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2010年1月10日(日) 「報いは神から」  マタイ6:1−4   竹口牧師 

新しい年を迎えてもう10日目になりました。新しい年というものは、気持ちがいいものであります。何かしら希望というものが、湧いてきます。誰にも分からない、自分だけが知っている。心に秘めたものが、みなさんそれぞれにおありでありましょう。是非、それらがこれから叶っていきます様にと願います。

さて、きょうの聖書箇所は、昨年の暮れに行いましたマタイの福音書の続きであります。そしてきょうから6章に入ってまいります。つまり、イエス様の山上での説教の続きであります。イエス様は、ここから立て続けに3つの例を挙げて、共通の一つの教えを述べておられます。

それは、何を動機としているのか、であります。誰の為に、何の目的で行なっているのか、それが問われる所であります。その3つの例とは、施し、祈り、断食の3つであります。今回、その一番最初に取り上げますのは、施し、慈善であります。

暮れには、いろんな募金活動がなされていましたし、年中を通して、いろいろな形で募金活動がなされています。中には、困っている人を助けるように呼びかけながら、実は、殆ど困っている人にはお金が行っていない、そういう場合をマスコミは報道しておりました。

アルバイトを雇って募金を集めさせ、その中からアルバイト代を支払い、あとは自分のものにする、そういう悪質な例もあるのであります。ですから、本当に正しく使われているか、信頼の置ける所に募金はしなければならないと教えられます。

話は横道に逸れましたけれども、きょうの1節にはこう書いてあります。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」とであります。

ここには「人に見せるために人前で善行をしないように」という注意がなされています。これはつまり、行なった行為は、誰のために、何を目的としての善行なのかということが問われている、ということでありましょう。善行した人に注目するのではなく、どのような善行をしたかが問われるのではなく、善行した人の内側の心が問われるということであります。

律法の実践において律法学者やパリサイ人たちが特に重んじた三つの善行、それはとても大切なものでありました。先ほども言いましたが、施しであり、祈りであり、断食でありました。そしてそれは、イエス様の弟子たちにも当然ながら善行の正しい実施が期待されました。

しかし、そこには、大変注意すべき点があったのでありました。なぜなら、他人のために、あるいは神のためにする行為に対して巧妙に入り込む偽善、偽りの行為があったからであります。それ故に、私たちもまたこの事には特に気をつけなければならないと教えられるのであります。

真の神様の為に、あるいは困っている人の為にという思いから、いつの間にか、気づかないうちに「人に見せるため」の行為になっている。自分は、こんなに良いことをしてやっているんだぞ、えらいだろうなどという思いが、無きにしも非ずだからであります。だからそんな思いが、どこかに隠れていないか、問われるのであります。

ある先生は、3つの善行をこのようなわけ方をされます。
一つは、施しは、他人に対する善行であり、二つ目の祈りは、神に対する善行であり、
三つ目の断食は、自分に対する善行であるという風に、分けるのであります。
一見しますと、そのように見えますが、全ては神様の栄光の為にという事が前提にありますので、外見では、そのように見えても、実はすべて、神様と自分との関係の中にある、そのように、私は考えるのであります。

施しは、神様が自分を用いてくださるに器に過ぎない。祈りは、自分の心を神様に捧げるものであり、信仰者であるなら当然の行為であり、断食にしても、自分を神の器として整えていただく、そういう行為だと思えるのであります。全ては、神の栄光のためであります。

律法学者やパリサイ人は、熱心にこれらの宗教的な業に励んでおりました。それ自体はよいのですが、外部の目が注がれていると感じたとき、そこには問題が発生するのであります。つまり彼らは、自らの敬虔さを誇るために、「人にみせるために」行なっていたからでありました。

施しは、必要を覚えている人達に、金銭や物品を持って援助を差し伸べることであります。そしてそれは、旧約聖書でも勧めるところでもあります。申命記15:7−8にはこのように書いてあります。
「 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」
とであります。

あるいはまた、新約では、使徒の働き3:1−10には、
神殿に詣でる人々に対して施しを乞うていた人の話が出ています。
その時、弟子達はどうしたかと言いますと、「金銀は私には無い。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(使徒3:6)と言って、不自由な足の人を癒してやったことが出ています。

人々が宗教的行事に参加する時、施しの心を持つのは自然なことであります。
従って、そのような所で施しを求めていたのは自然な事でありました。
これは、ある意味では、施しを求める側にとっては、好都合の場所であったことは間違いありません。

ところで、パリサイ人たちは、施しや祈りや断食などの「善い行ない」をすることによって神に義と認められると考えていましたので、それらを実行しようと努力しておりました。しかし、純粋に神の命令に従おうと言う動機からではなく、自分がどれほど信仰深く、敬虔な生活をしているかを誇示しようとして、他人の見ているところで行なった。そこに問題があったのでありました。

そこでイエス様は、そのような人を偽善者と言われたのでした。
偽善者と言う言葉はギリシャ世界では、「役者」を意味したそうです。
役者を指す言葉がなぜ「偽善者」という意味に変化したのか、それは、役者が持つ次のような特質から見られると言われます。

一つは、役者は、実際にはその人物で無いのに、その人であるかのように振舞うこと。
二つ目は、役者は、常に人の目つまり、観衆の目を意識して演技する。まあ、当然と言えば当然であります。クイズ番組で、回答者の中にお笑いの人がいれば、答えが分かっていても、わざと間違えて笑いを取らなければいけない。その場合、高い得点を狙うことは、求められていないのです。でも時には、本気でやってしまって、場がしらける事がたまにあります。

三つ目は、役者は、その振る舞いによって報酬を得る。うまく立ち回ることによって報酬を得る。逆に失敗しますと、次は呼ばれないのであります。
四つ目は、役者は、しばしば仮面をかぶっているという点。結局のところ、舞台の上でも、いろいろなタレントでもそうですが、「演技」をしているのであります。またそれが求められているのです。

しかし、日常生活の中で役者と同じように振舞うならば、それは偽善者に他なりません。少し付け加えましたが、そのように物の本にありました。言われて見ますとまさにその通りであります。役者は、舞台に立った瞬間、その役になりきらなくてはいけません。しかしそれが長く続きますと、現実の自分と役との区別がつかなくなります。

切り替えが瞬時に出来れば、プロであります。
しかし、中には、そう出来ない役者もいます。
そういう人は後に、この世にあって悲劇を生むことになります。
ある監督に言わせますと「本当の役者は自分がない」といいます。
常に、どのような人にも切り替われる人ですから、一体、本当の自分はどこにあるのかと疑問に思う者もいるそうです。これは、人間的には非常に怖い状態であります。

一方、私たちは役者ではありません。舞台で演ずることも、映画のワンカットシーンを撮られることもありません。自分が自分であっていいのであります。そしてその自分が、神様の御前に正直に歩む。正しく歩む事、これが大切なのであります。
これは演ずるのではなく、一人の人間として神の御前に、常に真実に歩むのですから、非常に歩みやすい姿ではないでしょうか。これが少しでも、神中心ではなく、自分中心になるときに、そこには、違和感や、良心の呵責による苦しみが出てくるのです。また、出てこなければおかしいのです。

しかし、パリサイ人や律法学者は、常に人を意識し、施しをしているものですから、その間違いに気がつかない。そこに、二重の悲劇があると言ってもいいのではないでしょうか。自分が役者として演じていることに気がつかない悲劇と、自分のしていることは正しいと思い込んでいる悲劇であります。

神様を偽り、自分を偽り、人に対しても見せようとする偽り、そのことに気づかせていただけた人は幸いであります。イエス様は2節でこう言われています。
「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。・・・」

施しは、人に褒められたくてするのでしょうか。そうではありませんね。
神様が、そうしなさいと言われているから、喜んでするのです。
施しは、人に見られなくては施しにならないのでしょうか。そうではありません。
むしろ、人に知られないようにしなさいと勧められているのです。
「自分の前でラッパを吹いてはいけません」とまで言われています。

皆さん。
これから私はこれだけの寄付金をしますよ。
よく見ておいてください、では駄目だと言われるのです。
人に知らせる必要はないのです。隠れて見ておられる真の神様は、全てを知っておられるからです。だからイエス様は、言われるのです。「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」とです。

あの人はすごいね。あの人は、立派だね。あんなにして大丈夫なのかしら。
そういう心配すらされる人も中にはおられます。
いずれにしましても、人々から受けるこういう賞賛によって、
良いことの報いを全て受け取っていると、イエス様はおっしゃるのであります。

ある教会の先生がこう言われました。
何かを貰ったとき、「ありがとう」という。あの「ありがとう」を言ったときに、何かを差し出した人は、もう報いは受け取っている。もし、その「ありがとう」がなければ、天に宝を積んだことになる。だから、本来は「ありがとう」は言わないほうがいい。言われなかったからといって怒ってはいけないと言われます。

そこで、私は思うのであります。
理屈としては確かにそうでありましょう。
しかし、私たちは、やはりこの世に生きているのであります。社会の一員として社会生活を営んでいるのであります。それゆえに、はやり神様を知らない人に対して、否、神様を知っているもの同士でもやはり常識として「ありがとう」と言うべきではないだろうかと。

まあ、その先生は、もしかしたら、「ありがとう」の一つも言ってくれない、と言って怒っている人を慰めるために言われたのかもしれません。トラクトを配ってきて、「ご苦労さん」の一言も言わない配らない人。そういう人に対して、配ってきた人が不平不満を持つ場合、あなたは、誰の為に、何のために労したのか、その事を教えるために、また、その事を考えさせるために話された例えなのかもしれません。

施し、それは、自分が神様から豊かに与えられているから、その一部を回してあげる。
それは、自分が偉いのではなく、豊かに備えてくださった神様が偉い。
それゆえに、自慢げに、貧しいものに恵んでやると言う思いではなく、神の恵みを互いに分かち合い、喜び合うためのものといえましょう。

献金も同じであります。頂いたものをお返しするのではなく、もともと全ては神様のものですから献金と呼ぶところに、私たちの心が入っているのであります。
信仰が入っているのです。否、信仰が入っていなければならないのであります。
取られるような思いで献げるのでしたら、それは死んだお金です。
神様は決してそのお金をお喜びにはなりません。

ところで、3節では、面白いことをイエス様はおっしゃっておられます。
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」とです。

これについて、少し余談を言いますと、
私の手は本来、左利きでありますが、食事をするときに使う箸は、高校の時から右に変えました。従って今では、右でも左でも、どちらでも食べることには苦労しません。そして、食べる時は必ず左右の手は、作業を分担します。右が箸を持てば、左は茶碗であります。反対に左が茶碗を持てば、右は箸と言う風に、であります。

右で字を書き、左は消しゴムをもつ。これが、私の左手と右手の役割であります。
言うまでもないことですが、実際のところ、私たちの手足は、脳から指令が行っていますので、右の手のしていることを左の手が知らないことはありません。

つまりイエス様の言われた事は明らかに、誇張した言い方であります。
それほどに、一つの体の中でさえも知らないこととして、神様だけが知っておられればよいことだと言われているのです。他人に知られないだけでなく、自分自身にも知られないほどに、善行はするものだといわれるのであります。そして結論は4節にあります。

「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、
隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。」
隠れておられる神様が、私たちの全てのことを見ておられるのです。
その事の故に、安心して、神様の喜ばれる事をしていきたいものです。
イエス様は、施しを「人にほめられた」いという間違った動機から、人にわかるようにしてはいけないといわれました。

なぜなら、表向きは人のためでも、実際は自分のためにしているのだから、それは「偽善」となる、そのように言われます。また、人にほめられたいという彼らの真の願いはかなえられ、人からの称賛を得るので、もはや神から報いを受けることは出来ない。そのように言われます。

施しの正しい態度は、施しを人から隠すことである。また自分でも「善行をしているのだ」と意識しないことである。そうすれば、神様は「隠れた所で見ておられ」るので、善行に対して「報いてくださ」る、そのように主は言われるのです。

私たちは、多くの恵みを神様からまたこの一年間頂きます。
その恵みを数えながら、感謝して、富も賜物も時間も全ておささげし、神様にお仕えして行こうではありませんか。神様は、ご自身に熱心にお仕えするものに対して豊かに報いてくださるお方なのですから。

2010年1月31日(日) 「いかに祈るか」  マタイ6:5−15   竹口牧師 

ユダヤ人にとって、宗教的な重要な勤めが3つありました。一つは、施しであり、二つ目は祈りであり、三つ目は断食でした。先回は、その3つのうちの一つの目の施しについて1−4節より見てきました。そして今回取り上げますことは、二つ目の祈りについてであります。

イエス様は、最初に、間違った祈りの態度を教えられ、次に、9節から「だから、こう祈りなさい」と言って、祈りの見本を見せてくださいました。

以前にもお話しましたが、祈りは大変難しいものの一つであります。
がまたその一方で、大変易しいものでもあります。
多くのキリスト者は、この難しさと優しさのはざまで、だんだんに成長していくのでありますが、その祈りについて今回は、イエス様の教えから学びたいのであります。

イエス様は、5節で、「祈るときには、偽善者達のようであってはいけません。」と、そのように言われています。そしてその偽善者たちの偽善とは、何なのかを続けてのべておられます。「彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」と言われます。

ここにあります「人に見られたくて」という部分でありますが、つまり、献げる祈りは、神様に向かってなのに、偽善者の祈る目的は、「人に見られたい」というのが根底にある、そのようにイエス様は指摘されるのであります。

そういえば、祈る場面と言いますのは、信仰生活の中ではいろいろあります。
が、まあ、大きく3つくらいに分けられるでしょうか。
一つは、個人の祈りであります。個人個人が、その必要に合わせて祈る祈りであります。二つ目は、礼拝の司会者がささげるような公同の祈りであります。
三つ目は、水曜日の祈祷会や主日の訓練会の前に祈る祈祷会や、午後0時50分に祈る会堂建設の為の祈祷会というように、一緒に祈る協同の祈りもあります。

以前には、1年間365日、毎朝6時15分から7時頃まで、約20年間祈祷会というものがありました。私は、その祈祷会でいろんなことを学ばさせていただきました。
聖書の学びも勿論ありましたが、教会員の誰が何を願っているかなど一人ひとりの必要を知らされ、祈ったものでした。そういう中で、人を意識しないで祈れるようになったのも、大きな収穫の一つでありました。

キリスト者にとって、祈ることはとても大切であります。
聖書に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」とありますように、絶えず祈ることを勧められているからであります。

しかし、なかなか祈れないのが現実です。
忙しかったり、祈ったとしても形式的になったり、兄弟姉妹と祈るときは、人の祈りが気になったりと、はたまた、どう祈っていいのかと、言葉を選ぶ、そのような時もあるのであります。

ある人の希望がかなうのがその人のためになるのか、そうではなく、違う道のほうが良いのではないか、そう思ったとき、最善に導いてくださいと祈るほかない時もあります。

イエス様は言われるのです。「祈るときには、偽善者達のようであってはいけません。」とです。偽善、偽り、そのようであってはならないとイエス様は言われます。イエス様が取り上げられたその一例が、「人にみせるため」というものでありました。

ユダヤ人の中には、「あの人はよく祈っている」と、そう思われたい人もいたようで、
だから「会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好き」なのだと言われます。
私たちもまた、そんな彼らを決して笑うことが出来ない。
そうではないでしょうか。

人に聞かせる祈り、聞いてもらう祈り、それが心の底のどこかに、もしあったなら、それは、イエス様の喜ばれることではないからです。それはまさに、偽善以外の何ものでもありません。

とはいえ、人一倍、恥ずかしがり屋の私は、何度、教会を去ろうと思ったことでしょうか。お祈りがなければとどれだけ思ったことでしょうか。人を意識しすぎて祈れなかったのです。でも、容赦なく、順番が回ってくる。指名がある。その度に、脂汗をかいたものでした。

イエス様は言われます。
「人に見られたくて祈る彼らは、祈っている姿を人に見せているのですから、すでに、自分の報いを受け取っているのです」とであります。
人を意識しすぎる私は、目をつぶれば、頭が真っ白になり言葉は出てこない、目を開けて祈れば、人が気になってこれまた祈れない。そういう経験をしながら、こんにちがあるのであります。

イエス様は6節でこう言われています。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とであります。自分の部屋で、一人祈る。人を意識しなくて祈れる。これは、大変素晴らしいことであります。

だがしかし、多くの家庭の主婦の方は、ご自分の部屋をどれだけお持ちでしょうか。
日本の家庭の大抵の場合、主婦の個室というものはない、これが普通でしょう。
実のところ、私の妻にもありません。個室ではなく、台所とか、一緒に食事をする食卓くらいでしょう。ですから、「神様は台所にもおられます」という本が出たくらい、主婦の方には、まことに気の毒な現状であると言えましょう。

とはいえ、だから祈れないと結び付けては正しくありません。
祈ることは、大切なのであります。
ある意味では、絶えず祈りなさいですから、命令なのです。
現代よりももっとイエス様の時代のほうが、個人の部屋を持つことは難しかったと思われます。

ただ、ここで大切なことは、祈りのための個人的な部屋が必要なのではなく、人前で「見せるために」祈りをしないようにということであります。

祈りについてイエス様は言われます。
誰に祈るのか。「あなたの父に祈りなさい」
どこにおられるお方か。「隠れたところにおられるお方に」
見えないのに祈るのか。「心配しなくてもよい。あなたに見えなくても、
神様は、ちゃんとあなたを見ておられる」
その証拠に、「あなたに神様からの報いがあるから」とそのようにイエス様は言われるのであります。偽善者のようになるな、これがイエス様のこの朝の一つの教えであります。

もう一つ、イエス様の教えがあります。
それは、異邦人のような祈りをするなということであります。
では、異邦人とは誰を指すのでありましょうか。ユダヤ人以外を指すのでありましょうか。そのようにも取れますが、そうでもないようです。ユダヤ人といっても、いろんなユダヤ人がいるからです。つまりこれは、真の神様を信じていない人という意味でありましょう。

また、信じていても神様に信頼しない人の事を指すとも思われます。
真の神様を信じない人、それを更に範囲を狭めれば、異教徒と言うことも出来ます。
ある宗教のように、短い言葉を繰り返し言うことによって、ご利益があるとして勧めている場合もありますが、果たして、異教徒を意識してイエス様が話されたかと言いますとはなはだ疑問であります。
ただ、同じような言葉で、繰り返して繰り返し祈る。言葉数が多ければ聞かれると思うのは、正しくないわけであります。それは、自分の願いと熱心の押し付けであり、真実な祈りとはいえないからです。

随分前の話でありますが、と言ってもそんな何百年も前の話ではありませんが、私が信仰持ちたての頃ですから、たかだか40数年前のことです。
あなたは、一日何時間祈っていますかとか、あなたは、何度祈りましたかとか、
よく聞かれた時がありました。沢山祈ったほうがよい。具体的に祈ったほうがよい。
祈れば、精神的にも、心が落ち着くよと、そういう精神論まで持ち出された時がありました。

しかし、イエス様は言われるのであります。
真実な祈りとは、「ただ言葉を繰り返す」だけでなく、
長い時間祈れば聞いてくださるというものでもなく、
言葉数が多ければ、聞かれるというのでもない、とであります。

勿論、イエス様は長い祈りを全く否定されたわけではありません。
イエス様ご自身、弟子を選ぶ前には夜通し祈られましたし(ルカ6:12)、ゲツセマネの園では、「同じ事を繰り返して、三度」祈られたことが書かれています(マタイ26:44)し、また、いつでも祈るべきであり、失望してはならない事を教える為に、と言って、裁判官のたとえ話もされました(ルカ18:1−8)。ですから、イエス様の言われることを、注意深く聞かなければならないのであります。

ところで、ある本を読んでおりましたら、当時のユダヤ人は午前9時と、正午と、午後3時という、日に3度の祈りの時間に、18連祷と言われる、長い、美しい祈りがささげられていたそうです。それは、こんな出だしであったと書いてありました。

「主よ。・・私たちの神、私たちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、恐るべき神、いと高き神、天と地の創造者、私たちの盾、私たちの父祖の盾」などというように、沢山の神の称号を唱えることによって始まる。そのタイトルの一つでも忘れるなら、その祈りの効力が少なくなると信じられていたとであります。

そして、イエス様が「同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません」と言われた時、もしかしたら、このような祈りが念頭に置かれていたのかもしれない、とありました。
何となく分かるような気がしますね。これは、7節の「同じ言葉を繰り返してはいけません」との言葉に、つながっているようにも思えてきます。

ところで、8節でイエス様はこう言われています。
「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と。

熱心に祈ることは大切です。
絶えず祈ることも大切です。
しかし、言葉数を多くすれば祈りが聞かれると勘違いしてはいけない。
また、祈る前から私たちの必要を神様が知っておられるのなら、
祈る必要はないではないか、そのように言うことも間違いです。

イエス様は祈ることを教えておられるからです。
つまり、イエス様のおっしゃりたかったことは、ある先生の言葉を借りるなら
「言葉数の問題ではなく、祈祷の不必要の提唱でもなく、信頼して祈りなさい、と教えておられるのだと言うことでしょう。

祈りの目的は、祈りの答えを通して、神が生きておられることを体験することになる。
祈らずして与えられたものは、それが神から与えられたと自覚できないのが人間である。偶然の所産にするか、自分の力に帰するか、どちらかである。祈る人だけが、それが偶然でも自分の力によるのでもなく、神の恵みによることを正しく認識できる」と言われます。まことにそうではないでしょうか。

祈りの手ごたえを、祈りを通して感じさせていただけるのであります。
ただ、私たちは、勝手気ままに、無思慮な祈りをするのではなく、やはり、何を祈るべきかを知って祈る必要があります。そこで、イエス様は、どう祈ったらいいのかを、
次に教えてくださったわけであります。これが、今回申し上げたい三つ目のことであります。

主の祈りにつきましては、ルカの福音書を読みました時に簡単にお話しましたので、今回は、更に短くお話しすることにとどめることにしまして詳しくは、別の機会に譲ることに致します。

主の祈りと言われているものは、別名「弟子達の祈り」とも言われます。
当然と言えば当然でありましょう。
このように祈りなさいと弟子達が教えられたのですから、弟子たちの祈りです。
それと共に、私たちは、毎週、礼拝の中で祈っておりますが、決して、形式化してはいけない祈りであります。心からの祈りでなければならないのです。

一言ずつ、味わいながら、自分の祈りとして祈ることが求められます。
ですから、先を競って、急いで祈ることではありません。
これは、司会者に、何度も念を押すように言っていることであります。
イエス様の教えてくださった祈りの前半は、父なる神様のための祈りであります。
そして、後半で、私たちのためにも祈ることが赦されているのです。私たちの全ての必要を知っておられ、しかも私たちの理解を超えた全能の神への呼びかけから始まります。

教会に来られて、「先生。お祈りが出来ないのですが、どのように祈ったらいいのでしょうか」と言う人がおられます。ですから、入門者クラスでは、必ずアウトラインを差し上げるようにしておりますが。

と言っても、そんなに大した事は書いてありません。
2−3行書いてあるだけであります。その中の一つに、誰に祈るのかをまず明確にしなければなりませんので、その事を書いております。

まずは、「天の父」への呼びかけから始まるのであります。
次は、祈りと言いますと、まず自分の願いが優先しがちでありますが、そうではなく、
まず神様が神様としてたたえられ、崇められ、神様のご支配と神様の御心が実現するよう祈るようにとイエス様は教えられます。

私たちの必要は、神様のご支配、御心が実現するなら満たされます。
でも、私たちはともすれば、祈りといえば、お願いが先にきます。
自分の今の状況、痛み、悲しみ、苦しみ、辛さなどいろいろです。
しかし、本当の祈りは真の神中心であります。

とはいえ、同時に自分の必要の為にも祈るようにと教えられるのです。
私たちの体の必要のために、また罪の赦しのために、誘惑や悪から救い出されるように祈るように教えられるのです。13節「 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは、私たちの切実な願いでありましょう。
そして括弧をつけて〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕とあります。

この最後の部分は、ルカの福音書には書いてありません。
またこのマタイの福音書の脚注にありますように、「最古の写本ではこの句は欠けている」とありますように、最も古い写本にはありませんが、最後に神に栄光を帰す祈りが、大変大切ですので長い歴史の中で、加えられたと言っていいでしょう。

今回のテーマは祈りでありましたが、その祈りによって悟りを開くものではありません。自由に祈って何でも聞かれる、そんな便利屋の神様でもありません。
神様に栄光を帰すことこそが、神様に造られた人間の働きであります。
それ故に私達人間は、物質的必要において神様に依存しておりますし、罪赦されてもなお罪びとであります。

ですから、罪が赦されてもなお赦され続ける必要があり、罪や悪への誘いに無力である私たちは常に祈らなければならないのです。14,15節にこうあります。
「14節、 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15節、 しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の罪をお赦しになりません」とであります。

他の人の罪を赦したから自分の罪が赦されるのではありませんが、赦された者は、赦す者となれるのであります。そこで、まず赦す者としてなお自らの赦しを求めるのです。人の罪を赦すことと、天の父から赦されることとは、切っても切り離せない関係であります。

赦された喜びの経験を持たない人は、赦すことが出来ないからです。
祈りの中には、そういうことも含まれているのであります。
人に見せるための偽善的な祈りではなく、異邦人のような繰り返しの祈りでもなく、
主が教えてくださった祈りに学びつつ、主が受け入れてくださる祈りでありたいものです。


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