキリストにあって平安でいるためには、お互いに赦しあい、和解するという事がいかに大切であるかをみました。
そしてそれに続きます今回のテーマは、モーセの十戒の第7番目にあります「姦淫してはならない」という戒めについてみるのであります。これはそのままずばり言いますと、性の制御であります。これをいかにコントロールするかにかかっています。
イエス様はこれについて、こう述べておられます。 5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、 すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と。
このイエス様のお言葉は、十戒で戒められていると思われる範囲が、ユダヤ人社会では、明らかに目に見える行為を罪としていましたが、イエス様がここで言おうとしておられる事は、その行為よりももっと底辺にあるもの、心の有り様にまで引き下げて明らかにしておられます。実際の行動だけではない。心の中で情欲を抱いて女を見る者は、すでに、姦淫の罪を犯したのであるという風に、であります。
先回見ましたときも、やはり同じように「人を実際に殺してはいなくても、心の中で、腹を立てるなら、それはもう、殺人を犯したことと同じであり、燃えるゲヘナに投げ込まれる」と言われました。つまり、心の中を問われたわけであります。
しかし、これを聞いてある人は考えるのであります。 これはイエス様が、「誰でも情欲をいだいて女を見る者は、」と言われているので、逆に女を見て情欲を抱く者は、姦淫の罪にはならないのではないか。あるいはまた男が女を見る場合は、罪になるが、女が男を見る場合は、更にまた女が男を誘うのであれば罪にならないのではないかと、そういう風にいろいろなことを考えるのであります。
しかし、そんな事をイエス様はここで言おうとしてはおられません。 男であろうが女であろうが、異性に対して、情欲を抱いてみようが、見たために情欲を抱こうが、どちらにしても姦淫の罪を犯した事になる、とそう言われているのであります。そしてこれは、大変大きな指摘なのであります。
ですからその本当の意味を知った多くの人は、自分の罪について悩んだのであります。 いろんな本を読みまして分かったことですが、昔の人も大変、苦労をしたようでありまして、その姦淫の罪を犯さないためにどうしたらよいか、その苦労の跡が見えてくるのであります。それはイエス様が29節30節のようなことを言われているからです。
「5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」とであります。
まさにそうであります。 イエス様のおっしゃるとおりであります。 手を失おうが、足を失おうが、ゲヘナに落ちるよりは良いのです。 永遠の苦しみのところへ行くよりは、手や足を失って不自由になるほうが長い目で見ると良いのです。
しかし、だからといって、では本当に手を切り落としたらどうなるか。 足を切り落としたらどうなるか。 私たちは、自分の胸に手を当てて考えて見ますと、分かります。 私たちは、罪を犯すたびに右目をえぐりだし、左目をえぐりだし、右足を切り、左足を切るなら、そうこうするうちに、頭も切り落として、胴体だけとなるのであります。 それだけ罪に対して弱いものです。
しかし昔の人は真剣に考え、 いいえ、今の時代でもこのイエス様のお言葉に、真剣に取り組んでいる人もいるのであります。わたし自身、そういう昔の人達の苦労を知って、自分だけではないのだな、というほっとした安堵感を持ちました。勿論、ゲヘナに落ちるという恐ろしいことには変わりはありません。
では、昔の人は具体的にどうしたでありましょうか。 ある本にこのようなことが載っていました。 「私どもの先輩達、たとえば明治の若者たちの入信の経緯や、その後の戦いの記録において、このみことばがしばしば登場してくる。思春期に、その若い肉体の中に情欲がうずく時、このみ言葉は心と肉体を刺したのです。
ある者は、その情欲の火を消そうと、寒い夜に水を浴びた。 また、・・・ある老信徒は、若い時、このみ言葉を読み、罪を犯すこの右の手を切って捨てることは出来かねたが、それでもみ言葉に従おうと、その手を火鉢の火の中に突っ込んで焼いたと語ってくれました。それ程に激しい真剣さで、このみ言葉を聞いた先輩達がいるのであります」というふうにありました。
またある本には、もっと昔の人のことが挙げられていました。 初代教会の時代に、荒野に退いた隠遁者や修道僧である。この人達は、この世のこと、特に肉欲から逃れようとしてエジプトの砂漠に退き、一人で神のことだけを考えようとした。その中でも一番有名な人は、聖アントニウスであった。彼はこの世から逃れて眠らずに断食し、苦行した。
35年間砂漠に住んだが、この35年間は、連続した誘惑との戦いであり、休戦のいとまもなかった。次のようなことが彼の伝記に記されている。
『まず悪魔が、規律を破らせようと誘惑し、富、妹への愛、親族の者の願い、金と名誉への執着、食卓の楽しみ、この世の安楽、そして最後に、徳を達成することがどんなに困難で努力がいるかを思い起こさせた。・・・・汚れた思いが心に浮かぶと祈りを持って立ち向かう。色情が燃えればそれを恥じ、祈りと信仰と断食によって身を固める。 ある夜は、悪魔が女の形をして現れ、さまざまの妖態をもってアントニウスを誘惑する。』
こうして35年間、苦闘が続いたのである。アントニウスとその友こそ、進んで苦労を招いた人達であった。考えまいとすれば、ますますそこに思いが集中し、連想が連想を生む。これが人の心の動きである」とであります。
本当に、戦いの苦しさが伝わってくるようであります。 肉欲ははたして悪なのか、という疑問がわいてきます。 悪いものを神様は人には与えておられないのではないか。 とするなら、それを用いる人間に問題があるのではないか。 霊は善で、肉は悪と考えるなら、これは二元論であり、聖書の教えるところではありません。イエス様も肉欲を真っ向から否定されたことはありません。
イエス様は、結婚はされませんでしたが、結婚する人を祝福されました。 それは、水をぶどう酒に変えられるという最初の奇蹟を持ってでありました。 旧約聖書では、「生めよ、増えよ、地に満たせ。地を従わせよ・・。」とあり、結婚によって子供が与えられることは、これは、神様のご計画の一環であります。 そしてそれは、結婚によってのみ満たされる行為でもあります。
神様は、人を男と女に造られ、互いに引き合うように造られました。 そして、結婚によって、男と女が肉体的結合を持って、身も心も一つになるようにされています。こんな素晴らしいものがあるだろうかと私は思うのであります。 しかし、素晴らしいだけに、逆の面も出てきます。 それは、それを夫婦だけのものとしないで、他にそれを求めることであります。
ところで、一世紀のユダヤ人社会において、姦淫をどのように見られていたかといいますと、男性が、他の既婚女性と性的な関係をもった場合のみに姦淫とみなされたそうです。その場合、法的には男女共に死刑とされましたが(レビ20:10)当時、その法律がどこまで厳密に執行されていたかは明らかではないそうです。
しかし、ユダヤ人男性が、娼婦や独身女性と関係した場合は、姦淫とはみなされなかった。同胞のイスラエル人男性の権利を侵した場合のみ、姦淫とされた。 姦淫はあくまで相手の夫に対する罪であって、自分の妻への不貞は問題にされなかったのである、そういわれます。
一方、既婚女性は、いかなる相手であれ、結婚外の性的関係を持つなら姦淫とみなされた。他の男性の子孫がその家庭に紛れ込んでくる事を恐れたからである。 というように、イエス様の言われたことと全く違っていました。 イエス様は、マルコの福音書10:11−12で、こういわれています。
「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」 つまり、夫も妻も同じ姦淫の罪を犯すことになり、それは、相手が結婚していようがいまいが、独身でいようがいまいが、娼婦であろうがなかろうが関係はない。 つまり姦淫とは、自分の配偶者に対するものであるということでした。 そしてそれは、当時の社会的通念に反するものでした。
しかし、その上に更に今回の28節のような「しかし、わたしはあなたがたに言います。 だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」といわれるものですから、ユダヤ人は驚いたに違いないのであります。
そして、これを読みますと、姦淫という罪は、結婚していようがいまいが、関係ないことが分かります。欲情を持って異性を見るなら、男性であろうが女性であろうが、罪は罪なのであります。
しかし、ユダヤ教の文献の中には、女性を見る目が罪をもたらすので、女性は男性にとって危険な存在であるという考えが見られるそうです。 しかし、イエスは罪の根源を女性を対象に見ないで、自らの心のうちにあるものとした。そこがイエスとユダヤ教の教えの違いであると、ある書にありました。まさにそうでありましょう。一人ひとりの心のうちに罪があるのです。
ここでちょっと滑稽ではありますが、嘘のような本当のような話がありますので紹介します。それは「血を失ってばかりいるパリサイ人」というのであります。
なぜ、そういうあだ名がついたかといいますと、このパリサイ人は、婦人を見るだけで 罪を犯すことを恐れたのだそうです。そのために、罪を犯さぬためには、女性を見ないように考えたのです。町で女性に会うたびに、目をつむった。しかも、いちいち立ち止まってはいられなかったので、目をつむって歩いた。そのためにどこかにぶつかり、こぶをつくり、すりむいて血を流していた。
そこで今言いました「血を失ってばかりいるパリサイ人」と呼ばれるようになったというのです。これは笑い話のようですが、その真剣さが伺われます。 現代のように、夏冬関係なく肌をあらわにし、しかもそれが男性から「かわいい」と見られていると思っている女の子。そういう時代ですから、世のサラリーマン男性は大変でありましょう。
渋谷のhi-baセンターで、ローマ書の講解があり、バスで通っていましたときに、その時の講師の先生がこのように嘆いておられました。 「最近、私は電車に乗る時は、万歳の姿勢で乗らないと怖くてたまらんよ。 どこで何を言われるかわからない恐ろしい時代だから」とであります。
痴漢もいれば、痴漢されたふりをして訴える者もいる。 時間帯によっては、女性専用の部分を設けたりと、そうしなければならないほど、世の中が乱れている。そういうなかで、イエス様のきょうのお言葉を聞いたとき、本当に、如何に生きるべきかと考えさせられます。
ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女の話が出てきます。 イエス様を罠にはめようとの魂胆で、イエス様のもとに連れて来られた話であります。 その時にイエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」とであります。
すると、彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様がひとり残されたということが出ております。ある意味では、訴えた人達はみんな正直であったと言えましょう。そして、私たちもまた、男性、女性という性の違いを超えて、誰でもが犯す罪を、内側に持っていることを認めなければならない、そのように改めて教えられるのであります。
ユダヤ人たちは、律法を守っていると思っていました。 しかし、実はイエス様が指摘されるまで、外側に起こった目に見える罪、更には、ある意味では男性に都合の良いような解釈がまかり通っていたのでありました。
時代によっては、女性を悪魔扱いした時代もあったようです。 しかし、そうではない。 人はみな、内側に神の喜ばれない罪を持っている。 そしてそれが、罪を犯させようとしている。 私たちはそれに対して、神様の助けなしには勝利できない。 その事を認めなければならないということでしょう。
パウロはガラテヤ人への手紙3:24において、 「3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。 私たちが信仰によって義と認められるためなのです。 3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」といっています。
信仰以外に神に義と認められる道はありません。 信仰によって生きようとする生き方こそ、イエス様が教えておられる正しい生き方です。キリストの血によって義とされるという信仰に基づいて、キリストから離れないように、この世を歩んで行こうではありませんか。それこそが、最善の道であるといえましょう。
2009年11月29日(日) 「神が合わせたもの」 マタイ5:31−32 竹口牧師
先回は、姦淫の罪について見ましたが、今回は離婚について考えてみることに致します。離婚といいますと、言うまでもなく結婚があっての離婚であります。ですから結婚していなければ、自分とは関係ないと思われる人もおられるかもしれません。 その点、先回見ました姦淫の罪と言いますのは、広い年齢範囲の人に関係があるのですが、今回はやや限定された人達に関係のある問題であります。
結婚は人生の墓場であるといわれることもありますが、私は、結婚ほど素晴らしいものはない、そのように感じております。しかし、これは、一方的な私の思いでありまして、私の妻が、同じようにそう思っているかは、別の事であります。やりたいことをやっている私を見ながら、もしかしたら違うことを考えているかもしれません。
まあ、私たち夫婦のことは横においておきまして、離婚というテーマは非常に取り上げにくいものの一つでもあります。といいますのも、現代はそういう時代だからであります。あるデータによりますと、5.5組に1組が離婚するといわれています。それほど、一番密度の高い人間関係を要する結婚で多くのカップルが病んでいるといえましょう。
取り上げにくい問題であるとは言いましても、聖書を順に見て行く方法を私はしておりますので、そこだけを飛ばして読むというわけには行きません。イエス様の時代と、現代とでは状況の違いはありましょうが、また国柄とか世界情勢とかの違いがありますが、神様の教えは、時代を超えていつの時代にも通用する普遍の教えでありますので、耳を傾けたいと思うのであります。それでは、聖書の教えを見てまいりましょう。
きょうの所でイエス様は、まずこう切り出しておられます。 31節「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。」と、であります。これは、旧約聖書のどこから来ているかといいますと、申命記24:1からきています。そこには、このように書いてあります。
「24:1 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」とであります。この申命記24:1もしくは、きょうのマタイ5:31節には、離別する者は、離婚状をその女の手に与えよ、とあります。
その当時、ユダヤ社会では、男性だけが離婚する権利を持っており、女性には、その権利はなかったそうです。また、男性は「離婚状」を書けば、離婚は認められたと言われます。
では、離婚状はどんな時、書く事が出来るのかが問題となりますが、これは、いろいろ解釈の分かれるところだそうです。 一世紀のパリサイ派の中には、姦淫以外の理由を認めないというシャンマイ派と 姦淫だけに限定しないというヒレル派に分かれたそうです。
因みに、姦淫はギリシャ語でモイケイアという言葉であり、 一方、32節に使われている「不貞」というのは、「ポルネイア」という言葉が使われていまして、この言葉がどういう意味かでまた意見が分かれるのであります。 このポルネイアという言葉は、4つの意味があるといわれます。
一つは、結婚以外の性的関係。二つ目は、婚約期間における不誠実な行為、三つ目は、近親相姦などの不法な関係。四つ目は、悔い改めずに継続している不誠実さ、というものです。ほとんどの研究者は、この4つのうち、第一番目、即ち、結婚以外の性的関係という意味にとっているそうです。
としますと、イエス様は、シャンマイ派の考えを支持されたことになります。 これは、申命記24:1の旧約からの引用とあまり変わらないという事になります。
では、イエス様はどうしてあえて、このようなことを言われたのか、ということになってきます。余計なことですが、ヒレル派の離婚理由の姦淫に限定しないという広い考えの中にはこんなのがあります。
離婚の理由として挙げられるものの一例ですが。「もし妻が、塩を入れすぎることによって食事を不快にした場合とか、街頭で男と話した場合とか、けんかした場合とか、夫の面前で夫の両親に不遜な言葉を語った場合とか、争いや問題を引き起こしやすい場合には、その妻を離縁することが出来る」とであります。
こうしてみますと要するに、夫が妻を気に入らないと感じた場合、離婚状を書いて家を去らせればよいという、夫にとっては大変都合の良いもののようにヒレル派は考えていたようです。また、離婚の手続きはすこぶる簡単であったようです。
離縁状にはただこう記してあった、とあります。 「これをもって当方よりの離縁状、離縁状、また、自由を与える行為とみなされたし。今後は誰とも自由に結婚せられたし」とであります。誠に簡単であります。
必要な手続きとして、二人の証人の前でこの書類を渡されれば、女は即座に離縁されてしまったのである、とありました。これは、女性にとってはとても不当だといえましょう。まあ、このヒレル派の言う離婚理由はともかく、シャンマイ派の言うように「不貞の場合」というのであっても、それが何を指すのか、これが大きな問題となってきます。
ところで、その当時のユダヤ人の結婚観はどうだったかといいますと、理論的には、ユダヤ人ほど結婚に対して高い理想を持ったものはなかったと言われます。結婚は、人に与えられた最も神聖な義務であり、律法に専念するためのほかは、結婚を延期をしたり、独身生活することは許されなかった。結婚して子供を持つことは「生めよ、増えよ」との積極的な命令を守ることであり、逆にそうしなければ破るものとみなされ「この世における神の像を減少させるもの」「子孫を殺害するもの」といわれたそうです。
実際のところ、ユダヤ人は離婚を良くは思っていませんでした。むしろ悪いことと考えていました。それは、旧約聖書の一番最後の書マラキ書2:16に「『私は離婚を憎む』とイスラエルの神、主は仰せられる」、とあるからであります。
しかし、イエス様の時代、結婚が危機に瀕していたと言われます。 それは、世界的に結婚の解消と家庭の崩壊の危機にあったからでした。 ユダヤ社会の中で、また、ギリシャ、ローマの世界の中で、世界的な背景があったようです。ギリシャ人の結婚観は非常に矛盾していたそうです。婦人に対して、つつましく引きこもった生活をし、一人で外出をせず、男の住む場所で食事をしないように要求した。
女には社会生活は全くなかった。 ギリシャの男は、妻に完全な道徳的純潔を要求しながら、自分は極端な行為をしていたのである。端的に言えば、ギリシャ人は家庭の安定のために妻をめとり、楽しみは家庭以外に求めたのであった。
ギリシャでは異常な状態が出現した。 コリントにあるアフロディアの神殿には1千人の女祭司がいて、これが神に仕える娼婦であり、夕方になるとコリントの町に出てきたので「コリントの町には、金がかかって誰も行かれない」といわれるようになった。
まあ、このようにしてギリシャの悪い文化が広まり、後に軍事的にはローマがギリシャを征服しながら、道徳的、社会的には、ギリシャがローマを征服したといわれます。 そしてその影響は、当然ながらローマに支配されているユダヤにも多大な影響を与えたのでありました。そして、イエス様は、律法の真の意味をこの山上の教えの中で取り上げられたのでありました。
32節のイエス様のお言葉をもう一度読んでみます。 「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」といわれています。
これは、一見しますと、イエス様は「不貞」の理由であれば、離婚は認めておられるように見えます。しかし、決してそうではありません。 そもそもユダヤ人の中で、姦淫の罪を犯した者は、離婚どころか、律法のもとでは死刑であったわけであります。石打ちで殺されることになっているのであります。 それは、男も女もであります。ですから姦淫の罪を犯す者は離婚によって終わりを告げたのではなく、死という刑罰によって終わりを告げたのでした。
では、どういう目的を持って、離婚についてのモーセの律法をイエス様は入れられたのかということが問題になってきます。それは、離婚を抑制するためのものであったのでしょうか。
これまでにも述べてきましたように、当時の婦人の地位は低く、しばしば男の横暴のためにその犠牲となることがありました。そのために、婦人をその不利な立場から擁護する必要がありました。モーセの律法はそのようなことから定められたのでしょうか。
現在の日本の法律でも、離婚は絶対認めないというのではなく、ある程度の理由が認められています。が、決して離婚を勧めるものではなく、やむを得ず、そのほうが双方にとって良い結果となる、そう認められた場合でありましょう。
この聖書の場合、弱者救済、男性に対して女性が一方的に弱い立場、そのような場合を制限することによって守る意図もありましょう。男性の一方的なわがままによっては認められず、また、認められたとしても、離婚状は必ず与えなければならない。離婚が成立したなら、二度と元の妻と再婚は許されないなど、定められていたわけであります。
しかし、では条件が整えば、離婚しても良いのかという事になります。 イエス様は、それをよしとされて言われたのかという事になりますが、 実際は、離婚をよしとされたわけではありません。
その決定的な聖書箇所は、この同じマタイの福音書19章でイエス様はこういわれているからです。ちょっと開いてみましょうか。34ページになります。分かりやすく1節から読んでみましょうか。
「イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。 すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。パリサイ人達がみもとにやって来て、イエスを試みてこう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。
まことに、あなたがたに告げます。誰でも不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
しかし、イエスは言われた。「その言葉は、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」以上であります。
これを読んでお分かりのように、結婚関係も神の造られたものですから、人の手によって破ってはならないということであります。ですから、山上の教えについても同じことであります。同じ考え、同じ趣旨によってイエス様は話しておられるのであります。 ですから、どういう条件下であるなら離婚が許されるのか、というのではありません。
そういうことをイエス様が言おうとされているのではなく、神の手によって合わされた結婚は、絶対性があるということです。ですから、男が勝手に自分の妻を出すことは許されないことなのです。また勝手に出しでも認められないのです。女性を品物扱いにすることは許されない。男性は女性と共に生きることが求められているのであります。
ただ、最近は、女性のほうが強くて、むしろ、男性のほうが虐げられている、そんな話をよく耳にしますので、暴力を振るうのも、女性が男性にということも耳にしますので、そうではなく、男性、女性、互いに主にあって一つになり、夫婦の素晴らしさを表していただきたいものであります。
昔は、子供はかすがい、などといっておりましたが、現在は、まったくかすがいの用を成していません。また、現在仲良く行っているからといって、いつ、夫婦の危機が訪れるか分かりません。熟年離婚の流行っている時代でもあります。 お互いが、お互いに気を配り、助け合い、終生変わらぬ愛を持って、それぞれの勤めを果たしたいものです。夫には夫にしか出来ないことがあり、妻には妻にしかできないこともあります。二人が互いに助け合うところに夫婦の一致があるわけです。キリストが私たち一人ひとりを愛してくださったように、キリストが与えて下さった配偶者を、生涯愛して、この世に良い証をしていきたいものです。
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