2010年4月11日(日) 「神に目を向け」 マタイ6:22-24 竹口牧師
イエス様は、先回の所でこう言われておりました。 19節「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。 そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 20節 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 21節 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」とでありました。
生身の身体を持ち、日々肉の糧を必要としている私たちは、真剣に、自分の宝とは何か、どこにあるのか、そして、主はどのように私たちに求めておられるのか、ということなどを真剣に考えさせていただきました。
そして今回もまた、厳しくそのような問いが投げかけられる所であります。 私たちの身体には多くの器官がありますが、言うまでもなく目もその一つであります。 そして今回前半で見ますのは、その目についてであります。 きょうの聖書箇所の22節を新改訳は、このように訳しております。
「からだのあかりは目です。 それでもしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが」とです。
これをもう少し注意深く見ていただきますと「健全なら」というところに米印がついておりまして、そして脚注を見ていただきますと「あるいは、『明らか』、『澄んでいる』」という風にあるのであります。ですから、ここの訳は、いろいろな訳がなされております。
口語訳では「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。」とです。そして共同訳は「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、」となっています。
「目が健全なら」というのと「目が澄んでいれば」と言うのとでは、何となく私には感じ方が違うのでありますが、皆さんはどうでしょうか。 意味としては同じなのですが、「目が澄んでいれば」と言いますと、逆は、霞んでいればというようになりますし、健全ならと言いますと、目の健康そのものが問われている、そんな気が私にはするのであります。
で、ある先生は、この言葉をマタイは、「単純・一途」ということで使っていると言われます。またこれは、二心がない、ただ一つの点に集中している、他のものを見向きもしない単一指向の意志と生き方であるという風に言われます。
「目が澄んでいれば、」というのは、そういう地上の富に執着したり、食べ物、衣服、安全保障など、そのあたりにきょろきょろ引きずられながら、同時に神も見ているような、そんな目と比較しての「単純・一途」な目ですと言われます。 具体的な例もあげられております。
体は人格としての、その人全体を代表しており、目は神をしっかり見つめる能力。 神の光を人間としての己の中に受け入れる「光の取り入れ口」とでも言うのでしょうか。 神に向けられた純一な、まなこです。まっすぐに神に向いている視線です。 ロンドンとパリとを一緒に見ているのではなく、ホノルルと北京とを同時に、にらんでおられるような高角度の目でもなく、超指向性のマイクのように単一方向に向いて、一箇所に集中している思いです。
それは、やはりキリストを知ってから初めて持てる目なのですが、それがないと底なしの暗黒にいなければならないこと。この目は凡人にも必ず持てるものです。ただこれは、自分の罪に目が開けて、そしてイエス・キリストの流された血だけが私の罪を清めるという事実をはっきり見極めるまでは、肉のままの人間にはもてないものです、 そのようにも言われます。
もっとも、今イエス様が山上で語られているのを聞いている聴衆といいますのは、まだまだ、イエス様が、十字架にかかられていない、公の生涯の始まりの頃ですから、イエス・キリストが流される血までを考えて、人々に要求なさっているとはいえないでしょう。
とはいえ、神から目をそらしたような生活は決して正しくはない。健全とは言いがたい、この事は確かであります。 別の先生は、この22−23節のイエス様のお言葉をこのように言われます。
「体の明かりは目です」というのは、当時誰でもが知っていた格言であったと言う者がいる。そして、この言葉には二つの解釈が可能である、とです。
一つは、体の明かりは、目を通して出てくると言うもの。つまり、目は口ほどにものを言うということわざの通り目が体全体の状態を外部に伝えるという解釈。 もう一つは、体の明かりは目を通して入ってくるという読み方。これは、人間の目の機能を根拠とした解釈で目をつぶれば明かりは入ってこない。
もう少し、象徴的な意味で受け止めれば、素直な目で(実は心なのだがと注意書きしてあり)その目で物事を見るなら、素直に見え、悪意に満ちた目(つまり心で)で見るなら悪く見えるという事である、 そのように言われます。 ギリシャ語原文では、どちらの解釈も可能であるとの事です。 考えて見ますと、目とはそのようにいろんな働きをしております。 一枚の写真を見た時に、それが私たちの内側に入り、心を動かします。 その写真がどんなものであるかによって、その人、その人の反応はさまざまであります。見たものによっては、じっとはしておれない行動へと駆り立てます。
従って、目は人間の心の窓という言い方をする人もおられます。 イエス様は、「目が健全なら」あるいは、「澄んでいるなら」あるいは「純粋なら」、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう、 とイエス様は言われております。
これは勿論、霊的な事でありまして、肉体的な事を指してはいません。 目が悪ければという悪いとは、ここでは道徳的、宗教的な悪をさしております。 また、この言葉は、もともとは、「物惜しみする」とか「けちな」とか、「欲が深い」などの意味があったそうです。
ある先生は、22節で健全と訳されているのなら、23節の悪ければというのは、不健全と訳すほうが適当であろうと言われます。まあ、言わんとしますところは、神様に純粋に仕えようとしない目は、周囲に対しても良い影響を与えないと言うことでありましょう。
目は、身体に光を取り入れるような働きをします。 身体全体が目を通して光の恩恵を受けます。 ですから、目が健やかであれば,全身が光を享受して明るいのですが、 もし悪いなら全身も光を失うことになります。
そしてそれは先ほども言いましたように、肉体的ではなく、霊的なことを指して言われているのですから、健全でない目であるなら、地上の宝によって心の目が曇らされ、内なる光が暗くなり、その暗さは致命的なものとなるという事です。
目からうろこが落ちると言う言い方が、この世でされますが、真の神様のない目によって歩んでいる心の状態と、神様によって霊的な目が開かれての歩みとでは、まったく違った世界であり、それは経験した者のみが分かるのでありまして、まさに目からうろこが落ちた状態を経験した人といえましょう。
イエス様は24節で続いてこう言われております。 「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、 一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とであります。 ここで問題になりますのは、二人に仕える状態にある人がイエス様の時代にいたのか、と言うことです。仕えるというからには、そのような奴隷がいたのか、ということになりますが、一人の奴隷を二人の主人が共有するということは考えられますし、また、実際にはあったようであります。
がしかし、そのような場合、奴隷は大変であったでありましょう。 まして、二人の主人が同じ考えでなければ、成立しないのです。 イエス様が今ここで設定されておられますのは、二人が同じような考えのものではなく、全く対立することを例に挙げておられるのであります。例と言いますか、実際のことでありますが。
相対立するものを主人として上げられておられます。 一人は、神様であり、もう一人は、富であります。 その場合の弟子は、どうしたらいいのでしょうか。どちらの主人に仕えるべきでありましょうか。
答えは明確であります。神様にお仕えすべきなのです。 正しい答えが分かっていても、そう出来ないところに問題があるのです。 私たち人間の弱さがあると言えましょう。
中途半端な生き方になるのです。 中途半端な生き方になりやすいものです。 そこでイエス様は、それではいけないと言われるのです。
はっきりとイエス様は宣言されます。 「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とです。
両方に仕えることは出来ない。神と富との両者に仕えようとするなら、結局は富に支配されることになる。それではいけないよと言われるのです。
人は幸せを求めて生きています。 不幸を望んでいる人は一人もいないと言っていいでしょう。 そして、そのためにはどうしたらいいかも何となく分かっています。 でも、正しくは分かっていません。 多くの人は、この世の教えに従って生きているわけであります。
イエス様は、真の神に仕えることこそ幸いへと通じる、あるいはまた幸せへと通じることを次から述べられるのであります。
決して神に仕える姿勢は中途半端であってはなりません。 この地上の富に対する心づかいから解放されることが必要なのです。 富に支配された心は確実に思い煩いに支配されるのです。
あれがあれば、これがあればと追い求めます。 手に入れたらまた次に追い求める目標が出来ます。 目標と言いますと綺麗に聞こえますが、願望であります。 そしてそれは、その人を幸せには決してしないものです。
今も言いましたように、限りが無いからです。 限界と言うものがないのです。 追いかけても追いかけても逃げていく。そんなものです。
逃げていくと言いますと、こんな経験を私は小さい頃にしたものです。 それは、空に大きく出来た虹を追いかけたことであります。 なぜ、虹を追いかけたか、ある方はご存知でありましょう。
それは、虹の大きな半円の付け根の所には、宝があると聞かされていたからです。 私はそれを信じて、小さい頃追いかけたものでした。 でも、虹に近づいたはずなのに、一向にその距離は縮まらないのです。 そして、あの虹の付け根に行くのは無理だとある時あきらめました。 今から思えば、ばかばかしいことを信じて追いかけていたものです。
東京の空にも時々虹が出ます。 それを見るたびに、昔のその頃を思い出すのであります。 昔、あの虹の付け根の所を目指して、田舎の畑や田んぼや野山を駆け巡ったことを、です。
今はもう私は大人です。 そういう間違った行動はしません。 でも、自分の人生を振り返ってみて、未だに同じような間違いをしてはいないだろうか と考えさせられるのです。
幸せを求めて一生懸命働きます。 幸せって一体何なんだと真剣に考えることも無く、ただ物質的に豊かになれば幸せだと思い込んでいる。
でも、実際はそうではありませんね。 なぜなら、物質的な豊かさには限界が無いからです。 限界がないものを追いかけても、限界に到達することは出来ません。 それは、幸せを求めて、夢半ばで人生を閉じることを意味します。 だから、イエス様は、目の働きの大切さを言われるのです。 肉の目ではなく、霊的な目であります。
この霊的な目が曇っているなら、あるいは曇っているどころか見えないならば、 その人の歩みはとんでもない歩みであることを すでに救われている私たちにはよく分かるのではないでしょうか。
しかし、よく分かっている私たちですら、二人の主人に仕える話には、十分気をつけなければならないと教えられるのです。 なぜなら、神様に従うことが幸せにつながると私たちキリスト者には分かっていても、この世のものに誘惑されるからです。
だから、イエス様は、当時の人達に語られたと同じように、現代に生きる私たちにも、同じように語りかけて下さっているのです。
霊的な目は大切ですよ。 曇っていてはいけませんよ。 二人の主人には仕えることは出来ませんよ。 あなたの今は、どのような状態ですか、と問われるのです。
具体的な例をもってイエス様は、次から語られます。 今一度、この世のものに目を向けすぎていないだろうか。 あるいは、それに引きずられていないだろうかと自己吟味し、 しっかりと真の神様に目を向けて、 神様の喜ばれる言葉、行動、思いをするものとさせていただこうではありませんか。 御言葉に立った歩みであるならば、神様は決して私たちを裏切らないお方なのですから。
2010年4月25日(日) 「第一のものを第一に」 マタイ6:25-34 竹口牧師
昨年の暮れに、不景気のため派遣労働者が解雇になり、住む所をなくして社会問題化し、東京都は、その人達の受け入れ態勢をとりました。とりあえず、正月はそこで暮らしてください。その間にも、仕事は探してくださいと言うことで、一時金の支払いも彼らは受けました。
年が明けて、いよいよそこを出なくてはならなくなった人、これからどうしたらいいのかと心配する人もいました。何しろ、住所不定では、職にもありつけないからです。 そういう人が数百人もいました。そのような状況を思い返しながら、それでは私は、如何に生きるべきかを考えさせられた次第です。
そして改めてキリスト者は、信仰生活がきちんとしていなければならないものだと、考えさせられました。
信仰生活とは何でしょうか。 それは神様のみ言葉をいただき、そのみ言葉に生きることであります。 その御言葉に生きることそのものが、信仰生活であります。 ですから信仰と生活とが密接に関わっていて、切り離せないものです。 信仰者には、そのどちらも欠けてはならないということであります。
今仕事が忙しいから、教会へは行かれない。 今、収入が無いから教会へは行かれない。 それは、信仰と生活が分離した状態であるといえましょう。
イエス様が今日の所25節でこう言われておりました。 「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。」とです。
実際のところ、現実には、職を失い、住む家さえない。食べるものは勿論ない。 どうして暮らしていいのか心配している人がいる。 それは、この世が悪いのか。その人達の歩みが悪かったのか。 政治が悪いのかといろいろ考えさせられます。
しかしそれはともかく、この日本では、生きる権利が保障され、きちんとした歩みをしているなら、生活保護を受ける事も可能である、そういう恵まれた国、恵まれた時代に私たちはいるのであります。大変ありがたいことであります。
ところで、時代をさかのぼりましてイエス様が話された時代、 それもイスラエルはどうであったのかと言いますと、ローマ帝国という外国の国に支配され、高い税金を要求され、外国の意のままになっている中でのきょうのイエス様のお言葉であることを私たちは忘れてはなりません。
そのような厳しい現実の中でのイエス様のお言葉なのです。 それこそ何を食べようか、何を着ようかというのは、その時代に、その国に生きている人達にとって切実な問題でした。
でもイエス様は、そんなことは心配しなくてもよいと言われたのです。 なぜなら26節で「空の鳥を見なさい」と言われました。 「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。 けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなた方は、鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。」 とそう言われたのでした。
イエス様は、空の鳥に目を向けよ、とおっしゃいました。 そこで私は、あえて、この世に生きている生き物の世界について少し、思いを巡らしみました。生き物の世界を最近は、素晴らしい映像で沢山見ることができます。
草原に生きる動物達、海に生きる魚達。 中でも最近目にしましたのは、 水を飲みに来た水牛をワニが襲ったと言うものでありました。 水牛の仲間がその時、他に二頭いたのですが、 襲われている一頭を無視してその二頭は、あたかも知らぬ顔で去ったように見えました。
がしかし、暫くしますと沢山の仲間を引き連れてやってきたのでした。 そしてその助けに来た水牛とワニとの間で格闘となりました。 間に挟まった水牛の子は両者の引っ張り合いで引きちぎれそうで、ほとんど死んだかに見えました。
しかし、やがてワニは諦めて、口にくわえていた水牛の子を放すのであります。 もうほとんど子牛は死んだかに見えましたが、 がしかし、ワニがあきらめて去った後、見事に立ち上がったのでした。 つまり、その仲間達によって救われたと言う素晴らしい映像でした。
しかし、またある時には豹の餌食となり、食べられてしまう場面もみました。 まさに弱肉強食の世界であります。 彼らにはそれぞれ、天敵があり、その天敵から身を守るために、様々な知恵を神様は授けておられるのであります。
かくして生き延びるものは生き延び、そして子孫を残すのであります。 空の鳥とて同じであります。 小さな小鳥は大きな鳥に餌を奪われ、自らも危険にさらされるのです。 こうした生き物の世界を見るとき、人間の世界も、ある意味では同じではないかと思わされます。
そして、それゆえに、イエス様の次の言葉が非常に強烈に迫ってくるのであります。 27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」とであります。
本当にそうなのであります。 どんなに頑張っても、神様のご計画から外れて、永遠に生きることは出来ません。 神様のご支配の中で、生き、動き、活動させていただいているのです。 自分の力で、自分の能力で自分の働きで生きているのではありません。 生かされているのだということに、全ての人は、気がつかなければなりません。
私たちは決して神様の御前に傲慢になってはいけないのです。 また、神様が与えて下さっている状況に対して、あまり悲観してもいけないのです。 神様のなさることは、すべてにおいて正しい。 その事を神様によって創造された私たちは、忘れてはならないといえましょう。
イエス様は言われます。 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。 栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」と。
ソロモンとは、旧約時代に一大王国を築いた人であります。 父親のダビデが、多くの資材を用意し、金銀を用意しました。 ソロモンもまたそれに加えて、即位して4,5年して神殿をたて始め、 その完成後には、豪華な宮殿をも造ったのでした。 更には、世界をまたにかけて、盛んに貿易も行ないました。
そんな非常に栄えた時代の王であったソロモンでさえ、 「野のゆりの花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」 とイエス様は言われるのであります。
野のゆりは、自分で着飾ったわけではありません。 もって生まれたといいますか、生えたといいますか、 その与えられた姿で、神様の素晴らしさを表したのでした。
30節「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」とイエス様はおっしゃいました。
私たちが、神様の事を考えなくなった時、神様がして下さった事を思わなくなった時、 もはや神様の力は、その人には無く、自分の力で立とうとしている。 だから、不安でたまらない。だから、心配で仕方がない。そういうことが起きて来るのだといえましょう。
神様に頼らない。頼れない。 それは、自分の力に頼ろうとしているからであります。 自分にどれ程の力があることでしょうか。 どんなに頑張っても、星ひとつ作ることは出来ないのです。 地球を造ることなど出来ないのです。
ある本を読んでいましたら、このようなことが書かれていました。 ユダヤのラビ達の中には、動物の生態に非常に興味を持った人がいる。 ラビのシメオンは言った。
「『私は今までに、鹿がいちじくを乾かしたのを見た事が無く、 獅子が物を運搬し、狐が商売をしたのを見た事がない。 それでいて、彼らは、思い煩わずに必要な食物を得ている。 私に奉仕するために作られたこれらの動物が思い煩わずに養われているとすれば、
私を創造された神に仕えるこの私は、当然、 思い煩わずとも、必要なものを与えられているはずではないか。 しかし、私は思い煩ったので、私の持ち物までも損なわれてしまった』 イエスが指摘されるのは、鳥が働かないと言うことではなく、 思い煩わないと言うことである。 (普通の雀でも、これほどよく働く鳥はいないと言われている)
鳥の中には、人間に見られる、見る事の出来ない未来を見通そうとするあがきや、 将来の為にと蓄積した物質の中に安定を見出そうとする態度が見られない、 ということである。」以上であります。
確かに考えて見ますと、人間という生き物は、不思議な動物です。 自分が生きている間に起きるか起きないか分からない地震でおびえ、 また、将来の蓄えとして、いろいろなものを蓄え残そうとします。 それも、1年分ではなく、何年分も、であります。
人間以外の生き物で蓄えを残す期間は、私の知っている限りでは、せいぜい一冬であります。その冬を越すことが出来ればまた餌にありつける。その事を知っているからでしょうか。本能的に知らされているからでしょうか。
ところで、イエス様は、話している人達に向かって「信仰の薄い人達」と呼ばれました。 ということは、聞いている人達は、信仰をもっていたということになるでしょう。 そしてそれだけに、33節の言葉へとつながっていくのであります。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 と、であります。
信仰のない者に、神の国とその義を求めることなどできません。 神を知っているものだけが、神の義を求めることが出来るのです そういう意味では、私たちもまた幸いなことに、 薄い信仰とはいえ、信仰が与えられているのであります。 その信仰をもって神の国と神の義とを求めなさいと言われるのです。 まず第一に、であります。
そんなことを今していたら、死んじゃうよ、ではいけないのです。 教会へ行ったって、飯が食べられるわけではない。 まずは働かなくてはどうにもならない、ではいけないのです。
なぜなら、25節に戻りますが、 いのちは食べ物より大切なもの、体は着物より大切なものだからです。 命がなければ、食べ物がいっぱいあっても食べられないのです。 着物がいっぱいあっても、体そのものがなければ意味がないのです。 そして更に、その命と体を心配していてくださるのが神様だからです。
その心配してくださっている神様に背を向けて、 自分で何とかしようとする思い上がりが間違っているのです。 多くの人は、この順番を間違えるのです。
今はまだ若いから、もう少し年をとってから信仰のことは考える。 もっと生活が豊かになってから、余裕ができたら教会に行きます。 今、これこれをしなければ、もう二度とチャンスがないのです。 ですから、もう少し待ってほしい。
いくらでも理由はつくものです。 しかし、イエス様は言われるのです。 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とです。
実は、イエス様はそこで言葉を終えてはおられないのです。 そうすれば、と続くのです。 「そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます」と。 これらのものとは、食べるもの、着る物すべてであります。 多くの人は、この順番を間違えております。
神様は決して裏切らないお方であります。 お約束されたことは必ず果たされるお方であります。 でも、人はなぜか、その順番に不安を覚えるのです。 そして順番を変えるのです。 まず第一に生活、第二に信仰であります。
これは、神様の教えに逆らうものです。 そして、それと共に、私が始めのほうで言いましたように、 信仰と生活とが分離した状態なのです。 もし、イエス様の言われるとおりにするなら、決して分離することはないのです。 なぜなら、神様をまず第一するなら、 第二となるものは、続けて神様が与えてくださるからです。 その逆を生きようとするから、不安になるのです。
34節でイエス様はこう言われています。 「だから明日のための心配は無用です。明日の事は明日が心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。」と。
イエス様は、決して労苦がないとは言われていません。 人はみんな、労苦を背負って生きているのであります。 金持ちには金持ちの悩みがあります。 貧乏人には貧乏人の悩みがあります。労苦があります。 しかし、イエス様は、その労苦を認めたうえで、 神の国とその義とをまず第一に求めなさいと言われるのです。
あなたの信仰生活は、そうなっているでしょうか。 神様第一の生活になっていないとお気づきなら、 是非、第一にすべきことを第一にしてほしいものです。 そして、本当に豊かに祝福された生涯を送らせて頂こうではありませんか。
イエス様は別のところでこう言われました。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます」とです。(マタイ11:28)
イエス様のもとにまず行くことが、全ての問題の解決の始まりなのです。 そして第一のものを第一として、歩んでいこうではありませんか。
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