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2010年3月7日(日) 「あなたの宝もの」  マタイ6:19-21  竹口牧師

私達は、どんなに貧乏であっても、
と言いましても、どの程度の貧乏かは、今は考えませんが、
その貧乏から少しでも抜け出せるか、あるいはその回復傾向にあるなら、
恐らく、大抵の人はその貧乏は我慢出来るでありましょう。

しかし、逆に、現在の状況から更に悪くなっているなら、そのスピードが体感できるほどではなく、随分ゆっくりでも、あるいは、はっきりと体感するならなおのこと、大抵の人は不安に陥いるものであります。その場合、多くの人は大体、最悪の事態にならないよう備えるのではないでしょうか。

かつては、好景気のときがありました。
物を作れば、すぐにそれが売れてしまう。
作っても作っても売れていくという右肩上がりの時がありました。
しかし、現在は、値段を下げても下げても売れないというデフレスパイラルに入ったとこの日本では言われています。どうしたら、それから抜け出せるのか、多くの人が政治、経済状況を、固唾を呑んで見守っているのであります。

そして、こういう時だからこそ、イエス様のこの朝のみ言葉は、私達の心に真に迫ってくるものがあるのではないでしょう。
イエス様は言われました。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。
そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」とです。

ここで、このイエス様のお言葉を考えてみなければならないのは、19節の「自分の宝」とは、何を指しているのかということでしょう。何を指してイエス様は言われたのでしょうか。後に続く言葉を見ますならば、これは明らかになってきます。

それは「虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗」まれる物、と言われていますので、物質的なものを指してはいない事が分かります。

では、物質的なものは一切、蓄えてはいけないのか。
あるいは、蓄える必要はないのか、と言うことにならないでしょうか。
きょうだけの生活、明日の食べ物のことは考えなくていいのか。
すべて使っていいのか。そういう事になってくるでしょう。

聖書を読んでおりますと、いろんな場面に遭遇するのであります。
たとえば、こんな場面があります。
若い青年がやってきまして、イエス様に質問するわけであります。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
すると、イエス様は戒めを守りなさいと言われました。
そこでその青年は、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」とこう言いました。

するとイエス様は、次にその彼にこう言われました。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。そして、それを聞いた青年は悲しんで去って行ったというのです。自分には、出来ないと思ったからです。(マタイ19:16-22)

全てを失うと考えたからでありましょう。そのように私も考えたことがありました。
「あなたの持ち物を売り払っ」たなら、どのようにして自分は暮らせばいいのだと考え、恐ろしくなりました。そこで、大抵の人は、その人の信仰が問われるのであります。
神様は、あなたにとってどんな方なのか。
どういう存在なのか。取り立てるだけなのか。
与えてくださるお方ではないのか。

このマタイの福音書7章9,10、11節にはこう書いてあります。
「自分の子がパンを下さいというときに、誰が石を与えるでしょう。
また、子が魚がほしいと言うのに、誰が蛇を与えるでしょう・・・
天におられるあなたがたの父が、どうして求める者たちに
良いものをくださらないことがありましょう」とイエス様は言われているのです。

そういう天の父なる神様であるにもかかわらず、大抵の人はイエス様の今回のお言葉にひるむのです。若き青年もひるんだのです。神様は、全てを与えてくださった方であります。ですから全て、神様のものになるのは当然でしょう。

でもまた、再び、与えてくださる。
いいえ、これまで以上に下さるのであります。実に不思議なのです。
ですから、そのような信仰に、この青年が導かれたなら、喜んで貧しい人に与えたことでありましょう。実際のところ、キリスト信仰持ったために丸裸になった。
貧しくて、今は物貰いをしていると言うようなキリスト者を皆さん見たことがあるでしょうか。

私は聞いた事がないのであります。見たことがないのです。
ですから、余計な心配はしないようにしようではありませんか。

そうかと思えば、聖書にはこんな例も載せてあります。
ある時イエス様は、神殿の献金箱に向かってお座りになり、人々が献金箱に献金を投げ入れる姿を見ておられ、多くの金持ちが大金を投げ入れているのを御覧になりながら、そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れました。

1レプタとは、最小単位の銅貨だそうです。
それを2つ投げ入れたというのです。
本当に貧しさが伝わってきますね。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」とです。(マルコ12:41-44)

この場合、貧しいやもめのした行為は大変尊いものがあります。
がしかし、その後、このやもめはどうなったのだろうかと、一抹の不安をある方は感じられるのではないでしょうか。

しかし、その必要はありませんね。
と言いますのは、この山上の教えの終わりのほうで
つまり、このマタイの6章の最後のほうで見ることになりますが、こういう風に書かれているからです。1枚めくっていただいて、次のページになりますが、こうあります。

マタイ6:28-31です。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と、こう言われるのであります。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
そうすれば「・・・全て与えられます」と言われるのです。
しかし、多くの人は、失うことを心配するのであります。
やりくり上手の方は、出費をできるだけ抑えて、限られた収入を何とか赤字にならないように運用する。まあこれが一般的であります。

しかし神様に対する姿勢は、そういうケチケチ精神では駄目なのです。
パウロはこう言っていますね。
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Uコリント9:6)ですから、少なくとも神様に対しては、私達は豊かに与えたもう主に信頼して、お献げすると言うのが、信仰者としては、正しい応答であると言えましょう。

まして、自分のことだけを考え、蓄えて何になるのでしょうか。
神様からいのちを取り上げられたら何にもならないのであります。
まあ、長々と私たちの宝と思われているものに対する私達の姿勢、というものに目を向けて考えてきましたが、イエス様は、私達の本当の宝というものは、虫とか、さびとか、きずとか、そういうようになるものではないときょうの所ではいわれているのであります。

ただし、イエス様はここで、だから無計画でありなさいとは教えておられないのは、いうまでもありません。それは、タラントの教えからもお分かりでありましょう。神様から預けられたものを、正しく管理、運用することが、キリスト者の私達には委ねられているからであります。

イエス様の時代でさえ、銀行があったのであります。
どうする事も出来なければ、土の中に埋めないで、銀行に預けておくほうがまだ良かったのであります。(マタイ25:14-30)神様は、一人ひとりに相応しいものを与え、またそれをどのように使うかをみておられるのであります。

さて、話を元に戻しまして、この世にある物質的なものが、
その人にとって全てとなっているならば、それはいけませんよ、
そのようにイエス様は警告しておられます。

イエス様はルカ12:15でこういわれています
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、
その人のいのちは財産にあるのではないからです。」と。
現在のような、経済状況では、なおのこと本当に賢く振舞わなければなりません。
神様が、キリスト者それぞれに任せておられるものは、それを正しく管理することも求められているのであります。ですから増やす事、儲ける事を禁止しておられる訳では決してありません。もし、それが駄目なら、キリスト者の実業家はいないことになります。でも、実際はそうではないことにお気づきでありましょう。

大切なのは、この地上で与えられているものは全て、神様のものであるという自覚のもとに、知恵を働かさなければならないと言う点と、神様のものを、あたかも自分の物かのように思い込んで、必死になってひたすら増やすことに目をむけ、神様から離れてはいけないということであります。

後者の点については、次のようなみことばがあります。
Tテモテ6:10であります。お聞きください。
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあるのです。まことに残念ですが、実際そういう事が起きるのです。大変恐ろしいことでありますが。

さて、次の節でイエス様は本当に大切なものは何かを言われています。
「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とであります。

では「天に宝を蓄える」とはどういうことでありましょうか。
最初のほうでも言いましたが、明らかに、これは物質ではありませんね。
虫がついたり、錆付いたりしないものだからです。
霊的なことを指しているといえましょう。
しかし、霊的なことであったとしても、
もっと具体的に言うならどういうことかということになってきます。

ある先生は、こういうふうな表現をされています。
20節の「天に宝を蓄えなさい」というのは、大抵は、善行を行なうことによって、
天の銀行に口座を作っておくことのように解釈されがちだが、これは、正しい解釈とはいえません。

6章の始めからの文脈と精神から浮き上がるように私は考えます。
『蓄えなさい』と書いてあるのですが、これは人間が自分の力や功績で蓄えられるものではなく、天の父が備えてくださったものに目が開けて、それをわが宝とすることを『天に蓄える』と表現したのでしょう。

その宝が何なのかまだここでは語られていません」と、このように言われています。
まあ、ここで結論的なこと、先のことをあえて言いますなら、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)と言うことであります。

その理由は、21節にあります。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
この世の物をいくら蓄えても際限がありません。
満足することを人は知らないからです。
財産、地位、名誉、あらゆるものをほしいままにしてもなお満足することの無い人を皆さんご存知でありましょう。

セキュリティに万全を期してもなお不安と言う人もおられます。実際に万全ではないわけであります。予想外の方法で、強盗は取ってくるからであります。財産がいくらあっても何にもならないというのは、これは決して、無い人のひがみでもなんでもありません。

また、他人が自分をどう評価するかは別の問題でありましょう。
ある人が、この地上での歩みを終える時に、この地上に生まれてきて本当によかった。
そして死んだ先は、もっと素晴らしい所へ神様は入れてくださる、
その事を知ってこの世を去れる人は、何という幸いでありましょうか。

アメリカでの大富豪は、人口の2パーセントだそうです。
そのほかの大部分の人は、貧しい人だと最近聞いたことがあります。
日本でも、格差社会であり、コンクリートから人へをスローガンに政治が変わりつつあります。

がしかし、政治がどんなに変わっても、経済が安定化しても、人の不安は決して無くならないのであります。「自分の宝を地上にたくわえる」限りなくなりません。虫とさびで、きず物になりまた盗人が穴をあけて盗むからであります。

盗人は、意表をつくようにして盗んでいくのであります。
ビルとビルとの間に油圧ジャッキを使い、壁をぶち破って、丈夫な金庫であっても見事に壊して、中身を取り去るのです。いくら保険に入っても、決して安心が出来ないのです。

一番の大敵は、言うまでも無く年齢でしょう。無限に生きることはできないからです。
この地上に多くの物を蓄えても意味がないのです。人には神様が下さった寿命と言うものがあります。誰一人、その寿命から逃れることは出来ないのです。果たしてあなたの宝は何でしょうか。その宝はどこにあるのでしょうか。

その宝は、自分の肉体がこの地上から取り去られても有効でありましょうか。
ある本にこう書いてありました。
「盗まれる物に快楽を求めてはならない。
全ての物質は盗まれる危険があり、何一つ安全なものは無い。
物質の中に求める幸福は、まことに不安定である。
人生の幸福を金にだけ求めている人は、倒産して金を失ったとき、幸福も失う。
賢い人は、失われないもの、この世の偶然や変化に影響されないものの上に幸福を築こうとする。」という風にであります。

この朝今一度、私達一人ひとり、自分の宝ものとは何かを確認しようではありませんか。そして、本当の宝を天に積もうではありませんか。
それは、永遠の命に至る食物のために働くことなのです。


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