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2010年9月19日(日) 「嵐が来ても」  マタイ7:24−29  竹口牧師

イエス様の山上の説教もいよいよ今回を持って終わります。
この山上の説教は、5章から始まりましたが、その5章のはじめには「至福の教え」とか「八福の教え」と言われるものがありまして、そこから始まりました。

6章、7章全部が教えであり、とても長いものでありました。
しかし、その長い教えを、わたしのような大雑把な人間でも19回にもかけてみて来たわけで、今回で20回になります。場所によっては、本当にお取次ぎしにくい所も何箇所かありましたが、それは勿論、自分の弱さゆえでありまして心痛むところがありました。

しかし、避けて通ることの出来ないゆえに、畏れつつお取次ぎをしてきた次第であります。牧師のわたしも、一人の人間であり、全てのことができる訳でもなく、弱さを持つものとして、主の助けをいただきながら教えられ、また話してきました。

ところで、きょうは、その山上の説教の総まとめのようなものです。
と言いますのも、きょうの24節にありますように、「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」とあるからであります。

「これらのことばを聞いてそれを行う者は」と言われるのです。
旧約聖書の中に、こういう言葉があります。
「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」(申 6:4)というふうにです。

あるいはまた、「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、
あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。
その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。」(申 9:1)とありますし、
更には、「ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、【主】の民となった。」(申 27:9)と言うように、聴くことの大切さが言われています。

神様は、まず聞きなさいとイスラエルに言われました。
そしてイスラエルは聞いたのでした。
しかし、その聞いたはずのイスラエルはどうだったかと言いますと、神様に対して、不平、不満、反抗、反逆、時の権力者である王は、預言者を拘束したり、殺したりしました。

モーセも殺されそうにさえなりました。神様が聞きなさい、と言われたとき、
「はい。分かりました」と言って確かに聞いてはおりますが、
それで終わってはおりませんで、やはり聴き従ってのみ、意味をもつものであります。
イエス様もきょうの24節でこう言われています。
「これらのことばを聞いてそれを行う者は」とであります。
聞くだけで行なわないのでしたら、聞かなかったのと同じであります。
聞き従うところに意味があるわけです。

イエス様は、この山上の説教でいろいろなことを話されました。
その中のいくつかを思い出してみたいのですが。
5:10−12にこのようにありました。

「5:10 義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、
また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりする時、
あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。
天においてあなたがたの報いは大きいのだから。
あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

これを聞いて、素直に喜べない自分がありました。
また、イエス様はこうも言われました。
5章22節で、「5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。
兄弟に向かって腹を立てる者は誰でも裁きを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

これもまた、日常生活の中で、心穏やかならないときもあり、難しさを覚えました。
そういえば、こういうのもありました。5章27節28節
5:27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と。

今の時代、ますます女性の服装が過激になっておりますので、世の男性は気をつけなければならなくなりました。あるいはまた、5章38,39,40節ではこうありました。

5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。」
まあこの中の『目には目で、歯には歯で』とか、
「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」
などはよく知られたものでありまして、
中には、クリスチャンだと分かるとからかう者もおります。

このようにしてイエス様は、わたし達に、いろいろと教えてくださったのでした。
イエス様は、このように教えてくださいましたが、これが単なる教えに留まっていては、この世のことわざや処世訓となんら変わりませんし、イエス様が求めておられることと違うのであります。

イエス様の言葉を聞いて「それを行なう者」でなければなりませんし、
またそれは、イエス様の教えを聞いて従い、神様を信じて、神様の支配のもとで、御国の民の一員として生活することが求められているのであります。

きょうの24−27節は、そのことが、一つのたとえで語られています。
イエス様はここで、2種類の人をあげておられます。
一人は、岩の上に自分の家を建てた賢い人、であり、もう一人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人、であります。どちらも家を建てたのは同じであります。
みかけは、全くわかりません。

実は、私の家から教会に来るまでに自転車で7,8分かかるのですが、その間に、ぽつり、ぽつりと空き地が出来るのであります。そして、しばらくしますと、また家が建ち始めます。

ちゃんと最初から購入予定者がいて、工事認可の看板に名前がある場合は、多分、私が思いますのには、このように造ってくれとの依頼を受けて建てているのでしょうが、不動産屋がよく売れそうな間取りで建てる場合、実に、その建て方に、違いを私は見るのであります。そしてその大きな違いは、勿論土台であります。

ある家は、重機を持ってきて深く土地を掘り、鉄筋を組んで、コンクリートを流し込み、更に普通の家にある土台をその上に造っているのであります。
そうかと思えば、黒っぽいシートのようなものを一面に敷いたので、
その後どうするのかなと思ってみていますと、普通の家の土台に当たるものを造り始めたのでした。

これは、非常に大きな違いなのですが、建物が出来上がった時点では、全く見分けがつきません。私は、全くの素人ですから、一般家屋の土台がどの程度のものであればよいのか分かりませんけれども、少なくとも、後者の黒っぽいシートを敷いただけの家は買いたいとは思いません。たとい同じ木造住宅でもであります。

しかしながら、残念な事に、買う側には見た目には全く分かりませんから、私は、その違いに大変な恐ろしさを感じるのですが、多分、認可されて建てられているのですから、今後の大きな地震にも耐えられるものと私は信じております。

ところで、イエス様の話された例は、見た目にも明らかにはっきりとしております。
岩の上に建てられた家と、砂の上に建てられた家ですから。
どんなに丈夫な家を両者が建てたとしても、その家のよしあしは明白であります。
洪水が押し寄せ、嵐が来ると、結果は見事に現れます。
岩の上に建てられた家は、びくともしませんが、
砂の上に建てた家は、土台が押し流され倒れてしまうのです。

ところで、私は、山奥の田舎育ちでありますから、海で遊んだことは、生まれてからこれまでに、3回あるかないかであります。その中でも特に印象に残っていますのは、裸足で海岸を歩いたときのことです。

皆さんも経験されたことがおありでしょうが、海の水が押し寄せてくる。
そして自分が立っている足元まで水が達する。
その時の気持ちよかったこと、なんともいえませんね。

しかし、水が引いていくときの、足元の不安定なこと、
経験されたこと、みなさんもおありでしょう。
お分かりのように、引き潮の時、足元の砂を引いていくのであります。
ですから、足元がぐらぐらするのであります。

ちょうど、それと同じでありましょう。
砂の上に建てた家に洪水が来たならばひとたまりもないのであります。
私たちの、それぞれの人生、それは、暖かい穏やかな日々ばかりではありません。
季節に春夏秋冬があるように、人生にも冬があるのです。

昼ばかりではなく、夜もあるのです。
優しい人ばかりではなく、意地悪な人もいるのであります。
景気の良い時もあれば、不景気のときもあるのであります。

だがしかし、であります。
私たちは生きて行かなければならないのです。
なぜなら、命があるからです。そして、その命は自分だけのものではないからです。
いいえ、自分のものではないのです。神様のものなのです。
そして、その神様の為に命は用いるものなのです。
命の火が消えるまでであります。神様が取られるまでです。
どんなときにも生きなければなりません。
ただ生きればいいのではありません。

では、どのように生きるべきであるのか、ということになりますが、
それが、今まで学びました、いいえ、イエス様が教えてくださった山上の教えなのです。

イエス様は言われました。
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」

聞くだけではいけないのです。行なうことが大切なのです。
なぜなら、イエス様のお言葉は真理だからです。
真理は変わりません。
ですから、時代が変わったから、これは通用しませんと言うことはないのです。

政治は変わります。人の心は変わります。時は流れます。
しかし、真理は変わりません。真理は流れることもありません。
真理は真理であり続けるのです。

だから、心が動きやすい私たちは、しっかりとその真理に聞き、真理に聞き従うことが必要なのです。

イエス様は言われました。「私が道であり、真理であり、命なのです」と。
知識がどれだけあっても、生きる知恵がなければ、
あるいは、実行力がなければ、その人は、滅びの道をひたすら歩んでいるだけなのです。

家を建てる時、土台がとても大切なように、そして岩の上にしっかりと建てられた家は、暴風にも立ち続けられるように、私たちの人生も、キリストと言う土台の上に築かなければなりません。

人生の嵐は、否が応でも襲ってきます。
必ず来ると言ってもいいでしょう。
そのための備えを皆さんはしておられるでしょうか。
砂の上に建てた家がどんなに立派であっても、
嵐が来れば、まず土台から一気に崩れていくのであります。
それまで、築き上げたものが全て、持って行かれるのです。
神様のお言葉を聞いても行なわなければ、同じようにあなたの人生に困難、苦難、試練、恐怖が襲ったとき、立てなくなるのです。よりどころがないからです。
堅く動かないものがないからです。堅く、動かないもの、さまざまな試練が襲ってきても、それに対する対処の仕方を普段から知っているなら、その人は何という幸いでしょうか。

嵐に遭う前に、備えをされてはいかがでしょうか。
これは、人生をいかに生きるかということを教えているだけではありません。
これは、この世の終わりのことも教えております。

神様を信じて、お従いしている人も、信じないで、この世を楽しんでいる人にも、
確実に命の火が消える時が近づいているのです。そして、神様のみ前に立つときが来るのです。その時、この世をうまく上手に生きたかどうかが問われるのではありません。

かつてイスラエルに神様が言われたあの言葉、「聞きなさい。イスラエル」と言う言葉、聞いて従ったかどうかが問われます。

いま、イエス様は皆さんに向かってこう言われております。
「聞きなさい。わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」と。

私たちは共に、この朝、賢い者の一人に入れていただこうではありませんか。
そして、たとい嵐が来ても動じることのない人生を送りたいものです。

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