2011年6月12日(日) 「偏見を棄てて」 マタイ9:32-34 竹口牧師
この朝は、マタイの福音書9:32-34を見るのでありますが、 ここには、イエス様にかかわる3種類の人が出てきます。 まず1番目に属する人は、悪霊につかれ、ものが言えない人です。 第2番目に属する人は、イエス様を取り巻く群衆であります。 第3番目に属する人は、パリサイ人であります。
イエス様に対してこの三者は、それぞれの動きをしますので、その動きから、考え、教えられたいのであります。
まず最初に取り上げたいのは、悪霊にとりつかれ、ものが言えない人の事であります。 この人につきましては、ここに書いてある事だけでは、その人が、積極的にイエス様のもとに来たいと思っていて連れて来られたのか、あるいは知人の好意で連れて来られたのかは分かりません。イエス様を信じていたのかどうかもわかりません。
ただ、どちらにしても、イエス様は、その人を癒して下さった事だけは確かであります。 どのくらいの期間、しゃべれなかったのでしょうか。 あるいは、癒されて感謝の気持ちをイエス様に表したのでしょうか。 更には、イエス様が自分にして下さった事を喜んで、伝えようと思ったでしょうか。 これらのことを、一切マタイは書いておりません。
私の願いは、イエス様に感謝の思いを表してほしいと思います。 もしかしたら、あとでそうしたのかもしれません。 イエス様が自分にして下さった事を他の所に行って伝える者になってほしい気はしますが、今のこの時点では、30節のような思いを、即ち、うわさとなってひろがらないようにとのイエス様の思いであったでしょうから、伝えることは、後回しでも良いでありましょう。
問題は2番目、3番目の人たちのことであります。 第2番目の人たちの事を皆さんはどうご覧になられるでしょうか。 つまり、群衆に属する人々であります。彼らは、傍観者であり、イエス様が奇跡を行なわれるのを目にし、驚いて「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言ったのでありました。
これを読む限りでは、少なくともイエス様に対して、敵対的ではありません。むしろ好意的であります。しかし、それ以上でも、あるいは、それ以下でもありません。 こういう傍観者は、見て、驚いて、それで終わり。これは、果たしてイエス様の意図されている事なのでしょうか。
私たちは、自分の信仰生活を振り返って見ます時に、イエス様が私たちに多くの恵みを下さっている事を感じながら、ただ傍観者的であるなら、それは、イエス様の意図されている事とは違うのではないか。そんなことを、私はここで、読むのであります。 これは、信仰者の側に立っての見方であります。やはり、イエス様により近づく者になってほしいという思いがあります。
一方、まだ信仰者でない方に対しては、こんなに素晴らしい方を目の前にしながら、なぜイエス様を信じ、信頼し、受け入れようとはされないのですか、そのようにお聞きしたいのであります。
イエス様はこれまでにも、多くの奇跡を行なわれてきました。 ツァラートに犯されている人、百人隊長のしもべで中風の人、ペテロのしゅうとめの熱病、多くの悪霊につかれている人、床に載せたままイエス様のもとに連れて来られた中風の人、長血を患っている婦人の病、会堂管理者の娘の死、更には先回見ました目の見えない人というように8回の奇跡、そして今回見ている9番目の奇跡であります。
どこにイエス様が行かれても、そこには、多くの人がいたと思われます。 その人たちが、イエス様を神と認めたなら、何という素晴らしいことでしょうか。 しかしながら、イエス様の時というものは、まだ来ていませんでしたので、そのような事態にならなかったのは、ある意味では、イエス様の働きの障害にはならなかったという事で、そういう意味からしますと、良かったのかもしれません。
でも、これは、積極的にイエス様に協力してそうなったわけではありません。 単なる傍観者でしかなかったゆえでありました。 傍観者は、イエス様に対して一定の距離を置きつつ、イエス様のなされる業を興味深く見守るだけであります。決して、ある一定の距離以上は近づこうとはしないのであります。
私たちの社会で言いますなら、キリスト教はいい。 結婚式はキリスト教式でしたい。 キリスト教の賛美歌はいいねえ。 といいつつ、でもやっぱりクリスチャンになるのはいやだわ。 私、縛られるのは嫌なの、というような人達と言えるかもしれません。 非常に砕けた言い方ですけれども。
傍観者がいつまでも傍観者であり続けることはできません。 なぜなら、イエス様はある時こういわれているからです。 この同じマタイの福音書12:30で、「 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」と言われているからです。 あるいはまた、ヨハネの黙示録では、3:15で、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」とあるからです。
イエス様に対して単なる傍観者であってはならないといえましょう。 はっきりとした態度を早いうちに取るべきでありましょう。 なぜなら、イエス様が再びこられてからでは遅いからです。
ところで、きょうの個所で一番明確な態度を示しているのは、パリサイ人です。 そして、そのパリサイ人こそ、自分たちの態度を明確にしているという点では、良いと言えばよいのですが、しかし、イエス様を正しく見ていないという点で、大変良くないのであります。
彼らの特徴には、どういう点があったのでしょうか。 その一つは、考えを変えることができないほど思想が固定化している、という事が挙げられましょう。この硬さは、年齢も関係してきます。
何十年もかけて作り上げた考えは、そう簡単には変えられないものであります。 社会的にも地位があり、親せきなどの付き合いを考えますと、なかなか容易ではないといえましょう。
パリサイ人は、律法の一字一句、彼らの解釈の上に立ち、他の正しい解釈には立とうとしなかった、ここに問題があるのであります。
今までの習慣、伝統を打ち破るというのは、大変なことです。 間違った解釈にせよ、自分達はそれが正しいと信じているのですから。それを変える気は全くないからです。新しいものを取り入れることに慎重な人もいれば、最初から聞くまでもなく、かたくなに新しいものを拒み続ける人もいます。それが、良い悪いに関係なく、であります。
イエス様の時代は、少し時代をさかのぼりますと、南ユダ王国がバビロン軍によって捕囚となり、その後、ペルシャ帝国がパレスチナを治めるようになりますが、しかし、そのペルシャ帝国もギリシャに倒され、この時にギリシャ文明が各地に広がったのでありました。 時の征服者、アレクサンダー大王は、各地をギリシャ化しましたので、この影響は、パレスチナもまぬかれませんでした。
イエス様の時代は、さらに、そのギリシャからローマに支配がうつっていましたが、しかし、ギリシャ文明は、なかなか消し難いものになっていたわけでありました。いつの時代でも、またどこの国でもそうですが、新しいものを取り入れる推進派と、かたくなに拒否を貫く保守派とのせめぎ合いがあります。
イエス様の時代も、いわばそういう中にあったことは決して否めません。 そういう中で、サドカイ派やパリサイ派は、それぞれの立場をとるようになるのであります。サドカイ派は、新しいものには柔軟に対処し、むしろ、積極的に受け入れていく立場であり、一方、パリサイ派は、受け入れたくない立場でありました。
そういう意味からしまして、きょうの箇所に出てきたパリサイ人は、イエス様のされていることを決して受け入れられなかったのでした。これから先に出てくることですが、律法の解釈に大きく違いが出てくるのであります。
パリサイ人は、イエス様のなさることを受け入れられませんので、神の力によって癒しをされているのに、悪霊の働きによってとするわけです。新しいものに対して極端に拒否反応を示す彼らは、正しい律法の解釈を大変嫌ったのでした。 自分たちの考えに固執するという事は、神様からの命令に対して聞く耳を持たないという事でもあります。それは、その昔、預言者を憎んだのと同じでありました。
第2番目にパリサイ人の良くない点は、自分たちの考えが正しいという確信に満ちておりましたので、逆に言いますと、イエス様のなさることは間違いである、そういう点に立つしかなかったという事であります。間違った確信に立つことの恐ろしさがここにあります。
他からの警告が全く受け入れられない。 イエス様が御言葉の正しい解釈をされ、語られても、パリサイ人はそれが受け入れられない。彼らは自分たちの解釈に完全に満足しておりましたので、自分を変える必要を感じませんでした。これはきわめて重症であります。
しかし、そういう中にあってもある時には、まてよ、もしかしたら、ナザレのイエスのいう事、している事、何かあるのではないかと思う時があるのではないかと思うのです。そんな時、実は、本当に大切なのは、もしかしたら、自分は間違っているのではないかと思ったとき、すぐに立ち止まって考えることであります。
そして、もし間違っていることが分かったなら、勇気をもって改めることであります。 もし仮に、改める事が自分にはできないと思っても、神様にはおできになるのです。 大抵の人は、自分が変わる事によって、周囲の人の目が変わる事を恐れる。 そういう心配をお持ちになられるのは確かです。
しかし、先々のことを心配すると何もできなくなります。 ということで、私たちにできなくても神にはできる、というみ言葉に信頼していただきたい。これは、真理でありますので、神様に変えていただいてほしいのです。
もう一つ、パリサイ人について言いますなら、偏見を捨てることであります。 偏見によってイエス様を見るなら、その目が狂っているのですから、イエス様を正しく見る事ができないものです。
ですから、一度、さっぱり今までの見方を捨てて、全く違った目で、イエス様を見ることでしょう。そうすれば、そこから、新しい人生が始まるものであります。
しかし、パリサイ人は、今までの生きてきた考え方を棄てることができませんでした。 自分たちの考えは正しいという高慢の上に立ち続けました。 更には、イエス様を常に偏見の目で眺め続けることになるのです。 そのような彼らが、救われるでしょうか。残念ながら、救われないのです。 救っていただきたい人は、救ってくださる方に身をゆだねる必要があるからです。
さて、今回の話しの最初に戻りまして、悪霊につかれていた人は、イエス様によって癒されました。その人は、その後どうしたかは書かれていませんでした。そして、私たちは、そのほかに群衆を取り上げましたが、その群衆の一人とはならないようにしようではありませんか。
イエス様を単なる見世物や、多くの人を癒されるところを見るだけのものではなく、自分自身が、イエス様によって癒していただかなければならない者であることを教えていただき、 癒していただき、感謝の心を持つ一人にして頂こうではありませんか。あるいはまた、パリサイ人のようにかたくなな心で、決して自分の考えを棄てない、うなじのこわい人間として通すことをやめたいものです。
パリサイ人はイエス様のことをこう言っています。 「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」そういう彼らの見方は完全に間違っています。しかし、その間違いを指摘されても受け入れる心がないのです。そのような頑なな心でイエス様に向う事をやめようではありませんか。
イエス様は優しく招いてくださるお方です。病気の人を、いたわり、声をかけてくださるお方なのです。私たちが、イエス様を拒否すれば、イエス様も私たちを拒否されます。
あとでまた12章のところでパリサイ人がイエス様のことを悪霊呼ばわりするところますが(12:24)、 私たちは、そのような間違った考えを持つことなく、 むしろ、イエス様のしてくださろうとしておられることに感謝し、 また、喜び答えていきたいものです。
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