2011年9月11日(日) 「我は遣わされた者」 マタイ10:16-23 竹口牧師
今、私たちはマタイの福音書を取り上げて、10章までやってきました。そしてその10章では、最初にイエス様が12人の弟子を選ばれた事を見ました。そのあとで、彼らを各地に遣わすためにイエス様は、いろいろな注意点を挙げておられました。
それは、何を持って行ってはいけないか、から始まって、町に入った時の振る舞いとか、言うべき言葉とか、そういう事を話された所までを見ました。 そして今回見ますところは、宣べ伝えた事によって弟子たちに対し、どのような反応が起きるか、そして、それに対して弟子はどうすればよいのかを語っておられる所であります。
以前にもお話しした事でありますが、私は、バプテスマを受けるにあたって大変恐れていた事がありました。それは、キリスト者に対する迫害が起こった時、私は、それに耐えられるかという問題でした。この様な心配をするのは、どうやら私だけではないようでありまして、同じような考えをもった兄弟姉妹がいたことを後から聞いて、少し安心したものでありましたが、しかし、バプテスマを受ける時には、真剣に悩んだものでした。
ある方は、迫害に会う事を想定して、ヤカンにお水を入れ、お湯を沸かしながら、どれくらい耐えられるか、訓練したそうでありますし、又ある人は、聖書を取り上げられた場合、読む事が出来なくなるのではと一生懸命、御言葉を覚えた、そのようにある本には書いてありました。たとい牢に入れられても、御言葉を頭の中に入れておけば、そのみことばは、取られる事はないからとの事でした。
一方、又ある時は、私が若かった頃、全ての人と仲良くしたい。そのようにするには、どうしたらよいかと考えた時に、特定の宗教、特定の政党などを持たないほうがよい。そうすれば、どんな人とでも付き合えるからという考えを持っていました。とするなら、クリスチャンにはならないほうがよいのではないか。そのように考えたものでした。
しかしまた、その一方で、世の流れに流されながら、浮き草のごとく生きる事が果たして正しいのかどうか、自分というものは一体どこにあるのかとも考えました。そして考えているうちに、命をも捨てて愛して下さったイエス様に、命をもって応えて行くというのが正しい生き方ではないか。そのように導かれたのでありました。
あの当時の私の聖書、今から約40年以上前の事、口語訳と新改訳とが入れ替わって間もない時期でもありましたので、あの時、最初買った聖書は、皮表紙の金縁の口語訳聖書で、大枚をはたいて、一生使うつもりで買ったものでしたが、教会ではあっという間に新改訳に変ってしまいました。大阪にいた時の話であります。
で、私は、一番最初に買った聖書、金縁の聖書、口語訳で御言葉を覚えておりましたが、ですから今でも、口から出てくるその時のみことばは、口語訳であるのですが、ヨハネの手紙第一、3章16節、この御言葉によって、私は、クリスチャンとしての歩みの一歩を始めたのでありました。そのヨハネの手紙第一、3章16節にはこう書かれているのであります。
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。 それによって、わたしたちは愛ということを知った。 それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」と、です。
この言葉が、私の頭から離れなかったのでありました。 あれから10年たって、いよいよ神学校への道が開かれました。 信仰を持ってから今日に至るまで私は、、命の危険を味わうような信仰による迫害には遭った事はありませんが、しかしキリストの福音を伝えた事によって、救いを受けた人が喜びと共に、苦しみをも味わっている事の証しをいろいろ耳にしながら、果たしてこれがよい事なのだろうかと、立ち止まる事が何度かありました。
きょう、これから取り上げます所は、イエス様が前もって弟子たちに、これから起こる事を語られ、心の準備というものをさせておられる箇所であります。
ある本にはこうありました。 「多くの人は、宣教という働きに対して、順風に帆を揚げた成功物語を夢想する。だが現実はそうではない。あらゆる方向から、反対者たちが現われる。それが福音宣教者たちの実体である。使徒職は本質的に苦難の活動であるとの指摘は、まことに鋭いものである。」と、でした。
教会の歴史を学びますと、本当に血に塗られた歴史であります。 現代の感覚では、キリスト教と言えば、愛の宗教と思われがちです。 それだけに、外国でキリスト者同士の争いがあれば、キリスト教は愛の宗教ではないのか?という質問を受けます。多宗教との争いもそうであります。殆どが宗教的な問題ではなく、政治的な駆け引きの戦争なのに、私自身はそう思っておりますが、この世の人はそうは受け取りません。キリストの愛を語りながら、何とひどい事をするのだと言われるのです。
がまあ、それはともかく、イエス様は、福音宣教すれば、必ず起こるであろうことを前もって話されたのであります。それは、必ずしもイエス様がこの地上におられた時の事だけを指すのではなく、十字架にかけられ、殺され、甦られ、天に帰られてから後に起きる事をも含んでおりました。それをこれから見て行こうと思うのでありますが、きょうの聖書範囲では、6つの点が挙げられています。
まず、一つ目は、16−17節で、宣教には迫害が伴うという事です。 これは、言うまでもない事です。イエス様の時代がそうでしたし、パウロが活躍した時代がそうでしたし、ずっと時代をくだって、今でも国によって、キリスト教に対する締付けが強く、クリスチャンが迫害を受けているのであります。イエス様は、こう言われました。
「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。」と、こう言われたのでありました。
この世に一歩踏み出せば、それはもう、危険がいっぱいの世界。狼の中にでていくようなものと言われた。正にそうだと言えましょう。イエス様の時代、キリスト教がまさにこれから広がろうとする、そういう時代だったからこそそうでありました。
更には、キリスト教がどんどん広がって行きますと、それまでにあった宗教が脅かされる事態となり、多宗教との摩擦も起きて来まして、問題が更に複雑、広域化して行きました。それだけに、キリスト者は、危険から身を守るために、蛇のように賢明でなければなりませんでした。
これはいかなる事態にも対処できるような具体的知恵を必要としているという事でもありました。それと同時に、蛇の持っているような悪賢さではなく、鳩の持っているような純真さが必要なのだと言われます(16)。
キリスト教の長い歴史の中では、いろんな悪いうわさが広められたようであります。今でいえば、風評被害とでもいえるでしょうか。たとえば、その中には、クリスチャンの聖餐には、キリストの肉を食べ、血を飲むという言葉があるため、クリスチャンは人食いだと非難されたそうです。
また毎週守る愛さんをアガペー「愛の食事」と呼んでいましたので、不品行だと言われたりもしたようです。またクリスチャンの宣教者が世の終わりには、この世が焼き尽くされると言っていたので、放火狂とみなされたとも言われます。
あるいはまたローマ皇帝を神としてそれに誓いを立てなかったため、キリスト者は、忠誠心に欠ける、背信の民とみなされました。果たして異教徒たちが、これらの中傷をどれだけ信じたかは分かりませんが、日本の歴史の中でも、キリスト教に対する不信の念をいだき、そのようなうわさがあった事を聞いております。それは、最近では、戦時中がそうでしたし、昔でいえばキリスト教が伝来して間もない頃もそうであったようです。
まあ、迫害がひどくなればなるほど、人々の目は、キリスト教に白い目が向けられますので、やはり、孤立する者も出てくるのでありますが、そんな中にあって、キリスト教の真の姿を知る人も出て来て、神様は迫害の中にあっても救われる人を起こして下さったのでありました。
そのようにして、キリスト教は伸びて来て、今日がある。そういう事を考えれば、あながち、迫害が起こる事が100%悪い事とは取れないことも事実であります。それが、今回の二つめに当たります18節の言葉です。第2番目は、キリスト者は必ず弁明する事が出来るという事です。
8節「また、あなた方は、わたしの故に、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。」
ここにありますように、時の指導者の前で証しさせられる事態になる。それは、言うなれば大きなチャンスとも考えられるのであります。イエス様の時代、あるいは、それよりも少し下った時代、弟子たちが、人々を惑わし、社会を混乱させる者として捕えられ、裁判にかけられるということをイエス様は考えておられました。
その当時のユダヤ人社会では、エルサレムにサンへドリンと呼ぶ「議会」があると同時に、各会堂にも「議会」があり、そこで有罪の判決を受けると、すぐに「むち打ち」(17)の刑が行われ、さらには、彼らはローマの地方総督である「長官」や、ローマ皇帝によって任命された国主であった、へロデ家の「王たち」の前に連れて行かれて、尋問されることも予想されたのでした(18)。
こういう事を聞けば聞くほど、イエス様に従うとはどういうことか、真剣に考えさせられるのですが、しかし、イエス様は、助け主も与えられる事をのべておられます。それが、この朝の三つ目に述べたい事実であります。第3番目、助け主が必ず与えられるという事です。
誰でもがうまく証し出来るだろうかと恐れを抱きますが、心配いらないとイエス様は言われました。19−20節「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなた方ではなく、あなた方のうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」とであります。
普段から、御言葉を覚え、御言葉に生きているなら、話す言葉は、神様が備えて下さると言われるのです。これは、大切な真理であります。
そしてきょうの第4番目は、クリスチャンに対して、いろんな悪評が立つ中で一番の問題は、「家族関係を破壊する」ということでありました。事実、キリスト教は家族を分裂させました。異教徒は、キリスト教を親と子、夫と妻の仲を裂くものと考えました。
21節「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」とイエス様は言われましたが、そういう時代が、確かにありました。
一つの家庭にクリスチャンが生まれる事によって、いろいろな事で違いが明らかになってくるのは必然でしょう。この世とは違うものに変えられたのですから。
しかし、これが家庭だけの事に留まらず、外部へと発展する時に、更にクリスチャンは苦境に立たされます。兄弟であっても相手を裏切って官憲に訴え、死に渡されてしまう。そのような事が、長い歴史の中ではたびたび起こったのでした。
そのような時には、もはや肉的には親子であっても、霊的には親子ではないのであります。キリストの弟子であるということのゆえに人々に憎まれ(22)、福音を宜べ伝えているがために、捕えられて殺されるということ、事実このようなことが、戦時中の日本や、共産主義下の国々、更には異教の世界において、実際に起っているのです。この現代ですらそうなのであります。
最近は、インターネット社会ですので、取り締まりもなかなか難しくなってきておりますが、やはり、イエス・キリストの福音を伝える事は、なかなか容易ではない事は、それぞれの伝道団体が発行している報告からも明らかであります。本当に、ある時には、命を取られる。あるいは取られてきた。多くの殉教者を出してのこんにちがあるのであります。
イエス様は、弟子たちを遣わす前に、あらかじめこれから起きようとしているこれらの事を知って、伝えられたのでした。22節でイエス様は、こう言われています。 今日の5番目ですが、キリスト者は憎まれているということです。
「また、わたしの名のために、あなた方はすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」とある通りです。
キリスト者の故に憎まれる。あるいは場合によっては命を落とす。これは、大変つらい事でありますが、しかし、時には喜んで、志願して信仰者が殉教した時代もありました。 キリストのためならいのちなど惜しくはないと言ってです。キリストのもとに行けるのなら、それは本望であると、キリスト教弾圧の時に多くの人がキリスト者である事を隠すことなく名乗り出て、殺されて行った、そんな時代もありました。
そして今日の最後の6番目は、自ら進んで死ぬ事。それが必ずしもが正しいとは言われていないことに注目したいのです。
23節「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。」と、そう言っておられる点です。
逃げる事が卑怯とか、弱虫とか、意気地がないとか、そうは言っておられない。 むしろ逃げる事を勧めておられるのです。実際に、今日まで、これだけ多くの人が信じるようになったのは、世界の三大宗教とまで言われるようになったのは、キリスト者が、逃げた先々で伝えて行った事によるのです。
死が怖くて逃げるのではなく、拷問が恐ろしくて逃げるのではない。 イエス様のお言葉によって危険を避けると共に、行った先々でキリストを宣べ伝える。 その事によって、神の御心がなされてきたのでした。
実際、聖書を読んでいて、ステパノが殺され、迫害の手がクリスチャンに伸びた時、多くのクリスチャンはエルサレムから逃げ出しました。パウロは、シリアのダマスコまで追いかけるほどでありました。しかし、そのようにして、追いかければ追いかけるほど、キリスト者は散って行き、その事によって、方々に信じる者を神様は起こして下さったのでした。その事を思う時に、神様のなさる不思議を思わざるを得ないのです。
神様の愛を、穏便な方法で、多くの人に伝えて行くというよりは、むしろ迫害の中にあるほうが、キリスト者は凛とした態度で臨む。そしてその使命に生きるものです。その事実を考える時に、私たちの今は、平和ボケしていないだろうかと思うのです。
キリスト者が、この世の流れに呑まれ、キリスト者らしさを失ってはいないか。 キリストに遣わされて教会から果たして出て行っているのか。 この朝、改めて問われているのではないでしょうか。
教会の門をこの後、私たちは後にするわけであります。 その私達が「我は遣わされた者」として出ていく事を神様は求めておられると言えましょう。ならば、そのような強い思いで、この世に、遣わされて行こうではありませんか。
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