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2010年6月13日(日) 「豚に真珠」  マタイ7:6    竹口牧師

この朝、取り上げますみ言葉は、たった1節だけであります。しかもよく知られたことわざにもなっております。インターネットで調べますと、豚に真珠というのは、新約聖書から来ているとありまして、まさにここから来ていると言えましょう。

そこには、あわせてネコに小判というのも類似として書いてあります。
価値のわからない者に貴重なものを与えても意味がない、という意味であるとあります。

とは言いましてもネコに小判というのは、あくまでも類似のことわざでありまして、
聖書に、猫という動物は1回も登場するわけではありません。
ネコはネコでも、エジプトの王、パロ・ネコがU列王記、U歴代誌に登場しますが、
動物の猫ではありませんので、全く関係ありません。

ところで、意味としては「価値のわからない者に貴重なものを与えても意味がない」とありますが、イエス様はそもそもこの聖書箇所で、何を指し、どう言おうとされたのか、正しく私たちキリスト者は知らなければならないと思うのであります。

ところが、これがなかなか難しいのでありまして、それ故に、いろんな説が登場するのであります。まず最初に問題となりますのが、きょうの前にありました1-5節とのつながりがあるのか、という、そういう問題であります。ある人は、全く関係ないと言い、またある人は、いや、前からの続きであると解釈します。

まあ、前と全く関係がないとするなら、前の部分は全く考慮に入れなくてすむのでありますが、前からの続きとして解釈しますと、ではどういう繋がりがあるのかということになってきます。

先回見ました1-5節をもう一度読んでおきますと、こうありました。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』
などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、
兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」とあるのでありました。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。」というさばく事ときょうの所は、つながらないのではないか、というわけであります。

しかしながら今回出てきます犬とか、豚がでてきておりますが、これは明らかに誰かを指して言われていると考えられなくもありません。そこでやはり、つながりがあると考える人もいるのであります。

では、どのようにつながっていくのかと言うことになります。
そこで、きょうの所で、まず「聖なるものを犬に与えてはいけません。」とか「豚の前に、真珠を投げてはなりません。」とありますから、その、ここに登場します犬とか豚は、聖書ではどのように言われているかということをまず最初に、見ておこうと思うのであります。

たとえば、犬につきましては、新約聖書では、マルコの福音書7:27-28で、ギリシャ人の女性が登場しまして、ですから、ユダヤ人から見ますと異邦人に当たるのですが、そのギリシャ人女性が、自分の娘から悪霊を追い出して下さるようイエス様に願ったのに対して、こう言ってイエス様が断られました。

「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子供達のパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない事です。」すると彼女は言いました。
「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」とそう言って、食い下がり、願いをかなえていただくのであります。
この場合の子犬は、先ほども言いましたように異邦人ですから、ユダヤ人から見ますと、自分達の範囲外の人達ということになります。

また、ピリピ3:2によりますと、パウロがピリピの人達にこう手紙を書き送っているのであります。「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。
肉体だけの割礼に気をつけてください」とこう書いております。つまり、聖書の教えとは違うことを教えている人の事を犬にたとえて、あげているのであります。

ということは、犬は、悪いものの象徴と言えば言いすぎでしょうか。
これは別に、新約聖書だけではありませんで、旧約聖書には31回出てきますが大体にしてよくない例として書かれております。

たとえば申命記23:18には、
「どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、主の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。」とあります。

また、Tサムエル17:43には、
「ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。」とありまして、この場合ゴリヤテと言う外国人の大男がダビデに言った言葉ですが、ゴリヤテ自身、自分を犬に例えています。自分をあえて見下げた言い方なのです。

更には、T列王21:19には
「彼にこう言え。『主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」と言う風にあります。
これは北イスラエルの王アハブがナボテのぶどう畑を奪った事に対して神様がエリヤに
命じられた言葉であります。

まあ、こういうように全部あげますと31の例を取り上げなければならなくなるのですが、少なくとも、犬はよい例では取り上げられていないということがお分かりいただけたと思います。

次に豚でありますが、豚は旧約には6回出てきますが、一貫していますのは、汚れた動物であると言うことです。一つだけとりあげておきますが、レビ記11:7にこうあります。
これは、食べてもよいものと食べてはいけないものがあげられている箇所なのですが、
豚は勿論食べてはならないものの一つとしてあげられています。

ではレビ記11:7を読みますが、「それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。」と言う風に書いてあるのです。

ですから新約時代に入りましてもやはり、豚は汚れたものと言う風に扱われております。そして、こう見てきますと、犬も豚も良くは言われていない。軽蔑すべき存在であったということになります。

そして今、きょうの所でイエス様が言われておりますのは、そういう流れからしますと、当然、そういう悪い意味を込めて言われているといえましょう。

だがしかし、であります。
たとい、悪い意味で使われたとしても、では果たして、イエス様が言われるように、聖なるものを犬に与える者がいるのか。豚の前に真珠を投げる者がいるのか、ということになります。よほど変わり者でない限り、そういう人はいませんし、いたとしても、イエス様は、そんな特殊な例をここで言おうとされてはいないことは明らかです。
つまり、特定の誰かを指して言われているのであります。
その誰を指して言われているのかによって、また解釈が幾通りにも分かれるのです。
ある注解書の引用を致しますが、こんな考えがあります。当然のことながら分からないと言うことは、実に多くの人を想像の世界に引き込むものであります。

まず第1番目の解釈は、祭司とその家族しか食べてはいけない犠牲のような聖なる食物(民18:8-19)を、汚れた人々に与えてはいけないというものです。
この解釈は、旧約聖書の教えをそのまま引き継いだもので、新しい御国の民にとっては新鮮味のないものとあります。

第2番目の解釈は、「聖なるもの」を聖餐式ととって、罪人が聖餐式に与ることを禁止しているという解釈です。これは、釈義と言うより適用に近いとあります。

第3番目の解釈は、
不信仰の人々の前では奇蹟のような業は行なわないように、という意味に解釈している。

第4番目は、犬や豚を異邦人であるとか、ユダヤ人であれ異邦人であれ、福音に敵対する人であると考える。

これらの解釈では「聖なるもの」は、信仰に関わりのある事とされている、と言う風に書かれております。そしてまとめとして、一番一般的な解釈は、「聖なるもの」を福音と解して、「犬」や「豚」を福音の価値を理解できない人とするものである。このたとえの背景にあるのが、相手の準備が整っていないにもかかわらず熱心に伝道してしまう状況があったからと。そういう学者もいるそうであります。

心の準備の出来ていない人に無理やり福音を提供しようとしても、それは無駄である(箴言23:9)。しかも、それだけに留まらず、残念な結果を引き起こしかねない。聞き手の意志を無視して強引に伝道することによって、多くの人は逆に福音から遠ざけてしまっているのだという解釈です。なかなかうなずける解釈だと言えます。

しかし、その本の著者も言われていたことですが、聖餐式などに適用することは、果たしてイエス様が意図された範囲に入るかどうか微妙な問題であるとありました。私もまた、そういう懸念を持ちます。

がしかし、それらはともかく、きょうの6節を読むに当たって、1-5節の続きとして取り上げることは正しい事であるといえます。それだけにまた、仲間を裁きあわないようにという教えと共に、だからといって、極端に無批判に、どのような人でも受け入れると言うのもまた大きな間違いであり、そこには必ず、一線を引いて、区別する必要があることを教えられるのであります。

とは言いましても、犬や豚に相当する者がどんな人か、難しい問題でありますが、犬や豚に相当しない人とは明らかに分かれる、区別される事だけは確かであります。ある人は、はっきりと「暗に律法学者やパリサイ人を指して用いられた言葉であろう」とそのように言われます。

自分は正しいと自負している者達には、イエス様の福音の素晴らしさは理解できず、かえってイエス様を批判し、攻撃して、それを踏みにじってしまう。そのような者には、御国の福音を与えても無駄であるから、与えるべきではないとイエス様は言われているとはっきり言われます。

確かに、律法学者やパリサイ人は、後に、イエス様を殺そうと画策し、そして実際に、そのようにイエス様はされていかれるのであります。ですから、そのように言うことも出来ましょう。イエス様は、律法学者やパリサイ人たちに対して、自分たちの間違いに気づくように迫られましたが、決して彼らは気づくことはありませんでした。

私たちもまた、自分のことを棚に上げて他人のことばかりを批判しているなら、パリサイ人と同じである。だから、自分の罪を認めて悔い改めなければ、神の国に入ることは出来ないという風に、その先生は結ばれます。私もまたそのように教えられるのであります。

別の先生はまた、このように勧めておられます。
人を不当にさばかないことについての警告がまずあり、しかし、裁かないと言うことは人を愛する事と繋がりがあり、それはまた神様を愛することに通じる。だから、まず人を識別しなければならない。犬や豚に相当する人々に決して聖なるものを与えてはならない。

イエス様がここで言われていることは決して快いものではないけれども、しかし、それが事実であるので受け入れなくてはいけない。だがしかし、そのような種類の人間がいつまでもそうであるとは限らない。私たちもかつては犬や豚に等しいときがあった。
そんな時、どんなに聖なる真理が語られても、私たちは受け入れなかった。

しかし、ある時、私たちは、犬や豚で無くなった、とです。
いわゆる、神様が変えてくださったと言うことでしょう。
この兼ね合いが難しいのであります。
私たちが何も考えずに、ただ無差別に福音を蒔きさえすればよいのではないということ。

場合によっては、聖なるものを踏みつけ、神の栄光を傷つけ、福音を宣べ伝えた者に向かって来てかみ裂くこともある。だから、神の言葉を誰にでも無差別に語るのではなく、未信者に必要なみ言葉を区別して、また信者にも必要に応じて適切なみ言葉を語るべきでしょう。そのようにもある先生は述べておられます。

最後にもう一つ、私たちは心に留めておきたい事があります。
それは、自分は律法学者やパリサイ人ではないというおごりからの脱出であります。
彼らは間違っていると批判しながら、まさに自分がその律法学者やパリサイ人になっていないだろうかと言う点であります。

もしそうなら、先回見ましたみ言葉、5節のみ言葉が私たちに迫ってくるのではないでしょうか。「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」というイエス様の言葉であります。

私たちは、自分に対しても非常に厳しく警戒することが必要でしょう。
罪赦された自分が、いつの間にかさばく人になっていないだろうか。
罪赦された者の一人であることを忘れてしまってはいないだろうか。
私たちの心が犬のように、豚のようになっていないだろうか。
そう考えさせられるのです。

兄弟姉妹ばかりに目が向いて、あるいはまだ救われていない人ばかりに目が向いていないだろうか。この朝、今一度私たちは、神のみ前に自分はまだまだ完全とは言えないことを認めようではありませんか。そして主の憐れみによって生かされていることの幸いをこの朝確認したいのです。

犬とは誰なのか。豚とは誰なのかを問いつつ、自分もまたその犬であり、豚ではないのか。そのように導かれたとき、私たちは真に神様の御前に謙遜にさせていただいたといえるのではないでしょうか。そして主の良き福音を伝えるものとして、相応しく変えていただき、主の憐れみによって正しく用いて頂こうではありませんか。

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