2010年2月14日(日) 「誰のための断食?」 マタイ6:16−18 竹口牧師
ユダヤ人が宗教的行為の中で大切にしているものが3つありました。 それは、施しであり、祈りであり、断食でした。そしてその3つのうち、2つを先回と、先々回とで見てきました。今回は、最後の断食について学ぶのであります。
以前に、私自身の経験を申し上げたことがありました。 それは、わたし自身が断食をしてみようかと思ったけれども、本格的な断食は、素人には危険なのでしなかったということでしたが、きょうの聖書箇所で扱いますのは、勿論、健康の為ではありませんし、また、宗教的とはいえ、何十日も断食をするという話でもありません。
しかし、その断食についてみようとするときに、いろいろと疑問がわいてくるのも確かであります。それは、そもそも、当時のユダヤ人は、断食をどういう目で見ていたのか。あるいは行なっていたのか。イエス様や、イエス様の弟子達は、どうしていたのかという、 素朴な疑問であります。そういう当時の状況をまず私達は知りませんと、イエス様が、きょうの所で言われている事が分からないのであります。
そこで、まず、きょうの所に入ります前に、昔はどうだったのか。つまり、旧約時代はどうだったのか。そしてイエス様の時代、一般的にはどうだったのか、それを見た時に、きょうのイエス様のお言葉の意味が判ってくると思うのであります。
ということで、まず始めに、旧約時代のことを見ておくことにします。 まず、旧約聖書の中で、一番最初に出てきますのは、レビ記16:29で、断食と言う言葉こそ使われていませんが、このように出ているのであります。
レビ記16:29−31、旧約の184ページであります。 「16:29 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第7の月の10日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。 16:30 なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。 16:31 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。」以上です。
この今読みました所に29節「身を戒めなければならない」とか、31節「あなたがたは身を戒める」とありまして、これが断食にあたり、贖罪の日に行なうことになっているのであります。
そして次に具体的に断食の言葉が出てきますのは、士師記20:26でありまして、イスラエル人がベニヤミン人との戦いで、それも神様とのやり取りの中で、神様から戦いに行くことが了承されたにも拘らず、それが勝利へと結びつかず二度も敗れたことに対して、彼らは、主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をしたことが出ております。
その次に出てきますのが、Tサムエル7章においてでありまして、イスラエルが偶像礼拝に走り、そのことを指摘するためにサムエルは、イスラエル人を集め、主のみ前に水を注ぎ断食をした事が出ています。
この外にも、ペリシテ人によって初代の王サウル、その子のヨナタン、更にイスラエル人が多く死んだことを知ったダビデは、夕方まで、断食をして悲しみを表したことがでております。Uサムエル1章12節のことであります。
このような断食の始まりは、悲しみのあまり食事ができない、食べ物がのどを通らないというところからでありますが、宗教的には、先ほどレビ記16章の事を言いましたように、贖罪の日や、新年の時に断食をするようになりました。
しかし、敬虔なユダヤ人の中には、更に、年に10日ほどの断食日を設けたり、週に一度あるいは二度、断食する者もいたようであります。きょうのところで取り上げられていますのは、自分の意志で自発的に行なわれたものであります。
ところで、では、イエス様の弟子達はどうだったでしょうか。 後に見ることになりますが、この同じマタイの福音書9:14−15には、こうあるのであります。14ページ。 9:14 するとまた、ヨハネの弟子達が、イエスの所に来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。」とであります。
ここでいうヨハネの弟子達とは勿論、バプテスマのヨハネ事です。つまり、バプテスマのヨハネの弟子達は断食をするのに、イエス様の弟子達は、断食をしないのはなぜかと言うのです。ということは、イエス様の弟子達は断食に対しては、あまり積極的ではなかったということでしょう。
一方、ではイエス様はどうだったのかと言いますと、ヨハネのバプテスマからバプテスマを受けられあと、悪魔の試みを受けられるため、御霊に導かれて荒野に上っていかれたことがこの4章にありました。あの悪魔の試みを受けられた時に、断食を40日40夜されましたので、必要な時には、断食をされていたのではないかと思われるのです。
では、イエス様はきょうの所で何を言おうとされているのか、ということになってくるでしょう。それは、断食が、宗教的な行事から始まって、やがて悲しみを表すものへと拡大し、更には、宗教熱心さを表すことへと次々に拡大していったということでしょう。そしてそこには、偽善が入り込むことを許す元になったのでした。
偽善の断食は、何もイエス様の時代だけでなく、紀元前約700年前のイザヤの時代にもうすでに行なわれていたことが、イザヤ書を見ますと分かるのであります。イザヤ58章でこうイザヤは神の言葉を語っています。 「58:1 せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。 58:2 しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。 義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。」
そして、人々の叫びが書かれています。 58:3 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。 私達が身を戒めたのに、どうしてそれを認めて下さらないのですか。」 それに対してイザヤはこう言っています。「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。 58:4 見よ。あなた方が断食をするのは、争いと喧嘩をする為であり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなた方は今、断食をしているが、あなた方の声はいと高き所に届かない。 58:5 わたしの好む断食、人が身を戒める日はこの様なものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」とであります。これは真に痛烈な批判ではないでしょうか。
イスラエルの人達は、「自分達が、断食し、身を戒めたのに、どうしてそれを認めて下さらないですか」と彼らは叫んでいるのです。イザヤはそれをばっさりと「これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。」というのです。
さて、前置きが長くなりましたが、今日のところへと入っていきましょう。まずイエス様は16節でこう言われています。 「6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。 彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」と。
ここにありますように「断食する時には、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません」という事は、断食をするとき、人々に断食していることが分かるように、わざわざ「やつれた顔つきを」して、如何に自分が宗教熱心であるか、そのように人に見せていたと言うことでありましょう。
かつてダビデは、バテ・シェバとの間に生まれた自分の子供が病気になったために、「神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた」のでした(Uサムエル12:16)。これは明らかに、人に悲しみを見せるためではなく、本当に、真剣に主に向かって悲しみをあらわしていたのでありました。
そのように、断食は、神様に向かってするものであり、人々からの賞賛を求めての行動であってはならないのです。その事をイエス様は強く求めておられるのです。偽善的な行動は、神様の目には、何の意味ももたない事をここの時点では、山上の教えのところでありますから、パリサイ人とか、律法学者とか、名指しで非難はされていませんが、5章1節を見ますと、彼らも含めた群集に明らかにしておられるのです。
なぜ、彼らは断食をしていることが人に見えるようにと顔をやつすのか、その行為がもうすでに「彼らは自分の報いを受け取っている」とイエス様は言われるのです。人々から賞賛の声を受け取っている彼らには、もう、神様からの報いは必要ないということでしょう。 ですから、もし、断食をするのなら、このようにしなさいと17節で勧められるのであります。「あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」とであります。
なぜなら、ユダヤ人たちは、断食の間、今、自分は断食中であることをみてもらうために、頭に油を塗ったり、顔を洗うことをしなかったからでした。頭に油を塗り、顔を洗うのは、祝宴に出かける時の姿を指している、そのように言う人もおられます。そのように明るく振舞うようにということでしょう。
としますと、今彼らがしている全く逆のことをしなさいと言うこと。これはしかし、普段そうしていない人が、そのようにしたなら、これもまた意識しすぎで、人に分かってしまうのではないでしょうか。つまりは、イエス様の言われていることは、ユダヤ人でありますと当然するような普通の身だしなみでいなさいよ、人に気づかれないように、自然にしなさいと言うことでありましょう。
ユダヤ教の文章の中には、贖いの日に、そして他の断食日にも、身体を洗う事や油を注ぐ事を禁じている文章もあるそうです。
しかし、それにも拘らずイエス様は断食をしても、やつれた顔などをせず、普段と同じように振る舞い、断食している事を他人に気づかれないようにしなさい、そう言われているのであります。
その理由は、当然ながら明らかであります。 18節「それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば隠れた所で見ておられるあなたの父が報いて下さいます。」とイエス様は言われるのであります。「隠れた所におられ、隠れた所で見ておられる父が報いてくださる」このことに私達は、心を真剣に向けなくてはいけないと言えましょう。
この世は、自己宣伝の時代です。意見を求められれば、はっきりと自分の意見をもち、主張しなければならない時代です。そうしないと、いないのと同じなのであります。自分自身を、インターネットのブログやホームページで明らかにし、自分自身が積極的にこの世に向かって発信する。そうしないと、この世では存在しないのと同じように見られる。そういう変な自己アピールの時代になったものです。
ただし、イエス様の時代は、まだそんなところまでいっていません。しかしそれでも、施しをする時、右の手のしている事を左の手に知られないようにとか、祈るときには、自分の奥まった部屋に入りなさいとか、断食の為にやつれた顔をしてはいけませんというように、自分のとっている行動は、誰を意識してのものなのか、それが、大変強く問われているのであります。
そして、この事は言うまでもなく、神様を意識せよ、と言うことです。私たちの心の内側にあるものは全て、神様だけを意識し、神様を中心に行動しなさいということなのです。 昔も今も、やはり人に注目されたいと言う思いは、人の心のどこかにあるひそかな思いかもしれません。それが、表面に出るときに、神様の私たちに対する見かたは当然変わられるのであります。
誰の為に生きているのか、否、生かされているのか。誰のために、何をしようとしているのか、これが、絶えず神さまは私たちに問われるということでしょう。何か、この世に残して死ななければ、自分の存在価値はないという思いが募れば、それは、良いことでも悪いことでも構わないと言うことになります。そして、大事件を起こして、満足する者も出てくるのであります。
しかし、私たちキリスト者は、そうではないはずです。 神様の栄光の為に生き、生かされているのです。 それゆえに、自分の名前ではなく、神様の御名がほめたたえられるように、施しも、祈りも、断食も、しなければならないのです。 人から褒められたくて行なうなら、それはもう、イエス様の言われるとおり、その人は報いを受けているのです。神様の御用の為に。これは、教会活動の全ての面に、いいえ、日常の信仰生活全てに適用されるべきものです。
人に知られないような働きでも、神さまはしっかりと見ていてくださいます。 そして、神様がその人に豊かに報いてくださるのであります。人を意識せず、また自己満足に陥ることなく、主に心から喜んでいただける奉仕をしていきたいものです。
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