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2011年1月2日(日) 「イエスと共に歩む」  マタイ8:23−27  竹口牧師

新年、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

新しい年の初めのみことばをどこにしようかと考えておりました時、
今私は、マタイの福音書を見ておりますので、それ以外のどこかの箇所をと考えておりましたが、今日の聖書箇所が、新年礼拝にぴったりだと導かれまして、そのままマタイの福音書をこの新年礼拝にもってくる事となりました。

きょうの話は嵐の話しですが、ではなぜ、この嵐にあった弟子たちの所が新年礼拝にあっていると思うようになったかと言いますと、今年は、例年に比べまして、今まで以上に信仰が問われる年であると、そのように私は感じたからであります。

と言いますのも、新会堂建設のために、いよいよ検討に検討を重ね、具体的な話に入らなければならない年だと考えるからであります。

しかし、では新会堂建設と今回の舟の話とは、一体、どういう関わりがあるのか、ということになりますが、まあ、正確に言いますと新会堂建設ではなく、会堂と舟とがつながっているからであります。

えっ?とある方は思われるかもしれませんが、まあ、その理由は後からお話しするとしまして、何しろ、昨年12月は、いつもの通り、待降節、降誕節礼拝があり、マタイから話は、飛んでいますので、これまでのことを順にお話しすることにします。

私達はマタイの福音書を最初から続けてみておりますが、特にこのマタイの福音書8章の18節から27節までは、一貫してイエス様の弟子となるとはどういうことかが述べられているところであります。

イエス様の弟子となるとは、つまりは信仰を持つという事です。
では信仰を持つとはどういうことかと言いますと、イエス様に従って行く、という事であります。そしてそれは、イエス様と同じ舟に乗ることだとマタイは言います。

これは、昔からこういう考えがあったのだそうです。
そこで、教会と舟とは深く結びついていくのであります。
従って、昔からの造りをしている教会は、教会堂の中に入っても、舟を型どったものをいろいろ用いているのだそうです。

舟の模型を吊るしているとか、説教壇が舟の形そのままになっているとか、
礼拝堂の壁に大きな舟が造られ、取り付けられている教会があるとか、
更には、会衆席が舟になっているところもあるのだそうです。

私は実際に見たわけではなく、ある本に書いてあったのですが、
そして、それが何を意味するのかと言いますと、
「教会に来ることは舟に乗ることだ」という考えがあるのだそうです。

つまり、この考えで行きますと、みなさんは、今、会衆席に座っておられますが、
それは小舟の椅子に座っておられると言うことになります。そして今やイエス様と共に舟に乗り込んでおられる状態です。
23節に、「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。」とある通りであります。

先回見たところには、イエス様に従いたいと申し出た人のことが出ておりました。
しかし、イエス様はそれに対して、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
人の子には枕する所もありません。」と言われて、イエス様ご自身、ゆっくり休むところが無いと言われていましたし、

もう一人の人がイエス様のもとに来てどう言ったかと言いますと、
「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」でした。
つまり、自分の都合を優先したものでありましたので、
「そうではないでしょう。『わたしについて来なさい。
死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。』と言われたのでした。

イエス様について行きたいと申し出た人たちが、その後、ちゃんと従ったかどうかは分かりませんが、少なくともここにおられるみなさんは、昔の教会で言うところの、舟に
イエス様のご命令に従って、乗り込んでおられることになります。
そして今まさに、船出をしたところであります。そして、そこで待っていたのは、穏やかな湖ではなく、大暴風に見舞われたのでありました。

ところで、この大暴風というところをよく見ていただきますと、米印がついておりまして、直訳では「振動」とあるのであります。そして普通は、この単語は「地震」を指します。そして、そのようにマタイの福音書24:7, 27:54, 28:2ではそう訳されています。

地震とは言うまでもなく、土台そのものが揺れるのであります。
つまり、舟に乗っている弟子達は、逃げ場の無い状況に陥っていると言うことであります。
ガリラヤ湖は、海抜マイナス200Mほどの小さな湖で、普段は穏やかなのですが、時折、強風が周囲の台地から吹き降ろし、そこで漁をしている漁師さえ、大変苦労する時があったのでした。
イエス様の弟子の中には、まさに、そのガリラヤ湖で漁をし、生活の糧にしていた者もいたのであります。

ところが今回は、そんな漁師を職業とするプロでもどうしようもない。大暴風が彼らを襲ったのでありました。地震が起きたときの逃げ場がないように、舟は大波をかぶったのでありました。

私達が今、舟の座席に座っていて、大暴風に襲われたなら、どういう行動を取るのでありましょうか。舟の中を右往左往するのでしょうか。それにしては、何という狭さでしょうか。できることと言えば、死ぬのではないかと言う怖さ、その恐ろしさで頭の中は、パニック状態ではないでしょうか。

ところが、イエス様はこの時、どうされていたでしょうか。
眠っておられたのであります。
一方では、おぼれて死ぬのではないかという恐れ、うろたえている。
他方では、眠っている。
しかも、同じ舟の中なのにおりながら、であります。

この時の出来事は、大変重要なこととして、3人の記者、つまりマタイの他に、マルコ、ルカも書いております。特にマルコは、弟子達がイエス様に対してこういったと書いているのであります。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
これは、大変厳しい言葉であります。それだけ、危機に瀕していたと言うことでもありましょう。

しかし、冷静になって考えて見ますと、
そんな恐ろしい嵐の中で、誰がゆっくりと眠っておられるでしょうか。
また、これまでにもイエス様の奇跡を見てきましたが、そして、これからもイエス様の奇跡を見ることになりますが、そういうイエス様の弟子となっているのが彼らなのです。

つまり、自分達が危険なら、イエス様も危険です。
でも、その事を考えないで、弟子達はイエス様に不満めいたことを言っているのであります。

ここで、まず私達が教えられますことは、危機的な状況の中で私達はイエス様の存在を忘れることがある、と言うことであります。イエス様が、そばにいてくださるのに、忘れている。いいえ、この場合、忘れているのではありません。
現に彼らは、イエス様に助けを求めているのですから、イエス様に何らかの期待をしていたことが分かります。それなのに、イエス様は動いてくださらない、という思いがあったのでしょうか。

ところで、私達は、今、新しい年の門出に立っています。
そして、イエス様と共に船出をしたばかりであります。
穏やかな日もありましょうが、嵐の日もありましょう。
地震ならば、頼れるものは回りに何一つ無い。そういう恐ろしい場面に直面するかもしれません。

しかし、イエス様を救い主と信じている者には、イエス様が共にいてくださるということは、何という強い励ましでありましょうか。

どんな危機にあっても、イエス様が共にいてくださる、
その信仰にたって、この一年過ごさせていただこうではありませんか。
弟子達は、そういう意味では、イエス様に目を向けたことは、正しい信仰の目を持っていたということもできます。

第2の点は、26節で言われたイエス様のお言葉であります。
「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われた事にあります。
実は、私達はすでに見ました、この同じ8章の5節以下にあります百人隊長の話の時、
イエス様は、彼のことをこう言っておられました。
「まことに、あなた方に告げます。わたしはイスラエルのうちの誰にも、このような信仰を見たことがありません。」とであります。

ところが、きょうの箇所ではどうでしょうか。
「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われているのです。
しかも、弟子達に向かってであります。
これが、イエス様から見られると私達の本当の姿だと言っていいでしょう。

それだから、年の初めに申し上げたいのです。
いろいろな問題の解決はイエス様がしてくださるという信仰です。
私達は否応無く、人生の嵐に直面するのです。それは、どうしても避けられないことです。

でも、イエス様が、共にいてくださり、イエス様がその問題を解決してくださるとするなら、余計な心配をすることのほうがむしろ無駄であると言えましょう。私達信仰者は、一にも二にも、イエス様に対する信頼というものことが、大変大切なのであります。

一番最初に申し上げました。
「例年に比べまして、今まで以上に信仰が問われる年である」と。
それは、世界的な経済不況という中での嵐以上に、イエス様と共に乗っている舟の中での一致の無さが、もっと危険だからであります。

舟の中にいるみんなが一致して、イエス様に目を向けるなら、それも、イエス様に対して信頼しているなら、からし種一つの信仰であっても、守られるのです。イエス様が、守ってくださるのです。私達は、イエス様に対してどんなに期待しても期待しすぎることはありません。

なぜなら、私達はみんな神の子どもとされているからです。
「7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」と言ってくださるほどに、父と子との関係は深いのです。そのことを、二番目に確認しておきましょう。

第三番目に取り上げたいことは、
イエス様は、舟が沈まないように、舟そのものに目を向けないで、風と湖とに目を向け、しかりつけられたと言う点であります。弟子達にとって、今、大変困っているのは、舟が沈みそうで、いのちの危険にさらされているという事であります。
それから脱出するには、嵐が静まれば、それでいいわけであります。
でも、まさかイエス様が、そんなことをされるとは、誰しも考え付かなかったことでしょう。

この時、イエス様がされたことは、舟の操り方とか、小舟のどの位置にみんながいればよいかと言うような小手先の指示は出されませんでした。
それよりもむしろ、自然に目を向けられたのであります。

確かに、今の危険を回避するには、それが一番根本的な解決です。
でも、まさか、でありました。
自然を操る。風や湖の荒れを鎮めるかなどということは、誰も考えていませんでした。
そんなこと考えられなかったのです。
まさに、イエス様のなさったことは弟子達の意表をつくような業であったわけであります。

神様の介入というものは、大体そんなものであります。
それゆえに、大切なのは、イエス様に頼ることなのです。
期待することなのです。
それこそ、いのちをイエス様に預けることなのです。
イエス様に全てをお任せして、イエス様のために労することなのです。

26節イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった、というふうにあるのであります。
まことに、あっけない出来事であります。

今まで右往左往していたのは、一体何だったのか。
死んでしまうのではないかと、気をもんだそれは、一体どこへいったのか。
私達の信仰とは、そういうものであるという事ではないでしょうか。

嵐の中で、イエス様に目を向けたと言うのは、大変素晴らしい事です。
でも、真の信頼があってイエス様を見てほしかったですね。
自分達でどうすることもできなくて、仕方なく今回はイエス様に頼った、
そういう信仰の目であってほしくはないのです。

私達信仰者は、いつもイエス様と共に歩み、イエス様にいつも目を向けて、イエス様から知恵をいただいて、この人生の嵐を乗り越えさせていただくことなのです。それがキリスト者なのです。

イエス様が、どういうお方であるのか、私達は御言葉を通して、何度も教えられています。
しかし、単に知識だけに留まっていてはなりません。神の御言葉である聖書が、私達のうちで働いて、血となり肉となって、イエス様と共に本当の意味での歩みでなければなりません。

27節にこう書いてあります。
人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」とです。本当に、そう驚かざるを得なかったことです。

ところで、ここでマタイは、「人々は」驚いてという風に「人々」としたのは、一体なぜなのでしょうか。舟には、弟子達だけが乗っていたのではないでしょうか。
そしたら、「人々は」ではなく、「彼らは」とか「弟子たちは」、と言う風に書くべきでありましょう。

でも、マタイは、「人々は」としているのです。
これについての解釈は二つあります。
大変純化して言いますが、その一つは、恐れ惑い、慌てふためく弱い人間である弟子達人間がイエス様の教えに驚いたと言うもの、

もう一つは、この話を読んでいてお気づきだと思いますが、
この話にはドラマがあります。そして思わず私達はこの話に引き込まれます。
そこで、この話を読み引き込まれている人、私達会衆を含めて、マタイは書いていると言うのです。

マタイは、体験者です。
その舟に乗って恐ろしさを経験しているのです。
ですから、その恐ろしさは読み手以上にあったと思います。
そしてそれは、これを読んでいる私達をも巻き込んでいるのです。
マタイは、そうしながら、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」という疑問文で終わらせています。

これは、これを読んでいる私達に対する問いかけでもあります。
そして、これは、ヘブル書の記者が言っていますように、
「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられます。」
というように、天地万物を造り、保っておられるお方がイエス様であると
マタイは、これを通して語り、また私達も、そう告白できるのです。

この与えられました新しい1年間、どんな嵐に遭おうとも、主が共に歩んでくださっている、そのことを忘れず、そしてイエス様は必ず助けて下さると信じて、歩み通したいものであります。

私達は今、新しい年を迎え、イエス様と共に舟に乗って今や沖に乗り出しました。
そう、みなさんも思っていただきたいのです。
そして、この弟子達の立ち振る舞いを見ながら、同じような行動を取るのではなく、
主が共にいてくださるから大丈夫、そういう信仰で、信頼してさまざまな働きをさせていただこうではありませんか。
この新しい一年、神様の祝福とお守りが、ここにおられる皆さんの上に豊かにありますように。

2011年1月30日(日) 「本当に大切なもの」  マタイ8:28−34  竹口牧師

キリスト者ではない人にイエス・キリストとはどういうお方かと聞きますと、
その問いに対する答えは、さまざまであります。
もっとも一般的な答えは、キリスト教の教祖という答えでしょう。
聖書を読んだことのある人は、預言者の一人という人もいます。
あるいは、教育者と取る人もおられます。
更には、一般の人より全ての点で秀でた人であったという人もいます。

しかし私達信仰者は、イエス・キリストを救い主と信じさせていただいた者ですから、一様に神の御子であると告白いたします。

ですから、イエス・キリストが今の時代に、肉体を持って、まさにここにおられるとするなら、イエス様に対し、自分から離れてほしいとか、関わりあわないでくれとか、そういったことをいう人はいないと言い切っても間違いはありません。
むしろ、イエス様がそばにいてくださることを願うものであります。

しかし、きょう扱います聖書箇所では、イエス様に対して決して良い感情を持ってはいませんし、それどころか、悪い思いをもって、去ってくれることを願うところであります。勿論、キリスト信者たちではなかったからという理由もありますが、もっと他に理由があったようであります。

では、どうしてそのようなことが起きたのでしょうか。
今私達が見ていますこの福音書の著者はマタイでありますが、
そして、そのマタイはイエス様の弟子でもありましたので、
イエス様とはこういうお方だということを、次々と書いているのであります。

山上の説教において、さまざまな教えを説かれたことと、
そして、それに続いて、奇跡を行なわれたことを書いておりました。
それは、熱病とか、ツァラアトに冒された人を癒されるというように、
病を癒されるというイエス様のお姿、
また、嵐や海を叱って鎮められたことを書いて、
イエス様は、自然界を支配されるお方であると書きました。

更に、人々が悪霊に取り付かれた人を連れてきますと、
そういう霊に対しても癒されるイエス様であることを書いて、
あらゆる病に対処できるお方として、マタイは記してきておりました。

今回もまた、その一つの例を取り上げるのであります。
場所は、ガダラ人の地での出来事でありました。

ところで、そのガダラ人の地とはどこを指すのかと言いますと、
ガリラヤ湖東南にあるペレア地方の大都市を指しまして、
ゲラサ人の地もその中に含まれているそうです。

先回のところで見ましたように、
イエス様は弟子達を連れて舟に乗り込まれ、途中で嵐に遭いましたが、
着いたところが、このガダラ人の地であったわけでありました。
そこでの人々の反応を今回は見ようとしているのであります。

きょうの最初の節であります28節にはこうあります。
「悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。」とであります。
二人の人がわざわざ、出迎えたのでありました。
しかしその「彼らはひどく狂暴で、誰もその道を通れない程であった。」とありますように、迎えてくれはしたものの大変な状況であったようであります。

皆さんの中に、この聖書に出てくるような、いわゆる「悪霊につかれた人」をご覧になった方がおられるでしょうか。
残念ながら、私はまだ一度も、そういう場面に遭遇したことがありません。
ぶつぶつ独り言を言うとか、大きな奇声を張り上げる人は、何度か見たことはありますが、別に危害を回りに加えそうではありませんので、まあ、そのまま通り過ぎる程度でありました。

しかし、この聖書に出てくるような人に遭遇しなかったからと言って、この事が聖書の中での話であって、私達とは、全く関係の無い世界だなどと思ってはなりません。
と言いますのも、悪霊の働きは、現代でも常に私達の周囲でうごめいているからであります。こう申し上げますと、ある方は、気味が悪い思いをされるかもしれませんが、実際に、この世で悪霊は働いているのであります。

ところで、聖書に戻りまして、今回出てきた二人は、それは一見しますと、
精神的な疾患を患った人のように考えがちですが、実は、そうではありません。

と言いますのも、その人たちは、自分自身の体を破壊され、社会生活も出来ないほどに、これまた壊され、狂い、暴れ、自分で自分がどうする事も出来ない状態だったからです。

最近、脳科学が発達しまして、いろいろな脳の働きが分かり、治療が出来るようになってきました。自分の意志に反して手が動くとか、奇声を発するとか、一般的に見れば、これはおかしいと思われる人でも、現在は、脳の働きがだんだんに解明され、治療できるようになりました。それはつまり、聖書で言うところの悪霊の働きとは違うのであります。

それは、単なる病気であり、治療によって直るものであります。
しかし今回の場合は、そういう場合と大きく違うことが、極めて顕著に現れているのであります。と言いますのも、イエス様を見たときの彼らの反応からわかります。

29節の通りであります。「すると、見よ、彼らはわめいて言った。
『神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。
まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。』」
と言っているところです。

つまり、この二人の中には、悪霊が入っているからこそ、イエス様を神の子であることを認めることが出来、その悪霊に対してイエス様がこれからしようとされていることが分かるのです。だから、このような言葉を口にすることが出来たのであります。

「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか」
とは、そういうことでありましょう。

悪霊につかれている人は、その敵に対して敏感であります。
もし、悪霊につかれている人が、悪霊につかれている人を見た場合、
それは言うまでもなく、仲間同士ですから、叫ぶ必要はないわけです。
悪霊はしっかりと、自分の敵とは誰か、はっきりと認めていた、
これは、第一に確認しておかなければならない点です。

そして、きょうのところで、第2に確認しておきたいのは、
自分達の逃げ場所を求めたという点であります。
悪霊は、二人の人間の中に住み、墓にいて、凶暴で、誰も、その道を通れないようにする程、その二人を支配していました。しかし、イエス様にあったとき、彼らの安住の地はどこかと考えた時、それは、豚であったわけでありました。

なぜ、豚であったのか。牛ではいけなかったのか。羊では?ヤギでは?というように、さまざまなものが思い浮かびますが、理由はよくわかりません。
が、少なくともユダヤ人は、豚は汚れた動物として、決して自分達では飼わないことを知っての行動でしょう。レビ記11:7には汚れた動物として取り上げられ、ユダヤ人たちは決して飼わなかったのでした。

ということは、ガダラ人の地で、異邦人が飼っていた。そこに入れば何とかなると思ったのでしょうか。彼らは言うのです。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」と。

ユダヤ人が関係していなければ、助かるとでも思ったのでしょうか。
なぜ、豚なのか先ほども言いましたように分からないのです。
あくまでも、自分達の居場所を求めての願いであったでしょう。
悪霊も自分の命がかかっていますから、必死であります。
助かる望みが少しでもあれば、と思うわけです。

32節を見ますと、イエス様は簡単に「行け」と命じておられます。
勿論、悪霊の顛末をご存知でありましたので、イエス様にとっては、どんな願いでもかなえることは出来ました。これが第2番目に目に留めていただきたい点です。

次に第3番目に注目していただきたいのは、その悪霊の願いを聞かれたイエス様は、
その願いを聞きつつ、そして更にその願いを叶えながらしかも、その悪霊である彼らを滅ぼされたと言う事実です。

以前、ガリラヤ湖を見下ろす崖に立ったことがありましたが、そこは、大変風が強くて、帽子が吹っ飛びそうな感じでした。ガリラヤ湖の周辺にある町並みが霞んでいなければ全て見える、そのような高台であり、眺めは最高でありました。しかし今回、ここに出てきた場所であったかどうかは分かりませんが、そこから落ちれば、溺死しなくても、体が粉々になって死ぬであろう事は、容易に想像ができました。

32節から見ますと、そんな高い崖ではなくても、
そこには、「湖へ駆け降りて行って」とありますので、たとえ、なだからであっても水に突っ込んでいけば、終わりでしょう。
そして、それはまさにその通りになったのでありました。
イエス様は、悪霊の願いを聞きつつ、悪霊をここでは滅ぼされました。

さて、私は今まで、3つのことを言いました。
一つは、悪霊は、自分の敵が誰であるかを知っているということ。
第二は、悪霊は、自分の居場所を求めたこと。
第三は、しかし、イエス様は彼らを滅ぼされたということの三つです。

イエス様は、このように悪霊をも支配できるお方であるという事。
これは、私達キリスト者にとって大変、嬉しいことでありますが、
しかし、この事実を喜ばないものもいる、この点を最後に見ておきたいのです。
真に残念な事実でありますが。

33節をご覧下さい。こう書いてあります。
「飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。」とあります。豚を飼っていた人たちは、イエス様に感謝しないで逃げ出しています。

もう、あの悪霊につかれた人は癒され、凶暴ではなく、誰も避けて通る必要はない。
これからは、安心して暮らせる。これは大変感謝なこととは思わなかった。
それどころか、イエスというあの男は一体何者だ。
また、なんていうことをしてくれたのだ。
私達の大切な家畜の豚は、殺されてしまい、大損害をしてしまった。
そういう計算しか彼らには無かったようであります。

つまり、イエス様から受けた益と失ったものとの差を考える時に、
今回の場合、大損をしたというように彼らは捉えたのでした。
34節を見ますと、それが一層明確にされています。
「すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、
どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」とあるのです。

本当のところは、彼らは悪霊につかれた人をどうすることも出来ず、邪魔であり、危害を加えられる恐れがあるために、してはいけないけれども仕方なく二人を墓場に連れて行き、鎖でつないでいたのでした。

しかも、マルコによれば、それさえも引きちぎり、足かせも砕き、誰にも彼らを押さえつけるものがいないほどどうしようもなかった。そういう人が、癒されたと言うことは、どれ程大きなことか。素晴らしいことか、ガダラの人にはわからなかったということです。
ですから34節では、この地方から出て行ってくれるように願ったのでした。

でも、それは、本当に正しい取るべき態度であったでしょうか。
この部分は、私達はよく考えてみなければならないと思うのです。
なぜなら、私達の頭の中は、すぐに打算的で、目に見えるもので計算してしまいやすいからです。

私達はイエス様の言われたこういう言葉をよく知っています。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」と言われました。

まさに、まことのいのちを損じたら、何の得もありません。
買い戻すものがこの地上には何も無いのです。
それゆえに、豚が何頭失ったか分かりませんが、
たとえ百頭、千頭失ったとしても、それには替えられないほど、
彼らは大きなものをイエス様からいただいたのでした。

イエス様は、救い主であるとか、二人の人が癒されたとか、
町に安全が取り戻せたとか、これはとても大事なことなのに、
彼らはそれに気づかなかったのは、大変残念なことであります。

私達は、イエス様の宣教命令に従って一生懸命伝道しています。
祈り、献げ、そして献げられたものを用いて、福音を述べ伝えています。
でも、教会に神様が送ってくださった方々を、私達は、心から歓迎し、
それで終わっていないでしょうか。

病める魂をイエス様が癒してくださり、喜びに満たされた人を、
私達はまた失っていないでしょうか。
とするなら、まことに残念です。

イエス様がこの地上に来られたのは、ユダヤ人のためだけでなく、異邦人にも門戸を開いておられることを、いろいろなところでマタイは書いているのであります。

5節にありました百人隊長の話しもその一つであります。
マタイがこの福音書の一番最後にイエス様のお言葉を載せているのも、それを如実に語っています。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け・・」
といって、「あらゆる国の人々」の中に私達も入っているのです。
そして私たちは救われたのです。

パウロが、まずユダヤ人会堂に入って御言葉を語りました。
しかし、ユダヤ人たちは、パウロの語ることに耳を貸さなかった。
そこで異邦人へと福音が広がっていきました。
イエス様の初期の伝道のときでさえ、異邦人は決して見捨てられていなかった。
しかし、異邦人のほうが受け入れなかった面があるというのは、
実際のこととして真に残念としか言わざるを得ません。

イエス様のお働きの数々を見ながら、私達は、異邦人であってもイエス様によって救われ、遣わしてくださることを喜びとし、この与えられた一年、主に用いられようではありませんか。一人の魂のために、私達は多くの献げられたものをつぎ込みます。
しかし、それらは、イエス様の目から見られれば大したことではありません。
なぜなら、イエス様は、ご自分の命を差し出してまで私達を救ってくださったからです。これ以上に大きい犠牲があるでしょうか。

ガダラ人の言葉と行動を見ながら、イエス様が真に求めておられる働きとは何かを、
今一度、確認し、イエス・キリストの福音を伝えることの大切さ、
そして福音を聞いた者が喜びに変えられるその素晴らしさ、
共に味あわせていただこうではありませんか。

イエス様は、肉体の癒し主であり、魂の癒し主です。そして罪からの永遠の救い主です。その方によって、私達は今、立てられているのです。
感謝し、喜んで本当に大切なものを伝え、お仕えしていきたいものです。

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