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2010年8月8日(日) 「狭い門から入れ」  マタイ7:13-14   竹口牧師 

この朝のイエス様のお言葉は、「狭い門」「大きい門」それに「いのちに至る門」の3つの門を用いて説明され、しかもイエス様は、その門から「狭い門」「いのちに至る門」を選ぶように勧めておられます。しかしながら、狭い門とは、どんな門なのなか、具体的なことは何も書かれておりません。

狭い門といいますと、世間一般的には、一つの例として言いますなら、有名学校の門を指す場合がありますが、それは、門自体が狭いのではなく、多くの人が殺到するから狭くなるのであります。

昔は、四当五落と言って、寝る時間も惜しんで頑張らなければ、希望する学校には入れない。それはまた希望する会社にも入れない。更には、出世にもひびいてくる。人生の成功者にはなれない。そう思われて多くの人が受験に臨み、従って狭き門を通ってきたように言われることもありました。

現在はそういったお決まりコースは嫌という人が多くなりましたが、
いいえ、現在は、有名学校を出ても、就職できない時代であります。
昨年よりも更に今年は悪くて、就職活動の為に、留年する学生もいるようになりました。が、まあ、それはともかく、イエス様は、そういう狭さを言おうとわれているわけではありません。

では一体イエス様は何をもって狭い門と言われているのでしょうか。
そして、それは、どんな人が入れるのでしょうか。
自分の力で勝ち取り、入れるものなのでしょうか。
それとも自分の力ではなく、誰かが入れてくれるものなのでしょうか。
この問いと、また答えは、大変重要だと私は思います。
なぜなら、もし、自分の力で勝ち取らなければならないのでしたら、努力しなければならないからです。もし、誰かが入れてくれるとしたなら、その入れてくれる者は誰かを知らなければならないからです。これはとても、大切な点であります。

私たちのこの地上の生涯は、どう考えても長くはありません。
たかだか長く生きても100歳前後であります。
その人生の中で、何を得て、何を持って行くかは、永遠の世界に入る者としてはとても大切のように思います。13節をもう一度読んでみますとこう書いてありました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」

これを読んでまず気づかされますのは、当たり前の事ですが、狭い門は通りにくく、滅びに至る門も大きく、通りやすい。しかも、その広い所から入って行く者が多い、という現実です。また、ここから分かりますことは、多くの人が目指している門というのは、滅びに至る門であるという事です。

しかし、ここで問題になりますのは、人と同じようなことをしていると安心だ。人と違った歩みをしていると心配だという思いがわくことであります。つまり、滅びに至る門の特徴は、多くの者が入って行き、そしてその道のほうが楽だということです。皆さんでしたら、どちらを選びたいでしょうか。

一方の道は、通りにくいが、他方の道は、通りやすい。
滅びへの道なら行きたくはないが、楽もしたい。
実に非常にわがままな考えですが、多くの人は、それではいけないとは思っていません。真剣に将来のことを考えるなら、私たちは、否応なく正しい選択に迫られます。

誰でもが通る広い道か、少数の人しか通らない狭い道かどちらがいいか。
人生を真剣に考えるなら、答えは分かっています。
けれども人はそこで、立ち止まり、考え、悩み、選択に苦しむのです。
はっきりと答えが分かっていても、あえて、イエス様の勧められるほうには行きたくない。そういう思いがわきあがってくるのであります。

ではなぜ、そう私達をさせるのでしょうか。
何が、そうさせるのでしょうか。
なぜ、イエス様の教えに素直にお従い出来ないのでしょうか。

それは言うまでもなく、その人の中にある罪の働きの故であります。
はっきりと明確に答えが分かっていても悩む、苦しむ、選びたくないというのは、
明らかに、神に対する反抗心があるからです。そのことをまず、私たちは認めなければなりません。
実は、言うまでもなく、罪の問題は、神様の前には、非常に大きな問題です。
なぜなら、永遠のいのちがかかっているからです。
罪ある者は、天の御国には行けないからです。

ところで、別の話をしたいのですが、
それは、オリンピック競技のことであります。
そのオリンピック競技を観てまず私が思いつきますのは、皆さんもそうでありましょうが、メダルの獲得数であります。それも金がいくつ取れたかであります。
しかし、その金メダルが取れるのは、私が言うまでもなく、通常は、一つの種目にたった一つであります。ですから1位には、価値があるわけであります。

その金メダルを目指して世界の選手が頑張っています。他の人と同じような練習方法、
また同じ練習時間では、金は取れません。世界のトップ、頂点に立つには、そう甘くはないのです。学校の受験なら、何百人という枠に入れば、良いわけです。それも、世界の人を相手にするのではありません。そうしてみますと、学校も、就職も決して狭き門とはいえません。

ところで、話を元に戻しまして、イエス様がここで言われていることは、最初に申し上げましたように、そういう門のことをイエス様が言われているわけではありません。この地上での、どのような栄冠にも比べられないもの、それをあなたが手にする方法は何かをイエス様は今ここで言われているのであります。そしてそれが、命に至る門であります。

いのちに至る門と言いますと、私達は今、この世に生きていて、いのちがあります。しかしそれも大変限られたいのちであります。イエス様の言われているいのちとは違うものでありますが、それはともかく、今はその限られたいのちについて考えてみますときに、何とか、大切にしようと多くの人が考えております。

私も最近、健康のために散歩をしようと考えておりまして、幸いにして、私の家の隣は駒沢公園で、とても広く散歩するにはうってつけでありまして、ある朝、意を決してその公園に散歩に出かけました。

すると、多くの人が一言もしゃべらないで、黙々と歩いておられるのを目撃しました。
(勿論、昼間とか、午後はそうではありませんで、早朝だったからですが)
そして何か異様な雰囲気を感じたものでした。それは別に話しをしないで黙って散歩されていることが異様なのではなく、その先に何があるのかを考えたときに、何か異様なものを感じたのでした。

単に、みんな健康を気遣って歩いて運動しておられた訳であり、健康の維持をすることが目的であり、一日でも元気で長生きしたい、その点に尽きるでありますが、
しかしながら、体は、いくら運動しても、年齢と共に衰えていきます。
そして、いずれはこの世での歩みの最後を必ず迎えるのです。

そのことを考えますと、黙々と歩いている姿は、自分も含めてでありますが、死に向かっての行進のように感じたのでありました。
多くの人が通る道、それは大きく、広い道、みんなで通れば怖くない道。しかし、本当に怖くないのかどうかは、死んでから分かります。そして、その時にはもう遅いと聖書は言うのです。

さて、まとめに入りたいと思いますが、
結局のところ、イエス様のお言葉を二つの見方で私は表してきたのでありました。
一つは、門は、その到達点にあるというものです。
オリンピックの受賞者の例がそれに当たるでしょう。
金を目指してがんばるというもの。
金メダルを獲得すれば、それで終わりです。

また、もう一つの門は、門は最初であり、入り口のようなもので、
入ったなら、それから長く続くというものであります。
ある目的の為に、その道をくぐっただけというものです。
公園の散歩の話がそれに当たるでしょう。

初めはいいのですけれども、永遠に生き続けられるものではありません。
では、みんなが向かっている先は、どんなところなのでしょうか。
狭い門を通った者であれば、先は約束されたもの、
広い門であれば、その行き着くところは、滅びの道であります。

そう簡単に言いきれるかどうかは別としまして、最初に狭い門ありきか、
それとも、選択し続けて行き着いたところが狭い門なのか、ということになりますが、
いずれにしましても、イエス様は言われるのです。

「狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。」とであります。

このイエス様のお言葉を聴いて、皆さんは、どちらが良いと思われるでしょうか。
狭くてきつい門でしょうか。広くて楽な門でしょうか。
結果的には、それは聞くまでもなく、狭い門がいいに決まっている、そのようにお思いでしょうか。としたら、そのような歩みをされているのでしょうか。
分かっていて従わないのは、大きな罪であります。

聖書にこういう言葉があります。
「信仰は聞く事から始まり、
聞く事は、キリストについての御言葉によるのです。」(ロマ10:17)

まず、聞かなければならないのです。
しかも、何を聞いてもいいのではありません。
キリストについての御言葉でなければならないのです。
そして、そのキリストについての御言葉は、
言うまでもなく、聖書であります。

その聖書でイエス様は、ある時こう言われたと書かれています。
「わたしは門です。誰でも、私を通って入るなら救われます」とです。(ヨハ10:9)、
あるいはまた、このようにも言われました。
「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人
父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)とです。

これらの言葉からも「狭い門」とは、イエス様の福音を聞いて、
イエス様を救い主として信じることを指していると言えます。

人生には二つの門があります。
その一つは、狭い門であります。そしてその道は困難や苦労が着いてくるのです。
もう一つの門は広い門の道です。
その道は一見しますと、楽で、すべてがうまくいくと思います。
しかし、その結末は、全く逆なのです。
果たして、わたし達はどの道を歩めばいいのでしょうか。

わたし達の前には常に選択の余地が残されています。
わたし達は、その選択を間違えますと、とんでもない方向に行くことになるのであります。

モーセは、イスラエルの人たちにこういいました。
「きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。
あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。
あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがる為だ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」(申命記30:18−20)とであります。

わたし達はこの朝、選択を迫られています。
それは、困難な道の門なのか、それとも安易な道の門なのか。
遠い道の門なのか、それとも近い道の門なのか。
分別のある道の門なのか、それとも無分別の道の門なのか、とです。
神様は、わたし達の前に二つの門を示し、
今、あなたはどちらを望んでいるのかを問われます。
そこで、少々の困難があっても、主が指し示してくださる狭い門の道を選び、
その道を通らせて下さいと願っていただきたい、そのように私はお勧めいたします。

もし、もうすでにその道を歩んでおられるなら、それは何という幸いでしょうか。
決してそれはあなた自身が選んだのではなく、神様の導きでありますので、真の神様に感謝しましょう。

主は決して裏切らないお方であります。
ですから、目先のことに惑わされず、しっかりと主の喜んでくださる門をくぐらせていただき、その道を歩ませていただこうではありませんか。

かつて詩篇の記者はこう歌いました。(詩篇119:9−11)
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。
あなたのことばに従ってそれを守ることです。
私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。
あなたに罪を犯さないため、
私は、あなたのことばを心にたくわえました。」とであります。

どんなに狭い門であっても、どんなに困難な道であっても、
主が共に歩んでくださるなら、何の苦にもならないといえましょう。
それゆえに、この朝、主の喜ばれる狭い門に入らせていただこうではありませんか。
また、狭い門をくぐらせていただいている方は、どこまでも主を信頼して、主から離れないようについていかせていただきましょう。


2010年8月29日(日) 「真理を歩むには」  マタイ7:15−23  竹口牧師

先回は伝道礼拝でしたので、マタイの福音書からではありませんでした。
従って2週間前のことですが、わたし達は7:13−14節より見ました。
そこには、「狭い門から入りなさい。」という勧めがありました。

狭い門といいますと、まずは、受験のことを想像するのですが、実は、そのようなことがここで言われているのではなく、誰も見向きもしない門のことを指していると申し上げました。みんながしていることをすることによって、何となく仲間意識、同じなんだと言うことで多くの人は安心するものでありますが、しかしイエス様は、その逆を行くように勧めておられました。

即ち、人からの評価や評判を求めるのではなく、また財産を貯めることでもなく、人が見向きもしない門を意味しておりまして、神の真理を求め、真実に生きる、そういう門を求めるように、ということでありました。しかしながら、狭い門は、なかなか見つからない、また多くの人が通ろうとしない門である故に、人目につかないような小さな門でありました。

一方、その逆の広い門は、人気があり、しかしそれはまた、滅びに至る門である、そのようにもありました。結論的には、わたし達は、命に至る門を通らなければならない。
それは、キリストによって与えられる門であるということでした。

イエス様は「わたしは門です。誰でも、わたしを通って入るなら、救われます」(ヨハネ10:9)、とか、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人父のみもとに来る事はありません」とヨハネの福音書で言われておりまして(ヨハネ14:6)、イエス様を救い主と信じることの大切さを教えられました。

だがしかし、であります。
きょうの所では、その真理を伝える者の中には、偽者がいるので気をつけなさいと言われているところであります。当然ながら偽預言者は、わたしは偽者ですよ、とは決して言いません。こんにち、あれほど振り込め詐欺には気をつけないさいよ、そう呼びかけられているのに、被害者が後を絶たないことからもお分かりでありましょう。

相手はプロであります。それを職業としているのであります。
勿論、公に認められているわけではありませんが。
ですから、本物のように振舞い、あの手この手で、誘うのであります。そして、多くの人がだまされています。騙されていることに気づけばまだいいのですが、信じて疑わない故に、被害も大きくなるのであります。そこには非常に危険があるといえましょう。

キリスト教会の中にも恐ろしい集団があることが、つい約3ヶ月くらい前でしょうか(2010年6月6日号)。新聞で公にされ、警戒するよう呼びかけがなされていました。それは、教会を乗っ取る異端の「新天地」というグループのことです。彼らのやり方は、正体を隠して既成教会に侵入し、長い年月をかけて牧師の信頼を獲得。役員やリーダーになり、気がついた時には仲間を増やして牧師を解任し、教会を乗っ取ってしまうのだそうです。次々とそのようになっていっていることで、社会問題化している国があるそうです。

ある国では、大変猛威を振るっているとの事でした。
日本上陸もまもなくということで、大変恐ろしく思っております。
クリスチャン同士、お互いを不信に陥らせるのはよくないことですが、逆に信頼を得て、それを武器に、やってくるというのは、これはまた、大変恐ろしいことと言わざるを得ません。

イエス様は15節でこう言われています。
「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」と。彼らは羊のなりをしてやって来る、ですから本当の羊と偽の羊とがなかなか見分けがつかない。つまり敵はまず、外見から信用させることは言うまでもありません。

たとえば、旧約時代のことですが、紀元前840年から850年に活躍しました預言者はエリヤ。彼は、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」預言者とは、そういう格好をするものらしいのですが、もっとも、旧約時代の他の預言者、たとえば、イザヤとかミカとか、ホセアとかいろいろな預言者が同じ格好をしていたとは申し上げられませんが、少なくとも、また、ずっと時代を下って、イエス様が活躍される頃のことですが、バプテスマのヨハネは、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」(マタイ3:4)そういういでたちでした。そして勿論、この二人は、真の神に仕える人でした。

姿、格好、成すこと、預言者らしいことを言いますと、その見分けがなかなかつかないのが現実であります。イスラエルの王制時代には、王直属の預言者がおりましたが、
その中にも、偽の預言者がおりました。

では、その偽の預言者と本物の預言者とは、どのようにして見分ければよいのかと言うことになります。イエス様は言われております。
16節「 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。」とであります。

実に、イエス様は、分かりやすい例でお話になりました。
まことにぶどうは、茨からは取れません。
いちじくは、あざみからは取れません。
出来た実をよーく見なければなりません。

いつでしたでしょうか。
公園の一角に、きれいな花が咲いていたのでありました。
しかし、その花の咲いている一角が大変問題になりました。
というのは、覚せい剤の原料になる花が混じっていたからでありました。
公園の管理者は植えた覚えはなかったのですが、しかし、あるところからの通報で、上手に処理をすれば、立派な覚せい剤が出来るということで、あわててその管理している所は刈り取ったのでした。

似たような花なのですが、茎の長さによって、どちらかが、茎が大変長く、それによって見分けがつくと言うものでした。誰かがこっそり植えて、人が気がつかないうちに抜き取ろうと考えていたのかどうか分かりませんが、まあ、見つけることが出来、事なきを得たのでした。

覚せい剤の材料になるものは、どういうものであるか、わたしは、植物にはあまり興味がありませんので、植えて観賞用にしようなどとは思いませんが、それよりももっと大事な、永遠の命がかかっていることについては、やはり、真剣にならざるを得ませんし、皆さんもなってほしいのであります。

イエス様は17−19節で、こう言われております。
「同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれます。」とであります。

悪い木をそのままにしておくことは、場所ふさぎでもありますし、邪魔になりますので、さっさと切り捨てて、よい木を植えたほうが、土地の有効利用になるといえましょう。

ところで、イエス様のおられた時代、ユダヤ人は、行ないによって義とされると考えておりましたので、イエス様が語られました悔い改めと信仰によって義とされるという福音には、見向きもしませんでした。ですから、殆どの人は、行ないによって義とされるという道を選んだのでありました。

確かに、何かをしたら義とされるとか、罪赦されるとか言われれば、それに向かって努力のしがいがあります。従って、ユダヤ人の多くが、その道を進んだのでした。いわゆる大きい門であり、その道は広いものであったわけです。

けれども、「滅びに至る」道であったことは言うまでもありません。
この世の中では滅びの道を教える者の方が人々の人気を集め、それに従う人の方がはるかに沢山おりましたし、今もそうでしょう。まさに、いのちの門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれですと、言われているとおりであります。
だからイエス様は16節で言われたのでした。
「にせ預言着たちに気をつけなさい」(15)とでありました。

「にせ預言者」とは、神の真理ではないことを、神の真理であるかのように語る者のことです。イエス様は明らかに、律法学者やパリサイ人を意識しておられました。彼らは「羊」のように温厚そうに見えますが、実のところは貪欲な「狼」であり、人々を滅ぼす者であったのでした。

律法学者やパリサイ人達は、自分たちの語っていることが神の真理であると主張しましたが、実際は全くの誤りでした。真実でない教えはどんなにすばらしく見えても、結局は「滅び」という「悪い実」しか結びませんし、ただ真理のみが、「いのち」という「良い実」を結ぶからであります。

「良い実」は、良い倫理道徳や行いを指すという解釈もありますが、そのように解釈しますと、良い倫理道徳を教え、良い行いをする者はみな正しい、ということになってしまいます。そう考えますと、真理から逸脱したものとなっていくのは明らかです。

考えてみていただきたいのですが、この世に沢山宗教がありますが、そのどの宗教に、人の物を盗みなさいとか、人を殺しなさいとか、うそを言ってもいいとか、そのように勧めている宗教があるでしょうか。

ないのです。
その逆なのです。
律法学者やパリサイ人達は、どうだったでしょうか。
「善行」をすることを生きがいとしていたのが彼らでした。
それが、永遠の命へと続くと考えていたからです。
でも、実際はそうではないのです。

真実の救いに至らせる道、イエス様の教えられる神の道、わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。と言われた主の道のみが、本当の道だったのです。
今も変わりません。真の救いに至るその門は小さく、人目に付かないので、真剣に探さなければならないのです。

もう一つ、イエス様は大切なことを語られました。
それは、熱心さだけでは駄目であると言うことです。21節にこうあります。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と、こう言われたのです
これは、非常に大切な点です。

一生懸命頑張ったから天国に入れて下さると言うものではないのです。
一生懸命頑張っているのは、何もわたし達だけではありません。
偽預言者とて、頑張っているのであります。
振り込め詐欺グループだって、人のお金を騙し取るのに一生懸命です。
人はみんな、一生懸命働いているのです。

だが、しかしであります。
天の御国に入れるのは、天におられる父の御心を行なうものだけなのです。
これが、父の御心だと勝手に決めて頑張っても意味はありません。
これなら、父なる神も認めてくださるだろうとの予測で頑張っても
それも意味がありません。

父の御心とは何かを知って、それを行なうものだけが、天の御国に入ることが出来るのであります。間違った熱心、間違った努力、間違った教え、間違った服従、みんな無駄なのであります。それが明確にされるのは、この世の終わりの時でありましょう。

神様のみ前に出てこう叫んでも、無駄なのです。
22節「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』と。
何という冷たい言葉とお思いでしょうか。

否、決してそうではありません。
間違った熱心、努力、教え、服従が、どんなに多くの人を迷わせたかを考えて下さればお分かりでありましょう。どんなに多くの人を、自分の方に引き寄せたかでもお分かりでしょう。間違った熱心は、自分だけでなく、人をも巻き添えにしているのです。
それゆえに、教会は、非常に注意が必要であり、責任が委ねられているのです。
わたし達クリスチャンの言葉、行動が問われるのです。問われているのです。

間違った言葉、行動がどこからでているのでしょうか。
間違った熱心がどこからきているのでしょうか。
それは勿論、イエス様の教え以外から来ていることだけは確かです。
イエス様の教えから離れては意味がないのです。いいえ、有害なのです。
それによって、どれだけ多くの人が真理から外れたことでしょうか。

人として善いことをするというのは当然です。それは言うまでもありません。
しかし、それと永遠の救いとは結びつかないことも真理です。
神の名によって預言したとか、悪霊を追い出したとか、
奇蹟を行ったというような行いを指しているのではありません。
もっとも大切なのは、罪を悔い改めて神を信じることなのです。
そして、御言葉に従って、なすべきことをすることなのです。

罪を罪とも思わない。救い主を救い主とも思わない。
イエス様がわたし達のためにしてくださった業を信じない者に、イエス様の救いのお働きの素晴らしさをどうして伝えられるでしょうか。
イエス様こそ、道であり、真理であり、いのちであることを、わたし達一人ひとりがもう一度確認し、そのイエス様の求めておられる働きに、忠実であろうではありませんか。
真理を歩む。
それは、キリストのお言葉に何の疑いも持たず、素直に聞き従うことなのです。


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