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2009年12月6日(日) 「真実に生きる」  マタイ5:33−37   竹口牧師

きょう、この朝見ますのは、「誓い」についてイエス様が教えられたところであります。その誓いについて見るための順序は、まず最初に律法の教えはどうなっているのか、次に、それについてイエス様の時代はどうであったか更に次には、イエス様はどうしたらよいと言われているか、という順序で見てまいります。

まず最初に旧約聖書では、誓いについてどう言われているのかを見る事に致します。
ユダヤ人がとても大切にしています旧約聖書、その中でも律法書といわれていますモーセ五書には、誓いについてどう書かれているのでありましょうか。旧約聖書の初めから2番目の書、出エジプト記には、神様が与えてくださった十戒が出ているのですが、その中の第9番目で神様は、このように言われております。

出エジプト記20:16で、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」であります。偽りの証言といいますと、裁判などで、証人として立ち、証言を述べることだけを指しているように思いがちですが、そうではなく、この9戒の持っています意味は、一般的には嘘を言ってはならないと言うことであります。

そして、どうしてこのような戒めがあるのかと言いますと、否、なければならないのかと言いますと、やはり人は、このように規定しなければならないほど、嘘が多いと言うことに気づかされるのであります。だからこそ、誓約をしなければならないわけであります。

十戒の中には、他にどのようなものがあるかといいますと、第6番目には殺してはならないとありますし、また7番目には姦淫してはならないとあります。更には、8番目には盗んではならない、とあるのであります。こういう常識的なことを十戒で取り上げなければならなかった。これが、その昔に書かれた常識でありました。

考えて見ますと、アダムとエバが神様の前に罪を犯してから、もうそのときに、彼らは嘘を神様に言いましたし、その二人の間に出来た子供、カインとアベルとの間で、カインがアベルを殺すと言う殺人事件も起きたのでありました。そして現代では、ニュース源であるテレビ、新聞、雑誌などなどの情報で、そういう人間の罪の現実が、常に流されているのであります。

といことは、昔も今も人は変わっていないと言うことでありましょう。
人が人として生活するためには当たり前のこと、それをあえて挙げて、戒めなければならないところに、人の悪、罪、弱さというものがある、この事を認めなければならないでしょう。

旧約聖書での誓いについては更にこういうことが書かれています。
民数記30:2にはこう書かれています。
「 人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出た通りの事を実行しなければならない。」とです。

あるいは、申命記23:21―23には、このようにあります。
「 あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。
あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。」
もし誓願をやめるなら、罪にはならない。
あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願した通りに行わなければならない。」とであります。
神様の御前に約束をした場合、それを果たしなさいという事であります。

私たちの教会で毎年発行しています教会員名簿、それには、昔は名簿しか載せていませんでしたが、最近は、東京聖書教会の信仰基準、東京聖書教会規則、更には、緊急連絡網、教会員契約書まで載せるようになりました。それは、その必要性があってのことであります。中でも、教会員契約書は、やはり書かなくても良いようなことも書かれているのであります。

それは、ちょうど神様が下さった十戒の中にあるのと同じように、人間として、キリスト者として当然あるべき姿から、人は外れやすい。だから、改めて確認しあう意味において載せている部分もあります。

たとえば教会員の契約書の第1番目は、こう出ています。
1.キリスト者の愛の中に共に歩むこと、とあります。これが第1番目にあるのです。
「キリスト者の愛の中に共に歩むこと」というのは、教会員であるなら、否、教会員になったならば、これは当然な行動です。

しかし、それでもあえて、そう書いて確認をする。
教会員になって間もない人、何十年と言う教会員生活を送っている人も共に、当然のこと、言うまでもないこと、いちいち確認する必要のないこと。でもそれが、まず一番目に来ているのです。そのようにして14番目まであります。

それらを三位一体の神の御前と会衆の御前に契約を結び、最後に、自分の名前を入れるようになっているのであります。自分が東京聖書教会の会員であるとはどういうことか、その契約書を時々読んで、確認していただきたいものですが。

が、まあそれはともかくとして、話を元に戻しますが、
旧約聖書を読んでいますと、神様の御前に請願を立て、約束を果たすまで頭の髪を切らないとか、酒を飲まないとかという人をナジル人といわれていますが、そのような人が、いろいろ出てきます。たとえば、預言者サムエルが生まれる前に母親が神様の御前に約束したことはこうでした。

「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そしてその子の頭に、かみそりを当てません。」そう祈ったのでした。神様は、その願いに応えて下さり、そしてサムエルが与えられ、そのサムエルは、大変活躍をするのであります。

そうかと思えば、神様のみ前に誓約し、それを果たすために、涙をのんだ例も出ております。士師記の中に出てきますエフタと言う人物であります。エフタは、敵と戦う前に、勝つ自信がなかったのでしょう。このような誓約を神様に御前にするのであります。

士師記11:30のことでありますが、
「エフタは主に誓願を立てて言った。
『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
11:31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものと致します。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』」とであります。

そして戦いに勝って戻ってきた時に、最初に迎えに出てきたのが、エフタのたった一人の娘でありました。彼は、その娘を見たとき愕然とするのであります。しかし、神様のみ前に約束したことですから、エフタはその後、その娘をささげたという話が出ております(士11章)。まあ、このように真剣に、自分の誓約に忠実であろうとした姿が、見えてくるのであります。

しかし、もう一度言いますけれども、殺してはならないとか、姦淫してはならないとか、盗んではならないとか、そういったことが十戒において規定されていると言うことは、偽りを言ってはならないと言うことも同様に、規定に入れなければならないほど、旧約時代においても人は嘘を言いやすいと言うことでありました。そして今も同じなのであります。人は全く変わっていません。

さて、旧約時代のことを述べましたが、今度はイエス様の時代を見ることにいたします。イエス様は、きょうの聖書箇所でこのようなことを言われております。
33−36節をもう一度お読みいたします。

「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」と、こうイエス様は言われているわけであります。

なぜ、イエス様がこう言われたかを考えて見ますときに、当時の状況が見えてくるのであります。

では、何が見えてくるかと言いますと、
その当時の人達は、いとも簡単に誓ったと言うことであります。
しかも、ユダヤ人は十戒の一つであります第3番目の戒め「あなたはあなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言うのがありますから、主の御名以外のもので誓ったのでした。

そしてそれはどういうことかといいますと、嘘が横行していたと言うことに他なりません。嘘が横行していたので、ついには、神様のお名前によって誓わなくてはならないような事態になった。しかし、神様のお名前が十戒の第三番目の戒めによって使えない。さあどうしたらいいか。ということで天を指して、地を指して、頭を指して、と
あらゆる物を指して誓うようになった、と言うことでありましょう。

しかし今、イエス様は、それもしてはいけないと言われているのであります。
なぜか、その理由もイエス様は述べておられます。
天は、神の御座であり、地は、神の足台であり、エルサレムは、偉大な王の都だからと言われます。つまり、全てのものは神様が造られたのであるから、その神様の造られたものによって誓ってはならない。誓うなという事であります。

誓わなければならないほど信頼できないような関係になるな、と言うことでもありましょう。私たち日本人は、本音と建前をうまく使い分けています。それが分からない外国人は、日本人はうそつきが多いと言います。

ある宣教師が、教会に来るように誘います。すると「はい。行きます」と儀礼的な挨拶をします。しかし、宣教師は、それを真実と受け止めます。日曜日がきても本人はやって来ない。そこであの人は嘘をついた、ということになるわけであります。
でも私たちは、嘘とは普通だったら感じません。ちゃんと本音と建前を聞き分ける能力が備わっているからです。勿論、中には例外的な人もおられ、約束を破ったと怒る日本人もいないわけではありませんが。大体は理解しているので、約束を破ったとは思わないのであります。

ある本にこんなことが書かれていました。
イエス様の時代のことでありますが、「『約束を破る人は偶像礼拝者と同じように罪深い』シャンマイ学派は、徹底的に真実であろうとし、社会では普通使われる儀礼的な言葉を排した。例えば実際には美しくない花嫁を、美しいと褒める事はしなかった。
更に、ユダヤ教の教師は、真実であると誓われたものは、あくまでも真実であると言った。」と言う風に、であります。

これもまた、大変行き過ぎではないかと私は個人的には思います。
が、それはともかく、み言葉をどのように受け止めるかは、非常に大切なことであります。神様が意図された意味以外に受け取るなら、それは、どんなに小さなことであっても、神様は喜ばれません。否、むしろ不快に思われ、罰せられるのであります。

イエス様は、その当時のパリサイ人や律法学者達が、あまりにも神様の教えから離れて、違った方向に行っていることに憤りを覚えられ、それを一つひとつ指摘されていかれたのでありました。

今回の誓いについてもそうであります。
私は、全ての誓いが悪いとは思いませんし、イエス様も勿論そうでしたが、しかし、逆に誓っていない事はどんな事でも不真実でいいとするなら、それは間違いであります。
私たちは、この社会で生きていくために、また、キリスト者として主の御名を伝える者として、常に真実でなければならないのです。キリスト者は少なくともそうあるべきであります。

パウロは、コリント人への手紙第2、1章23節でこういっています。
「私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。
私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。」とであります。パウロはここに「神を証人にお呼びして」と言っております。

また、ガラテヤ人への手紙1章20節でもこういっています。
「私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。」とであります。これは彼が、真実を尽くして書いている事を指しているのであります。

勿論、他の手紙がいい加減であることを指しているわけではありません。
その事は、パウロの手紙を受け取った全ての人達が認めるところであります。
そうでなければ、神のお言葉として、聖書の中に、他の手紙は入る余地はないのであります。私たちは、生涯の中で何度か、誓いを立てること、いいえ、いろんなことにおいて責任を持つために契約書を交わします。それが、結婚であったり、不動産売買であったり、建物を建てるときの契約であったり、さまざまな商取引であったりというようにさまざまです。

その時、キリスト者は、キリスト者らしく、誠実に、真実にそれを履行する。
またそうあるべきでありましょう。
神様に選ばれた民の一人として、また神様が、遣わしてくださっている者として、良い証を立てなければならないのであります。
「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」であって、それ以外の何ものでもありません。

私たちは誰しも弱さを持つものです。しかし、それを知った上で神様は、私たちを神の子の一人として、御子イエス・キリストの血によって贖ってくださいました。
誓わなくても真実に、誓ったなら誠実にそれを守っていく。
そういうキリスト者でありたいものです。

2009年12月27日(日) 「赦し、赦され」 マタイ5:38−48   竹口牧師 

今日の聖書箇所に入る前に、その背景となっている聖書箇所を読んでから今日の所へと入っていくことにいたします。最初に、旧約聖書の出エジプト21:23−25を読むことにいたします。旧約の122ページであります。そこには、こうあります。

「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。 目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」であります。

もう一箇所、レビ24:19、20であります。198ページです。そこにはこう書いてあります。「 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」であります。
その他にも申命記19:16−21に同じようなことが書かれております。

で、今日の所、新約マタイ5:38(p.7)に戻っていただきまして、イエス様は、まず最初にこう言われたわけであります。マタイに戻っていただきまして、5章38節「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」とであります。

これは、一般的に普段にも口にすることばでありますが、しかし、本当の意味は良くわかっていないで使っているように思われます。と言いますのは、多くの場合は、自分が目に傷つけられたなら、相手の目にも同じくらいの傷をつけて仕返ししてもよいという風に言われていると捉えられている向きがあるからです。

しかし、実際はそうではないわけです。
つまり、もしある人が目に害を受けるなら、その人に対して同じ程度の刑罰を与えてもよいけれどもそれ以上の処罰はいけないよ、というのがこの律法の目的です。いわゆる「同害報復法」と言われるものであります。

これは、バビロン第1王朝における11人の王の第6番目に当りますハムラビと言う人が、大体、紀元前1792―前1750年あるいは前1728―前1686年在位の人が、その43年間の統治の第2年に発布したとされる法典で、前文と後文の間に282条からなる本文があり、その中にも、この同害報復法なるものがあるのだそうです。

ですから、古代中近東の社会では珍しいものではなかったようです。
ただし、似ているから同じものと言う風にはいえないのでありまして、違いがあるところに、はっきりとした区別が必要なのであります。似ているから同じだととるのは、大変危険なのであります。その違いと言いますのは、レビ記24:22にあることばですが、先ほど読みましたところと重ねて、もう一度お読みしますと、こう書いてあるのであります。お聞きください。

「もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。」

そして、その次に注目すべきことばがあるのであります。
レビ記24:22「あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」と言う風にあるのであります。

ここに、ハムラビ法典との違いがあるのです。
つまり、イスラエルでは、加害者が異邦人であっても、同じような取り扱いをしなければならない、と決められていたのです。ハムラビ法典のような旧約聖書以外の法典集などにおいては、加害者の所属する社会的階級によって違っていたようであります。そういう意味では、イスラエルでは大きく異なっていたと言えましょう。

もうひとつ、申し上げなければならないのは、この法律は、実際には実施されなかったようであるということです。と言いますのは、「目には目、歯には歯」と言いましても、たとえば、被害を受けた側の目にしても、歯にしても、その状況が、加害者との状況と違っていた場合、不公平が生じるからであります。

つまり、たとえばの話ですが、加害者が相手の虫歯を一本折った場合、同じような状態の虫歯が加害者になければ、つまり、虫歯が一本もなければ、歯には歯で、実施した場合、公平ではないわけであります。

余計なことですが、ちなみに私の父は96歳で亡くなりましたが、虫歯は一本もありませんでした。と言いますのも、40歳の時から総入れ歯だったからです。そういう場合は困りますね。

従って、話を元に戻しますと、実際には、賠償金を支払わせたそうであります。
ただし、目には目、歯には歯という厳しい罰は、それほど重い、厳しい罰であることを示す必要があった事は確かです。

ところで、イエス様は、この旧約聖書で教えられている律法を用いて、次のように言われました。『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」とです。

これは、一見すると、旧約聖書を否定されているようにも受け取れかねません。
しかし、5章の17節でイエス様が言われましたように、「廃棄するためではなく、成就するために来」られたのですから、イエス様の教えは新しい教えであって、もう旧約はいらないのだと取るべきではありません。

旧約の教えは、イエス様の時代は勿論今に至るまで続いているのです。
そもそもこの同害報復法なるものがなぜ出来たのか、という事を考えますときに私たちの心に聞いてみれば、あるいは心に問うてみればすぐに分かるのであります。それは、明らかに、やられたらやりかえすという復讐心、これが、私たちの心を巣くっている、支配している、と言うことだからであります。

それは、昔も今も全く変わらないと言うことでありましょう。
ハムラビが作ったと言う法典、今から約4000年前の人が、同じことに気づいていたのでした。復讐心、憎しみ、これは大変恐ろしいものであります。
一つの目がやられたから、一つの目をやれば気が済むものではない。
一本の歯が折られて、一本の歯を折って気がすむものでもない。
その何倍も何十倍も仕返ししないと気が治まらないのが人の心です。

ですから、ある時、繁華街をたまたま歩いていて、誰かと肩がちょっと触れたことからでも殺人事件に発展する可能性はありますし、国と国とのちょっとした行き違いから、どんどん進んで、大きな戦争へと進むこともあるのであります。

今、一見、世界は平和そうに見えます。
勿論、あちこちでいざこざ、戦いがあるのはありますが。
しかし、これはまだまだ本当に恐ろしいことではありません。
本当に恐ろしいのは、この地球を何個分壊せるか分からないほど、沢山の武器を各国が貯蔵しているという現実であります。そのことのほうがもっと恐ろしいのではないでしょうか。武器を持つことに歯止めが利かなくなっている現実。これが実に恐ろしいのであります。核廃絶を訴え、ノーベル平和賞をもらったオバマ氏ですが、実際はなかなか前進しないのが現実です。

イエス様は言われるのです。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と、であります。

これは、今の現実とまったく違うのではないでしょうか。
イエス様のようにしたなら、喧嘩にはなりません。戦争にもなりません。
そこで、非戦論という考えもおきてきます。そして、その立場をとる人々もいます。
が、多くの人は、そういう考えを持ちません。

「そんなこと出来ないよ。そんなことをしたら、相手の思う壺だよ。
罪に罪を重ねさせるだけだよ」というふうにであります。
これが、私たちの本音ではないでしょうか。そして、その反映と言えるかもしれません。各国が、出来るだけ多くの武器を蓄えているのは、であります。

ところで、現在の法律は、罪を犯した者が更生し、社会復帰させる、これが主な目的で、作られているように思いますが、最近では、被害者の痛み、苦しみを知ってほしい。こんな理不尽な殺され方をしていいものか。そういう被害者側の声が大きくなってきております。

更には、裁判制度も変わってきておりまして、裁判官だけに審判を下させるのではなく、一般人も参加して審判を下す陪審員制度が導入されました。まだまだこれも始まったばかりですが、これによって、今までより刑罰が重く、厳しくなった、そのようにも言われていますが、実際はどうでしょうか。

が、それはともかく、罰を厳しくしたら犯罪が減るかと言いますと、決してそうでもありません。ですからどのようにしたら犯罪が少なくなるか、誰にも分かりません。しかし、確かなことは、人はみな罪びとであると言うことです。そして、罪を犯す人間であるということです。これは確かです。

その罪ある人間同士が、いさかいなく過ごすにはどうしたらよいのか、その解決の糸口を言われたのがイエス様、否、その根本をイエス様はきょうの所で語られたと言えましょう。復讐では決して解決しない、と言うことであります。

一人の人の命が奪われた場合、その命を返してほしいと被害者の家族、関係者は思われるでしょう。でも、失った命は返すことが出来ません。だったら、命には命でもって償ってほしいという思いがわきます。そして、実際に死刑が執行されます。しかし、残念ながら、被害者は納得できないのです。殺された息子や娘や夫や妻や家族が生き返るわけではないからです。だから、苦しみます。その苦しみを、生涯、背負って生きていくことになるのです。それはまことに辛いことであります。
しかし、その辛さを癒してくれる方法がないわけではありません。
それは、赦すことであります。受け入れることであります。
イエス様は、それを今日のところで言われているのです。
「悪人に手向かってはいけませんとか、一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい。」とであります。

とはいえ、これはなかなか出来ないことです。
もっとも、これは、社会における悪や不正を放っておきなさい、と言う教えではありません。相手のなすがままに任せるではありません。実際のところ、イエスご自身、捕らえられた時に役人によって不当な平手打ちをされたとき、「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」と言って抗議されましたし、

パウロとシラスはピリピの町で、正規の手続きなしにむち打たれ牢につながれたことに対して抗議しているのであります(使16:37)。

ですから私たちは、無条件に相手のなすがままにさせる必要はないでしょう。
されど、復讐は、神の義をもたらすものでもなく、人の心に平和をもたらすこともないのです。だからイエス様は44節でこういわれるのです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とです。

敵を愛する。迫害する者のために祈る。これは、まったく人の考えになかった教えであります。しかしまた、本当の解決はここにあると言っていいでしょう。

ところでまたイエス様は、この44節の前に43節でこう言われています。
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」とです。そして、この中の隣人を愛する事はレビ記19:18で言われていますが、「あなたの敵を憎め」というのは、律法にはありません。ですから、ユダヤ人たちの言い伝えによると思われますが、それにしましても、43節に対してのイエス様のことばが、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいであったという点と、そして、実際に、そうされたのがイエス様であったことは心にとめるべきでしょう。

イエス様は、十字架上への道を歩まれ、十字架上で祈られたのでした。
しかし今は、イエス様は実際にそうする前に、父なる神様の愛を45−46節で、こう語られたのでした。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
取税人でも、同じことをしているではありませんか。」とであります。
ここに、真のキリスト者と、この世の人との違いが見えてきます。

真のキリスト者であるなら、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る。
がしかし、この世の人は、敵を愛することなど出来ないのです。

では、私たちキリスト者は、真のキリスト者であるのでしょうか。
それとも、この世の人のように歩んでいるのでしょうか。
そういう問いかけが神様からなされるのであります。
そしてたじろぐわけであります。

この世にはさまざまな問題が存在しますが、
イエス様は、私たちキリスト者に、本当に身近な話を取り上げて、私たちの心を探られるのであります。「自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」というふうにであります。

この世の人と同じ事をしていたのでは、全くこの世は変わりません。
真のキリスト者であるなら、真のキリスト者としての歩みをすることが求められているのではないでしょうか。

イエス様の求めておられることは、48節にありますように、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とそう言われているのであります。
完全なお方を見上げ、完全な姿を見るとき、私たちがどんなに違っているかが分かり、また、訂正も出来ると言うものであります。

完全なお方から目を離さないで、自分との違いを見、訂正させていただき、いよいよ、ますます、主に近づくものと変えていただこうではありませんか。罪にまみれた私たちの心を変えてくださったのはイエス様です。イエス様の犠牲によって、イエス様の赦しがどんなに大きなものであるか、私たちは知ったのでした。そして私たちは変えられました。

そのイエス様が私たちにこの朝、命じられるのです。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
悪い者に手向かってはいけません。
右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
一ミリオン行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
と、でありました。

イエス様の言われている意図を正しく聞き、また、お従いしたいものです。
私たちの歩みは不完全な歩みでしたが、でも、このようにして1年間守られて、ここまで来させていただいたのです。神様の忍耐と寛容と赦しがあってのことであります。

イエス様が辿られた十字架への道を思いつつ、赦せない心ではなく、赦す心を持って新しい年を迎えたいものです。そして、赦せないと言う余計な重荷を背負って苦しむことなく、本当に負うべき重荷を負って、新しい年、主のために労して行こうではありませんか。


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