2011年5月8日(日) 「振り向くイエス」 マタイ9:18-26 竹口牧師
この朝見ます聖書範囲は、マタイ9:18-26でありますが、 ここには、イエス様がなされた奇跡が二つ書いてあります。
そして、一つの話しに、もうひとつの話しが割り込む形になっております。 また、今回の話しは、マルコもルカも書いておりますが、同じ出来事をマタイは、少し話しを省略して書いております。
18節からまず見ていきますが、こうあります。 『イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。』」と。
ここに、一人の会堂管理者がイエス様の所にやってまいりました。 会堂管理者と言いますのは、礼拝に於いて話す人や聖書を朗読する人を決めること、 あるいは、その名の通り、会堂の建物を管理すること、 更には、律法の違反者を裁く事などもしていたようです。
人が集まる所には、さまざまな問題も生じるものでありますが、 少なくとも会堂管理者は、その場で起きた問題は責任もって、解決していたのでありました。
そのような、責任ある地位の人が、自分の娘のために頭を下げ、 否、ひれ伏してまでイエス様の所にお願いに来たのでありました。 これは、考えてみますと、大変な行為なのであります。 地位、名誉ある人が、人前で、はばかることなく頭を下げるのですから。
もしイエス様が、「人々に病気のある人はお出でください。治してあげますから。 私の所に来た人は、必ず満足してお帰りになるでしょう」、そう言って誘われたのであるのならまだしも、会堂管理者の方からやってきたのでありますから、大変な思いできたのでした。
これは、イエス・キリストというお方がどういうお方か、 どのような手段を通してであろうと聞いていなければ、わざわざ尋ねて来て、ひれ伏すなどできない行為なのであります。
会堂管理者は、「私の娘がいま死にました」と言っておりますが、 だからもう、お出で下さる必要はありませんというのではなく、 「でも、お出で下さって」と願っているのです。 人が死んで、なお願うこの信仰、この会堂管理者の信仰をどうみればよいのでしょうか。
ある本にこう書いてありました。 故人を愛して惜しむ心情の深さはどこであらわされるか。 「惜しい、その時ではないのに、主は取り去りたもうた」と愚痴をこぼすか、 徹夜の祈りを重ねて、病状が上向いたと言っては「神は信仰を聞き届けられた」と誇り、祈りもむなしく召されたと聞けば「信仰があともう少しあったなら」と自虐にふけるか、それとも愛する者のために涙しても、信仰をもって「神の時は最上の時」と告白して神をたたえるか、というように、です。
親にとって、息子、娘を亡くす事がどんなにつらい事か、 それは、父なる神様が御子を差し出すほどのつらさと、実際に親が子を亡くした者にしか分からない、はかりしれないものがありましょう。
そういう意味では、私は未経験ですので、わかりませんし、 それだけでなく、きょうの聖書箇所を読んでいまして、 どうして、この父親が、「娘の上に御手を置いてやってください。 そうすれば娘は生き返ります。」と言いえたのか、私には分からないのであります。
過去に、そのような前例があったのか。 イエス様とは、そんなに素晴らしいお方であると聞いていたのか。 さまざまな不思議を行なうお方であると聞いて、 もしかしたら、万が一にでも、生き返らして下さるのではないか、 そう考えての言葉だったのか。 考えれば考えるほど、この会堂管理者の行動、そして言葉が分からなくなるのであります。
わが子の可愛さから、出た言葉だったのでしょうか。 19節をみますと、イエス様は、何のためらいもなく、 その会堂管理者の家に向かわれるのであります。
23節を見ますと、確かに娘は死んでおりました。 ですから、悲しみを表す笛吹く者たちや、騒いでいる群衆、 これは、遺族と全く関係ない人のことではなく、遺族と関係のある、 ありはい、遺族の家族の事を指していると取っていいでしょう。
その当時、イスラエルでは人が死ぬと、できるだけ早く、遺体を処置したようです。 傷みが激しいからであります。 それと共に、お金のある家ほど、悲しみを表すために、職業的な「泣き女」を沢山雇い、喪中の家には号泣が絶え間なく行なわれたそうです。
ですから、イエス様が家に着かれた時は、もう、それが始まっていたととっていいでしょう。そして、その状況を見られたイエス様は、言われたのです。 24節「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」とです。
この言葉を聞いた人たちは、イエス様を嘲笑ったとあります。 確かに、死んだのと、眠っているのとは、私たちには違いがあります。 しかし、イエス様から見られれば、それは同じことだったのです。
私たちは時に、死んだように眠っていると人の寝姿を見て言います。 あるいはまた、あたかも眠っているかのようだと、遺体を見ながら言う事があります。姿は、同じように見えても、全く状況は違うのです。
一方は呼吸をし、血が流れている。他方は、心臓が止まり、体温は冷たくなり、呼吸は勿論ありません。人々は、その違いをよく知っておりました。 しかし、イエス様にとっては、それは同じ事であったわけでした。 だから、「あちらにいきなさい」つまり「静かにしなさい」というように言われたのでした。
もう一度、18節の会堂管理者の言葉に戻りますが、彼は言っておりました。 「娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」と。
父親は、イエス様のもとにお願いに行き、 そして自宅に戻って、確かに娘の死を確認したことでしょう。 そして、「イエス様、もう充分です。娘は確かに死んでおります。お帰り下さい」とは言っていないのです。また、イエス様や、イエス様の弟子たちを追い出すこともしていないのです。あるいはまた彼は、「家族だけにしてくれ。今は少しでも、娘のそばにいたいのだ」、とも言っていないのです。イエス様に全てをお任せしているのです。
遺族の者は嘲笑っている。 しかし、父親は少しも動じることなく、イエス様に全てを任せている。 この信仰は、どこからきているのでしょうか。
その人に何人子供がいたでしょうか。 何人かのうちの一人だったでしょうか。 それとも、たった一人のこどもだったでしょうか。 いいえ、一人でも二人でも、親にとってはかけがえのない一人なのです。 その子が亡くなったのです。 悲しいはずなのです。 しかしこの会堂管理者は、悲しまないでイエス様の指示に従うのです。
イエス様に対する信仰がそうさせたと言えないでしょうか。 イエス様に希望を託した者のみが取れる行動でありましょう。 25節「イエスは群衆を外に出してから、うちにお入りになり、 少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。」とあります。 奇跡が起きたのです。奇跡を起こされたのです。イエス様が、です。
会堂管理者の信じた通りにイエス様はして下さったのでした。 何という素晴らしい結果でしょうか。
そして、もう一つ、今回の所には奇跡があります。 20節から22節までの出来事であります。 12年間、長血を患った女性が、イエス様が会堂管理者の家に向かわれる途中でその話しが割り込むのです。彼女は、イエス様の着物に触ったのでありました。 理由は、21節にある通りでありました。
「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』 と心のうちで考えていたからである。」でありました。 これもまた、不思議な出来事と言えば、正にそうであります。 聖書には、レビ記15:25-26をみますと、今回の女性は「汚れた者」とみなされておりました。しかも、着物にさわる事によって癒されるといった考えはありません。 それなのに彼女は、人ごみにまぎれて、イエス様に触るのであります。
彼女は一体何を考えて、そうしようと考えたのでありましょうか。 12年間も長血を患った女性ですから、止むに止まれぬ思いで、イエス様に触ったのでありましょうか。それは、他の人が一種の魔術的な力、迷信的であるととってもいたしかたない事でありました。
しかしながら、彼女の行為に対してイエス様はどう言われたかと言いますと、 「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われたのでした。
「あなたの信仰があなたを直した」とは一体どういうことでしょうか。 彼女の信仰とは一体、どんな信仰だったのでしょうか。 一口に信仰と言っても、いろいろあります。
「イワシの頭も信心から」ということばがありますが、 なんでもかんでもいい、とにかく信じて求めれば、 山の神であろうが、海の神であろうが、水の神であろうが、火の神であろうが、太陽の神であろうが、そう言ったもろもろの神のうちの一つとしてのイエス様であるなら、治していただけるのではないだろうか。そういう信仰だったのでしょうか。
日本の各地に、触ってご利益を頂けるというものがあるそうです。 あるいは、煙に触れてご利益をいただけるというものもあるそうです。 いろいろとご利益をうたった宗教があります。 今回の彼女のイエス様に対する信仰とは、 そういうものだったとは、到底私には思えないのです。
なぜなら、22節「イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。」とあるからです。 「イエス様が振り向かれた」というこの事実は無視できません。 非常に意味のある行為だからであります。
大勢人がいる中をイエス様が歩いておられて、誰かが触るという事は、あり得る事であります。そして、それは単なる群衆の誰かが触ったものだとして、無視する事も出来た筈でありました。
イエス様はこれまでにも、多くの人を癒してこられましたので、ご自分の体を触って癒される人が出てくるなら、それはそれでいいことであって、イエス様がいちいち振り向かれる必要はなかったのであります。しかし、イエス様は、この時振り向かれたのでした。
しかもそれだけではありませんでした。 「あなたの信仰があなたを直した」とまで言われたのです。 イエス様の振り向かれたのには意味があったわけでありました。 彼女が単に癒される事がイエス様の思い、願いではなく、彼女の信仰に目を留められた事に、私たちは注目しなければならないのです。
イエス様が振り向かれる動作をされた事が、福音書に七回出てきます。 そのうち三回は、今回の記事でマタイ、マルコ、ルカが書いておりますので、残り四回となりますが、それは、どれも大変意味ある振り向き方なのであります。
二回は、同じ記事なのですが、マタイ16:23とマルコ8:33で、 イエス様がご自分の死の事を話された時の所でこうあります。 「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」であります。
そして三回目は、イエス様が十字架にかかられる前の晩の事です ルカ 22:61「 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、 『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』 と言われた主のおことばを思い出した。
そして4回目は、ヨハネ1:38 で、イエス様の公生涯の最初の頃で 「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。 『あなたがたは何を求めているのですか。』彼らは言った。 『ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。』という場面であります。
これでお分かりのように、イエス様が振り向かれる時は、 しっかりとした関係をもって振り向いておられるということなのです。 とするなら、きょうの個所で女性の方に振り向いて言われたお言葉は、 何という強い意味が含まれていることでしょうか。 そして、彼女の信仰とは、そういうものであったと言えましょう。
イエス様を救い主として見ている信仰だと私は思うのです。 会堂管理者の信仰もまた同じでありましょう。 この方以外に救いはない、だから、可愛い娘が死んだと言われても、そのイエス様に望みを託す。そしてイエス様なら必ずかなえて下さるとの信仰があったということです。
信仰とは、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」とへブル11:1にあります。私たちはイエス様から、マタイ7章で、「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われたのを覚えています。
私たちが、これが御心だと思って求めても、神様は与えて下さらない事もあります。 でも、求めて願っているのを無視しておられるわけではない。 その事を、神の子とされた私たちは忘れてはならないと思うのです。
イエス様は、私たちの心のうちの全てを知っていて下さり、 私たちの言葉に振り向いて下さるお方なのです。 そして、一緒に歩いて下さるお方なのです。 イエス様が一緒について来て下さるのに、子供はもう死んだからいいですとは、 会堂管理者は言いませんでした。 死んでいても、その悲しみを理解し、寄り添って下さるお方がイエス様なのです。
それ故に、もっともっとイエス様がそばにいて下さる事を私たち信仰者は信じて、より頼もうではありませんか。
自分で何でもかんでもやらなければと背負い込むのでは疲れます。 イエス様は私たちの信仰を見ておられます。 振り向いておられます。 その時の私たちの信仰は、イエス様を信頼しきった信仰でありたいものです。 そして、最善を成してくださるイエス様に頼ろうではありませんか。
2011年5月29日(日) 「隠せない喜び」 マタイ9:27-31 竹口牧師
この朝は、目が見えない二人の人を通して、私たちの信仰のあり方を今一度確認したいと願っております。4つの福音書を私たちが読みますときにまずその福音書全体で感じますのは、イエス様は、数々の奇跡をおこなわれますが、その奇跡の中には、目が見えない人、耳が聞こえない人、口がきけない人、歩くことができない人というように、 私たちの体のどこかが不自由な人が癒される場面を多く目にします。
私も、ある時階段を降りていて、足首をくじき、松葉づえで歩く羽目になったことがありまして、大変不自由な生活をしたことを思い出します。年を重ねれば、否応なく杖を必要とするようになりますし、目は、眼鏡を二つも、三つも用意しなければならないようになります。これは、致し方のないことであります。
年を重ねた方が、神様に向かって、「神様、眼鏡が必要のないようにして下さい」とは祈られないでしょうし、「杖がなくても歩けるようにして下さい」とも、おそらく祈られないことと思います。
なぜなら、年を重ねれば、そういうものだと、私たちは、体の衰えを受け入れ、それもまた、神様の下さった恵みと受け取り、受容するからであります。
ということは、昔も今もそうですが、 目の見えない人が、目が見えるようになることを願うのは、もしかしたら、それほど年を重ねた人ではなかったのではないか、そのように私には思えるのであります。
それぞれの国で、全く目が見えないで生まれてくる人の確率、あるいは、人生の途中で失明するという確率など、昔の現状、今の現状がどの程度なのかわからないことですが、少なくとも、私が読んだ本の中では、イエス様が、今活動しておられる地域は、他の場所に比べて視力を失う人が多かったように書かれております。それは、東の太陽の直射を目に受けるとか、清潔、衛生の知識が欠けていた為とある本にはありました。
いずれにしましても、見えない目が見えるようになることが本人にとって、良いことなのか、あるいはかえって、よくないことなのか、それは、イエス様のみが知っておられることであります。
見てはいけないものを見て、人生を棒に振る人もこの世にはいるのであります。見えないほうがむしろ、よい場合もあります。
ところで、きょう登場しました二人の人は、イエス様の歩かれる音か、 ざわざわとする雰囲気からでしょうか、大声で叫び始めるのであります。 いいえ、それどころか、「叫びながらついて来た」とさえあるのであります。
どう叫んだかと言いますと、「ダビデの子よ。私たちを憐れんでください」と叫んだというのです。「憐れんで下さい」とは、どういうことなのでしょうか。 「目が見えないのだから、目が見えるようにしてくださいというのが、当然ではないか。そんなの愚問だよ」と言えるのでしょうか。
私は決して、愚問とは思わないのであります。 なぜなら、マルコの福音書10:51では、目の見えない人が、イエス様に向かって同じようなことを叫んでいるにもかかわらず、イエス様は、「わたしに何をしてほしいのか」と言われているからです。
目の見えない人が、イエス様に求めることは、目が見えるようになること、それ以外には考えられない、とそう思うのは、私たち目が見える者の考えではないかと思います。 別の事を願っても不思議ではないのであります。
もっともあの場面でのイエス様は、バルテマイの願いがなんであるか、知っておられたと思いますが、それはともかくとして、今回の場合は、目が見えることでありました。 そういう意味では、自然に考えた方が正しかったともいえます。
そしてイエス様はここでは、「何をしてほしいのか」とは言われていませんし、いきなりこう言われているのであります。「わたしにそんなことができると信じるのか」であります。憐れんで下さいと願っている人のその求めは何か、それをイエス様は聞かずに、すでに知っておられたのであります。
それはなぜかと言いますと、人の心を読むことのできるイエス様であるからでありました。 以前に9:4で見ましたように、「イエスは彼らの心の思いを知って言われた。 『なぜ、心の中で悪い事を考えているのか』」とありましたように、 イエス様には、人の心を全て見ておられるのでありました。 ですから、聞く必要はなかったのであります。
そういう意味では、マルコの引用をしましたけれども、あえてイエス様が目の見えない人に「何をしてほしいのか」と言われたのには、意味があったわけでありました。
ところで、それはそれとして、目の見えない人が、自分たちの願いを言うまでもなく、イエス様の質問に彼らは「そうです。主よ」とそう答えています。私たちは、このイエス様と目の見えない人との会話から、非常に大切なことを教えられるのであります。 その一つは、イエス様を、救い主と信じていたという事です。 ですから、私たちが願う前から、その願いを知っていてくださるという前提が彼らにはあったのです。目の見えない人は、そのことを知って、信頼して、求めているという事であります。目の見えない人がイエス様を「ダビデの子よ」と呼ぶくらいに、それはもう、大変な期待があったのでした。
もっとも、イエス様に向かって彼らは叫んだのですが、その叫びは、ある面は、一般的に考えられていたのと、あまり違っていなかったのかもしれません。
というのは、それは約束された救い主、指導者、また、征服者としてイスラエルの人たちの自由を回復するばかりでなく、彼らに力と栄光と、大国の栄誉と世界制覇を与えるもの、という考えであったからです。ですから、イエス様を間違ってとらえていたかもしれない。
とはいえ、イエス様に信頼しての叫びは、ほかの全く力のないものに向かって叫ぶよりは、どれほど正しかったか、いうに及びません。力のない者、間違った者に向かってどんなに熱心に願っても与えてはもらえないからです。
彼らは、真剣に求めました。 私たちもまた、イエス様に真剣に求めることをしたいものです。 私たち大人は、少し反省しなければならないのですが、 というのは、口ではお願いしながら、心の中では、でもやっぱりだめだろうな、という常識が働くからです。
子どもが父親にお願いするときに、頼んでもだめだろうなー。 私の父親は、なんでも反対するんだから。 あるいは、家の家計では無理だからというように現実を先に考える、 そういった大人びた考えは持っていてはいけないし、また持つようでは子供ではないのです。
幼い子どもにとって、父親はスーパースター的存在であります。 また、そうでなければならないのです。 父親のすること、教えること、全く信じるのが子供なのです。 だんだんに成長するに従って父親に対する信頼は、薄れていくかもしれません。
でも、私たちと神様との関係は、そうであってはならないのです。 成長すればするほど、神様に対する信頼は強く、大きく、揺るぎないものとならなければなりません。私たちが本当に神の子供とされているのなら、父親である神様に、信頼して求めるべきでありましょう。
下手な理性や常識は、捨てたほうがいい時もあります。 と言いますか、本当に困ったときは、私たちは、常識では考えられないようなことを平気で願い求め、祈っているのではないでしょうか。 神様は、それに対して最善の答えを今まで下さっていたのであります。 そのことを忘れないようにしようではありませんか。
ここで、もう一つ覚えておきたいのは、 求めている人と、イエス様の考えておられることとが一致しているという点であります。
願う前から、願う人の心がイエス様には分かっている。 一方、願う側は、願いに応える力をお持ちである事を信じて疑わない、両者が一体となっている姿をここに、私はみるのです。これもまた、一つの素晴らしい光景だと私は思います。
ところで、目の見えない人の思いを知っておられるイエス様は、彼らの願いをかなえる力をお持ちなのに、ここでは、あえて質問されました。「わたしにそんなことができると信じるのか」と。出来ると信じて疑わない者に向かってなお、その信仰がゆるぎないものか、イエス様は更に確認されるのです。ですからこれは、イエス様が相手の心がわからなく聞かれた質問ではないのです。
もう一度言いますが、目の見えない人の心を、より確かなものとするためのものでありました。なぜなら、真剣に求めていながら、私たちは時として、与えられて喜ぶことをしないからです。
これよりもあれのほうがよかったとか、あれよりもこちらのほうがよかったとか、 とかく私たちは、後で不満を漏らす事もあるからです。
29節「そこで、イエスは彼らの目にさわって、 『あなたがたの信仰のとおりになれ』と言われた。」とあります。
『あなたがたの信仰のとおりになれ』とは、これまた、実に素晴らしいイエス様のお言葉であります。私たちの願った通りにイエス様は答えてくださるのですから。 しかし、ある一面、怖い面もないわけではありません。 求めて、与えられたことによって、神様の栄光を表すにふさわしく行動できるのか、 それが問われるからであります。
神様が、最高のものを私たち信仰者に与えてくださったのに、それを、感謝もせず、喜びもせず、当然のことのように受け取り、なおかつ、不満であるなら、なんという寂しい神様との関係でありましょうか。
私たちは、今与えられているものをもう一度見まわし、感謝したいものであります。 なぜなら、求めたものが与えられているだけでなく、求めていないものまでも、過不足なく毎日が生活できるように与えてくださっているからです。イエス様の血によって贖われ、救われた者の大いなる特権に与っていることを、心から感謝しようではありませんか。
ところで、30節でイエス様は妙なことを言われました。 「すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、『決してだれにも知られないように気をつけなさい』と言われた。」とあります。
なぜ、『決してだれにも知られないように気をつけ』なければならなかったのでしょうか。願いをかなえられた目の見えなかった人は、その嬉しさを、みんなに伝えたい衝動に駆られて当然でしょう。イエス様に感謝するのは当然のこととして、本当に嬉しいことは、伝えずにはおれない、これが私たちの素直な思いではないでしょうか。
しかし、それだけにイエス様は、この時は、厳しく戒めなければならなかったのでした。 なぜなら、イエス様の働きは、まだまだこれからだったからです。 人々の誤ったメシヤ観、政治的な指導者と理解されては、これからの働きに支障が出るからでした。
31節「ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。」とあります。この言いふらしたと新改訳は訳しておりますが、これは、ニュアンスとしては、非常に悪い感じを私は受けます。
辞書では(ことば、うわさ、名誉などを)言い広めるとあります。 つまり、彼らは決して悪意があってした行動ではないのですから、 「言い広めた」そのように訳されていいのではないかと思います。
考えても見てください。 目が見えなかった者が、イエス様に願い、それがかなえられたのです。 こんなに嬉しいことがあるでしょうか。 おそらく、目が見えなかった人は、この目が見えたなら、どんなに素晴らしいことかと、毎日願っていたに違いないのです。
そして、イエス様には、それを叶えることがおできになると信じて、願った。そしてまさにその通りにしていただけたのです。この嬉しさは、抑えようがなく、抑えきれなかったというのが、彼らの真実の姿だといえましょう。 ただし、それがイエス様にとって、喜ばしい結果にはならなかったことは、反省しなければなりません。
イエス様は、いつもしてくださることに意味を持たせておられます。 それは、神様の栄光を表すように、であります。 ですから、嬉しくても、ある時には節度をもって行動する必要があるのです。
毎主日、神様に礼拝をお献げする時がそうでしょう。 嬉しい者も、傷み、苦しみ、悲しみを持つ者たちが一堂に集まって、神様を見上げて、静かに礼拝をお献げする。
パウロがTコリント14章40節で「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。」と言っていますように、一つの礼拝の中に参加している兄弟姉妹の心の内は、さまざまな思いが入り混じっての参加であると言えましょう。
しかし、同じ主に目を向ける時、私たちは、一人一人がどんな状況にあろうとも、主は全てを見ておられ、最善に導いて下さるお方である。そう信じているからこそ、一つになって礼拝が出来るのであります。
イエス様がしてくださったことの喜びは、なかなか抑えきれません。 隠し切れません。でも、イエス様が厳しく戒められたのなら、喜びを抑えることも必要であり、大切な事なのです。
ある時、イエス様は、悪霊に疲れている人を癒されました。 癒された本人は、大変うれしくて、イエス様のお供をしたいと願い出ました。 しかし、イエス様はその時彼にこう言われました。(マルコ5:19-20) 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、 主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、 どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」とでした。 そこで、彼は立ち去り、 イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、 デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」 そのようにマルコ5章にはあります。
イエス様は、いつも、喜びを伝えないようにとは 言われませんでした。きょうの最後のところ31節で、 「9:31 ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。」とありましたように、彼らは、言い広めました。 これは、イエス様のご命令に背いた行為でしたので慎むべきでしたが、彼らにはそれができませんでした。
彼らは、その喜びを隠す事が出来なかった。 それほど、素晴らしいものを彼らは頂いたという事です。 私たちもまた、素晴らしい喜びをいただいているのですから、そして、更には、いまは、戒められているどころか、伝える事を求めておられるのですから、救いの喜びをあるがままに喜んで伝えさせて頂こうではありませんか。 それが、今の私たちに主が望んでおられることなのです。
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