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2011年2月13日(日) 「心を見るイエス」  マタイ9:1−8   竹口牧師 

この朝取り上げます聖書の話は、マタイ9:1−8ですが、これはまた、マルコの福音書2:3−12とルカの福音書5:18−26と同じ出来事です。

しかしながら、マルコやルカが記しているようなことを、マタイはばっさりと省いているのであります。

たとえば、どんなことを省いているかと言いますと、きょうの聖書箇所には、中風の人が登場し、その病気の人をイエス様の所に連れてくるのですが、何人の人が一人の病人を連れて来たのか、マルコでは、4人の人に担がれてきたとありますし、あるいはまたイエス様に近づきたかったのですが、人が大勢いたので、イエス様のおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろしたことが、マルコ、ルカには記しているのですが、マタイは記しておりません。

つまりマタイは、病人が癒されてほしいと願っている友人達や、屋根に穴を開けて吊り降ろしてまで、その病人をイエス様に近づけようという熱心さ、そういうことには一切触れていないのであります。

どうやらマタイは、違う視点で書きたかったようであります。
ですから、私達は、きょうの所を読むに当たっては、背景には、そういうこともあったということを頭に入れながら、読んで行きたいと思うのであります。

きょうのまず1節にはこうあります。
「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。」とです。
イエス様が自分の町に帰られたとありますが、これは言うまでもなくイエス様がお育ちになられたのは、ナザレでありますが、ここで言われています「自分の町」といいますのは、カペナウムのことであります。

イエス様が、ガリラヤ伝道をなさるときは、いつもここを拠点としておられたので、「自分の町に帰られた」という風にマタイは書くのであります。そして2節に入りますと「すると」で始まりますが、マルコ、ルカの福音書から見ますと、すぐにあったことではなく、どうも時間的な差があったようでありまして「ところで」と言う風につながったほうが良いのではないか、という解釈もあります。

が、まあ、それはともかくとしまして、きょうの本題の話に入るわけであります。
先にお話ししましたように、中風の人は、床に寝かせられたまま、屋根から吊り降ろされ、イエス様のところに連れ出されました。

ここでまずこの朝、一番目に注目したい点は、マタイがイエス様のことを
「イエスは彼らの信仰を見て・・」と書いているところであります。
彼らの信仰をどのようにしてイエス様は見られたのでしょうか。
人々が大勢押し寄せ、周りを取り囲み、もう、誰も近づくことが出来ないような状況の中で、誰も考え付かなかったような方法で、つまり、屋根から吊り降ろしたその行為を見られてでありましょうか。その熱心さからでしょうか。

しかし、それにしては、マタイはその事を書いておりません。
動けない人を運んでくると言うのは、何もこの場合だけではなかったでしょう。
イエス様が、どこに行かれても、愛する者が病気であるなら、やはり担架に乗せてでも、イエス様のもとに病人を連れてきたでありましょう。

もっとも、そう度々屋根に穴を開けて吊り降ろすことが日常的でありますと、誰もびっくりはしませんし、家もまた、そうもたない事態になったでありましょう。

ですから、マタイの言う「イエスは彼らの信仰を見て・」というのは、ただ単に、連れて来たその行為を見てではないと私は思うのです。

ではなぜマタイは、このようなことを書いたのでしょうか。
マルコやルカが書いていることを書かなかったのでしょうか。
それは言うまでもなく、イエス様は、私達の心の中を見ることが出来るお方である。
その事を強く言いたかったのであろうと思います。

実際のところマタイは3節で律法学者達の心の中を書いていますし、
4節では、「彼らの心の思いを知って」と書いております。
私達はとかく、人の信仰を目に見えるもので判断しやすいものです。
毎週、教会に来ていると、もうそれだけで、信仰心があると思われ、
教会でさまざまな役を引き受け、こなしていると、とても神様が祝福し用いておられると思います。

まあ、実際にそういう部分もありましょうけれども、しかし霊的にはどうなのでしょうか。単なる慣れで行なっているだけで、神様が用いてくださっている。神様に働きをお献げしている。私の信じている方は、どんなことでもおできになると言う、確かな信仰で行なっているのだろうかと、改めて自分の働きを省みたとき、

時には、神様をあまり意識しないで、時には、ぶつぶつ言いながら、あまり喜ばれないような思いでお仕えしていたこともある、そのことに気づかされるのではないでしょうか。

心を見られるイエス様が、彼らの行動ではなく心の中を見られ、真にこの人たちは、信じて行なっていることを見られた。これは、何という素晴らしい評価ではないでしょうか。

人にはわからなくても、神様が見ていてくださる。これこそが、真の信仰者の姿であると言えましょう。表舞台で活躍しなくても、礼拝がスムーズに行くように、一人ひとりが配慮し、心配りをし、礼拝に臨む。これは、実に大切なことです。

2番目に考えてみたいのは、3節の律法学者達の姿であります。
律法学者といわれるくらいですから、律法については大変詳しい。
そして、その律法を守ることにおいても、決して他の誰よりも劣らないものであると自負していたでしょう。

しかし9節でイエス様のお言葉に対して律法学者は「心の中で『この人は神をけがしている』と言った」とマタイは書くのです。果たして彼らの信仰的判断は、正しかったでしょうか。律法に詳しい人が、あるいは律法をよく知っている人が、そして誰よりも実践していると思っている人が、今ここでは、イエス様の言葉を心の中で否定しているのです。

言うまでも無く、彼らは大きな間違いを犯しているのではないでしょうか。
しかもその間違いは、私達の目には見えない心の中で、行なっている、
それゆえに、たちが悪いのです。

表向きは、とても信仰的であっても、心が神様の喜ばれるもので無かったなら、
それは何とむなしいことでしょうか。
神様について多く学んだ人が、より多く神様に愛されるのではありません。
むしろ、神様について、そんなに多くの知識は無くても、単純に、そして幼子のように信頼し、イエス様に付いて行く信仰があるなら、そちらのほうがとても大切だと言えましょう。

聖書をどれだけ深く学んでも、それが謙遜へと導かれ、そして幼子のようにイエス様に信頼するようでなければ、他の科学的知識を沢山覚えたのと殆ど変わらないと言えましょう。

律法学者は、イエス様の質問に対して、悪い思いからですから、
模範的な回答も、行ないも正しくは出来ないといえましょう。

イエス様は、こう問いかけられました。
5節「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」とです。この質問に対して私達だったら、どう答えるのでしょうか。私達は、人の心の中を見ることが出来ませんので、簡単にこういう答えを出すのではないでしょうか。

「『あなたの罪は赦された』と言うのは簡単だよ。
だって、誰も、その事を確認できないもの。
しかし、『起きて歩け』というのは、違うね。
これは実際に、すぐ起きて歩かないなら、
嘘がたちまちばれてしまう。何の力も無いことが分かってしまうものね。」

でも、本当にそうでしょうか。
実際のところは、どちらも素人には判断つかないのではないでしょうか。
なぜなら、昔も今もそうですが、魔呪術によって治す者もいるからです。
ですから、イエス様の言われた問いかけに、簡単には答えられない。
これが、現実なのです。

では、イエス様と他の魔呪術者との違いを
どのようにして見分ければよいのか、という事にならないでしょうか。
そしてその見分け方があるのでしょうか。
それが、実はあるのです。
それが、この朝みたい第3番目の点です。

何だと皆さんはお考えでしょうか。
それは、イエス様のお言葉にはうそ偽りが無いという点です。
まず、最初に私は、イエス様は、心の中を見るお方だと言いました。
そして4節で、律法学者の考えていることをずばり言われました。
また6節では「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、
あなたがたに知らせるために。』こう言って、それから中風の人に、
『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。」
というふうにありました。そして、まさにその通りになったのでした。

しかし、これだけでは、まだまだイエス様の特異性、
私達とは全く違うと言うことに疑問を持つ方もおられましょう。
そういう方はどうぞイエス様の追っかけになって頂きたいのです。
イエス様が、行かれるところならどこにでも着いていく。
そして、しておられること、言っておられること、全てを見ていただきたいのです。

そうすれば、おのずから分かってきます。
100%、イエス様は失敗をされていないことに気づかれると思います。
すでに私達がこのマタイの福音書より見たのですが、先回のところで、
イエス様は、ガダラ人の地で、悪霊を追い出されたのを見ました。
その前は、湖で大暴風に見舞われ、風や湖をしかり、
おおなぎにされたという、自然界をも支配されている事をみました。
さらには、ペテロのしゅうとめの熱病を癒されました。
百人隊長のしもべの病気も癒されたのでした。

もし、あなたがイエス様の追っかけであったなら、
これだけでも十分に、イエス様はただ者ではないな、
とお気づきになられるのではないでしょうか。

イエス様はまさに、ご自分で言われた通りを行なわれるお方なのです。
イエス様は神の子であり、罪を赦す権威をお持ちのお方なのです。
だからこそ、8節を見てくださればお分かりのように、群集は恐ろしくなったのでした。

昔、イスラエルがエジプトにいて奴隷状態であったとき
そろそろエジプト脱出の時がやってきました。
そして神様はモーセを通して十の不思議をするように命じられました。

最初の方では、エジプトの呪法師たちもモーセの不思議をやっていましたが、そのうちに出来なくなりました。偽者と本物の違いは、こういうところに現れてくるものであります。

翻って、きょうのところでイエス様は、6節ではっきりと命じられたのです。
「『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、
あなたがたに知らせるために。』こう言って、それから中風の人に、
『起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。」

イエス様のなされることが、意図して行なわれました。
その意図とは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、
あなたがたに知らせるために。」でありました。

もしイエス様のなさる事に対して、それを認めることが出来ない人は、
これはもう、イエス様を批判することは無意味です。
なぜなら、イエス様の言葉と行ないは、
ただ単に、話したり、行なったりはしておられないからです。
心を見抜くお方が、もうこれ以上はないという方法でもって
行動されているからであります。

7節には、「すると、彼は起きて家に帰った。」とあります。
果たして、癒された人は、イエス様をどう思ったのでしょうか。
病人を連れてきた人たちは、
いったい、イエス様をどういう目で、これから見るのでしょうか。
マタイもマルコもルカも、彼らのその後を書いておりません。
しかし、少なくとも群衆はどうしたかを書いております。
8節「群衆はそれを見て恐ろしくなり、
こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」とであります。

これを読んで、皆さんは疑問をもたれないでしょうか。
わたしは持つのです。
それは何かと言いますと、
マタイもマルコもルカも3人とも群衆に目を向けている点です。
それともう一つ、神をあがめたと言う点です。
普通でしたら、病気を癒されたイエス様に目を向け、
イエス様を神様扱いすると言うのが当然だと思います。

しかしまあ、ユダヤ人ですから人としてイエス様を見ている彼らには、
イエス様をあがめないで、神をあがめると言うのは、
彼らとしては自然な姿なのかもしれません。

ルカの福音書を書きましたルカは、使徒の働き14章のところで、
パウロの第1回伝道旅行で、ルステラの出来事をこういう風に書いているのであります。

「14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。
彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。
14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。
パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。
すると彼は飛び上がって、歩き出した。
14:11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、
「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、
パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。」以上でありますが、

このように、やはり不思議を行なった場合、
多くの人は、その行なった人に目を向けるものです。
しかしながら、きょうの個所では向けていないところに、
ユダヤ人らしさがあると言えばあるのですが、
しかし、やはりイエス様がご自分のことを
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを・・」
と言っておられ、神の子としての発言ですから、
ここはやっぱりイエス様に目を向けてほしい気が私はします。

が、まあそれはともかく、
ユダヤ人は、全ての病気は罪の結果であり、
罪が赦されなければ病気は治らないと信じていましたので、
中風の人が癒されたと言うことは、罪赦されたことを指し、
つまりは、イエス様は罪赦す権威をお持ちであると認めたことになります。

翻って、心を見られるイエス様は、私達の心がどんなに汚れているか、全てをご存知です。しかし、そう知った上で、その罪を背負って、十字架にかかってくださったのでした。私達は、その恵みに与っていることを、この朝もう一度覚えて感謝しようではありませんか。

赦されても、赦されてもなお罪を犯す弱き者ですが、
それでも、生かし、用いてくださる主に感謝し、
与えられているすべてのものを用いて主の御用のために、
労していきたいものです。

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