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2011年8月14日(日) 「イエスに遣わされる」  マタイ10:5-15  竹口牧師

先回は、10章1-4節を見ましたが、今回は5節から15節までを見る事にします。
イエス様は先回の所で、12人の弟子を選ばれました。そしてその者たちを使徒として立てられた事を見ました。で、今回は、イエス様の遣いとして遣わすに当たって、注意事項を述べられた所であります。

きょうの所で言われている事は、その箇所だけを読みますと、何の問題もなく読めるのですが、福音書全体を通して読んだ人であるなら、いちいち、イエス様の言われている事が引っかかる、そういう所であります。そういう意味では、引っかかる所を、イエス様は、どういう意味で言われたのか探る必要がでてきます。

まず最初に取り上げなければならないのは、5節、6節の言葉であります。
イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。
「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。
イスラエルの家の失われた羊の所に行きなさい。」と言われています。

これを読んで、ある方は疑問に思われるのではないでしょうか。
なぜなら、イエス様は、暑い日の井戸のそばで、サマリヤの女の人にやさしく語りかけられた場面があるからです。そして福音を語られたのでした(ヨハネ4:4-42)。
あるいは、これから先で見るのですが、マタイ15:21-28では、ツロとシドンの地方に立ちのかれ、そこで、一人のカナン人の女性の願いを聞かれたのでした。

更には、またこのマタイの福音書の一番最後の28章で、
「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われているからであります。ご自分が、これからなさることを今は否定されている。これは一体どういうわけかという風になるのであります。

そこで学者は考えるわけであります。
イエス様は、最初、ガリラヤ地方を中心に宣教を始められましたが、そのガリラヤで宣教する場合、宣教場所を最初からあちこちとするよりも、的を絞って、まずはユダヤ人からという風に考えられたのではないか。だんだんに進展するに従って、広げられたのではないか、というように、であります。この考えは、あながち間違ってはいないと言えましょう。

あるいはまた、イエス様のなさったことを軍隊になぞらえています。
つまり、あちこちに兵士を送り出すよりも、まとめて事に当たらせた方が効果的であるという風にであります。これもまた、一つに考えでありましょう。

いずれにしましても、私たちは、聖書を読み進むにあたって、その位置も考えに入れて読まなければならない、そのことを、教えられるのではないでしょうか。

ところで、次の8−10節に書かれてある事もまた疑問がわいてくると思われます。
イエス様は言われています。7節、8節「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。(新改訳の第3版で読んでいますが)あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

そして、出て行くに当たっては、9節、10節の条件をつけられます。
「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」とです。

これから遣わされようとしている者のすることは、普通の人にはできない力が与えられ、それをするように命じられ、しかも、その力は、金品か何かでイエス様から手に入れたものではない。イエスであるこの私が与え、遣わすのだ。そう言われつつ、でも、「旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい」よと言われる。
これは一体どういうことだろうか。どうやって、飲み食いや泊る所とするのだ、言うようにです。

少し話を変えますが、
今年の3月11日には、東日本大震災に見舞われました。
多くの人が被災され、亡くなった方、行方不明の方、家屋、土地、財産、根こそぎ持って行かれた方が大勢おられます。完全、復旧までどれくらいかかるのか、見通しさえ立っていません。ボランティアの募集もまだまだ行なわれています。最初の頃はとにかく物がないので物を送ってくれと現地からは、マスコミを通して訴えておりました。

しかし、状況が次第に変わって来て、今度は、人手がほしいという事になりました。
瓦礫の撤去、かろうじて遺された家、その中の土砂、ゴミを捨てる、住めるようにするために、助けてほしいということでした。ただし、インフラが全くダメなので、食べる物、飲む物、寝る物、作業に必要な道具も持って来てほしい。つまり、自活方式で来てほしいという要望に変わりました。

更に事態は発展しまして、コンビニなど店が開くようになったので、物や人手よりも、お金を送ってほしい。必要なものが現地で調達できるようになったから、と言うように、時間、月日の経過と共に変わってきました。

今、話しを聖書に戻しますと、イエス様は、弟子を遣わすにあたって、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。
確かにその当時、モーセの教えを教える場合に、ラビ、即ち教師は、その教えに対して報酬を受けてはならない、そのように律法に規定されていたようです。親は、子供に律法を教える義務がありましたが、それは義務ですから、しかも親子の関係に於いては、報酬のやり取りは勿論ありません。

そして、一般のラビも、教える事に於いては、報酬はもらわない事になっておりました。ですからイエス様は、そう言われたのでありましょう。
しかし、その一方で、イエス様は、「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」とも言われているのであります。実際、あるキリスト教のグループの中には、今でも修行の一環として、9節、10節を実践させているのだそうです。そして、その体験談を読んだこともあります。

ところで、一体、イエス様のお言葉に従って出かける者は、どのようにして、食べ物を得たのでしょうか。夜を過ごしたのでしょうか。気になる所でありますが、その解決方法は、きょうの後半の11節から15節に出ているのであります。

つまり、イエス様の今回の教えの場合、完全自活方式で遣わされるのではないという事です。遣わされたところで、必ず養われる、その信仰があって、遣わされるのでなければならなかったわけです。

ある団体では、この8節からの実践でしょうか。それとも、パウロが天幕の仕事をしながら、宣教に励んだ、その所から来ているのでしょうか、わからないのですが、牧師は献金の中から生活すべきではないという考えの団体があります。
そうかと思えば、牧師は、献金だけで生活すべきであって、他の仕事に一切ついてはいけないという団体もあるそうです。Tテモ 5:18の御言葉から来ているのでしょうか。
「 聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない』、また『働き手が報酬を受けることは当然である』と言われているからです。」と言う所から来ているのでしょうか。確かめた事はありません。

使徒の働き6章には、使徒たちが、自分たちの群れに向かって「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」と言って、祈りとみことばの奉仕に専念した例も出ております。

そういう意味で、福音を語る者が、それで生活する事は、全く問題はないのですが、
ただし、きょうの、この場面で、イエス様が何を意図して、この様な事を言われたのかは、大変大切な点であります。

なぜなら、イエス様の権限を委譲されて出て行こうとする者が、その働きに不安や恐れや、失敗などを心配しながら出て行くようではいけないからです。出て行くからには、全権大使のごとく、イエス様の遣いとして、信頼して出て行く必要があったからです。そして、そこには、働いた者に必ず、必要が満たされるという、その信仰も必要であったと言っていいでしょう。

11節「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。」とあります。
思いつきで、行き当たりばったりで、ある家を訪問すべきではない。
「だれが適当な人かを調べ」とありますように、よく調べる必要があったのでした。
しかも、その家に入る時には、「平安を祈る挨拶をしなさい」とであります。

もっとも、ここにある「平安を祈る」と言う言葉は、原文にはありませんで、「それに挨拶せよ」となっていて、おそらく、ルカの福音書10:5「この家に平安があるように」からきていて、言葉が補足されていると言われています。

イスラエルでは、今でも、あいさつと言えば「シャローム」です。
「平安があなたがたにあるように」という挨拶の言葉で、朝でも昼でも夜でも通用します。ただ、きょうの所の場合、イエス様は、普通交わす挨拶としてではなく、その言葉に本来含まれている意味をよく考えて挨拶しなさい、そういう風に教えられているという事であります。

もし、その家の人が、弟子たちの宣教を受け入れるなら、神からの平安は、その家に留まる。そうでないなら、神の平安はその人に留まらないと言われるのです。13節「その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」とであります。

特に、最後の「あなたがたのところに返って来ます」というのは、彼らの所に留まらないという事の婉曲的な言い方だそうです。イエス様から全権が委ねられているのですから、自分の所に戻ってくると取っても問題はないでしょうが、どちらにしましても、相手には留まらないのですから、その場合の、そのお家は、よくないのであります。

つまり、私は今、この相手には留まらないと簡単に言いましたが、
実は、これが大きな意味を含んでいる故に、大変注意して聞かなければならないことなのであります。と言いますのも、15節の言葉があるからです。
「まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」とあるからです。

ソドムとゴモラと言いますと旧約聖書の創世記に出てくる町の名です。
しかも、神様の怒りの対象として天からの硫黄の火で焼き滅ぼされた町なのであります。そのソドムとゴモラの方が、イエス様によって遣わされた者を受け入れない者よりまだ罰が軽い、そう言われるのです。

つまり、イエス様によって遣わされる人は、もう一度言いますが、大変な権限を与えられているという事でしょう。イエス様に全権を委ねられて遣わされる責任の重さ、それは、自分の生活、糧を頂けるかどうかという事もさることながら、迎え入れなかった家は、大変な裁きを受ける事でもあるのです。それだけに、任務は大変大きなものであったと言えましょう。

また、それは、現代の教会も、そして教会に属しているキリスト者一人一人の働きも、非常に大きなものが委ねられている事を認識しなければならないでしょう。
なぜなら、キリスト者自身が、この世に向かって遣わされるのだからです。

ある教会では、朝兄弟姉妹と顔を合わせたら、「おかえりなさい。」
教会を去る時は、「行ってらっしゃい」というようにしている、そう言う事も聞いた事があります。

教会が、キリストの体であり、また、その一部分を私たちがなし、暖かい家に帰ってくるホームのようであったなら、それはそれは素晴らしい教会であると言えましょう。そうありたいものであります。

私たちは、今ここで礼拝をお献げしております。そしてこの礼拝の最後に、祝祷という項目があります。三位一体の神の御名によって、祝福の祈りであります。この祈りの最後の言葉が、牧師によって大きく違う事に気付く方もおられるかもしれません。
それは、神様の祝福が、「信じる者と共にありますように」というのと、「会衆一同と共にありますように」との違いであります。

前者は、信仰者を祝福する祈りであり、後者は、信仰者でない方も含めての祈りであります。そして、後者の祈りの場合、13節の言葉の意味が含まれている、そのようにお取りいただいてかまわないでしょう。礼拝の最後のクライマックス、後奏で、アーメン三唱で礼拝が閉じる。神の御名をたたえて終わる礼拝が、正に、神様から祝福を頂いて、この世に出て行く、遣わされて行く、その出発を意味しているととってもいいでしょう。
この朝見ましたイエス様の時代、弟子たちが、イエス様によって遣わされたその権限は、非常に大きなものがありましたように、こんにちの私たちキリスト者もまた、この教会からキリストの名に於いて遣わされるものである、そのことを、今一度確認させていただこうではありませんか。そして使命を果たし、又ここに戻って来ようではありませんか。



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