2011年10月2日(日) 「恐れるな」 マタイ10:24-33 竹口牧師
イエス様は、ご自分がなさっていた働きを弟子たちに委ねられ、方々に遣わすにあたって、いろいろと注意点を述べられました。きょうの話しもまた、その続きであります。
まず、きょうの所で一つ考えさせられます事は、24―26節に書いてある事であります。 それは、弟子たちは師であるイエス様以上の苦しみに遭う事は決してない、ということです。だから、恐れてはなりませんと言われます。
この世では「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」と言われる事もありますが、その言葉のでどころが、聖書のここからきているのかどうかはわたしは知りませんが、もしここからであるなら、意味が全然違う事をまず知らなければなりません。
実際の所、この世の流れからは、弟子が師に優っている例が多々ありますし、また、師は、その事を喜ぶものであります。しかし、ここでのイエス様のお言葉は、先ほども言いましたように、迫害を想定してのお言葉でありますから、決して、この世のいう出世とは違うのであります。
人々は、イエス様のことを、ベルゼブルと呼びました。これは、悪霊のかしらを意味します。イエス様が、悪霊のかしらというなら、その弟子は言うまでもなく、悪霊の弟子という事になります。
イエス様は、「彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」と言って、はっきりと悪霊の子とは言っておられませんが、しかし、そのような意味を十分に含んで言われているのですから、26節のように励ましの言葉を述べられるのであります。
26節「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」と。 彼らの見方は完全に間違っている。だから、彼らを恐れてはいけません、と言われるのです。
ところで、私は今しがた、簡単にこう言いました。 24―26節に書いてある事は、 「弟子たちは師であるイエス様以上の苦しみに遭う事は決してない」ということです。 つまりイエス様はご存じのように、大変な苦しみに遭われるわけですが、その弟子たちは、それに近い苦しみに遭うという事、これは避けられないことでありました。 このことをまず、私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。 そしてそれはキリストを信じている事の証しでもあると言えましょう。
イエス様は主である。イエス様は私の救い主であると告白させていただいた者は、その事によって、何らかの迫害、あるいは不利な状況になる事がある。そのことは、現在の私たちにとっても、現実の事として受け止めて歩まなければなりません。
イエス様の弟子たちの多くが殉教したと言われますが、その後の時代も、ローマ皇帝ネロによる迫害は有名ですし、その後、ドミチニアヌス帝において、更にはトラヤヌス帝においてなどなどがそうであります。信仰に忠実な多くの人が殺されて行ったのです。
時をずっと下って、戦後生まれの私にとって、しかも、その戦後の20年以上も経ってクリスチャンになった私は、キリスト者であるからという理由で迫害らしきものを受けた記憶はありませんが、今後死ぬまでないとは言い切れません。
ただ、太平洋戦争中をくぐり抜けたクリスチャンたちから、生き証人として、大変な迫害を受けた事を、私は聞いているのであります。また、世界には、自由にキリストの名前を語れない、そういう人たちが沢山いることも知らされています。
そういう中で、私たちは大変恵まれた中にいる事を忘れず、更には、この時代がたとい変わって信仰の冬の時代が来たとしても、「何か思いがけない事が起こったかのように驚き怪しむことなく」むしろ、「御名のために辱められるに値する者とされたことを」喜ぶ者となれるよう、備えていたいのであります。
私たちが信仰を持っているのは、あるいは信仰を頂いたのは、ただ単にこの世をよりよく生きるために、また心に平安をいただくために、あるいは、他の人からあこがれるキリスト者だからという、そのような自分中心のご都合主義の理由から、神様は私たちを救って下さったのではない。
どのような状況にあっても、主を証しするために救って下さったのである。 そのことをまず、忘れないようにしたいものです。
27節でイエス様は言われています。 「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。 また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」と。 私たちは、救いの素晴らしさを知っている者としてこの世に遣われて行きたいものです。
第二番目に申しあげたいことは、28節の言葉であります。 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とイエス様は言われました。
私たちは、この世で恐ろしいものの代表として、地震、雷、火事、親父などと言います。中には、これに奥さんを加える人もおられましょうし、最近の出来事で言いますと、つなみ、放射能も挙げられるでしょう。しかし、イエス様の27節のお言葉からしますと、そんなの怖いうちには入りません。
なぜなら、これらは全て生きていれば怖いものですが、死んでしまえば、何の力もないからです。この世で考えられている最悪の事態というのは、命が亡くなる事です。 肉体の死です。これが人の最期だと多くの人は考えています。
しかし、私たちキリスト者は、そうは考えませんね。 死は、もはや永遠の決別でもなければ、永遠の審きでもありません。 むしろ、神様の用意して下さった天国への入り口なのです。 ですから罪赦された私たちキリスト者にとって、死は、何の恐れをも抱かせないのです。
パウロは言いました。(ローマ8:35-39) 「 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」とであります。
私たちキリスト者にとって死はもはや、何の恐れにもなりません。 肉体も、魂も、生きること、死ぬこと全てを知っておられる真の神こそ恐れなければならないのです。
この平和な時に、私たちの信仰が、ゆるむことのないように、黙示録2章にあるスミルナの教会に言われた言葉、「死に至るまで忠実でありなさい」と言われた主の言葉に生きようではありませんか。
第3番目は、私たち一人ひとりを、主は覚えていて下さっている、その事の幸いを見たいのであります。 29節にこうあります。 「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」と。
1アサリオンとは、1デナリの16分の1に相当するローマの小銅貨で、しかも、1デナリは労働者の一日の労賃と言われますから、つまりは、一日の労賃の16分の1の金額であり、さらに二羽ですから、その2分の1の価値が一羽の雀の価値なのです。 そんな価値のものにも、神様のお許しなしには、地に落ちることはありませんとイエス様は言われるのです。 神様の深い配慮の中に私たちは生かされているのは何というさいわいでしょうか。 ある朝、デボーションの本を読んでいましたら、雀に関してこんな詩が載っていました。
「私は小さなすずめです。 いやしい、小さなすずめです。 この命はわずかな価値しかないのに、主はわたしを顧みてくだいます。
数えきれないすずめです。 せかいのどこにでもいるすずめです。 でも私たちの一羽が地に落ちても、天のお父様は知っておられます。
わたしは、小さくても決して忘れられません。 弱くても少しも恐れません。 主は造られたものを知っておられ、その命を守り支えてくださいます。
夕暮れにどこにいようと、その所で羽根を休めます。 絶えずお父様が見守っておられ、お許しなくば災いもきませんから。
わたしは小さなすずめです。 いやしい、小さなすずめです。 お父様は私を愛しておられます。 また、あなたをも愛しておられるのをご存知ですか。」 という詩でありました。
小さなすずめ、小さな命。でも神様が与えられた命。神様が目をとめておられる命。 その事を考えつつ歩いていたある時、私は、一羽のスズメの死に出会いました。 ああ、一つの命が終わったのだなと少しさびしさを感じました。 そして私は、その死んだスズメを近くの土に埋めてやりました。
神様はいのちを与え、そしてこのようにして取られるのだなと、改めて感じたものでした。全てのものを造られた神様は、私にも命を与えてくださり、生かしてくださっている。随分数も少なくなりましたが、私の頭の毛さえも、みんな数えられているのだなと、この御言葉を思いだしたものです。
きょうの31節にはこうも書いてあります。 「だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」と。とは言いましても、やはり怖いものは怖いのであります。そして、実際に恐れて、人々の前で主を知らないというならどうなるか、お分かりのように、32-33節の通りであります。
32節「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」 33節「 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」とイエス様は言われるのです。
このイエス様のお言葉を聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。またどう生きられますか。周りの人を気にしながら、イエス様を信じていると教会では言いながら、いったんこの教会から出て行き、この世で働くときには、全く普通の人と同じように働くのでしょうか。イエス様は、それをこの朝、問うておられるのであります。
この朝私たちは、第一番目に、私たちは師であるイエス様以上の苦しみに遭う事はない、その事をみました。 第二番目に、体を殺しても魂を殺せない人たちを恐れるな、という事をみました。 第三番目は、なぜ、そういえるのか、という事をみました。 それは、主が、私たち一人ひとりを覚えていてくださっているから。 これが結論でありました。だから、恐れるなと言われるのです。
しかし、現実に職場にあって、人間関係にあって、近所づきあいにあって、家族にあって、親せきにあって、問題が起きるではないか。 そう言われるでしょうか。 確かに問題がおきましょう。
軋轢が発生するでしょう。しかし、その事で命を奪おうとするものがいるでしょうか。 イエス様の弟子たちは、命の危険を実際に感じました。 だから、イエス様が十字架にかかるためにとらえられた時、極端に恐れ逃げました。 しかし、イエス様が殺され、三日目によみがえられ、40日間共に過ごした後の彼らはどであったでしょうか。彼らは、命の危険があっても恐れなくなったのです。
なぜでしょうか。それは、イエス様の死を見ただけでなく、 イエス様の甦りを見、さらには天に挙げられるのを見たからです。 勝利者イエス様を見たからです。そのイエス様が、あなた方は、雀より優れた者ですと言われ、一度裏切った者を、そんなことが無かったかのように、弟子として扱ってくださったからでした。
とするなら、私たちもまた、いつどんな時、弟子たちが十字架を前にして逃げた如く、逃げることがあるかもしれない。でも、神様は必ず、脱出の道をも備えてくださっているはずですから、そして御言葉にそうあるのですから、
ならば、先の先を読んで、危険があるかないかもしれないことを想像し、恐れることが果たして正しいことでありましょうか。恐れるなと主は言われるのです。イエス様がそう言われるのは、単に安心させるために言われているわけではありません。無責任に言われているわけでもありません。
イエス様は、ご自分の弟子にした者を、責任もって守ってくださる、 その決意、力があるからこそ、言える言葉なのです。 イエス様のそのお言葉を信じないで、何を信頼できるでしょうか。 イエス様が「恐れるな」と言われれば、私たちは「はい。分かりました」と言うべきであり、それでいいのではないでしょうか。 それでいいのです。
あとは、イエス様にお委ねすればよいのです。 私たちは自分の信仰を決して恥じる必要はありませんし、知らないふりをする必要もありません。むしろ、恐れず信仰を告白していきたいものです。 また、そうさせていただこうではありませんか。
2011年10月23日(日) 「自分の十字架を負う」 マタイ10:34-39 竹口牧師
私たちはこの朝、神様に導かれて教会に来ました。 そして今、神様に礼拝をお献げしている訳であります。 その礼拝をお献げしている私たちが、そもそも教会に来るようになったきっかけというのは何だったのでしょうか。ちょっとだけ考えてみていただけますでしょうか。
ある牧師は、こう告白しておられました。 「私の家庭内には、争いが絶えずあり大変でした。ですから、平安を求めて教会にやってきました。そして、イエス様に出会い、心に平安をいただきました。イエス様に愛されている事を知って本当に嬉しかったです。そしてこの救いがきっかけで家庭の家族はまるっきり変わり、みんなイエス様を信じる者としていただきました。教会に来る前と後とでは、とても大きく変えていただきました。」と、そのように証しをされている先生がおられました。
もしかしたらここにおられる方の中にも、似たような理由で来られた方がおられるかもしれません。家庭の中で一人が信仰を持ち、それが発展して、家族全員が信じるようになったというのは、まさに使徒の働き16:31の御言葉が成就したとも言えましょう。 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」 というみ言葉であり、大変喜ばしい事であります。
しかし、多くの場合、全員が救われる途上にあり、なかなかそんなにとんとん拍子に ことが進まないのが現実であります。 確かに、神様は、その御言葉のように約束して下さっています。 ですから、このみことばは真実です。
しかし、期間だけを取り上げて考えるなら、長い間の祈りを経てそうしてくださるというのが通例でありましょう。なんでも一足飛びに、というわけにはいかないわけであります。それ故に私たちは、決して諦めず、失望せず、御言葉の実現を信じて祈り続けなければなりません。
家族の中で自分一人がクリスチャンであるという場合、それが、一人から二人へ、二人から三人へと目に見えて増えていかない場合、そこには大変な戦いがあることは、ここにおられるみなさん全員が経験されなくても、想像はつくでありましょう。 家族も又この世も、なかなかクリスチャンに対する要求は厳しいからです。 家族なればこそ、私たちの普段の姿を全部知っていて、欠点さえも見ていますので、 どんなに素晴らしい真理であっても、まともに受け取ってもらえないのであります。 私の場合6人兄弟の末っ子でありますので、何をしても赦されますが、しかし、何を言っても権威がない、力がないのは残念であります。
でも、時には聞いてくれる事もないわけではありません。 私の兄が、知り合いがクリスチャンで、どうも教会へ行っていたらしいんだが、亡くなったんで葬儀に行きたいんだが、どうしたらいい?とまあ、こんな相談を受けるのであります。そういう時しか役に立たない私は、誠に残念であります。 もし、私が長男であったならどうであろうかと考える時があります。
模範的な生活となり、家族に証しするというのは、なかなか難しいものであります。 その点、生まれた時からクリスチャンホームという方はいいですね。羨ましいです。 家族の中で同じ信仰であるなら、信仰上の問題はなにもありません。 葬儀のときだって、何の問題も起きません。
ところで、きょうの聖書箇所でイエス様の言われている事は、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」と言われているのであります。大変穏やかならぬ事であります。
また、こういうところから、キリスト者にはなりたくない、そう思っておられる方もおられるのではないかと思います。なんだ、教会は愛を語る所ではないのか。何でもかんでも赦す所ではないのかという風に取られかねません。そう思われている方も多いのではないかと思います。
キリスト様は、「汝の敵を愛せと」と言われたではないか。 そんな事で怒ってもいいのか、とかという風に、です。 御言葉に「5:39 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とか、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」などと書いてあるのではないかと、聖書を少し読んだ方は、そう言われるでしょう。
しかしイエス様は、きょうの所ではこう言われています。 もう一度読みますが、「10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」とです。
イエス様の教えとは、実に逆説に満ち、また逆転に富んでいます。 ですから、一か所だけを読んで、イエス様はこんな方だというなら、それは、大きな間違いを起こすことになります。全体を読んで、真理を知らなければなりません。そうしないと、見せかけだけの平和となってしまうのであります。それは、真実の平和とはいえません。
だからこそ、イエス様がこの地上に来られたのは、嘘偽り、不正、悪、不義を暴き、その結果、人々の悪の実態を白日のもとにさらすためでもありました。人々の間に、怒り、詭弁、ごまかし、亀裂を生じさせられたのです。そのようにして、真実が現れるようにされたのです。取り繕った愛など本当の愛ではありません。言葉だけの「ご免なさい」が、本当に相手に誤ったことにはなりません。
そういう事を、私たちは知っていながら、しかし、それでも私たちは、真実には生きようとはしないのです。否、生きようとしても生きられないというのが現実でしょう。 罪があり、弱さがあるからです。 しかし、だからと言って赦されるわけではありません。 だからイエス様は、平和ではなく剣をもたらすために来られたのです。 真実を明らかにするためであります。
第2にきょうの所で注目したいのは、35節の言葉であります。 「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」とあります。ここには、もっとも関係の深い者同士との対比がでております。「人をその父に」、「娘をその母に」、「嫁をそのしゅうとめに」というのは、人と人との関係で一番近い関係は家族であり、そのもっとも近い、そして深い関係の者同士の間を逆らわせるために来たと言われるのです。
36節では、「更に、家族の者がその人の敵となります。」ともあります。 つまりこの35,36節は、旧約聖書のミカ書6:6をイエス様は、引用されたのですが、そして、メシヤより自分の家族を優先する事から生じる誤りを鋭く指摘されているのであります。
私たちは、できるだけ家族といさかいを起こしたくないと考えます。しかし、イエス様との関係を強くすればするほど、家族との間には、溝ができる、摩擦が起きる。また、起きなければ、それはメシヤよりは家族優先にしている。そういうことができないでしょうか。私には言えるのではないかと思います。何しろ、キリストに従う者とそうでない者とでは、第一にすべきものが違うからです。
たとえば夫婦の場合、奥さんがクリスチャンであれば、奥さんは、主の日には教会に行きたい。でもご主人は日曜日くらいゆっくりさせてくれよという事になります。夫婦の間に軋轢が生じます。あるお家では、奥さんがクリスチャンで、ご主人がそうではない。それ故に、教会に行く時間になると用事を言いつける、そういう事がたびたびあったと聞いた事があります。
あるいはまた、寒い地方の事ですが、礼拝に行きたくて、家族の目を盗むようにして礼拝に行って、帰ってみたら、鍵をかけられて家に入れてもらえず、寒さの中で、朝まで夜を過ごしたという話しも聞いたことがあります。あるいは、近所の目をはばかって、近くの教会ではなく山を一つ越えた所にある遠くの教会に行っている。そのようなクリスチャンがいたという話も聞いたことがあります。
一見すると日本は、信教の自由が認められて、本当に自由な国だと思いたいのですが、ところがどっこい、現実はそうではありません。今でも、地方では、あるいは都会でも、都市によってはそうですが、それぞれの状況によってキリスト者は様々な戦いを強いられている、これが現実だと言えましょう。
ある本にでていたことですが、 ある大学の教授になられた先生が、その先生は英文学者だそうです。3つの大学で教えて来られて、常々心の中で思い感じている事は、「自分はキリスト者であるために損をしている」ことだ。自分がキリスト者でないほうが、学者として、教授としてどんなにやりやすかったかわからない。自分が何かを言うと人々はすぐに、この人はクリスチャンだから。こういうことを言うのだという。」そう言われていたそうです。
確かにそういう目で見られるということは多々あると思います。職場によって、さまざまな戦いがあるのは避けられません。職業によっては、日曜日が出勤日という会社もあります。しかし、クリスチャンだから日曜日を休ませてくれと言って、特別待遇を受ける事は、困難であります。それこそ、職業を変えることも視野に入れる必要にもなってきます。
そういう意味では、クリスチャンは、本当に住みにくい世界であることだけは確かであります。だから、クリスチャン人口がいつまでも日本では1%だといわれるのでしょうか。 まずは、キリスト者とはどういう者か、私たちが、はっきりとこの世に向かって発信しなければならない。証ししていかなければならない。そういえるでしょう。 そしてそれをすればするほど、摩擦が起きる。そのことも覚悟しなければならないといえましょう。
イエス様は、イエス様に従おうとする者に対して、まず、他の誰よりも、あるいは他の何よりもイエス様を愛する事を求められます。それこそ、イエス様がペテロに三度言われた、「あなたは、わたしを愛しますか」と言われた言葉が思い出されるくらいであります。
イエス様を愛する愛と言うのは、そしてその大きさは、家族の中で、子供の立場であっても、親の立場であっても変わらず、イエス様を愛する愛が大きく、また強くなければならないのです。
なぜなら、イエス様はご自分の命を投げ出してまでもあなたを愛して下さっているからです。聖書は、両親を敬う事や、家族が愛し合うように教えています。それと同時に、ご自身に対する絶対的な愛を要求されています。イエス様は、家族間に見られる愛を、またごく普通の愛の気持ちをイエス様ご自身に要求されたのであります。
しかし、当時のユダヤ社会に於いては、他のいかなる宗教家もこの様な愛の要求はしていないと言われます。なぜならユダヤ人にとっては、それは偶像礼拝に通じる要求であったからでした。イエス様が単なる人間であったとすれば、それがラビであっても、預言者であっても、賢者であっても、それは全く理解できない事をイエス様は求めた事になります。
イエス様が絶対的主権者であり、それはつまり、神と等しい方とみなさない限り、イエス様が、要求されている事は理解できない事であります。
もう一度37節を読んでみますが、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしに相応しい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしに相応しい者ではありません。」とそう言われているのです。
これを聞いた時、皆さんなら、そしてあの2000年前にもどったなら、イエス様に対して どう反応されるでしょうか。どういう態度に出られたでしょうか。ある人は、この言葉でつまずき、又ある人は、正に「あなたがメシヤです」と告白されることでしょう。私がキリスト信仰に入る躓きの一つに、まずこれがあげられます。
なぜ、イエス・キリストは人間なのに、自分を神とするのかと、躓いたものです。 勿論、今は違います。 今は、神のひとり子、救い主と信じています
では、この37節の言葉を突き付けられた時、あなたは今、本当は、どう応答されるのでありましょうか。それが今、問われているのです。心静かに本当にイエスを神と認め、礼拝しておられますか。
さて、この朝、3つ目に注目したい事は38-39節の言葉です。 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分の命を失った者は、それを自分のものとします。」というお言葉です。
今私たちは、地上の最も親しい者、家族を第一とするか、イエス様を第一とするかが問われました。更に今度は、自分を第一とするか、イエス様を第一とするか、それが、強く問われているところであります。
ここでイエス様が言われました「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と。
ここでいう「自分の十字架」とは一体何でありましょうか。 それは、自分の自我そのものであります。これだけは絶対に譲れないというもの。 これを譲ったらもう自分が自分でなくなってしまうと思っているもの。 それが、イエス様の言われる「自分の十字架」なのです。
ある本にこうありました。 クリスチャン生活には、安全第一主義はない。 安易、慰安、安定、個人的野心の達成を第一に求める人は、それらのものを得る事が出来たとしても、決して幸福ではない。なぜなら、クリスチャンは神と人とに仕えるために この世に使わされているからである。
人は、やろうと思えば、自分のためにだけ生きる事が出来る。 しかしそれは、その人にとって、価値があり、自分にとって生きがいのある人生を失う事になる。他人に仕える道、自分に対する神の目的を果たす道、真の幸福への道、それはささげて生きる事である。ただこれだけが、この世でも、来るべき世でも 命を得る道なのである。」とであります。
ある人は、大学を優秀な成績で卒業し、将来を嘱望されていて、自分もその道に進みたいと思っていました。しかし、「私について来なさい」というイエス様の声が耳からはなれませんでした。ある人は、資産家の女性と結婚する事が決まっていました。 しかし、やはりイエス様の言われる「私について来なさい」と言う言葉が耳から離れませんでした。自分には、能力があり、これからそれを生かす事が出来る。あるいは、将来に対する安定も約束されている。そして、そのように生きようと思えば生きる事も出来る。
しかし、今、二人の例をあげましたが、その人は、砕かれ、「私について来ないさい」との招きに従いました。人生、どの道を選んでも苦労のない人生はありません。 けれでも、主と共に歩む苦労は、決して苦労とは言えません。
主も共にその重荷を負って下さるからです。 キリストに従うという事は、十字架を負うという事です。 自分の考え、自分の思いを優先した時、真の平和は生まれません。 その事を知っている私たちは、喜んで、主について行く者とさせていただいているのではないでしょうか。
一瞬のためらいもなく、主に従う事が当然である、 そういつも結論を出せるように、これからも主に導いて頂きましょう。 それこそが、主の思いであり、 私たちが自分の十字架を負う事なのだといえましょう。
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