2011年7月31日(日) 「宣教の為に選ばれ」 マタイ10:1-4 竹口牧師
この朝は、司会者の方に読んでいただきましたマタイ10:1-4を見るのでありますが、1節から順にお話しするのではなく逆からお話しする事に致します。 今回3つの点をお話ししたいのですが、まず初めに、選ばれました12弟子たちの事を 取り上げる事と致します。
マタイは1節では、12弟子と呼び、3節では12使徒と呼んでいます。 使徒というのは、派遣するという言葉に由来し、それは派遣主がすべての権限を委譲し、特別な使命を託すときに使われます。12弟子は、この時以前にイエス様と出会い、イエス様と共に行動していたのですが、この時初めて、12使徒としての職務を課していただいたと思われます。
2−4節を見ていただきますとわかりますように、そこには、二人ずつ組みにしてあります。つまり、二人ずつ派遣するために組まれたと思われます。この二人ずつが宣教に派遣されるのは、やはり、互いに助け合うことの必要があったのでしょう。イエス様の弟子、あるいは使徒と言いますと、イエス様が数々の奇跡をなさりどんどん人々に知られていきますので、彼らにとっては大変名誉なことでありましたが、しかし、イエス様の昇天後、有名になった人というのはいません。
彼らのその後の生涯は、あまり知られていません。 もっとも正確には、と言った方が正しいでしょうか。 いろいろと伝承としては残っているからでありますが。
神様は彼らを選ばれ、重大な使命を託されましたけれども、彼ら自身が注目されることは神様が望まれなかったといえましょう。重要なのは宣教する人ではなく、宣教のメッセージだからです。
さて、具体的に、メンバーに入りたいと思いますが、まず最初に挙げられているのは、ペテロであります。これは、ほかの福音書マルコ3章、ルカ6章、そして使徒の働き1章にでてきますが、どれもペテロが一番最初に書かれております。それが何を意味しているかは分かりません。単に一番最初になったのか、特別な意味があるのか、全く私たちにはわかりません。
ペテロとアンデレは、ガリラヤの漁師(マタイ4:18)、二人は兄弟であり、ペテロはシモンがもともとの名であり、イエス様が、アラム語でケパ(岩の意味)につけられ、 イエス様によって名づけられてこう呼ばれるようになりました。アンデレは、ペテロより先にイエス様と出会い、ペテロにイエス様を紹介した人でもあります(ヨハネ1:42)。
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもやはり漁師(マタイ4:21)。雇人もいて(マルコ1:20)かなり裕福だったようです。それに大祭司の知り合いという関係でもありました(ヨハ18:15-16)。母親もイエス様の弟子となり、イエス様を助けていました。このヤコブとヨハネは、気性が激しく(マル3:17)イエス様からボアネルゲ(雷の子)というあだ名がつけられました。この組は二人とも気性が激しい性格であるゆえに、コンビとしては良かったのかどうかわかりませんが、決して悪いコンビではなかったでありましょう。
彼らは、ペテロと共にイエス様から特別の訓練を受け、ヤコブは、教会最初の殉教者(使徒12:1-2)となり、一方、ヨハネは使徒の中で最後の殉教者となりました。兄弟で、同じときに招かれ、同じ訓練を受けながら、全く違った人生を送ることになるのであります。
ピリポ(ヨハネ1:44)とバルトロマイ(もしかしたらナタナエル)で、職業は分かりませんが、ガリラヤのカナ出身でしょう。
次にトマスとマタイが書かれていますが、マタイは、自分の事をそのまま取税人と書いております。本来ならローマの手先と思われ、罪びとの一人とされていたのに、彼は自分の職業を隠すことなく、はっきりと書いております。
アルパヨの子ヤコブとタダイ。このヤコブはゼベダイのヤコブと区別するために、アルパヨの子として、区別されています。タダイは「ヤコブの子ユダ」とも呼ばれ、(ルカ6:16)イスカリオテのユダと区別するためにあとからつけられた名前かもしれないとも言われます。
熱心党員シモンは、シモン・ペテロと区別された呼び方であり、イスカリオテのユダは、ここでは、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダとなっていますが、カリオテは地名で、「カリオテ人」という事になり、12人の中でユダだけがガリラヤ人でなかったことになります。もっとも、弟子たちの間で、出身地が問題になったことはありません。
ヨハネの福音書はユダのことを(12:6)「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に納められていたものを、いつも盗んでいたからである」という風に書かれています。このようにして12弟子が決まったと言えましょう。
そして第2に取り上げたいのが1節にあります 「イエスは十二弟子を呼び寄せて」という「呼び寄せる」 ことについて取り上げたいのであります。
私たちが何かをしようとする時に人集めをいたしますが、そのような時、一番重要視しながら人集めをするのは何でしょうか。仕事が出来る事でしょうか。それともチームワークのとれる人でしょうか。あるいは、大した能力はないのだが、決してあきらめない根性というものがある、そんな人でしょうか。いざ人を集めるとなると、いろいろな人がいます。
大きな会社でしたら、いろいろと訓練を受けさせ、適材適所に配置いたします。 小さな会社でしたら、即戦力として現場に投入される事でしょう。 会社によっては、そんな特別な能力はいらない。とにかく、人手がほしいという場合もあるでしょう。
ところで、イエス様は一体何を基準に選ばれたのでしょうか。また、このマタイの福音書には書いてないのですが、イエス様の弟子が12人というのは、その12という数字はどこから来ているのでしょうか。旧約のイスラエルの部族が12でしたの、そこから来ているのでしょうか。
いずれにしましても、他の福音書マルコには3章の所ではこういう風に書いてあるのであります。「 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」とであります。
マルコは、イエス様は山に登られ、さらには、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたと書いています。つまり、イエス様の目にとまった人が集められたという事です。何だ、そんなに簡単に選ばれたのかという風には思わないでいただきたいのです。
実は別の福音書のルカには、こういう風に書いてあるからです。 ルカ6章12、13節でありますが、「 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」とであります。
ある人はここから、イエス様が12弟子を選ぶに当たっては、徹夜で祈られ、そして決められたのであったと言います。私たちは、人選のために徹夜で祈る事があるでしょうか。なかなかそこまではしないと思うのであります。
定期総会の前に、あるいは、その前から、祈りつつ備え、当日になって、導かれるままに役員を投票する人もいれば、前もって自分で書いてきて、いろいろ制限がありますので、状況を見ながら書く、そういう人もあるいはおられるでしょう。
つまり、イエス様のように徹夜で祈って、そして夜明けになって決定し、私たちで言えば、定期総会に臨む。そういう方はなかなかおられないのではないかと思います。 ところで、もともとイエス様の弟子たる者は、イエス様が選び、一人、二人とだんだんに増えていったものでした。そしてイエス様の招きに従った人たちが徐々に増えて行きました。イエス様の12弟子と言うのは、その中の選ばれた人であった。これは、否定する事の出来ない事実であります。
何を基準に選ばれたのか、私たちが知る由もありません。ルカの福音書10章を見ますと、この12人の弟子のほかに、更に70人が定められ、ご自分が行くつもりの全ての町や村へ、二人ずつお遣わしになったとあります。
イエス様の働きをするにはまず、核になる者が必要でした。そして、その後さらに多くの働き人が必要と認められ弟子として遣わされることになるのであります。
私たちが何かをしようとする時に、まず何を基準に人を集めるのか。イエス様はどうされたのか。果たして、イエス様のなさったように私たちもできるのか。非常に考えさせられるのであります。
私たちの教会には、教会の活動をスムーズにするために、運営委員会なるものがあります。そこで各担当者が報告し、行事の調整が図られ、毎月の例会に於いて、教会員みんなの了承を得る仕組みです。私たちの教会は小さな教会ですから、委員会の看板は違っても、メンバーはほとんど同じ。
しかし、気持ちを切り替えて、それぞれの課題を考え、一年間、行事を行なっているのであります。そこには、当然ながら祈りがあり、知恵が必要であり、いろいろ考えながら、最善の事をしようとするのですが、やはり、私たちのすることは完全ではありませんで、必ず、どこかに失敗があり、いつも反省しているのであります。
私たちが注意しなければならないのは、イエス様は、この人を、あの人を呼んで弟子とされましたが、同じように私たちはみんな、その呼ばれた者であるという事です。 イエス様によって、呼ばれて集まった者である。このことはよくよく覚えておかなければなりません。
それを忘れる時に、どうしてこの委員会にこの人がいるのだ。この人がいなければ、話しがスムーズにいくのだが。そういう考えに陥りやすいからであります。イエス様が、私たちを呼び集めて下さった。そして一つの活動を任せて下さった。 一人一人の意見を尊重するのは勿論大切でありますが、その上にイエス様がおられる事を私たちは忘れてはならないでしょう。
これを忘れる時、弟子たちが犯した、自分たちの中で誰が一番偉いかなどという議論に発展するのです。イエス様が呼ばれた弟子たちでさえこうなのですから、私たちは、真剣に、お互いがイエス様によって集められたものである、その事の大切さを忘れないようにしようではありませんか。
自分を選んで下さったイエス様は、あの人をも選んで下さったのである。 お互いに必要であるがゆえに選ばれ、輪に加えられているのだ。 その事を大切にしたいものです。
さて、この朝見たい最後の第3番目は、イエス様は、弟子たちに権威をお授けになったという点であります。1節をもう一度お読みいたします。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。 霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。
汚れた霊どもを制するとは、どういうことか。そして現在の私たちキリスト者には与えられているのかいないのか。そういう疑問が湧いてくるでありましょう。
先回見ました9章36節には、こう書いてありました。 「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」とです。つまり、まわりを見まわしますと、大変かわいそうな現状である。一日も早く救い出す必要がある、そのようにイエス様は見られたと言えましょう。 そして弟子たちを自分の代理として派遣する事を決心されたのでした。
この時イエス様は特に信頼していた12人の弟子を使徒に任命されたのでした。 使徒とは、派遣する人から権威を授けられ、ある特定の任務の為に、その人の代理として派遣された者を指します。つまり、イエス様が、いろいろな病気の人を癒されましたが、彼らにもその力を与えられたという事であります。
イエス様ご自身が行かれなくても、彼ら弟子たちが行って、イエス様の働きをなしてくる、これは、とても大切な行為であります。 何でもかんでも自分でやらなければ気が済まないリーダーがこの世にはいます。任せられない人がいます。でも、イエス様はそうではありませんでした。
自分の権威を、弟子たちに与えてでも、多くの人を救おうとされたのでした。 人に任せる、委ねるという事もリーダーの大切な要素であります。そしてリーダーは、失敗の責任も負う。これが、本来あるべきリーダーの資格でありましょう。
ところで、今の時代、イエス様の時代と同じように、神様から癒しの力を与えられているとして、一生懸命祈祷し、更には癒しの集会をもつグループがあります。 癒す事によって伝道になるとの考えでありましょうか。 しかし、そういう方々の事は別として、少なくとも私にはそういうことをするようには導かれていませんので、致しません。ただ、病気の方々を癒して下さるようにとは祈ります。
癒して下さるのは神様であり、祈りに応えて下さるのも神様だからです。 御心を求めつつ、お祈りをしております。ただ取り違えてはならないのは、肉体を癒す事が教会の働きではなく、魂が救われるように御言葉を宣べ伝える事、そして救われたなら正しく教育する事さらに教育したなら送り出す事、これが教会の使命であると私は思います。イエス様の最期のお言葉としてマタイが最後に書いている通りであります。 ですから、その事を大切にしたいと思っております。
U歴代誌16章には、南ユダの王アサのことが出ておりまして、彼が重い病気になって、そんな中でさえ、主を求める事をしないで、逆に医者を求めた、という部分がありますので、そこから、医者にかかる事が不信仰のように考える人がいますが、果たしてそうでありましょうか。
医者もまた神様が立てられた立派な働きだと私は思います。 そう言えば、福音書の著者の一人であるルカは医者であったと言われます。 ですから、一概に医者にかかる事が不信仰とはいえない。むしろ、神様の下さった体を健康に保つことの方が大切でしょう。
それはともかく、イエス様は多くの人を癒されましたが、その力を、ご自身が遣わそうとされる弟子に与えられたのでした。ここでもう一度確認しておきたいには、癒して下さるのは神様であるという事です。
これは、先ほども言いましたが、自分が遣わされて行って、病気の人が癒された時、自分が癒したと誇ってはならないのです。これはいつも心得ておくべきでありましょう。 私たちは、イエス様の選びによって、滅びより救われました。 それは、出かけて行って福音を宣べ伝えるためなのです。 そのために選ばれたのです。
私たち一人ひとりに与えられている賜物に違いがあり、性格も年代も、育った環境も違います。けれども、いろいろ違いはあるが、私たちはみんなイエス・キリストの福音宣教の使命を達成するために選ばれているのです。 その使命のために立てられているという事。 私たちはその事実を覚え、喜んで自分自身を神様に献げ、用いていただこうではありませんか。
|