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2011年3月13日(日) 「イエスに招かれ」  マタイ9:9-13  竹口牧師

イエス様は、ご自分のお育ちになったナザレから出て、ガリラヤ地方で、カペナウムを中心にまことの福音を宣べ伝え始められました。
その宣べ伝え始めるまず一番最初は、上流階級の人にと言うよりは、むしろ、下層階級といってもいい人たちや、多くの人たちに嫌われている人を対象としておられました。

そしてイエス様の名前が知れ渡るに従って、やがては上層部の人の心を動かし、しかも、そのことが良いようには働かないでイエス様を、むしろ危険視するようになっていくのでありますが、きょうの話しは、マタイの福音書を書いたと言われるマタイがイエス様によって呼び出されるところであります。

私たちが何かをしようとする時、実力のある者、馬の合う者、評判の良い者という、いわば、活動しやすい者を選びやすいものでありますが、イエス様は、そうはされませんでした。まだ今の時点では、マタイは、十二弟子に選ばれるかどうかは分かっていませんで、弟子のひとりとして選ばれるところであります。

マタイは、取税人でありました。
つまり税金の取立人であったわけです。
税金というものは、とかく人に嫌われるものでありまして、税金は納入するものでありながら、大抵は、税金は取られるという言い方をしますし、ここでも取税人といわれ、税を取る人となっています。言うまでもなく、税金の額が多くなればなるほど、人々の生活は苦しくなるものです。

ですから、こんにちの問題でも消費税を上げる、あげないで、政治家は、頭を悩ましているのであります。赤字国債を増やして、国が破産してもいけませんので、極力、そのリスクを減らしたいというのが、現実です。

ところで、イエス様の時代の税金制度はどうであったかと言いますと、言うまでもなくパレスチナはローマが支配しておりましたので、ものの本によりますと、ローマ政府は、最も費用のかからない方法で、税金を取り立てる方法を考え出すことに苦心していたそうです。

そしてその一つの案としては、競売という方法がありました。
それは、ある一定の地域の税金を集める権利を買わせ、その権利を買い取った者は、ローマ政府のために一定の責任額を徴収した上で、余ったお金を自分が取ることが出来るというもので、これは税金を集める権利を買った者にとって、大変都合のいいものでありました。

自分で税金をそれぞれにかけ、集めた物の中から、その一部をローマ政府に払えばよいからです。そのために悪用される例が多くて、イエス様の時代には中止されていたそうであります。あまりにも多くの取税人が不法な徴収によって私腹を肥やしたからであります。
しかし、それでも、ローマは税金を取らなければ、支配が成り立たないので、いろいろ工夫をしたようです。

現在、私たちが生活している中でもいろいろな税金を納税しているわけですが、消費税をはじめとして所得税、住民税、取得税などなどいろいろです。

このローマ時代には、一般税には3種類あったと言われます。
地税といって土地に税金をかけたり、穀物の十分の一、果物の五分の一を現金で支払う。
また所得税は、収入の1%を納める。市民税は、14歳から65歳までの男子、それに12歳から65歳の女子が支払うものであったそうです。これらは法定の税金で、取税人が自分の利益のために利用する事は難しかったようです。

が、他にも輸入税、輸出税、道路や橋の通行税、市場、町、港などに入る時の入場税、荷物を運搬する動物や車輛、その車両に課せられる車両税などなど、現在と殆ど変わらないといっていいように税がかけられていました。

問題は、法定以上のものを支払わせ、まあ、自分が職業としているのですから、食べる分は必要ですが、必要以上に取り立てる者がいたので、問題であったわけでありました。

そういう取税人は、当然ながら嫌われておりました。
では、まじめにやっていたら嫌われなかったかと言いますと、実はそうではありませんでした。なぜなら、パレスチナの場合、取税人は、祖国を征服した人たちのために働いていたからでした。

その上、自分の国の不幸を利用して、富を蓄積していた事もあげられます。
当然ながら、ローマに対して不正を働き、同胞に対しても不正を行ない、金持ちから賄賂を受け取って、莫大な収入を得ている者もいたようです。

それに加えて、ユダヤ人が取税人に嫌悪していたのは、
ユダヤ人は熱狂的な愛国主義者であったからというのもあるそうです。
彼らは、神だけが主であるという宗教的な信念をもっていたので、神以外の人間の支配者に税金を払う事は、神の主権を侵すものであり、神の威厳を汚すものと考えたそうです。

しかしながら世の人がどう思おうと、イエス様がこれからの働きのために目を留められたのは、その取税人であり、ここではマタイであったわけでありました。
9節にこう書いてありました。
「イエスは、そこを去って道を通りながら、
収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、
『わたしについて来なさい』と言われた。
すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」とであります。

ここで、皆さんにちょっと考えていただきたいのですが、
皆さんは、誰かに声をかけられて、「わたしについてきなさい」と言われた場合、
果たしてついて行かれるのでしょうか。現在のような物騒な時代では、そう簡単にはついてはいけないと思われるでしょうか。それとも、いつの時代でも、やはり、そう簡単には、人はついていかないものだよ、とお考えでしょうか。

マタイがなぜ、すぐにイエス様にお従い出来たのか。
この聖書の行間を、いろいろと考えますと、
マタイの事情というものが何かあったのではないか、
そのように私には思えてならないのです。

確かに、ユダヤ人には嫌われ、ローマには頭を下げなければなりませんが、
取税人と言う職業は、食うには困らない職業であったわけです。
それを捨てて、すぐに従ったということは、よほどの事があったのではないかと思うのであります。

このマタイの福音書8章19節以下を見ました時にひとりの律法学者が来てこう言ったとありました。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」と。
すると、イエス様は彼に言われました。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とです。
また、別のひとりの弟子がイエスにこう言ったとありました。
「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
ところが、イエス様は彼に言われたのでした。
「わたしについて来なさい。
死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」とです。

私は自分の事を言うのは恥ずかしいのですが、
私自身、宗教に対して別世界だと思っていましたし、
自分には関係ないとも思っていました。

しかしその一方で、もし自分の助けになるのならという風に変えられ、
更には、この生き方しかないのだと導かれた時、
もう、誰にも止められない信仰へと導かれました。

ところで、当時、カペナウムは、ヘロデ・アンティパスの領土でした。
ですから、税金は、ローマに直接支払うのではなく、
アンティパスに支払われ、それがまたローマへと行ったと思われます。
で、当時、カペナウムは、エジプトからシリアのダマスコに通じる「海の道」という幹線道路に位置していて、交通の要衝であったわけでありました。
ですから、いろんな情報もマタイの耳には入っていたと思われます。
そして、イエス様の招きがあったのでありました。

多くの人は、信仰の道に入ろうとする時、戸惑います。
何を戸惑うかと言いますと、今までの生活を捨ててやっていけるのか。
あるいは今までの周りの人とうまく付き合っていけるのか、
そういうことが、頭をもたげるのであります。

マタイは、イエス様の呼び掛けに、自分の仕事をなげうって、すぐさま従ったのでした。
なぜ、それほどまでにマタイを突き動かしたのか、
皆さんは、疑問にならないでしょうか。
私は、キリスト者になろうかどうしようかと考えた時、
得るものと失うものとを何度も何度も比べてみました。

しかし、不思議なことに、日によって失っていいものと、
失ってはいけないものとが変わる自分に気がつきました。
そして、そういう変わる自分が嫌になっていったのでした。
そして、信仰の一歩を踏み出したら、後を振り返らない。
これが私にとって生きる原則となったわけでありました。
しかし、誘惑に合わなかったわけでは決してありません。
が、不思議と今日まで守られてきたのでした。

マタイは、イエス様の呼び掛けに従い、何を得て、何を失ったのでしょうか。
彼は安定した職業を失いました。
しかし、イエス様に従う事によって、
本当に生きる意味と価値を知ったと今の私には言えます。

信仰は、大きな冒険であると私は思います。
なぜなら、間違った信仰であったなら、とんでもない方向に行くからです。
健全な信仰でなければなりません。

マタイは、多額の収入を失って生活的には不安定になったかもしれません。
しかし、キリストと共に歩んで、キリストのなさる不思議を見て、多くの人の喜び、感謝を見て、何にも変えられないものを得たと言えましょう。

10節にはこう書いてあります。
「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、
見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちと一緒に
食卓に着いていた。」とであります。

ここにあります「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、」という家が、
誰の家なのか、分かっていませんが、ルカの福音書5章29節からは、マタイの家であったように思われます。

ここで大切なのは、誰の家でという場所のことではなく、
勿論、マタイの家であったなら、マタイはイエス様に誘われたことで喜びのあまり、
宴会を催したとも考えられますが、ここではそういうことに注目するよりも、次の行に注目すべきでしょう。

「見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、
イエスやその弟子たちと一緒に食卓に着いていた。」という点であります。
つまり、この食事会には、マタイという取税人だけでなく、
罪びとと言われている人たちが来ていたという事です。
それだけに、この情景を目にした者は、疑問をもったのでした。

パリサイ人は言いました。
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」とであります。ごもっともな質問であります。

自分たちは正しい。罪びととの付き合いはしたくない。
そう常々感じている者にとっては、当然すぎるほどの質問です。
しかし、自分たちが正しいとしている基準というものが何なのか、
それによって、その質問が正しいかどうかが問われるのであります。
パリサイ人ですから、律法には詳しい人たちであります。

とはいえ、律法に詳しいけれども、詳しい事が即ち
正しく律法を解釈して、それに従っているとは限りません。
これは、よくあることであります。

律法があっても、正しくその意味を知って、運用していない。
その本当の意味、目的、意図されていることから離れての運用は、
どんなに正しく行っているようでも、正しくないのであります。
はっきり言って間違っているのであります。

だから、イエス様は彼らに言われたのでした。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしは憐れみは好むが、いけにえは好まない』
とはどういう意味か、行って学んで来なさい。
わたしは正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為に来たのです。」と。

マタイは、恐らく生活的には豊かであったでしょう。
しかし、自分のしている事は、
正しい事をしているという確信がなかったのではないかと思います。
罪びとと呼ばれても、その言葉を甘んじて受け入れざるを得ない。
そんな彼に対して、イエス様は自分を招いて下さった。
ついて来なさいと誘って下さった。
これは、彼にとって大変大きな喜びであったと言えましょう。

今ある地位、財産、家族、全てを捨てて従っても悔いはない。
彼は、そういう思いで従ったと言えましょう。
そして、その喜びは、皆さんお一人おひとりが経験なさったことではないでしょうか。

イエス様は、マタイを呼ばれたように、こんにちのあなたにも、呼びかけておられます。「わたしについてきなさい」と。

「主よ。どこまで付いていけばよいのでしょうか」という疑問もありましょう。
「どのようについていけばよいのでしょうか」という質問もありましょう。

イエス様に従う従い方は、きょうのマタイのような人もいれば、
マリヤやマルタのような従い方もありますし、
アリマタヤのヨセフのような従い方などいろいろあります。

大切なのは、イエス様の「私について来なさい」との招きに、
従っていくかどうかであります。

罪びとを愛し、主の恵みに与れるように招いて下さるイエス様に、
主よ、感謝しますと言って、お従いすることが、あなたにとって最善ではないでしょうか。

主は言われます。
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』
とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」とです。
その憐れみ深いイエス様から、豊かな恵みをいただいて、
幸いな人生を送らせていただこうではありませんか。

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