2011年11月6日(日) 「必ず受ける報い」 マタイ10:40-42 竹口牧師
この朝の説教題を私は「必ず受ける報い」としました。 1か月以上前には、事務の方にこれをお知らせし、その情報が看板を書く方に更に届き、書きあげられ、その当日の一週間前には、私たちの教会の周りの3か所に貼り出されておりますが、今回は、鈴木先生の入院という事もあり、変則的になりました。
それにしましても、多くの方が、その看板を見られるのであります。 果たして、この主題でどんな印象を持たれたか、大変興味深いものがあります。 それといいますのも、私たちの教会から目黒の方に向けて行く途中に、私が卒業しました神学校があり、看板を毎週見ていますよと言われたり、聖書の個所が大体想像がつきますなどと言われることもあるからであります。
でも、きょうの主題は、なかなかどこの個所か、想像がつかないのではないかと思います。と言いますのは、良い意味にも悪い意味にも取れるからであります。 つまりそれは、聖書のあちこちが想像できるということでもあります。 逆に、全く聖書を知らない人がこの主題を見られた場合、何を想像されるでしょうか。
例えば、自分では良い事をしていると思っている人が読まれますと、必ず受ける報いとは、それは良い報い受けると想像されるでしょうし、逆に、人には言えないような、いわば法律に触れるような事を、それも本当に悪い事をしていると自覚している人なら、それは、裁きを意味しているように受け取る可能性があるからです。
あるいは、自分の悪い点は横に置いといて、悪い人には、悪い報いをと言う風に思われたかもしれない。そのように私は思ったのであります。
まあ、いずれにしましても、今回のこの主題は、言うまでもなく前者の意味、つまり良い意味でつけたのですが、しかし、きょうの聖書箇所で逆の事を考えますと、これもまた真理である事は言うまでもありません。私が付けました主題「必ず受ける報い」とは、それは良くも悪くも伝道者の書の一番最後にある言葉、12:13,14節で言われている事がぴったり当てはまるでしょう。即ち、
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」と言う言葉にあらわされることであります。
つまり、必ず全ての人が報いを受けるのですが、それがどんな報いを受けるのか、きょうの所では、「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とイエス様は言われて、弟子を受け入れるのは、神を受け入れるのであると強調されます。
これは、これから遣わされようとしている十二弟子に言われていることですから、遣わされる側としては、それだけの権威が与えられている事を指しているとも言えましょう。
イスラエル民族は、預言者を迫害し、義人を退けました。 「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。 また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。」とあるとおりであります。預言者の受ける報い、義人の受ける報いに違いはないでしょう。
ただ、約束されているのは、預言者、義人を受け入れるというのは、神様を真実に受け入れる事であり、神から真実に報いを受けるということであります。 行なった事に対する報いが漏れる事は決してないということです。 ただし、イエス・キリストの私たちにして下さった事というのは一方的な恵みですから、それと一緒にはできません。
さて、きょうのところで、もう一つ注目させられます事は、たった3節の中に、いろいろな人が登場しているという点であります。
まず最初に40節では、 「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とありますので、話しの流れから言いますと、あなた方、つまり弟子とわたし、つまりイエス様がまず登場します。 そして更にその節には、「また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」と言われておりますので、わたしを遣わした方、つまり父なる神様が登場され、更に41節に目を向けますと預言者が出てきますし、義人がでてきます。
42節では、「私の弟子だというので」とありますので、40節にでてきた十二弟子を指しますが、その彼らに、水一杯でも飲ませる人も入れることができます。
そうしますと、父なる神様、イエス様、弟子たち、預言者、義人、そして水一杯でも飲ませる人と言うように、沢山の者が登場するのであります。
しかし、話としては真に単純であります。 父なる神様に立てられた人を立てると、その人は決して報いに漏れる事はないということであります。逆に、そうしなければならない。そうしなければ、それなりの報いを受けるという事でもあります。勿論、ここでは逆の事は言われていませんけれども。
ところで、神様に立てられた人として例えば挙げますと、 エジプトを出て、約束の地に向けて先頭に立ったモーセ。 彼は、自分から名乗り出てそうなったのではありませんでした。 神様が選び、立てて下さったのでした。
モーセ自身、その事に戸惑いを覚え言いました。(出エジプト3:11) 「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行って イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」とか 「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(出エジプト4:10)というように、真に自信のないモーセでありました。
しかし、神様が立てられた器ゆえに、イスラエルの民衆がモーセに向かって手を振り上げても、神様はモーセを守って下さいました。それは、神様がご自分のしもべとして立てられたからであります。
あるいはまた、預言者で言いますとエリヤが挙げられるでしょう。 偶像礼拝に立ち向かったエリヤが、北王国イスラエルの王アハブの妃イゼベルの強迫に恐れをなして、逃げていき、ホレブの山でエリヤは言いました。
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。 私は先祖たちにまさっていませんから。」とであります。
主によって立てられた者が、主のために行動する時、当然ながら反対に遭います。 ある時は、本当にへこんでしまいます。 又ある時は、それでも勇敢に立ち向かいます。 しかし、いずれにしましても、主が、どう立ちあがらせてくださるかであります。
主が立てて下さったので決して命を失う事はないとは言えません。 主の御用を果たしたものは、時が来たら天に召して下さるからです。 主の遣いとして各地に派遣された弟子が、へとへとになっている時、 反対ではなく好意的に受け取られ、更には水一杯でも与えられるなら、 その水を差し出す人が報われない筈はないでしょう。 又そう願っていますし、神様はそうして下さるとイエス様は言われるのです。
義人と呼ばれたアベル(へブル11:4)。 しかし彼は、兄のカインに殺されるのであります。 これは、赤の他人ではなく、兄弟同士のいわば身内の嫉妬によるもでありますが、殺されます。 義人と呼ばれる人がなぜ、殺されなければならないんだ、 そう問いかける者もおられるでしょう。
しかし、主のご計画は、私たちには分からないのであります。 きょうの聖書箇所では、これから弟子たちは、イエス様に遣わされて出ていき、 神の国の福音を宣べ伝えようとしています。しかし、その前途には、多くの困難が待ち受けています。それでも、中には、福音を信じ、あるいは、信じないかもしれませんが、好意的であり、水一杯でも飲ませてくれるでしょう。その水一杯でも飲ませてくれるなら、その人は決して報いに漏れる事はない、そうイエス様は言われるのであります。
ある本に書かれていた事ですが、 「冷たい水一杯、それは最高の贈り物で、差し出す事は最低の義務であった」とありました。弟子たちがどんな季節に遣わされようとしていたのか分かりませんが、もし、雨季ではなく乾季であったなら、それはそれは、本当に最高の贈り物であったに違いありませんし、たといそうではなくても、最低の義務でさえあったなら、それを怠るような者に対しては、それだけのものを、報いとして受け取るという事でありましょう。 何しろイスラエルでは水は貴重なものですから。
ただここで注意しておきたいのは、人によっては、何でもかんでも天国と結び付ける人がおられますので、それだけは、注意しておきたいのであります。 良い事をした。それも神に仕える人に対して行なった。 だからその人は、必ず天国へ入れてもらえる、そう受け取るのです。
しかし、ここではそんな事は一切言われておりません。 でも、まじめにそう考える方がおられるのであえてここで申し上げておきたいのです。
更には、ついでに言いますなら、一番最初の方でも申し上げましたが、私たちは聖書の真理として受け入れている事ですが、天国に入れる入れないは、行いによらないということです。わたしたちは恵みにより信仰によって救われた者であり、キリストを通してでなければ、天国には入れてもらえません。それはまた、神様がして下さる事なのです。
それ故に、今回のこの聖書箇所とは直接結びつきませんが、 敢えてここでも申しあげておきたいのであります。
第三番目に申し上げたいのは、神様は見ておられるという点です。 富んでいる者、貧しい者、権威ある者、権威のない者、人間的に高く評価されている者、全く評価されていない者、と言うように、世の中では、いろいろな人がおられます。
そういう中で、 この世にあって評価されない人であっても、弟子であると言うので、水一杯でも飲ませる者は、全てを知っておられる神様の真実の報いから漏れる事はない。そのようにイエス様は言われます。
外見、能力、力、名声、そういう事に一切関係なく、主に仕える者に対して良い事を行なったなら、その人は報いを受けるのです。わたしたちは、今10章の終りを見ているのですが、この後進んで、25章を見る事にやがてなります。
そこには、こんな話が載っているのであります。 少し長いのですがお読みいたします。48ページ下の段であります。 「25:31 人の子がその栄光を帯びて全ての御使い達を伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。 彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。 『さあ、わたしの父に祝福された人たち。 世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35 あなた方は、わたしが空腹であった時わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、 わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、 わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。 『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、 食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、 裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが 牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 25:40 すると、王は彼らに答えて言います。 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟達、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。』以上です。
ここには、イエス様を意識しないで行なった姿が書かれています。 主だと意識しないで、良い業を行なったという事です。
一方、きょうの聖書箇所では、「わたしの弟子だというので」という条件がついているのであります。この場合私たちは気をつけませんと、見返りを期待して行なうという、非常に良くない思いを抱く可能性があるということです。
イエスの弟子に良い事をしておけば、先々で何か良い事でもあろうとであります。 しかし、そういう打算的であってはならないし、むしろ、そういうことよりも、神に仕える、人に仕える、その事の大切さを言われていると思うのです。
わたしたちはきょうの40-42節の3節から、教えられた点は、 主に仕える者に対して、水一杯でも飲ませるなら、それに対する報いは必ずあるという点です。知らずにする行為と、知って行なう行為がありますが、どちらにしても、主のために行なう事には、主は必ず報いて下さるという事です。
と同時に、全く視点を変えて見ますなら、 きょうのイエス様の話しは、弟子たちや、義人、預言者など神様の側に立つ人たちに対してですから、信仰者である私たちもまたイエス様のことを伝える側であり、伝えさせていただく者でありますから、その私たちに対して、この世が、それこそ水一杯でも飲ませるなら、その人は、決して報いに漏れる事はないという事でもあります。
それだけに、私達は、自分たちが、主から派遣されている者である事を心して、遣わされたいのであります。神のしもべの集まりである教会もまた、この世にあって、主に仕えるものとして、立ち続けたいものであります。そのように遣わされてここから出て行こうではありませんか。
2011年11月13日(日) 「現実を見よ」 マタイ11:1-6 竹口牧師
2011/11/13 マタイ11:1-6 現実を見よ きょうの聖書箇所は11章1節から6節までですが、1節は、イエス様がこれまで弟子たちに注意を与えて来られましたので、そのまとめの部分に当たります。 従いまして、きょう取り上げます所は、それ以下の2-6節に書いてあることであります。
そこで早速2節から見てまいろうと思うのでありますが、2節にこうあります。 「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、・・・」とであります。
言うまでもありませんが、ここに出てきますヨハネとは、バプテスマのヨハネの事であります。そして、彼の事はすでにこの著者であるマタイが、3章の所に登場させ、彼がどういう働きをしていたか、それを書いておりました。 そこで、復習のようになりますが、今一度戻って、そこを読んでおきたいのであります。
マタイの福音書3章1節以下を少しお読みします。3頁下の段 「3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。 3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、 3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。 3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。 3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 3:9 『我々の先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。 あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。 私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。 その方は、あなた方に聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。 麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」そこまでにしておきますが、
これを読みまして、バプテスマのヨハネの事をどのように感じられるでしょうか。 私にはとても力強いものを感じます。
特に7節の「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」 というところなどそう思います。
ところで、イエス様よりも半年くらい早く生まれたバプテスマのヨハネですが、 その誕生に当たっては、ルカの福音書1章に詳しく述べられ、夫ザカリヤ妻エリサベツとの間に、高齢にも関わらず、主が与えて下さった子供、それが、このヨハネでした。そして、その彼の使命は、生まれる前から決まっておりました。 つまり、イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせるという働きでありました。
彼は、そのように育てられ、まさに神様の御用の為に立てられ、ヨルダン川で、人々に悔い改めを迫っていたのでした。その彼は、旧約聖書の一番最後の書、マラキ書で預言されていた最後の預言者にあたる人でした。
多くの預言者がそうでありましたように、ヨハネもいのちをかけて、悔い改めを迫っていました。彼は、イエス様をメシヤと認め、告白したくらいですから、イエス様がバプテスマをと願われた時、遠慮して、あるいは辞退して、むしろ自分こそイエス様からバプテスマを受けるはずの者です、と言った、そういうヨハネでありました。
そんな彼が、今や牢屋に入れられているというのが、きょうの所なのであります。 なぜ彼が、牢に入れられることになったかと言いますと、ガリラヤの領主へロデ・アンティパスは、ローマにいる弟を訪問中、弟の妻と不倫な関係におちいりました。 そして、帰国後正妻と離縁し、義理の妹をその夫のもとから連れ出してこれと結婚したのでした。つまり、人の妻を横取りしたのでした。これは、完全に律法違反であります。
世の中には、こういう事は普通にあった事でしょうが、ヨハネは、神様に仕える身として、それを黙って見過ごす事が出来なかったのでありました。 そしてこのヘロデをヨハネは公衆の面前できびしく非難したものですから、それがどうなるかは、明白でありました。権力者は、すぐに捕えにかかり、山の間にあるマケルス要塞の石牢に閉じ込めたのでありました。
さて、そんなヨハネが、牢獄の中で考えた事は一体何であったか。 どのような心境の変化が生まれたのか。 私たちは、きょうの3節の言葉だけで、想像する事になるのであります。 彼は、こう言っております。
「おいでになるはずの方は、あなたですか。 それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」とであります。
先ほど、私たちは、マタイの福音書3章で、バプテスマのヨハネが、イエス様をどのように見、どのような働きをしていたかを読む事で確認しました。
しかし、きょうのところでは、そのような面影は、少しも見当たらないようにも思えますが、皆さんは、どう見られるでしょうか。
このバプテスマのヨハネの言葉をめぐって、解釈がいろいろあります。 その一つが、この質問は、ヨハネが自分のためではなく、弟子たちのためにたずねたのだ、という考えです。
ヨハネが獄中で弟子たちと語ったときに、イエス様が真実の「きたるべきおかたですか」、と弟子たちが質問したのに対して、「イエスの本質について疑問があるなら、イエスのわざ、イエスの力を見てくるがいい。そうすれば、疑いが解消する」といったとも考えられると言います。これも一つの考えでしょう。
なぜなら、イエスについて議論し、その主権を疑う人たちに対する最上の解答は、議論をもって議論に答えることではなく、「あなたの生涯をイエスにゆだねてごらんなさい。そして、イエスがそれをどのように取り扱われるかを見てごらんなさいということで」でもあるからです。キリストについての最高の証言は知的な論争ではなく、実際にはどうなのか、事実が物語るという事でしょう。
第2番目の考えは、ヨハネの質問は、ヨハネ自身の牢獄での気持ちを表しているというものです。 誰にとっても獄中の生活は堪えがたいものでありますが、バプテスマのヨハネにとってその悩みは一層深刻であったからです。 というのは、彼は砂漠に育った者で、常に荒野を住家とし、新鮮な風にふれ、空を屋根としていたからであると言います。まだ一度も家に住んだことのないヨハネにとっては、 地下牢の狭い一室に幽閉されることは、苦悩そのものであったにちがいない。 そいうところから、この一種の疑念がわいてきたというものです。
かつては、ヨハネは、先ほど3章の10節の所で見ましたように、 「斧は木の根におかれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」その様に考えていたのですが、なかなかそうはならない。
「イエスは一体いつ行動を起こされるであろうか。 いつ敵を撃破されるのであろうか。 いつ悪人を滅ぼされるであろうか。 いつ神の聖なる破壊の日が始まるであろうか」。 そのようにヨハネは、イエスが自分が期待していた方と違っていたように感じ、焦りを感じていたのかもしれない。その様に考えます。
第3番目の考えは、 ヨハネのこの質問を信仰と希望のきざしと見る、というものです。 イエスのバプテスマを目撃したヨハネは、獄中にあって、 イエスについてよく考えれば考えるほど、 このイエスこそ「きたるべきかた」であるとの確信を深めていき、 今、この希望の確かさをためそうとしているのである。
したがってこの質問は絶望と焦燥をあらわすものでなく、希望のきざしを見た者が、その確かさを求めてのものであるとも考えられるといいます。 というように、いろいろ解釈されるのであります。
もう一度繰り返しますと、一つは弟子のための言葉、二番目は、、ヨハネ自身の弱さから、三番目は、自分の確信をさらに強めるためというもの、というように、それぞれに、考えられることであります。
では、それに対してイエス様は何と言われたかといいますと、 「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。」でありました。
「私が何を言ったかでなく、私が実際に何をしているかを報告しなさい。 私が実際に何を主張しているかではなく、実際に何が起こっているかを告げなさい」ということでありました。
いろいろな良いことを言っても、言葉によって人を感動させ、喜ばせたとしても、 結局のところ、その人の生活が破たんしていたり、人に迷惑をかけたり、助けを求めなければならないようであれば、人は、決して信じないものであります。
つまり、もう一度5節を新改訳第3版で読みますとこうあります。 5節「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」ということなのです。
ここで、私たちが注意しなければなりませんのは、イエス様は、癒しだけを強調されていないという事です。最後の方にありますように「貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」という事です。
私たちは、ともすれば、病気が癒され、悩みが解決され、平和に過ごせることをまず第一に求めるのではないでしょうか。そして、それが叶えられると、神様を忘れるのです。それではいけない。そうであってはならない。
イエス様が福音を宣べ伝えられていると言われているように、その事が、ないがしろにされてはならないのです。自分の願いが叶いますといいのですが、そうではない場合、イエス様は、私の病気を治してはくださらなかった。何の役にも立たないではないか、そういうことではいけないのです。自分の願いが叶うか、かなわないかが大切なのではなく、それ以上にもっと大切なこと、福音が宣べ伝えられること、それがイエス様の使命でありましたし、それをまた、私たちに委ねてくださった使命でもあります。
この世に、ご利益宗教は山とあります。 それぞれの神と言われるものが分業で行なわれるとうたわれ、 学問が専門であったり、商売が専門であったり、無病息災が専門であったり、交通安全が専門であったり、安産が専門であったり、ぽっくり逝くことが専門であったりとか、本当にあげればきりがないほどあるのであります。
しかし、真の神様の求めておられることは、 また、私たちが求めていくべきことは、そういったもろもろの願いもありますが、 それが、主たるものではないわけであります。 だから、自分の願った通りにならなくても、神様に対して不信を抱いたり、 神様から離れようとしたりしてはいけないのです。またそうしないのです。
だから6節でイエス様はこういわれたのです。 「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と。
ヨハネは獄中で 「おいでになるはずの方は、あなたですか。 それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」という言葉を口にしました。 そして、その本当の意味するところは誰にも分かりません。
私たちの信仰生活を振り返ってみるとき、 本当に信仰のどん底をふらふら歩いているときがあります。 飛ぶ鳥を落とす勢いのある時もあります。 そのどちらも同じ人間なのです。 変化している、揺れ動いているのは、いつも信仰者である私たちなのです。
ところが、イエス様は変わられません。神様は昔も今も変わられません。 だから、イエス様は言われるのです。 「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」とです。
ヨハネは、自分の信仰を鼓舞するためであったのか、 弟子たちの信仰を励ますためであったのか、 いずれにせよ、私たちは、いつも変わらないイエス様を見上げながら、 どんなに不利な状況の中に置かれても、イエス様から目を離さないで歩むことが求められているのです。
イエス様の活動は、今の弟子たちにとって現在進行形でした。 まして、バプテスマのヨハネの弟子ともあれば、旧約から新約への橋渡しの働きをしている状況です。その点、私たちは、本当に恵まれていると言っていいでしょう。
イエス様の語られる福音とは何かが、そしてイエス様のお働きが、聖書を通して語られているからです。そこには、信じた者の救いと、信じない者の審きが語られています。
イエス様のお働きを通して、つまずくものではなく、 ますます、その方に信頼し、従っていくものでありたいものです。 イエス様のお働き、その現実を正しく見る人は、何という幸いでしょうか。
2011年11月20日(日) 「時代の転換点」 マタイ11:7−15 竹口牧師
先回は、獄中のバプテスマのヨハネから派遣された弟子たちが「お出でになるはずの方は、あなたですか。それとも、私達は別の方を待つべきでしょうか。」という質問を携えてきた所を見ました。
イエス様は、その質問に対して「あなた方は行って、聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と言われ、弟子たちは帰って行った所で終わっていました。 そして今回は、残された人達に向かってイエス様が話される所です。
イエス様はこう言われました。 「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。」とです。 今は獄中ですが、かつてバプテスマのヨハネがヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けておりましたので、その時の事を指して、イエス様は言われたわけです。
葦は、「いね科の植物、湿地また池沼地帯に生える植物で、イスラエルではガリラヤ湖のほとりに沢山生えており、特に入江になっている所に多く生えております。また死海の西岸に一部葦が生えております。そこは淡水のわく地域であり、葦が塩に対しても強いことを示しています。
日本では昔、「はまおぎ」と言ったそうです。 「あし」という名は悪いという意味に通じるところから、「よし」とも言われるそうです。ともあれ、そういう物を見に行ったのですかとイエス様は言われたのでした。 そんな植物を見に人々は行ったわけでは勿論ありませんでした。
ある本には、この葦にちなんで、イエス様が言われたことに二つの意味が考えられ、そのうちのどちらかをイエス様は言われたと言います。
その一つは、ヨルダン川の岸辺に葦状の丈の高い植物が生えていた。「風に揺らぐ葦」とは、平凡な光景を意味する一種の諺であった。人々が群れをなしてヨハネを見に出かけたのは、ヨルダンの川辺で風に揺らぐ葦のように、平凡なものを見るためであったろうか、というのが一つ。
もう一つは、揺らぐ葦とは優柔不断な男の意味とも考えられる。それは、川辺の葦が風を受けてまっすぐに立つ事が出来ないように、危険の風の前に屈する男の事である、というのが一つ。
人々が砂漠に群がり集まったのは、平凡な男を見る為ではなかった。 大群衆が繰り出したという事実は、ヨハネが非凡な人であった事を示している。 誰もありふれた男を見ようとして町を出、砂漠にまで行こうとはしない。 群衆が見ようとしたものは、弱く、確信のない男ではなかった。 優柔不断な男は、真理の為に獄中で殉教の死を遂げる事はない。という風に書いております。
ところで、イエス様は勿論その事をよく知っておられ、また次の質問をされました。 では、「何を見に行ったのですか。」 「柔らかい着物を着た人ですか。」 そんな人なら「・・王の宮殿にいます」とイエス様は言われます。
民衆の苦しみを知らず、王宮で安楽に暮している人物ですか。 そうではないでしょう、とも言われました。 では、何しに荒野に行ったのですかとまた聞かれます。 あなた方が荒野に行ったのは、ちゃんとした目的があったでしょう?
イエス様は、この様に言う事によって、群衆に、自分たちが何を目的として、どう行動したのか、考えさせておられると言えましょう。
私達とて同じであります。 ちゃんと目的を持って、意志を働かせて行動しているのです。
教会に来る事は、とても大切です。でも、来る事が目的ではありません。 もし、教会に来る事が目的であるなら、別にきょうのような主の日でなくてもよいわけです。主の日に集まるというのには、それだけの理由があります。 主の甦りを記念してでありますから、この日曜日でなければならないわけです。
ユダヤ教で言いますなら、それも曜日で言いますなら、土曜日が安息日であります。 だから、キリスト者は主の日、即ち日曜日でなければならないわけです。
しかも、言うまでもなく、来る事が目的ではなく、主のお言葉を聞く事が目的なのです。主を礼拝する事が目的なのです。全てのものの造り主であり、支配者であられ、あがめられるお方、真の神様を、私達信仰者は、その神様を心から崇め、賛美し、礼拝するために、集まって来ているわけであります。
この主の日を守る事の大切さを、ある教会では徹底しているそうです。 どのようにしてかと言いますと、3週連続して、無断で主の日を休んだならば、 役員会を開き、そして吟味し、警告するのだそうです。 ある方は、3度呼び出したが応答がないという事で、処分に入ったそうです。 私達の教会は、そこまではしないまでも、やはり教会規則というものがありますので、 それに従って、進めております。
それには「教会員にして本教会の礼拝に半年の間欠席した者は、特別の事情がない限り除名される」とありまして、年度の終わりの3月時点で、名簿の整理が行なわれるのは、致し方のない事であります。
ある方には、「非常に厳しい教会ですね」と言われますが、名目上の人数だけでも意味がないとも思っています。というより、神の御言葉を礼拝に於いて聞く事の大切さ、 そして、御言葉に養われ、行動する事の大切さが問われている、そうでなければキリスト者とは言えない、そのように言う事が出来ましょう。
それはまた、御言葉に生きる事でもあるわけです。 御言葉に生きるという事は、自分の生活優先ではいけないわけです。 主を中心に生きる事、これが御言葉中心に生きることであります。
ところで、群衆は、なぜ荒野に行ったのでしょうか。 何を目的としてバプテスマのヨハネの所に行ったのでしょうか。 イエス様は9節で、ご自分で質問をし、そしてそれに対して、ご自分で答えも言われるのであります。
「なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。」 「そのとおり。だが、わたしが言いましょう。 預言者よりすぐれた者を、です。」と。
ここで、私なりに注釈しなければならないでしょう。 それは、預言者を見るためですかという、見る事の意味について、イエス様が言われているのは、単に見物を指しては言われておられないと私は考えます。
最初の方で言われている事は、単に見物でもいいでしょうが、 9節の場合は、見る以上の意味が含まれていると言えましょう。 そうでなければ、マタイ3:5にありますように 「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が ヨハネの所に出て行き、自分の罪を告白して、 ヨルダン川で彼からバプテスマを受け」るような事はないからです。
つまり彼らは、預言者の言葉を聞くためにやって来ていたのです。 しかもその聞いた人は、ヨハネの言葉に従って、悔い改めのバプテスマを受けたのでありました。
多くの群衆が、ヨハネの所に来ました。 それは、風に揺れる葦を見るためではなく、 柔らかい着物を着た人を見るためでもありませんでした。 預言者を単に見るためでもありません。 預言者の言葉を聞きに集まって来ていたのでした。 そして悔い改めを勧められたのです。
ところが、イエス様は9節で更にこう言われました。 「だがわたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです」と。 そう言って、預言者の中でも最大の預言者を紹介されます。 まあ、正確に言いますと、いつの時点で最大かを言わなければなりません。
と言いますのは、これまでにも多くの預言者が出てきたからです。 頭に思いつく預言者の名前を挙げてみましょうか。 イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、ホセア、ヨエル、アモス、オバデヤ、ヨナ、ミカ・・・というように旧約聖書の聖書の順にあげるだけでも、一杯います。 そして聖書名では、出てきませんけれども、エリヤやエリシャも有名な預言者であります。
ところで、イエス様は、そういう預言者が、各時代にいたけれども、預言者の中の預言者、彼らよりも更に優れた預言者がいる。 「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、 あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」とイエス様は言われました。
先ほど私は、預言者の名前をイザヤ、エレミヤ・・と名前を挙げて、ヨナ、ミカでストップさせました。
しかし、皆さん旧約の目次をご覧になればお分かりになりますように、その後も続くわけです。そして、旧約の最後の預言者がマラキである事はユダヤ人もまた私達もよく知っています。それから400年後に、預言者が登場するわけです。
因みに、10節で言われていますイエス様のお言葉の中の、二重かっこで結ばれている言葉は、旧約聖書の一番最後の書、預言書マラキ書3章1節からの引用で、エリヤを指し、それはバプテスマのヨハネの事を指しています。
つまり、旧約の最後の預言者マラキ以後、400年間、預言者は登場しませんでしたが、 ユダヤ人たちは待ち望んでいたわけです。そして登場したのが、バプテスマのヨハネであったわけです。
ユダヤ人たちは、これをエリヤだと思っておりました。 そのエリヤだと思っていたバプテスマのヨハネは、イエス様より半年ほど早く生まれました。そして『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』という働きを彼はイエス様より一歩先に始めたのでした。
今も言いましたように、 ユダヤ人たちは、マラキの後、神の言葉を語る預言者が現われる事を待ち望んでおりました。そして、バプテスマのヨハネがヨルダン川のほとりに姿を現すと、民衆は彼を預言者と認め、その教えを聞いてバプテスマを受けるために方々からやって来ていたわけでありました。
そして、このヨハネの事をイエス様は高く評価されました。 11節「まことに、あなたがたに告げます。 女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。 しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」とです。
この11節は、さっと読んだだけでは、良くわかりません。 なぜよくわからないかと言いますと、 最初の方でヨハネをイエス様は持ち上げておいて、 後半では、それを否定するような言い方をしておられるからです。
でも、ヨハネが偉大である事には変わりはありません。 ただ、後半で否定されているという事は、ヨハネよりももっと素晴らしい方がおられることをイエス様はここで言われているという事です。 それが誰であるかが分かれば、いいのですが、ここでは、明らかにされないで、更に話しが続く事になるのです。
まず最初の11節前半部分ですが、 「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とはどういう意味かと申しますと、これは、彼の能力の事を指して言っておられる訳ではありません。今までにも多くの預言者が出てきたけれども、これを今ふうに言いますとIQがずば抜けて高いとか、偏差値が高いとか、そういったことではなくて、 神様のご計画の中で占めるヨハネの位置が優れている、という事であります。
では、どんな位置が優れているのかという事になりますが、 それは、神様のご計画が「天の御国」という新しい秩序へとつながっていく。 ヨハネは、この「天の御国」を告げ知らせる伝令者であった、ということです。
預言者マラキが預言したエリヤと言われる人、そのエリヤにあたるバプテスマのヨハネは、古い秩序に属する最後の者であった。つまり、彼以後、新しい時代の到来となろうとしていたという事。それが、半年遅れでお生まれになったイエス・キリストの時代の到来です。
そしてそのイエス様が、言われるのです。 12節「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。」とです。
ここで言います「ヨハネの日」と言いますのは、まさに、旧約から新約に変わろうとするその境、もっと踏み込んで言いますと、旧約の終わりを指すと言ってもいいでしょう。
だから、イエス様が活動され始めた時、新しい広がりと新しい力にみなぎるイエス様の活動に参加するのは、ヨハネの特権ではありませんでした。 ですから、11節で言われている事は、今や、イエス様が宣教をなさっていることによって、ヨハネが宣べ伝えていた天の御国は、すでに現実となって、古い秩序はすでに乗り越えられている、そういう事をイエス様は言われていると言えましょう。
メシヤの到来を預言するという旧約聖書の預言者の使命は、バプテスマのヨハネによって究極的に成就した、ということであります。そういう意味で、ヨハネは、旧約的な意味における、最後で最大の預言者であったということであります。
ですから、イエス様から神の国の福音を聞き、イエス様を信じて救われた者は、ヨハネよりも偉大であるとイエス様は11節で言われているのです。
「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」と。この最後の言葉がそれに当たります。
ヨハネの属していた時代と、イエス様の時代とは、質において根本的に違ったものでした。ヨハネはいかに偉大であっても、所詮メシヤの先駆者にすぎませんでした。 ヨハネ自身の言葉によれば、「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。」(3:11)とか、 「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、 あなたが、私のところにおいでになるのですか。」(3:14)というものでしかなかったのです。
イエス様は、ヨハネが出現して以来、人々は何とか神の国に入ろうと努力していると 12節で言われています。その節にはまた「激しく攻められています」と訳されています。
この言葉は、「力ずくでも、無理に入る」という意味で、あまりよくない言葉ですので、いろいろ解釈がされております。
おもなものを二つほどあげますが否定的に取りますと、イエス様到来によって始まった御国が反対者によって激しい攻撃にさらされ、奪われた状態にあるという意味になります。
この場合、バプテスマのヨハネがヘロデ王に逮捕されたことや イエス様が民衆から退けられたことや、ユダヤ人指導者に迫害されている状況を指すのだそうです。
一方、肯定的に読むなら、 ヨハネがヨルダン川で活動を始めて以来、御国は、それを求める人たちによって熱心に求められ、彼らの手中に収められているという意味になるという解釈。 他にもありますが、ある先生は、このようなたとえで説明しておられます。
それは、ラッシュアワーの時に、満員電車に無理やり乗ろうと努力して、ついに乗り込む姿を想像すればよいだろう。つまり、ヨハネが神の国が近づいたことを宣べ伝えて以来熱心な人々は、罪を悔い改め、さらにイエスの福音を信じて何とかして神の国に入ろう努めており、事実そのような人々は「奪い取」るようにして、神の国に入っているという意味である。
イエスはここで、律法学者やパリサイ人たちの、福音に対する冷淡な態度に対して、 罪人や取税人たちの熱心で積極的な態度の事を暗に示しているのである(参照ルカ7:29-30)という風にです。
私たちは、このバプテスマのヨハネの登場と、イエス様の働きの始まりとの間には、 大きな時代の転換が起きたことを、この朝はっきりと確認したいのです。 そして、私たちは、後者のイエス様の福音に与っている。その幸いを覚えたいのです。
旧約でもなく、バプテスマのヨハネでもなく。 イエス様の時代に救われたことの意義を確認したいのです。
それはまた、ペテロやパウロなどの働きによって、異邦人である私たちにも救いの門戸が大きく開かれる事となり、それは更に今日の私達の所までやって来ている、その事の現実の素晴らしさ、
神様は、あのイエス様が活動され始めた地点から私達のために始められ、時間的、空間的にも広がり続け、やがては、私たち一人一人を救いへと招きいれて下さった。 その事の恵みをこの朝、覚えて感謝しようではありませんか。
私達の救いは、イエス・キリストの十字架によって完成しますが、 もっと先をたどれば、今日のところに行きつくと言えましょう。 何と言う素晴らしい転換点でありましょうか。
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