2010年7月18日(日) 「良いものを下さる神」 マタイ7:7-12 竹口牧師
この朝の冒頭の聖句であります「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすればみつかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」という言葉は、私をどんなに励まし、力づけたかわかりません。また、多くの方も、この言葉によって励まされたことでしょう。
しかし、だからと言って、それが正しいものを求めたか、正しいものを捜したのか、門をたたいたのかと言いますと、私は、はなはだ疑問に思うのであります。
と言いますのは、私がこの言葉に初めて出会ったのは、大学の2年の時で、まだ信仰者ではなかったからです。今から約40年前のことであります。あの頃の私の願いは、留年しないこと。必須の科目は必ず単位をとること、これが何よりの目標でした。実験レポートが受理されること。1回でも受理されないと、それは必須科目ですので、即、留年ということになります。
そうしますと、田舎から全額仕送りをしてもらっている私が、何という大きな負担を親にかけることになるだろうかと、そういう心配を常に持っていたからでありました。困った時の神頼みでありましたが、私は、この「求めなさい。そうすれば与えられます」と言う言葉に惹かれ、必ず単位は取れると信じ続けたものでした。大学時代に、車の運転免許も取りましたが、その時もやはり同じでありました。この言葉に押されるようにして、取得したのでした。
しかし、今から考えて見ますと、果たしてイエス様は、そんなことをここで言われたのであろうか。そうすれば与えられますとここで言われたのであろうかと思えるのです。これでは、まるで他の宗教と変わらないではないか。キリスト教は、ご利益宗教なのだろうか、そのように改めて今、思うのであります。
文脈を考えず、その部分だけを取り上げて、そうだ、求めればいいのだ、捜せばいいのだ、門をたたけばいいのだ。そのようにだけ受け取って行動していた昔の私の姿を思い浮かべますと、なんだか恥ずかしい気がいたします。
何でもかんでも、ひたすら求める。神様の存在はしらない。とにかく、神様がいるらしいから、頼んでみよう。それが果たして正しかったのか、そう今にしてみれば思うのです。
今なら当然ながら、そのようであってはならない事を知っております。つまり、聖書はやはり、読んだみ言葉の前後関係をよく汲み取って、そこから真理を導き出さなければならないのであります。もし、そうしなければ、場合によっては、とんだ結論に行き着くことになる、そのように今の私には言えるのであります。
幸いにして、大学を卒業し、車の運転免許も取り、就職もし、結婚し、子を持つ親になり、今日に至っているのであります。
しかし、この今日に至るまでには、決して順風満帆で全てがうまく行って、今日があるわけではないのであります。何度も人生の試練を経験し、それを神様は乗り越えさせてくださり、こうして、皆さんの前に今いるのであります。そして、これだけは確信を持って言えるのです。
神様は良いものだけを私に下さった、とであります。
もがき、苦しんでいる時は、生きている事が本当に辛い。そういう場面も何度か経験し、通過してきたのでありました。
ところで、話を本題に戻しますが、では、きょう取り上げているみ言葉は、一体何を求めるように言われているのかということになります。 実は、それは、神の国に入ることを求めなさい、と言うことなのです。 救い主を信じなさい、ということであります。
6章の終わりのほう33節に書かれていましたが 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」とありましたように、それがまず、第一に優先なのであります。
しかし、多くの人は、信仰では食べてはいかれない。だから、まず生活優先。信仰は第二であると考えます。でも聖書はそうではないというのです。神の国とその義とをまず第一に求めなければならない。そうすれば、食べるもの、着る物、これらのものは全てが与えられると聖書は言うのです。
だから、神の国とその義をまず第一に求め、神の国に入り、神の国の一員とされることが大切なのだ、とであります。
イエス様は、そのように勧められますが、そして積極的に求めるように言われますが、どこまでも、私たちの自由意志による決断に委ねておられます。間違っている者に対しては厳しく指摘をされました。指摘された人は、自分の間違いに気づき、方向を転換するべきでありましたが、残念ながら律法学者やパリサイ人たちは、イエス様の言うことを信じませんでした。むしろ、敵意、殺意をむき出しにさえするのでありました。大変恐ろしいことであります。
イエス様はここでは「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」というように、積極的になることを勧めておられます。求めても結局は駄目なのだから、とあきらめてはいけない。求めても駄目なら捜してみなさい、捜しても駄目なら、たたきなさい、そう言っておられるのであります。
実は、ギリシャ語の原文からは、継続性を表している事が分かります。 ですから、引照聖句つきの聖書をお持ちの方は、欄外を見ていただきますと、米印がついていまして、あるいは「求め続けなさい」とか、あるいは「捜し続けなさい」とか、あるいは「たたき続けなさい」という風にあるのであります。
昔、私が神様に祈った祈りの中に、こんな祈りがあるのであります。 キリスト信仰に入る少し前のことですが。 私は、小さい頃から神様なんかいないと言われて育ちました。 悩みを持っている人のために宗教はあるのだとも言われて育ちました。 そんな私の祈る祈りがどんなものであったのか大体想像つくでありましょう。
求める心で満ちておりましたから、こう祈り続けました。 「神様。もし本当に神様がおられるのでしたら、それが私に分かるようにしてください」 これが、私の心からの祈りでした。何度も、何度も祈ったものです。先輩に誘われるままに教会に行っておりましたが、なかなか分かりませんでした。
そして、聖書の創世記から読み始めて45章に至って、私は神様の御存在とご計画というものを知ったのでした。そして、如何に生きるべきかを真剣に考えるようになりました。いわば、神様は、無知な私の心に、光を入れて下さった訳であります。
「何々をし続ける」と言うことの苦手な私ですから、求め続けることはなかなか難しいものでしたが、そこは神様のなさることでありまして、常に、求め続けなければならないような環境を作ってくださり、今日まで導いて下さったのでありました。そして振り返ってみれば、神様は私に良いものだけを下さった、とそう告白できるのであります。
そしてイエス様が、9節以下で言われている言葉が、本当に真理であることを知るのであります。イエス様は9節10節でこう言われております。 「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」と、であります。
そしてルカの11:12では、「卵を下さいというのに、誰がさそりを与えるでしょう」 というのがあるのですが、そのルカの11章のイエス様の言葉も加えてこのイエス様の例えを実にうまく説明している人がいますので、それを引用したいと思います。少し長いのですが、非常によく説明されておりますのでお聞き下さい。
「もし子供がパンを求めた時、父親は石を与えるだろうか。 もし子供が魚を求めた時に、父親は蛇を与えるだろうか。 もし子供が卵を求めた時に、さそりを与えるだろうか。 要点は、いずれの場合も二つの物が非常によく似ている、と言うことである。
海岸にある小さい丸い石灰岩は色も形も、小さなパンの塊に似ている。 もし、子供がパンを求めた時に、父親は騙して、パンと似ているが食べられない石を与えるだろうか。子供が魚を求めた場合、父親は蛇を与えるだろうか。この場合、蛇はうなぎのことである。ユダヤの律法では、うなぎが汚れた魚で、食べてはならない食物であった。
「すべて水の中にいて、ひれも、うろこもないものは、あなたがたに忌むべきものである」レビ記11:12にある。もし、子供が魚を求めたら、父親は、魚を与えるが食べてはならない魚、食べられない魚を与えるだろうか。父親はこのようにして、空腹な息子を騙そうとするだろうか。
もし、子供が卵を求めた時、父親はさそりを与えるだろうか。さそりは小さいが危険な生物である。活動している時はえびのように見え、爪で獲物をしっかりと捕まえる。針が尾について、その尾を背中の上に曲げて敵を刺す。刺されると非常に痛く、時には致命的な痛手を受ける。そのさそりが休息している時には、爪と尾を内側に曲げる。さそりの中には青白い色をした種類があって、それが体を折り曲げたときには、ちょうど卵のように見える。もし子供が卵を求めた時に、父親は子供を騙して、人を刺すさそりを与えるだろうか。
神は決して我々の祈りを拒否されない。神は決して我々の祈りを愚弄されない。 ギリシャ人の物語に出てくる神々は祈りに答えるが、その答えには鋭い針がある。 それは、のろいを秘めた贈り物である。オーロラという暁の女神は、ティソナスという死ぬべき人間を愛した。(これは、ギリシャ神話である)神々の王であるゼウスは、死ぬべき運命にある愛人の為に、女神が求めるものは何でも与えると申し出たので、オーロラは、ティソナスが永遠に生きるように願った。
しかし彼女はティソナスが常に若さを保つように願うのを忘れたため、ティソナスは次第に歳をとり、どんなに歳をとっても死ぬ事がなかった為、この恵みは呪いとなった。 ここに教訓がある。
神は必ず我々の祈りに答えられるが、その答えは、神の御心に従って与えられるのである。そしてその答えには、完全な知恵と愛がある。 もし神が、ある瞬間の我々の願いをそのままかなえられるとすれば、それは、我々にとって最悪の場合が多い。なぜなら、我々は無知なために、しばしば、我々を滅ぼすものを願い求めるからである。神は我々の祈りに答えられるばかりでなく、その答えには、常に知恵と愛とがある。イエスの言葉は、このことを教えている。以上であります。
非常に長い引用でありましたが、まさに真理をついていると私は思うのであります。 私たちは一生懸命祈ったけれども、願ったようにはならなかった。 否、願ったとおりになっていたなら、大変なことになっていた、 そういう事が、私たちの祈りには度々あるのであります。 だから、自分の願ったとおりにならなかったからといって、失望してはいけないし、 ましてや祈ることをやめてはならないのであります。 祈ることを決して忘れてはいけないと言えましょう。
祈ることをやめてはいけない。 答えられないと失望してはいけない。 神様は、ご自身のお考えによって最善をなしてくださるお方である、その事を、私たちはこの朝、もう一度確認しようではありませんか。
そして、神様がそのように愛を持って配慮し、必要なものを与えてくださるのですから、その与えられている私たちは、自分の周りの人達に対しても愛を持って行動していく、答えていくものであるように、そのようにイエス様は12節で勧められるのであります。
もともと当時のユダヤ人の教えには、「あなた自身の悩むことを、あなたの隣人に対してしてはならない」という消極的な教えであったそうです。しかし、それをイエス様は、積極的な意味に変えられたとある本にありました。
つまり、12節「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」というように、であります。
「これが律法であり預言者です。」とは、旧約聖書全体を指します。つまり、イエス様の時代、新約聖書は勿論ありませんので、聖書が、そう言っていると言われているのであります。
ある日イエス様は、律法の専門家にイエス様を試そうとしてこういわれた事がありました。(マタイ22:35-40)「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」するとイエス様はこう答えられました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、 あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 という風にイエス様は答えられました。実に適切な答えであります。
神様に愛されている私たちは、その神様を愛すると共に、更にまた、自分が神様に愛されているのですから、同じように愛されている他の人も愛していかなければならない、そのように教えられます。
相手のチリに目が行き、自分の目に梁があることを気づかないようではいけないのです。必ず良いものを下さる神様に信頼してお願いすると共に、すぐに結果が出ないからといって諦めることのないように、常に最善をなしてくださるお方を信じて歩ませていただこうではありませんか。
「求めなさい。そうすれば与えられます。 捜しなさい。そうすれば見つかります。 たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、 たたく者には開かれます。」とイエス様は言われました。
良いものを下さる神様である事を私達は良く知っているのですから、 真にイエス様のお言葉はその通りですと告白し、 愛を持って周りの人にも接して行きたいものです。
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