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2010年10月17日(日) 「イエスの心」  マタイ8:1−4  竹口牧師

きょうからマタイの福音書第8章に入ることにいたします。
これまでは、5章から7章までマタイは3つの章にかけて、イエス様の山上の教えを書いておりました。そこから、いろいろなことを私達は教えられたのであります。

そして今回から何回かに分けてみます8章は、イエス様の奇跡の話が出ておりまして、
それも、病気の人の癒しのことが、次から次へとでてまいります。
いわば、癒し主イエス・キリストの姿の一面であり、
イエス様の病気の人に対する憐れみ深さがよくあらわれております。

ところで、そのきょうの癒しの話の所で、まず申し上げておかなければなりませんことは、私どもの教会で使っています新改訳聖書第2版では、「らい病」という言い方が出てくることについてであります。

しかし、このらい病という言い方は、旧約聖書にも出てくるのでありますが、そこには家にあるらい病(レビ14:34)などという言い方も出てきまして、どうも普通に私達が考えるような病気とは違う意味も含まれている。そこで、どう訳すべきか問題になりまして、従って現在では、新改訳の第3版では、ヘブル語原語そのままの発音からツァラアトに冒された人という風に音訳されるようになりました。

従いまして、これからはそのような言葉で話させていただきます。
因みに新共同訳という別の訳では、重い皮膚病を患っている人という風に訳されていますが、どうもいまひとつ旧約聖書で言われていることとしっくりいかない、そういう点もあり、「ツァラアトに冒された人」という風に使わせてもらうことにいたします。

ある牧師の息子が、父親に向かって、「お父さん。ツァラアトというのは何」という風に聞いたそうです。そこで、その先生は、「ツァラアトというのはね、ツァラアトなんだよ」とそう答えたという話があります。

質問に対する答えにはなっていないようですが、
でも、実際の所、この世にある病気では表せないものも含まれている。
ですから、ツァラアトというしかないというのが現実であります。

さて、前置きが長くなりましたが、早速、きょうの所に入って行く事にします。
きょうの所でイエス様は、山上での教えを終えられて山を降りて来られますと、多くの群集もイエス様に従ったことが1節にでております。

そして2節には、するとそこに、一人のツァラアトに冒された人が、イエス様に近づいていくのであります。昔でしたら、このツァラアトに冒された人と言いますのは、
汚れた病気とされ、この病気の人は、普通に社会生活を送ることが出来ませんでした。

たとえば、城壁のある町でしたら、決して城壁内に入ることは赦されませんでしたし、
城壁の外でも、一般の人に近づくことも制限されておりまして、まあ、殆ど隔離されたような状況の中での生活でありました。

ですから、イエス様が病人を癒されると聞いても、自らが進んでイエス様に近づくことなど出来ませんでした。せいぜい出来ることと言いますのは、遠くからイエス様に「イエス様。いやしてください。」と呼びかけるようなことくらいでした。

ところが、きょうの2節を見ますと、
「すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。」という風にあるのであります。本来、近づいてはならない者が、みもとに来てひれ伏した。これは、イエス様にとっては大変なことでありました。

と言いますのも、今も言いましたように、宗教的には汚れると考えられていたからです。しかし、それでも彼は、イエス様に近づいたのでありました。
彼がなぜ、そこまで大胆に出たのか、それは、その近づいた人の言葉を聞けば、分かるような気がいたします。

彼は言っています。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
という風に彼は言っているのであります。
それだけ、イエス様に対する信頼があったということであります。
これが、まず大切な第一の点でありましょう。

イエス様には、どんなことでもおできになる。
この信仰は、信仰者なら誰しも持っていなければならないものです。
お願いしてもどうせ願いは叶えては下さらないかもしれないけれども、
まあ、お願いしてみるか、というのとは全く違うのであります。
ですから、こういう所を見ますと、私達のイエス様に対する信頼がどんなものであるのか、改めて心を探られる思いがいたします。

もう一つ、彼の素晴らしいところは、自分の病気がイエス様に近づくことによって、
イエス様が汚れるという心配を少しもしていないという事です。
もし、そんな心配などしていたなら、イエス様に近づくことなど彼はしませんで、
遠くから呼びかけたでありましょう。
否、イエス様が汚れるという心配どころか、自分は癒されても、
イエス様がそのために汚されるなどということは、考えもしなかったのかもしれません。

ではイエス様は彼の行動に対して、どうされたでありましょうか。
人々から隔離され、一緒には住めないような病気であると思われていたそんな時代に、イエス様は、「勝手に私に近づいてはならない。離れなさい。あなたは律法を知らないのか。わたしを汚れた者とするのか」という風には言われませんでした。

それどころか3節を見ますと「イエスは手を伸ばして、彼にさわり」とあるのであります。イエス様の方から、手を伸ばし、更には触られたのでした。
これは、ユダヤ人から見れば、大変、恐ろしいことでありますが、
イエス様は、全然そんな心配はされませんでした。

余談ですけれども、昔、この教会に幼稚園がありましたが、幼稚園の子供が砂場で、水を入れて砂遊びをしていると、そこに幼稚園の先生がやってきます。
子供は、嬉しくって、その汚い手のままで先生に飛びつきます。
しかし、それでも幼稚園の先生は、怒りません。
嬉しそうな子供の姿を見てむしろ一緒に喜びます。

しかし、子供を抱いた先生の体はどうなったでしょうか。
当然のように、泥水の手の汚れがばっちり着いたのであります。
幼稚園の教師は、そういうことには慣れていますから、
ちゃんと汚れてもよいものを着ているのであります。

汚い手で、汚れていない物に触りますと、当然ながらきれいなエプロンは汚れてしまうものです。これが、普通なのです。
これをそのまま、イエス様の場合に適用しますと、ツァラアトの人が近寄り、ましてその人に触れば、汚れた者として扱われ、民数記によりますと、「汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる」(民数記19:22)
と言う風にも呼ばれる者になるのであります。しかし、ツァラアトの人は、そういうことは一切お構いなしに、イエス様に近づいていった。

一方、イエス様の方はどうかと言いますと、
イエス様の方から手を差し伸べてくださったのでありました。
これは、ユダヤ人の世界からは考えられないことでありました。
汚れていない人が、汚れている人に触りますと、汚れていない人も、汚れてしまう。これが普通なのです。

ところが、イエス様の場合はそうではありません。
そのことをツァラアトの人は知っていたかのようです。
それで、彼らは近づいたのかもしれません。
しかしまさか、触ってくださるとは思いもしなかったのかもしれません。

でも、イエス様の方から手を差し伸べて、更には、触ってくださったのでありました。
これは大変驚きでありました。

ここでちょっと話しが汚れとは違いますけれども、
昨年から今年にかけて、新型インフルエンザが流行しました。
何しろ、新型でありますから、どの薬が効くのか、どの薬が今すぐには有効なのか、一生懸命ウイルス検査されました。そして、新型であるけれども、今までの薬でも一定の効果がある。そういうことも分かりまして、そのうちに、インフルエンザのワクチンも出来てきて効果をあげましたが、

しかし、その何年か前に起こった世界的なインフルエンザでは、沢山の人が亡くなったのでした。それは、インフルエンザにかかった重症の人は勿論のこと、その治療に当たった多くの医療関係者も含まれておりました。まさに、医療関係者は命がけで、治療に当たったという事でした。

あの時の経験を生かし、今回のインフルエンザは、出来るだけ人と接しないように、
疑いのある人達は、ホテルから出られないようにもされました。

そういう風なことを考えますと、イエス様は、自分の病気を直すことが出来ると思いながら、しかし、もしイエス様に迷惑をかけたなら、大変なことだ。そのように考えたなら、彼のような行動はとれなかったと思います。

イエス様だけは違う。他の誰とも違う。律法学者やラビや、あるいは医者とも違う。
イエス様にしか、自分が癒される道はないのだ、それも、イエス様は清めることが出来ても、汚れることなどない、そういう確信のもとでの行動であった、
これは、私達が学ばなければならない信仰だといえましょう。

とはいえ、イザヤ書53章4節からしますと「まことに、彼は私達の病を負い、私達の痛みを担った。」とありますので、ツァラアトとしての患いは表には現れなくても、イエス様が負ってくださったのである、これだけはいえるでしょう。

しかし、そうしてまで、イエス様の方から手を差し伸べてくださった。
これは、弱い者、病気の者、悩んでいる者、苦しんでいる者、
そういう私達にとって、本当にありがたいお方である、そう言えるのではないでしょうか。

私達の全ての弱さを担ってくださるイエス様。
だからこそ、信仰者の私達は安心してイエス様のみもとに行けるのだといえましょう。

今回のツァラアトの人はイエス様にこう言いました。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と。
私が今のままの分離された生活を続けるのも、
きよめられて、新しい生活を始めることが出来るようになるのも、
あなたのお心次第、あなたのお心一つで決まります。
すべては、あなたにかかっております。
主よ、憐れんでください、というそういう訴えであったでしょう。

それに対してイエス様は、
「私の心だ。きよくなれ」とそう言われたのでした。
この「私の心だ」という「心」とはどんな「心」なのでしょうか。

それは、あなたは病気であってはほしくない。
悩んでいてほしくはない。苦しんでいてもらいたくない。
健康な体で、神を賛美しながら生活してほしい。
そういうようなイエス様の思いであったのではないか、
そういう思いが私にはしてくるのであります。

本来、人は神様に似せて造られ、よいものでありました。
しかし、人類に罪が入ったために、いろいろな苦しみを人は負うことになりました。
従ってそれが、あらゆるところにひずみを生み出し、人は苦しむようになりました。
でも、神様の思いは、それが当たり前ではないわけです。

人々の心はみんな健全で、まことの神様を神様として崇め、賛美し、
神様の教えに忠実にお従いし、神様から祝福を受けながら生活してほしい、
それが、私の心だ、とそう言われているように私は思います。
だから、「きよくなれ」と言われたのであります。
そしてイエス様によって、彼はきよめられたのでありました。

彼の汚れは取り去られました。きよめられました。
そしてそのきよめられた彼に向かってイエス様はこう言われました。
「気をつけて、誰にも話さないようにしなさい。」とです。
なぜ、イエス様は、「誰にも話さないように」と言われたのでしょうか。
恐らくそれは、今後のイエス様のお働きに関わった理由と言うものがあったでありましょう。

イエス様を信じれば、ご利益が必ずある。
そのように信じられれば、多くの人が押し寄せることになる。
しかし、本来の目的はそうではありません。
イエス様の目的は、最後には、十字架にかかって贖いの死を受けると言う大切な使命があったのでした。ですから、今は、その使命達成のための準備以外のなにものでもありませんでした。

それゆえに、彼には必要最低限のことを告げられたのでした。
「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。
ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。
そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」とでありました。

「ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。」
つまり、病気が癒されたという事実だけでなく、
社会復帰の為に自分を祭司に見せなさいと、そう言われたのです。

レビ記を読みますと、汚れに関する細かい規定がありまして、
祭司に見せることが必要であったわけでありました。
そして、その人は公に、社会の仲間入りすることになるのでした。

イエス様はそこまで考え、配慮し、彼を取り扱ってくださいました。
一生懸命願って、願った通りにしていただいても、一瞬の大喜びで、神様に対する感謝の心を忘れる。これは、本来あってはならないことであります。

しかし、多くの人は、恵みを受けながら、
その恵みを戴いた事をいとも簡単に忘れてしまうものであります。

汚れを聖められた彼に向かってイエス様は、
「モーセの命じた供え物をささげなさい。」と言われました。
私達は、イエス様の力が、私達の考えている以上に
素晴らしい能力をお持ちであることを信じるべきです。
それとともに、イエス様は神の御子であられるのですから、
そのイエス様のお心は、私達が真の神様に信頼して、
感謝の心を持ってこの世を過ごすことが求められていると言えましょう。

イエス様は、これからご自分がメシヤであることを、
事あるごとに、いろいろな方法で明らかにされます。
今回の病気の癒しもその一つです。

イエス様は人としてこの地上に来てくださいましたが、メシヤとしてきてくださった。
そして信じる者に、み心を表してくださったのでした。
私達もまた、イエス様がどういうお方であるのか、知っていてもなお、ぐらつく信仰でありますから、何度も何度もイエス様は神の御子であることを確認しながら、より一層、イエス様を信頼し、主を喜ぶこと、賛美すること、心から礼拝をすることをさせていただこうではありませんか。

主イエスの心、それは主によってきよめられた私たちが感謝しつつ、一日一日を過ごすようにと願っておられると言えましょう。

2010年10月31日(日) 「権威ある者の言葉」  マタイ8:5−13  竹口牧師

先回申し上げましたが、この8章は、多くの病気の癒しのことが出ております。先回は、ツァラアトに冒されている人をイエス様が癒された、という所を見ました。

ユダヤ人から見れば、そのツァラアトに冒されている人の行動と、また、イエス様の行動とは、意表をつくようなものでありました。なぜなら先回の病気の人は、ユダヤ人に近づいてはいけなかったのに、彼から近づいて行きましたし、また、イエス様も、手を差し伸べて触れることは、汚れるとされていましたのに、イエス様ご自身の方から手を差し伸べられたからでした。

そして、今回のイエス様のお働きもまた、その癒しの過程で、いろいろと考えさせられる事がありますので、それを見ていきたいと思うのであります。

イエス様の時代、ローマが、パレスチナを牛耳っておりました。
すなわちローマ帝国全域は、軍隊が配置され、パレスチナも例外なく、軍隊が駐屯していたわけであります。今回登場します百人隊長といいますのは、その名が示しますように、ローマの軍隊の歩兵100人の指揮官を指します。

聖書辞典によりますと、
その部隊は最初100人で構成されましたが、後には必ずしも100人にかぎらず、
それに近い数の兵士を指揮するようになったそうです。
原語は「100」と「支配する」の2語からの合成語で、当時のローマ帝国の軍隊は、1軍団が歩兵3千から6千人と騎兵300から700人の兵力によって編成され、1軍団には約60人の百人隊長がいたそうです。

その任務は兵営においては主として隊員の訓練と武器や食糧、衣服の点検をし、戦場においては兵隊の指揮に当ったそうです。時には百人隊長が軍団から離れた特殊な任務に携わることがあり、聖書の中に出てくる百人隊長はこうした特別な任務に携わっていた人々であったと言われます。

言うまでもなく、軍隊経験は、私には全くありませんが、軍隊は、命令系統、指揮系統が非常に重要な役割を果たし、これが戦力に非常に大きな影響を与えることは言うまでもありません。当然と言えば当然ですが、上官の命令は、たとえ理不尽な命令でも、命令されれば従わなくてはならない。これが、軍隊の規律であります。

ですから、余計な話ですが、第2次世界大戦の時の日本軍の中には、上官には絶対服従ということを利用し、弱い者いじめがあったと聞いております。

ところで、きょう、登場します百人隊長と言いますのは、そのような悪い上官とは全く違う、否、むしろ非常に部下思いの隊長であったことが分かるのであります。

それは、彼のイエス様への願いの言葉からはっきりと分かります。
と言いますのは、彼はこういっているからであります。
6節「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」

これは、現状をそのまま述べただけでありますが、しかし、次のイエス様のお言葉より、当然ながら、癒しを求めていることが分かるのであります。

イエス様はこう言われています。「行って、直してあげよう」というふうに、です。
つまり、百人隊長は、しもべの病気の癒しを求めたわけです。
しかし、これはまた、非常に常識では考えられない願いであります。

と言いますのは、そのまず一つには、
百人隊長が自分の部下よりももっと下のしもべの中風の癒しの為に願っているからです。部下ならともかく、それよりも下の者のためにです。
もっとも、このしもべと言いますのは、聖書をよくご覧になりますと、
米印がついていまして、直訳は子(若者)とでていますので、
百人隊長に仕えているしもべかどうかはっきりした事は分かりません。

ただ、他の訳を見ましても、みなしもべと訳されていますので、それで問題はないでありましょう。

とするなら、これはまた、百人隊長の非常に憐れみ深い心が、読み取れるのではないでしょうか。なぜなら、その当時のしもべは、奴隷で、何の価値も認められていなかったからです。

奴隷が苦しもうと、生きようと死のうと、そんなことはどうでも良かったのです。
奴隷は物でしかなく、法律的な権限を全く持たず、奴隷を優遇するも冷遇するも、主人の自由でありました。病気がち、役に立たない者は捨てるということもあり得ました。
主人が奴隷に対してまさに、生殺与奪の権利を持つことは、一般的には認められていました。

そういう権限を持ちながら、この百人隊長は、しもべの病気を何とかしてやろうと考えるのですから、他の百人隊長とは少し変わっていたという事も出来ましょう。

まあ、ここで直訳では「子」あるいは「若者」と訳されるところをあえて新改訳では、「しもべ」と訳されていますのは、百人隊長の指揮官としての姿を浮き彫りにする為なのかも知れません。そして、その訳は、新改訳に限らず、口語訳も新共同訳も同じように「しもべ」というふうに訳しております。

もし、しもべとするなら、非常に良い百人隊長であり、このような主人でありますなら、元気になりましたなら、どんな命令でも喜んで従いたいという思いをしもべは持つでありましょう。いわんや、上司であるなら、それはとても、素晴らしいと言えます。

上官と部下との関係で申しますなら、先ほども言いましたように、悪い例で言いますと、先の世界大戦のさなかにおいては、日本軍の中には、悪い上官であれば、戦いの中で部下が上官を撃ち殺したという状況もあった、そのように聞いております。
あまりにも憎しみが強いためですが。

まあ、一応ここでは、しもべと訳されておりますので、それで、話を進めてまいりますが、ですから、隊長に仕える軍人の一人ではなく、隊長個人に直接仕えているしもべであったのでしょう。そのしもべのために、百人隊長は願うのであります。

それに対してイエス様は「行って、直してあげよう」と言われたのでした。
この時、イエス様は、百人隊長がユダヤ人ではない事は、百も承知で言われたという事は、注目すべき点であります。それは、これもまた、異邦人の家に行く事は、先回と同じように、宗教的には汚れることにつながるからです。

でも、それをあえてイエス様はしてあげようと言われたのです。
ユダヤ人と異邦人との垣根を越えてであります。
私たちの救いが今日あるのも、この恵の一環であります。
なんという感謝なことでしょうか。

ところで、百人隊長はイエス様にこういうのであります。
8節「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。
ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」とであります。

先回の癒しの場合、イエス様ご自身が手を差し伸べ、病人に触って癒されました。
しかし、今回の場合、どの位の距離があったのかはわかりませんが、少なくともイエス様が行かなければならないほど、病人との距離は離れていたわけでありました。

ところが、百人隊長は、その距離を無視して、否、それどころか、百人隊長のしもべがどんな人か、病気の程度はどんなものか、苦しみなどの状況など、全くご覧にならなくても、癒していただけるとの確信で、百人隊長はイエス様に願っているのであります。これもまた、大変な驚きであります。

ところで、ある時テレビを見ていましたら、最近のお医者さんは、あまり触診をしない。聴診器で音を聴かない。あまり患者さんの目を見て会話をしない。症状だけ聞いて、薬を処方するだけという医者が増えてきたなどといわれていたのを思い出します。
ごく最近はどうかわかりませんが。

見ないでも、触らないでも、症状を聞けば大体分かる。
そうかもしれませんが、患者としては何か昔と違う。
何かといえば、器械で調べて、データで分析をする。
何か血の通った診察がされていないと聞いたことがあります。
もし、そういう関係者がおられたら、お許しいただきたいのですが。

が、まあそれはともかく、百人隊長は、自分の身分をよく心得、イエス様に嘆願しております。何を心得ているかといいますと、その一つ、自分はローマの百人隊長という事で、ユダヤ人ではない。従って、彼は、ユダヤ人から見れば自分は異邦人である。
だから、ユダヤ人を招いても、異邦人の家に入っていただけない。もし入っていただくと、汚れた者となる。それでは申し訳ないという思いを彼は持ったということであります。

もう一つは、イエス様のお言葉だけで癒していただける、そう信じて疑わなかったということであります。触っていただかなくてもということ。これは、ものすごい信仰であると私は思うのであります。そこまで、イエス様の力を信じていた。そのような信仰を、彼はどこでいただいたのだろうかと、逆に疑問が私には湧いてくるのであります。

彼は9節でこう言います。
「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」と、であります。

私達は、このような適用に、どのような反応をするのでしょうか。
病気の場合と、部下に命令する場合とを同じレベルで考える。
否、考えられるでしょうか。

たとえ病気であるという同じレベルであっても、あの人が癒されたそうであるけれども、あの人はあの人、でも、私の場合は別のことである、そういう風には考えがちではないでしょうか。

あの人は手を置いて祈ってくださったので癒された。
でも、今の場合は、遠く離れている。異邦人であり、訪ねてはもらえそうにはない。
そのように思うのが普通だと私は考えます。皆さんはどうでしょうか。

聖書の中に多くの癒しの例が出ております。
イエス様が多くの人の病気を癒してくださっております。
でも、私の場合は別。そういう思いを持ちやすいことは、改めて信仰とは何かを考え直してみる必要があると私は感じます。

希望なきところに希望をみる。
不可能と思えるところに可能性を見るのが信仰ではないでしょうか。
いわしの頭も信心からではありません。
私達キリスト信仰者には、確かなイエス様のお言葉があるからです。
力あるお言葉があるからです。
言われたことは必ず行なわれるお方だからです。

もし、それを信じなかったなら、それはもう、この世の人となんら変わらない群れといわざるを得ません。百人隊長の信仰は、病人とイエス様との距離をもろともせず、症状がどんなものであるかイエス様は見ておられなくても、どこにいるどの人かを、私達人間の考えで言いますと、知らないでも、癒してくださるとの信仰を彼は神様から与えられていたのでした。私は、私自身の信仰を問われているように思います。

イエス様は10節でこう言われています。
「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」とです。改めて、私たち自身の信仰の状態を省みようではありませんか。

そして、「主によって語られたことは、必ず実現すると信じきった人は、何と幸いでしょう」(ルカ1:45)と言ったエリサベツの言葉にアーメンと言おうではありませんか。
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を
置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」
というパウロの言葉を思い出そうではありませんか(Tコリ 15:19)
私たちにとってイエス様は、頼りになるお方なのです。

ところで、お分かりのように、実は、イエス様のお言葉は、10節で終わっていないのであります。11,12節でこういわれています。
「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」とであります。
これは一体どういう事でありましょうか。
「たくさんの人が東からも西からも来て」とあります。

これは、その前にある異邦人の百人隊長の話の続きでありますから、ユダヤ人だけを指していないことが分かります。つまり、私たち異邦人をも指すということです。
ということは、全世界から人々が来るという事です。

次に「御国の子らは外の暗闇に放り出され」とあります。
御国の子らとは、選民イスラエルを指す事は間違いありません。
その彼らが外の暗闇に放り出されるというのです。
選民としての自分たちのみが神の祝福に与ると信じて疑わなかった、そういうユダヤ人の常識に対して、イエス様は、そうではないと言われるのです。

天の御国は、神様に選ばれた異邦人で満ち溢れたものとなる。
「天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。」といわれます。なんという幸いなことでしょうか。

自分たちこそ、アブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着くと信じて疑わなかったユダヤ人たち、その彼らが、外の暗闇に放り出されると言われる。
これは、本来あってはならない事であります。

しかし、イエス様を信じない人は、間違いなくそうなるのです。
「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ただ、おことばを下さい。
そうすれば、私のしもべは直ります。」と百人隊長は言いました。

私たちは、いつも信仰が試されております。
あなたは、私を信じますかと問いかけられています。
あなたは、見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです、と言われるのです。

イエス様の神の子としての力を、信じて疑わない、
そのような信仰を主からいただいているのですから、
行動でもそうありたいものです。

ある意味では、13節のお言葉は、怖い言葉でもあります。
イエス様は百人隊長にこう言われております。
「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」

つまり、少しも迷いがあってはならないのです。
幼子のような信仰でなくてはならないのです。
イエス様は、いつも私たちの心を見ておられます。
そして、もっともっと信頼するように求めておられます。

ですから、そうさせていただこうではありませんか。
イエス様にとって、どんなことでも壁となるものは、どこにもありませんし、
祝福に満ちた権威あるお方なのですから。

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