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2010年12月26日(日) 「イエスに従う」 マタイ8:18-22   竹口牧師 

私達は、イエス様の山上での教えを見た後、この朝も見ようとしています8章の、それも最初の1節から先回までは、イエス様のなされた奇跡が続けざまに書いてありましたので、それをみてきました。

1−4節で、ツァラートに冒されている人が癒され、5−13節で百人隊長のしもべが中風で病んでいましたが癒されました。更には、14−15節ではペテロのしゅうとめが熱病で病んでいましたが、彼女もやはり癒されました。そして16−17節では、悪霊につかれた人が大勢連れて来られ、また、病気の人もみな、お直しになったとありました。

このように連続してマタイは、イエス様の奇跡を書いておりましたが、一時中断して今日の話に入り、次回見ます23節以下から再びイエス様は奇跡をされたことをマタイは書くのであります。

なぜ、マタイは、そのような書き方をしたのか、学者は、いろいろなことを考えます。
一つは、マタイは、悩めるしもべとしてのイエスを考えていたのではないかと言います。
と言いますのは、今回見ますすぐ前に、イザヤ53章4節を17節で引用して、「彼が私達のわずらいを見に引き受け、私達の病を背負った」と書いて、マタイの心には、イエス様の枕するところがない人の姿が思い起こされたのであろう、という風に考えます。

またある人は、「主に従う」とはどういうことか、その事を読者に考えさせるためではなかったかとも言います。イエス様の素晴らしさを見る人は、誰しもついて行ってみたいと思うものでありましょう。しかし、それはどういう意味か、どういうことを指しているのか、よく知らなくてはいけない、理解しなくてはいけない、そういうことを考えさせるために書いたという風にも言います。

なかなかはっきりしたことは分かりませんが、ただ、ここでは、イエス様にお従いするとはどういうことか、どういう気構えをもっているのか、大変問われているところではあります。

イエス様は、自分の周囲に群集が集まって来たのを見られて、ガリラヤ湖の向こう岸へ行こうとされました。それは、次回見ます24節で、イエス様は舟の上で眠っておられるので、恐らく大変疲れておられ、身も心も休ませるために、向こう岸に行こうとされたのだろうということであります。

イエス様のお名前が有名になれば、なるほど、イエス様について行ってみたいと思う者があらわれて当然でしょう。そして今日の話では、一人の律法学者が来たのでありました。そしてこう言いました。
「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」とです。

イエス様がどこから来られて、どこに行こうとされているのか。
もし、本当のところが分かったなら、
なかなか安易にはいえない言葉でありますが、
律法学者とありますので、なかなか偉い人であったようでありまして、
彼は「どこにでもついてまいります。」というのであります。

ここで彼は「先生」とイエス様に呼びかけていますが、これはまあ尊敬し、教えを請いたい人なら誰でもが使う言葉でしょう。しかし、そのあとの言葉は大変気になるのであります。今も言いましたが、「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」ということば、

それは本当に、どこにでも、ついていけるのか。
イエス様が人々から脚光を浴びておられるので、その方についていけば自分もその脚光を少しでも受ける事が出来る、あるいは、イエス様の弟子になれば、もっと何かが出来るのではないかと考えたのでしょうか。

そういう打算的な考えであったなら、ついていくことは大変難しいことであります。
現在の私達の感覚では、福音書の最後までを知っておりますので、この律法学者の言葉は、イエス様がのちにかかられる「十字架の死まで」ついていけるのかと言うように、
そこまでも含めて律法学者の言葉を聞いてしまいますが、今のこの時点で、そこまで彼が想像して言っているとはいいがたい、そのように私は思います。

では、イエス様は、その律法学者に対してどう答えられたかと言いますと、
決して喜ばれたようには書かれておりません。
イエス様は言われました。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とでありました。

これは、私には、ゆっくり休む所などはないんだよ、
安住の地はないんだよ、とそう言われているように思います。
しかし、律法学者がこれを聞いて、それでも「ついていきます」とか、
それでは「止めておきます」とか、あるいはどういったのか、マタイは何も記してはおりません。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」けれども「私には何もないんだよ。それでもいいのかね。」とイエス様は言われました。
では実際のイエス様のこの地上での生涯は、どうだったのでしょうか。
休むところなど全くなかったかと言いますと、決してそうではありませんでした。
これから先の活動において、時には、もしかしたら、野宿をされたことがあるかもしれませんが、大体は、イスラエルの北のほう、ご自分のお育ちになられたガリラヤ地方を伝道されたときは、ガリラヤ湖近くのカペナウムにあるペテロの家を、ねぐらにされていたようですし、一方、南の方に下って、エルサレムで活動されるときは、マリヤとマルタの住んでいるベタニヤにある家をよく用いられたように思います。

ですから、イエス様のこの地上の公の生涯を通してみれば、仮に野宿をされたことがあったとしても、殆どがそうであったわけではありません。
しかしまあ、家庭を捨て、家を捨てて、神の子としての働きをなさったことに変わりはありません。

で、今この時点で問われていますことは、「人の子には枕する所も」ないような者についてくるのか、と問われているのであります。
やはりついていくにはイエス様に対する信頼がなければなりませんし、心構えも必要なのであります。

ところでイエス様はご自分の事を「人の子」とここで言われていますが、
これは、私達自身が人間の子であるというのと同じ意味での人の子と言われたのではありませんで、ご自分がメシヤであることを人々にあまりなじみのない言い方で、つまり、意味のはっきりしない言い方でされたというわけであります。

と言いますのも、その当時ユダヤ人たちにとって、「メシヤ」という称号は、権威を持った称号であったからです。

そこで異邦人の支配下からユダヤ人を救い出して、つまり、ローマ帝国に支配から、独立と自由を回復させる王という、政治的色彩の濃い意味でメシヤという言葉は理解されていたので用いられませんでした。

ですから、あえてイエス様は「メシヤ」という言い方を避けて、「人の子」という言い方をされたわけでありました。

では、そういう言い方が当時の人たちに全く意味が通じなかったのかと言いますと、
これまた、決してそうではありませんで、通じていたのでありました。
と言いますのは、旧約聖書では使われていたからです。
ある本に、このように説明されていましたので、引用しますが。

「人の子」について、『この語は、イエスがご自分を指すとき一番多く使われたタイトルである。ルカ24:7、ヨハネ12:34、使徒7:56の3箇所以外は、すべてイエスから発せられたものである。例外的な3箇所もイエスについての言及である。

このタイトルは、新約聖書に96回でてくるが、その殆どは、共観福音書である。
(共観福音書とは、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書の事ですが)
マタイ書においては、この箇所に初めて登場する』」と言う風に書かれております。

私が聖書を読み始めてまず、ぶつかったのが、まずこの言葉でした。
イエス様はご自分のことを「人の子」と言われるけれども、私も人の子ではないか。どこが違うんだと言う思いでした。

この問題の解決は、聖書をとにかく読むしかありませんでした。
そして、同じ人の子といえるのに、イエス様と私との違い、そこには大きな違いがあることを後に知る事になるのであります。
そしてこれもまた、ある本から引用になりますが、しかも少し長いのですが、分かりやすいので引用させていただきます。こういう風に書かれてあります。

「少し面倒な事かもしれませんが、少なくともこれだけのことは、ご一緒に学んでみたいと思います。

第一に気をつけていただきたいことは、主イエスが、なぜここで、「私には」枕するところがない、という言い方をなさらずに、『人の子には』とわざわざおっしゃったか、ということであります。

主イエスは、ご自分のことを、しばしば、『人の子』とお呼びになったのです。このマタイの福音書の中でも、主イエスがご自分のことを「人の子」とお呼びになったのは、どういう場合であるのか、あとでゆっくり調べてご覧になると良いと思います。
たとえば、同じマタイによる福音書13:41,42にこうあります。

「13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、 13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」とあります。

また24:27では、「24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくようにちょうどそのように来るのです。」とあります。

この24章は、そのままずっとごらんになっていきますと、30節、33節、37節と『人の子』という言葉が次から次へと出てまいります。

そこで、このようなマタイの、言葉使いの背景を理解するためにダニエル書7:13−14節を読みたいと思いますと言ってその著者は、旧約聖書のダニエル書を引用されています。

「7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、
諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」以上です。

そしてさらに引用させていただきますが、「このダニエル書の言葉は、マタイの福音書の全体を理解するのにも、とても大事なところです。繰り返し、繰り返し思い出したほうが良い言葉であります。

このダニエルが語っております預言が、主イエスにおいて実現したのだとはっきりマタイは信じているのです。「人の子」と言う言葉は、ダニエル書のこの預言に支えられて、神の民の救いの希望が根ざすひとつの言葉となりました。

神から主権を与えられ、支配力を与えられて、この世に神のまつりごとをおこなうために登場する救い主です。特に、世の終わりにおいて、この救い主がその全貌を現すべきことが、はっきりと語られているのです。」以上そこまでにしておきますが、

まあ、このようにして、マタイは「人の子」と言う言い方で、特別の意味を持たせ、律法学者に語られたと言う事です。律法学者は、これを聞いてどう判断したか、ついていこうと決めたのか、やっぱり今はやめとこうと考えたか、分かりません。非常に考えさせられる言葉であったことだけは確かであります。

そしてまた、別の人が登場するのであります。
それも21節にありますように、今度は、「弟子」と呼ばれている人であります。
弟子と呼ばれるからには、もうすでにイエス様に付き従っている人であります。
で、その人はどういったかと言いますと、
「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
と、こう言ったというのであります。

でも、イエス様は、それに対して「わたしについて来なさい。」と言われたのです。
更に「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」とも言われたのでした。

これは、実に大きな問題であります。
親戚の誰かの死ならともかく、実の父親の死なのですから、
葬る事をさせてくださいと言ったなら、「ああ、いいよ。是非行ってきなさい」と言われて当然の状況です。

しかし、イエス様は、そうは言われませんでした。
「わたしについて来なさい。」という冷たいとも思える言葉でした。
更には、すぐには理解できないようなことを言われております。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」という風にです。
死人が、どうして死人を葬る事ができるのでしょうか。そんなことはありえないのです。

しかし、その人が行って何かをしなければ、死人はそのまま放って置かれるのかと言いますと、決してそうではないでしょう。他の誰かが、葬りの儀式をしてくれるのであります。

でも、実の父親の死のときぐらい、行ってもいいではないか、そのように多くの人は考えます。なぜイエス様がここで、そうまで言われなければならなかったかと言いますと、イエス様の真の弟子になるとは、そういうことだったからです。

つまり、住む事も、食べる事も、寝る事も決して安定していない。まして、後には、いなくなられるのであります。そういうことは、ここではまだ明らかにされていませんが、ゆくゆくは、そうなるのであります。

イエス様の弟子となるとは、それ相当の気構えが必要であるということであります。
そのことを、ここで明らかにされているのです。

昔も今も、人の死に関しては、何よりも優先される事柄です。
現代では、忌引きとして休みが取れ、十分に、その弔いの働きができると言うのが現実です。しかし、イエス様の弟子とならんとするものは、それ以上に大切な事がある。
それは、どんなときでもイエスに従うということであります。それが今ここで問われているのです。

イエス様は、言われます。
枕するところもない私についてくるのか。
何を頼りにして生きるのか。
生きるのも死ぬのも私、イエスのためといえるのか。

これが厳しく問われていると言えましょう。
イエス・キリストには、安住の地はない。
ゆっくり眠る所もない

イエス・キリストを信じて従うということは、今までの生活をそのまま温存しながら、
なおかつ、良いことが得られるのではない。
今までの歩みを全く変えなくてはならない。
そういわれているように私は思うのであります。

イエス様は、この地上に救い主として来られました。
そのための一歩を踏み出しておられるのです。
その方の弟子になろうとする者は、全てをなげうって、主に信頼して従う事が求められています。果たして、私達の信仰の現在のあり方はどうでありましょうか。

命を捨てて愛してくださった方に、イエス様の弟子に相応しい思いと行動をしているのでしょうか。この2010年の主日の礼拝を締めくくるに当たり、今一度、主の弟子として喜んで従って来て良かった。新しい年も喜んでお従いさせていただこうとの思いを強くさせていただきたいものです。


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