2010年5月30日(日) 「人をさばくな」 マタイ7:1-5 竹口牧師
この朝のイエス様のお言葉は、さばくな、という警告です。非常に厳しい警告であり、命令であります。
では、その裁くという事の意味は何か考えて見ますと、「分析する」「評価する」「価値判断を下す」といった公的な意味と、「見下げる」「批判する」「有罪判決を下す」「非難する」「中傷する」といった否定的な意味とがあるそうです。そして、今回、イエス様が言おうとされているのは勿論後者の意味、と言うことであります。
そして、私たちの教会でこういうことはないだろうかと考えた時に、残念ながら、全くないとは言えない、非常に残念な思いをしております。
では、このような悪い兆候は、あるいは現象は、あるいは実態は、私たちの教会だけなのかと言いますと、実際は、どうも、そうではないようです。と言いますのは、私の知り合いのある方が、信仰を持たれまして、別の教会の会員になられたとき、牧師からこう言われたというのです。
「教会員の中にはいろんな人がいますので、人を見ないで神様だけを見るようにしてくださいね」とです。つまり人を見ると躓きのもとになるので、見ないようにという事です。 それを聞きまして、ああ、どこの教会も同じだなとそう思いました。しかし、だからと言って、そういう良くない事で、納得し、安心しては決していけないのであります。
ところで、では、これは、キリスト教会だけなのかと考えて見ますと、これがまた決してそうではありません。どんな職場でも、学校でも、更には家庭でも、起きている。だから、事件が起き、裁判沙汰になったりしているのであります。非常に残念な現実であります。
イエス様は、きょうの所では、山上の説教の中での話ですから、信者、未信者に関係なく、いわば弟子達も含めて、話されておられるのであります。それだけ、この問題は根が深いといえましょう。何しろ、人間は生まれたときから罪人でありますから、そういう事が起きて当然といえば当然なのかもしれません。
ところで、一般社会はともかく、私たち教会に集まっている者としては、やはりイエス様のこの教えを、この朝謙虚に捉え、信仰生活を振り返り、吟味し、お従いしたいと思うのであります。神の民の一人として、神の家に属する共同体の一員として、そばにいる人を理解し、受け入れ、同情し、慰めあい、励ましあい、赦しあい、痛みを分かち合い、助け合っていきたい、そのように願うのであります。
人はなぜか、自分より優れた人を見ますと大抵は嫉妬します。 いや、そんなことはないという方もおられるかもしれません。 でも、その逆のことを考えていただければすぐわかります。 自分が他の人より少し優れている事が分かると、優越感を持ちます。 としますと、逆はどうなってくるかお分かりでしょう。 嫉妬となるのです。 こういうのは、言いすぎでありましょうか。
テレビや新聞に出てくる人が、何かに優れていると言うのは、自分との関係において、あまり身近でないので関係ないとして意識しないとしましても、職場の中で、学校の中で、家庭において、というように、身近であればあるほど、気になるものです。それが悪い方向に行かなければ良いのですが、欠点を探したり、弱さを見つけたりして、何とか自分の地位と言いましょうか、対面と言いましょうか、立場と言いましょうか、同等かあるいは少し上の様に思いたい。そのような思いが心のどこかにあらわれると危険なのであります。
ところでこんな時、私たちが決して忘れてはならない事があります。 それは、神様のみ前には、みんな同等であると言う事です。罪人であると言う点です。 完全無欠の人はいないという現実であります。
ですから、ある人の欠点を見つけて喜んでいると、その喜んでいる人を観て、また別の人は欠点を見つけて喜んでいる、そういう場面に出くわすのであります。 欠点のあるもの同士が、互いにさばきあっていては、神様のみ前には、全く受け入れられません。むしろ神の子にされた人とは似つかわしくない姿だと言えましょう。
人とは不思議なものでありまして、攻撃を仕掛けられますと、それにどうしても反撃したくなります。あるいはその人を避けたくなります。近づきがたくなります。 しかし、逆にやさしくされますと、今度は、逆の力が働きます。 別に用事もないのに、近づきたくなるのです。 何かを喜んでくれることをしてあげたいと言う思いすらわきます。 全く逆の状態であります。
そして、それこそが、神様が一番望んでおられることであります。 そういう意味で、この朝の一つの教えは、非常にネガティブな教えですが、大変大切な教えでもあります。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」というイエス様の教えです。
勿論、これは決して裁判官にはなるなとか、教会の戒規を執行するなとか、そういうことでは決してありません。この世で起こった事件は以前で言いますと、裁判官が裁いていましたが、現在は、裁判員制度なるものが実施され、誰でもが裁く側に立つ、そういう可能性が現実となりました。
イエス様は、そういうことをするなと言われているわけではありません。 あるいは、教会内のことを考えてみましても、罪を見て、見ぬ振りをするようにイエス様が言われているわけでもありません。教会の秩序を破る者に対して、教会規則に従って 神様のみ前に正しく戒規を執行することは正しいことであります。 教会自身がまず聖められなければ、この世に対して教会は、聖くある事が出来ないからです。公然と神の御名を汚す者を教会が放任しておくことは正しいとは決していえません。
もう一つの大切な点は、イエス様の2節の言葉であります。 「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と言う点であります。
ここで一般的な事を言いますと、私たちが持っています量りといいますのは、どうも人が持っているはかりとは違うようであります。その現われが、こういう言葉で言い表されるでありましょう。
人には厳しく、自分には甘く、と言う言葉であります。 自分の側に非があっても、相手の非のほうが大きく見える。 自分は全く間違いが無く、相手にのみ間違いがある。 相手もそう考えていますから、いわば、正義対正義の戦いとなるのであります。
こうなった場合、声の大きい者が、あるいは真実ではなくても、理論的に証明する能力のある者が勝つのであります。勿論、これは人間社会の中でことでありますが。
しかし、神様の目から見られた場合、どうでしょうか。 神様は和解を望んでおられる。そういう場合もあるのであります。心に留めておきたい一つの点です。
さて、もう一つ、ここで考えなくてはならない点があります。 それは、誰が誰をさばき、誰が誰をはかるかということであります。 人が人をさばき、また人が量る通りに量られるという考えですと、私たち人間が裁くとおりに神様が裁かれ、私たち人間が量るとおりに、神様が量られるという風にも読む事が出来ます。
そしてそれは、人はその量るはかりで間違いを犯しますが、神様は完全なお方であり、間違いを決しておかさない方でありますから、その場合、この世の終わり、終末の時には、 全てが明らかになり、正しい審判が下ると言うことです。そしてそれは、自分の行なったことは全て、自分の身に降りかかると言うことであります。 その事を常に覚えながら、人を量らなければならないといえましょう。
この朝の3つ目のイエス様の警告は3節以下のお言葉であります。 「7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」とあります。
私たちは、チリというものは、普段よく目にするものであります。 ちりとか、ほこりとか、本当によくたまります。逆に梁というものは、普段はめったに目にするものではありません。 あなたの家は、地震に対して大丈夫ですかと聞かれて、一戸建ての家でしたら、天井裏を見て、梁を見るくらいであります。
それは、屋根や二階の重みを支える太い木材などのことであります。 ですから、梁は大きいものであります。 従って、決して目に入るような物ではありません。
つまり、明らかにイエス様は、誇張されて言われている事が、よくわかります。 それは、注意する側の人に、決して入ることのない梁が入っていて、注意される側の人には、チリが入っている。そういう場面を想定して言われております。 これは、全く見えない人が、少しは見える人のチリを取ることを指しているといっていいでしょう。しかし、これはもうありえないほどの例です。
では、イエス様は、なぜ、こんなことを言われたのでありましょうか。 もう一度、最初に戻って考えて見ますと、 私たちは、自分のはかりで人を計りますが、しかし、自分には梁が入っている。しかもその自分の目の中にある梁を見つけることは出来ない。
では、どうしたら、自分の目の中にある梁を見つける事ができるのか、と言いますと、 神様の目で見られ、その光に照らされた時だけ、自分の目に大きな梁が横たわっている事が分かるのです。そして、それは自分の内にある罪といってもいいと思います。
では、その罪の大きさ、重さはどんなものであるのでしょうか。 それは言うまでも無く、イエス様を十字架に架ける程の大きさであり、イエス様を殺すほどの重さなのです。イエス様の十字架の刑がどれ程の大きさか想像ですがお分かりでありましょう。あの痛み、あの苦しみ、いのちをかけるという大きさ、その重みの全てが、私たちの罪の全てであり、それが重くイエス様の上にのしかかっていたのでありました。
私たちは、あのイエス様の十字架の死によって、私たちの罪、あるいは梁は、取り除かれました。そして罪赦されたあの大きな喜びが与えられたのでした。
しかし、気づかないうちにまた、大きな罪を抱え込んでいる。 そのことに気づかないまま、人の目にあるチリを気にしている。 否、黙っては入られない。人をさばくという行動によってあらわれている。 そのようにイエス様は、この朝、わたし達に語りかけておられるのです。
イエス様がある時、こんな話をされました。 ずっとあとで見ることになりますがマタイ18:23-35、少し長いのですが、大切な話ですのでこの朝、読んでおくことにします。33ページ下の段です。
「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」以上であります。
自分が赦されたことの大きさ、喜び、感謝を忘れて、人に対しては厳しく迫る。 これは、私どもにありがちなことであります。気をつけたいものです。 その一方で、イエス様は決して、批評や善悪の判断をしてはいけない ときょうの所で言おうとされているのではないことも忘れてはなりません。
それは、これから見て行きます6節のことば、「聖なるものを犬に与えてはいけません。 また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くでしょうから。」とか、
あるいは、15節の「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」というような指示を与えておられる事からもお分かりでしょう。また、18:15では「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」と「兄弟」の罪を責めるよう勧めてもおられます。
ですからイエス様の「さばくな」という命令は、批評や善悪の判断をしてはいけないということでは決してありません。大切なのは、自分の多くの欠けに目を閉じながら、他人の欠けた所には実によく気がつく。そこで善意を装い、あるいは「忠告」するのは偽善ですよ。まずは自分の問題を処理しなければ、正しく見ることが出来ないし、他の人をも真に助けることが出来ませんよ、ということであります。
私たちはこの朝、もう一度、主が私達の大きな罪を赦してくださった。 その大きさに目を留めようではありませんか。 そしてまた自分の目にある梁を取り除いてくださったという事実に感謝し、喜びを持って兄弟姉妹に、そしてこの世の人に接して行きたいものであります。
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