2011年4月10日(日) 「新しい皮袋」 マタイ9:14-17 竹口牧師
先回は、取税所に座っていたマタイに向かってイエス様は、 「わたしについて来なさい」と言われた事に対して マタイは、すぐに立ち上がって従ったという部分をみました。
そのあと、ルカ5:29によりますと マタイは自分の家にイエス様を招いたのでありましょう。 自分の仕事仲間である取税人や罪びとを招いて宴会を開いたのでありました。
その時、イエス様たちのふるまいを見ていて、 パリサイ人がこんな質問をイエス様にしたとありました。 「なぜ、あなたがたの先生は、 取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」というふうにです。
パリサイ人たちにとっては、罪びとと呼ばれる人たちと一緒に イエス様が食事をされることが、理解できなかったからでありました。 理由は、ローマの手先のような取税人や 彼らが言う罪びととは、それこそ食事を一緒にするなんて 考えられなかったからでありました。
しかし、イエス様はこの時、彼らの質問にこう答えられました。 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』 とはどういう意味か、行って学んで来なさい。 わたしは正しい人を招くためではなく、 罪人を招くために来たのです。」と。
イエス様は、罪びとの所に来て下さった。 罪びとを招くために来て下さった。 この事実は、自分が罪びとだと認めた人にとって、どんなに幸いな言葉でありましょうか。 本当の意味で、自分がまさに罪びとであると神様に教えられた人は、 イエス様のその言葉のありがたみが分かってまいります。
きょうはその続きでありまして、 今度は、バプテスマのヨハネの弟子たちがやってきて、イエス様に質問するところであります。バプテスマのヨハネとは、イエス様にバプテスマを授けた人であり、その弟子たちとは、即ち禁欲主義的な人たちであり、腐敗しきったユダヤ教社会に 悔い改めを迫り、神の国を待ち望むために、荒野に立って運動を起こした人の弟子たちであります。
この問答が行われた当時、ヨハネ自身はすでにヘロデ・アンティパスによって捕えられ、獄にいましたので、弟子たちが、もっぱらヨハネの意志を引き継いで悔い改めのバプテスマ運動をしていたと思われます。
ところで、バプテスマのヨハネ自身、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物は、いなごと野蜜であったとこのマタイが3:4に書いておりましたので、非常に質素な生活をしていたわけでありました。そんな彼の弟子たちですから、断食の事が気になったのでありましょう。彼らは、こう言って尋ねたのでありました。
「私たちとパリサイ人は断食するのに、 なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と。
ユダヤ人達にとって、施しと祈りと断食は、 宗教生活の三大行為であり、大切な行ないでありました。 しかしながら、イエス様の弟子たちは、断食をしておりませんでした。
勿論、全くしなかったわけではありません。 イエス様がバプテスマを受けられた後、試みにあわれましたが、 その時には、断食中においてであったことからも分かります。 ですから、イエス様が断食を全くされなかった、というわけではありません。
敬虔なユダヤ人なら、一週間に二度断食をしたそうです。 月曜日と木曜日でありました。 旧約聖書には、罪の悔い改めや、へりくだりのしるしとしての断食、哀悼の意を表す断食を教えています。この敬虔のしるしをどうしてイエスは励み行なわないのかと、バプテスマのヨハネの弟子たちが質問したわけでありました。
イエス様の一行が取税人たちと食卓を共にされたのが、彼らの断食の日であったのかもしれないとも言われます。それならなおのこと、気になった事でありましょう。 イエス様はそれに対して、断食そのものの否定はされませんでした。
先ほども言いましたように、イエス様ご自身も断食されましたし、 断食の際の注意点もあの山上の説教においてもなされているのであります(6:16‐18)。
ところで、今の場合、断食日であったなら、なおのことですが、 決して悲しい、哀悼の意を表すような雰囲気ではありませんで、 むしろ、大変にぎやかな宴会のような感じでありました。 ですからなおのこと、ヨハネの弟子たちには疑問に思えたのでありましょう。
で、イエス様は、彼らの質問に対して 断食しなくてもよい新しい時代が来た事を告げられるのであります。 そしてそのたとえとして、結婚の例を取り上げられました。
ユダヤの結婚は、特別な祝いの時でした。 珍しい事に、結婚した夫婦は新婚旅行に出かけずに、 家にいてその楽しさを味わいました。
新郎新婦は結婚後一週間の間は、客に自分の家を開放し、 この期間、花嫁と花婿は王と王妃と呼ばれる事があったそうです。 この一週間、親しい友達は花嫁、花婿と共に喜び、共に祝いました。 この親しい友達が「花婿の子供たち」と呼ばれました。 平素は、貧しく質素な生活をしていても、 この時ばかりは、一生に一度の楽しさと豊かさを味わったのでした。
そこで、イエス様は、ご自身を花婿に、弟子たちを花婿の親友にたとえられたのでした。ですから、当然ながら、イエス様の思いは、どうして、悲しくみじめな様子をしなければならないのか。そうではなく、今は、一生に一度のお祝いの時である、そのように考えて言われたのでした。
このような宴会が出来るのは、 時代の流れを全て知っておられるイエス様にしか分からなかった、 そのようにも言う事が出来ましょう。
断食が婚礼の席にふさわしくないように、イエス様が弟子たちと共にいる今、断食をするのは、見当違いである。それこそ、イエス様と共にあることのほうが喜びである、そう思って言われたといえましょう。
旧約聖書では神とイスラエルの関係が花婿と花嫁の関係にたとえられますので ここでイエス様を「花婿」とするたとえには、実は、イエス様の神性の示唆があるのでありますが、ですから「花婿が取り去られる時が来」ると語るイエス様は、ご自分の苦難の到来を知っておられたといえましょう。
ところで、私たちは、このイエス様のたとえを通して、 二つの事を教えられたいのであります。 そのまず一つは、イエス様と共にある事は大変嬉しいことであるという点です。
もし、嬉しくなかったなら、それはどこかがおかしいという事です。 イエス様と共に歩む者は、輝かしい喜びの中に生きることです。 二つめは、喜びは永遠に続くものではない、という事も教えています。 なぜなら、ヨハネの弟子たちには、悲しみの時がすでに来ていたからです。 というのも、バプテスマのヨハネはすでに投獄されていたからでした。
一方、イエス様の弟子たちも、やがては必ず悲しみの時を迎えます。 最愛の者をもつ喜びもやがて消えて行く。 これは、人生における避けられない現実であります。
とはいえ、現代に生きる私たちは、すでにイエス様が、死に勝利されて甦られ、 きのうもきょうも、とこしえに変わらないお方でありますので、 私たちには、突然と思えるような事、また、時代の流れの中にいるように思えても、心配はいらないのです。
神様は、いつも変わらないお方であるからです。 どんなに親しい間柄でも、この地上における関係は、いつか必ず終わりが来ます。 そのことを考えますと、永遠に続くのは、天国の喜びだけであると、教えられます。 その喜びが心の中にあるなら、誰もそれを取り去ることはできないということ、 これは、私たち信仰者は覚えておきたいものであります。
次に、イエス様は、16,17節において、イエス様がもたらされるものと従来のユダヤ教との違いを二つのたとえで説明されます。 「9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。」とあります。
私は、このイエス様のたとえを読むと、自分の昔の姿を思い浮かべるのであります。 それは、親が私に新しいものを買って着せる時の物のサイズです。 兄たちは、みんな上からのお古を順に着る事になるのですが、親は、6人兄弟の末っ子だったからでしょうか、私には、新しいものをいつも買ってくれたのでありました。
そこまではいいのですが、その買ってくれた物が、 一度も体にぴったりであったことはありませんでした。 必ず、一回りか二回り大きい物、 つまり、下着にしても、上着にしても、常にだぶだぶでありました。 そして、親が言うには、洗えばすぐに小さくなるから、という言葉でした。
私の体が、他の周りの友達より小さいので、そのうちに大きくなるだろうとの計算と共に、洗えば小さくなるとの計算がいつも働いて、結局のところ、だぶだぶのものをいつも着せられていた、というわけでありました。そういう思い出があります。
私は、あまり布切れの伸び縮みは知りませんが、今は昔ほどではないかもしれません。 生地が大変良くなっているからであります。
ひるがえって、聖書の話しに戻しますと、物の伸び縮みについてイエス様はよく知っておられたという事であります。しかも、イエス様は、その現象を用いて、ご自分が人々に示そうとしておられる新しい思想、真理に対する新しい生き方をすることの必要を述べられたのでした。
古い着物の継ぎに新しい布切れを使う者はいない。 使えば、縮んで古い布の裂け目を広げることになる。 これは、裁縫をする方なら常識的な知恵でしょう。 イエス様は、そのような知恵を用いて、弟子たちに断食を求めることは、それくらい不釣り合いなことはない。擦り切れた布のようなユダヤ教の継ぎ当てをするのではない、 そのようにまず、教えられたのでした。
そしてもう一つの教えが、17節の教えであります。 「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるような事はしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。 新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」というたとえであります。
発酵している新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる者もいない。 弾力性を失った皮袋は裂け、ぶどう酒と共に失われることになる。 弾力性を失ったユダヤ教の枠の中に、イエス様のもたらされる命を収めることは出来ない、そのようにたとえで教えられました。
新しいブドウ酒を新しい皮袋に入れれば、大丈夫というのは 当時の誰でもが知っていた真理でありました。 当時は、「皮袋」は、水や乳、油やブドウ酒などを保存したり、運搬したりするための器でありました。
もしかしたら、遊牧民や未開の地では、つい最近まで目にすることが出来たかもしれません。が、最近では、鉱物資源の発掘のために、どんどん人の手が未開と言われる地に入り、昔の姿は消えておりますので、なんとも言えませんが、 それはともかく、イエス様の時代は、動物の皮袋を用いるのが普通であったわけであります。
新しいブドウ酒は、まだ発酵を終えていませんから、発酵による圧力が皮袋にかかります。それを古い皮袋に入れますと、その圧力によって古い皮袋は裂けてしまいます。 しかし、新しい皮袋は、その圧力にも耐える力があるというわけです。
ところで、伸び縮みで言いますなら、皮袋ではありませんが、 私たちが特伝の時に案内を配布する時に使っている輪ゴムでありますが、 100枚ずつの束にするあの輪ゴムを 何とか何回か使おうとするのですが、すぐにダメになってしまいます。
やはり、あれも古くなると全く役に立ちませんね。 簡単に切れてしまうものであります。 買い物をして、輪ゴムがついていると、 ついまた次の何かの時に使おうと思いますが、大抵はだめです。
無駄な抵抗だといえましょう。 物は古くなるのです。 そして使い物にならないのであります。 そんな事を考えながら、イエス様のたとえを読みますと、 イエス様は、本当によく身の回りの事を見ておられ、 易しいたとえをもって説明されたことが分かるのであります。
そしてそれは、現代の私たちにもよく通じるものです。 私たちが信じているキリスト教とはいかなるものか。 本当のものなのか、という問いが発せられるでしょう。 もし本物で新しい、永遠に変わらない真理の宗教であるなら、 古い器である古い皮袋に入れておくことは危険です。 破れてしまうからです。
キリスト教が、あのユダヤ教から脱皮し、新しいものになったとするなら、 それは、新しい皮袋に入れなければならないでしょう。 断食を年に何回、あるいは、週に何回することではないのです。 けれどもイエス様の時代に、このような事を言うのは、 非常に危険な発言でありました。
信仰は、恵みであって、行ないではないというなら、 それは、とんでもないと、当時の人たちは反発したでしょう。 パリサイ人たちが、イエス様に強く反発した事からも良くわかります。 パリサイ人と御国の民との生き方は完全に、その違いが明確になりつつありました。
古いしきたりを重んじ、律法に従っていると言いながら、 実は、そこから生まれたしきたりに沿って歩んでいるにすぎない。
断食もそうですが、 「あなたがたは、もし人が父や母に向かって、 私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。」(マルコ7:11-12)というのもしかりであります。
律法を忠実に守っているようで、実はそうではない。 それはすなわち、古いものが新しくなったというよりは、 イエス様が来られて、真理がより明確になったとも言えるかもしれません。 そして、イエス様の死によって、更に新しい時代の幕開けとなって行くのですが、 聖書の今のこの時点では、そこまで言う事はできません。
が、少なくとも私たちの時代は、そういう事が出来るでしょう。 パリサイ人たちは、律法を守る事によって、 天の御国に入ろうとしておりますが、それは叶わぬ夢であります。
私たちは、イエス様の到来と共に、 すでにはじまっている神の支配の中に自らを委ね、 自らの努力によってではなく、イエス様の行なって下さった義の業によって 天の御国に入れていただける特権をいただいているのです。 それが、どれだけ幸いなことか、覚えて感謝しようではありませんか。
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