2012年1月8日(日) 「父を知る者とされ」 マタイ11:25-27 竹口牧師
今、私達はマタイの福音書11章を見ているのですが、ここは、バプテスマのヨハネの質問から始まり、彼の果たしてきた役割、そして、その後に登場されたイエス様の働きについて、語られておりました。
更には、そのバプテスマのヨハネやイエス様について、人々が、どう評価しているかが書かれておりました。それは全く間違ったものでありまして、例えば、18節で、バプテスマのヨハネの事を「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、 そして、イエス様については19節、「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。」とイエス様は言われました。
一方、先回見た所では、イエス様に対して町々が、イエス様を正しく受け止めなかったという事で、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町が責められておりました。 そして、審きの日には、ツロやシドンやソドムよりももっとひど罰を受けると言われておりました。そんな中で、きょうの所は、イエス様の祈りとも思えるような部分を見るのであります。
25節で、イエス様はこう言われたとあります。 「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」とであります。
ここで、私達が注意しなければならないのは、 「幼子たちに現わして下さいました。」という「幼子」の意味です。 これは、決して年齢的な事を言ってはおられません。 ですから、乳飲み子から成人するまでの子供たちという風に言われている訳ではないことをまず確認しておくことにします。
その一方で、賢い者や知恵ある者とは、どんな人を指すのかと言いますと、直感的に私達が意識しますのは、子供ではなく大人を想像しますが、ですから、「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに」と言われますと、「幼子とは」年齢の若い者のこと、そして賢い者や知恵ある者と言いますと、大人を、ある人たちは、頭に浮かべられるだろうと思うのですが、決してここでは、そうではない。
多くの方は、その事をよくご存じでありますが、 それでもこの朝この時に、その事を確認しておきたいのであります。
まず、年齢の老若ではないという点ですが、では、誰を指して言われたのかという事になります。今回の話しで、これは、最も重要な点であります。
と言いますのは、神様の奥義を明らかにされたのは、その幼子と言われている人たち、だからであります。しかもまた、賢い者や知恵ある者には隠してとわざわざあり、幼子たちに現わして下さいました、ともあるからであります。
では、なぜ父なる神様は、そのようなことをされたのでしょうか。 賢い者や知恵ある者には隠さなければならなかったのでしょうか。 知的な能力、また知恵は、主の働きを認めるのに、必要ではないのでしょうか。
いいえ、それがある事によってむしろ邪魔をする。 あるいは、障害になるということでしょうか。
一面、それは真理であると言えなくもありません。 しかし、どうも世の中をよくよく見ますと、どうもそうとは言えない事がお分かりでしょう。どういう人を賢い者とか知恵ある者と言えるのか、その事も、具体的に考えてみなければなりませんが、
一般的に言いますと、学者やなんらかの指導者は、どうみても幼子とは言い難いのであります。そういう目で見ますと、例えばでありますが、有名なアインシュタインは、物理学者でありながら神の存在を信じておりましたし、アブラハム・リンカーンも、キリスト信仰者でありました。
日本では、新渡戸稲造とか、ずっと最近で言いますと作家の三浦綾子などはクリスチャンでした。彼らの事を、私達は決して賢い者ではなかった。知恵あるものではなかった、とはいえないのであります。
ではイエス様は、そういう何か秀でている者たちは、福音を受け入れるのに障害となり、難しいということをここで言おうとされているのでしょうか。
いいえ、決してそうではありません。 そうではなく、大切な事は、幼子のような純真さが必要である、ということをここで強調さていると言えましょう。つまり幼子とは年齢に関係なく、性別に関係ない、時代に関係なく、ということでありましょう。
また、賢い者とか知恵ある者というのは、学歴、職業、住んでいる地域、国とか、あらゆる外的なものは関係ないという事であります。福音の真理を聞いた時、その人がその福音に対して、どのような反応を示すか、大きく問われているのであります。
毎年、新聞に大学入試のためのセンター試験の問題が載せられます。 大学受験の学生は、その試験に臨み、終わった後には、自分の成績がどの程度であったか、大体分かる事でしょう。そして自分の進むべき方向を考えますが、実際のところ、現在の私には、それを解く能力は全くありません。すっかり忘れている部分もありますし、難しくなっているからです。否、非常に難しい問題です。
では、それを簡単に解く能力を持つ学生は、必ず救われるかと言いますと、全く関係ありません。
では、賢い者、知恵ある者と幼子との間に何の違いがあるのか。 これは、よくよく考えてみなければなりません。 とても大切な点であります。
人間的な常識、あるいは道徳観のある人、あるいは、身の回りの人に大変親切で誰にも好かれる人、自己犠牲を進んでする人、そういう人が、イエス様の言われる幼子を指しているかと言いますと、決してそうではないわけであります。
確かに、真の神様の事を聞いても全く受け入れない。自分の知識だけで判断する。あるいは傲慢な人、そういう人は、幼子のような純真な心の持ち主とは決して言い難いといえましょう。
とはいえ、単純に何でも受け入れる人がまた、幼子のような人とも言えないのも当然な事であります。無知な人が救われ、知的な人は救われないとは言えません。 無知な人は、逆に何でも信じてしまうという弱点があります。
ただここでイエス様は、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました、と祈られている事には、私達は特別に注意をしなければなりません。 なぜなら、神の御言葉を受け入れるには、幼子のようでなければならないからです。
今私は、イエス様が幼子たちにと言われているのに、あえて、幼子のようと言いましたけれども、それは、皆さんはもう充分年齢を重ねておられるからです。 イエス様が「幼子たちに現わして下さいました」との祈りは、単に年齢の事を指して言われていないからです。
ところで、26節にありますように、「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」とイエス様は祈られています。 私どもの教会には、実にいろいろな人を神様が集めて下さっております。 その事に私は神様に感謝しているのでありますが、私達の教会のみならず、どこの教会に於いても同じでありましょうが、実に偏りがない。変化に富んでいる。それは、職業、住んでいる地域、年齢からして、いろいろな違いのあるものが、一つの教会に集められているのであります。
そのいろいろ違いがありながら、キリストの体の一部分として、それぞれが、役目を果たさせていただいているのであります。共通なものはただ一つ。同じ信仰が与えられているという点です。
キリストとの出会いも、救われる状況も、救われた時代、場所も、みんな違いがありながら、しかし、思い、願いは一緒であります。
イエス様が私の罪のために身代わりの死を遂げて下さった。 私が今生きているのは死んで甦って下さった主のためである、 この信仰に立っているのであります。
これによって、私達の心は一つとなれるのです。 これは、何という素晴らしい事でしょうか。 そして、その事を可能にしたのが、神様のお働きでありました。
イエス様は27節でこう言われています。 「全てのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。」と。 つまり、今まで私は、賢い者、知恵ある者とはどんな人か、 幼子とはどんな人かを考えて来ましたが、 それは、人間の側の状態の部分でありましたけれども、 27節は、その部分を大きく超える事が書かれております。
つまり、確かに人間の側の受け入れ態勢、 頑固で頑な心、決して受け入れようとはしない反抗的な心、素直さに欠けた心、というように、心に問題がありますが、真理を隠さないで明らかにされ、受け入れる事が出来たのは、人間の側の問題ではなく、すべてのものが、イエス様の父からイエス様に渡されている、渡されていたからであるという大切な真理があったのであります。 その事を、ここでは明確にされているのであります。
確かにイエス様は、ある所ではこうおっしゃいました。 これから先で見る所でありますが、 マタイ19章13節、14節(35ページ)にこう書かれています。
「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。 しかし、イエスは言われた。 『子どもたちを許してやりなさい。 邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。 天の御国はこのような者たちの国なのです。』」という風にです。
また、その1章手前の18章に於いては(32ページ)、弟子たちが「天の御国では、誰が一番小さいですか」との質問に、 「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』」とあります。
そういう所を読みますと、年齢が若いとか、あるいは、歳を重ねても、謙虚に神様のお言葉に耳を傾ける事の大切さが言われております。それらは、きょうの聖書箇所を読むにあたって、随分示唆が与えられるように思います。
がしかし、きょうの11節でイエス様の言われている事は、もっと決定的な事を言われているのを覚えなければなりません。それは、あたかも私達の側に天の御国を知る大きな要素があるようですが、実はそうではない。
私達の側ではなく、父なる神様とその子にあると、ここで言われている点であります。 とっても大切な部分であります。イエス様は、言われます。27節半ばから 「それで、父のほかには、子を知る者がなく、 子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、 だれも父を知る者がありません。」とであります。
実は、私達が、イエス様を正しく知ることができたのは、 「子が父を知らせようと心に定めた人」以外にはいないという事ですから、 つまりは、今、イエス様を信じているのは、イエス様が知らせて下さったからであるという事になります。
そして、これは、どういう事かと言いますと、皆さんそれぞれに神様が行なって下さった奇跡の一つである、そういうことであります。
幼子のようになれと言われても、自分でなれるものではありません。 神様がそうさせて下さる時になれるものであります。
一番分かりやすいのは、人生最大の壁に直面した時でありましょう。 これはもう、私というものは完全に消えてしまっている。 そういう事が出来ましょう。神様に頼るしか道はない。そんな時です。
ところで、イエス様は、パリサイ人や律法学者たちから退けられました。 一方、庶民からは歓迎されました。 庶民は、イエス様の行なわれる事、また話される事を素直に聞き、信じました。しかし、それはあくまでも、イエス様が知らせようとされた人たちであったという事です。
そういう意味で、この27節は、実に深い意味が含まれている特別な御言葉であると意識してほしいのです。
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。」という全てのものとは、被造物全部を指しますし、それがまた、父から子であるイエス様に渡されているとイエス様は言われます。 更には「父のほかには、子を知る者がなく」と言われていますので、 これは、イエス様の本性を知る者は、父だけという事になります。
そういう意味では、ピリポ・カイザリヤでイエス様はご自身の事を誰だと言っていますかと問われた時、弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と言って、ばらばらであったのはうなづけると言えましょう。
そしてイエス様は弟子たちに問われました。 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と。 そして、 シモン・ペテロが答えて言いました。 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と。 するとイエス様は、彼に答えて言われました。 「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。 このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と。
私達は、この出来事を通して、 きょうの11章27節のイエス様のお言葉が、私達に対してどういう重い意味を持つかを教えられのであります。つまり、私達は確かにイエス様を信じる者として、この場所に集められ、神様を礼拝し、讃美しておりますが、
その私達一人ひとりは、 「子と、子が父を知らせようと心に定めた人」であるという事です。 神様がご自身の意志に基づいて、主権的な御業をおこなわれ、 一方、イエス様もまた、ご自分の意志でその働きを進めておられる。 私達は、その一端に加えられているというこの事実の大きさ。 そしてこれは、何という光栄であろうかと思うのです。
繰り返しますが、「父のほかには、子を知る者がなく、 子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、 だれも父を知る者がありません。」とは、 誠に重みのある言葉であり、真理であります。
ここには、父と子とが明確に区別され、 その中で、子と呼ばれるイエス様に私達は選ばれたものである。 そのことをじっくりと考え、味わっていただきたいのです。 何と言う憐れみに満ちた神様の素晴らしい選びでありましょうか。
神様が、私のような者でも心に留め、救いに入れて下さった、 その事実に皆さんお一人おひとりが触れる時、 思わず感謝したくなるのではないでしょうか。
私達はイエス様の御前では幼子です。 そしてそれ故に選ばれた者です。 イエス様を知る者とされている事をこの朝、神様に感謝しようではありませんか。 そして、イエス様の喜ばれる事を喜んで、させていただきましょう。
2012年1月15日(日) 「疲れた者は来なさい」 マタイ11:28-30 竹口牧師
この朝の28節の御言葉は、多くの教会に掲げてある素晴らしい御言葉です。 週報に載せたり、礼拝堂の前面に書かれていたり、更には、教会の外壁の案内版に掲げられ、そばを通る人たちの目に触れるように書かれております。
更には、最近ではインターネットの最初の所に書かれている御言葉も、これであったりします。それほど、教会ではよく用いられる御言葉であります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」であります。
私自信も、この御言葉に、最初大変、心が惹かれたものでした。 この言葉に惹かれるというのは、元気ハツラツ、何をやってもうまくいっている、 飛ぶ鳥を落とす勢いのある人ではないように思います。 やはり人生の中で、何らかの行き詰まり、問題を抱え込んでいる、あるいは身体的に、精神的に疲れを覚えておられる人、そういうような人の方が、目に留まりやすいと言っていいでしょう。
勿論、人の一生には、波があり、闇夜を経験しますので、どんな人にも関係しているのですが、調子のいい人には、目にとまりにくいという面はあります。
いずれにせよ、人生に疲れている人、そういうような人であるならば、素直に、イエス様の所に近づいていき、あらゆる縛りから解放され、平安が与えられてきたと言えましょう。
あるいはまた励まされたり、また力を頂いた。生きる気力さえ失っていた人が、希望を頂いたという事もまた実際に多くあることであります。そういう意味では、自分で何とか出来ると考えている人にとっては、イエス様に近づくチャンスには恵まれないのは残念であります。
私達は、現代に生き、そしてこの御言葉に触れ、読んだ人それぞれが、いろんな違った状況、環境ににありながらも、イエス様のお言葉によって変えられてきたものでした。それは、御言葉の持つ不思議、あるいは力と言っていいでしょう。
御言葉を通して働かれる聖霊様のお働きによって、御言葉の意味がわかるようにして頂き、恵みに与る事が出来たという、何と言う素晴らしい言葉でありましょうか。
もっとも、必ずしも、全てのクリスチャンが、この言葉によって救われたわけではないのはいうまでもありません。 聖書は神のみ言葉であり、他にも多くの愛されている御言葉があり、更には聖霊なる神様が働いて下さいますので、いろんな御言葉によって、一人ひとりが導かれて、こんにちの私達の集まりがあるのであります。
ところで、この朝取り上げました28-30節の3節のみ言葉は、本来、イエス様が、何をここで人々に言おうとされたのか、そのことを、このマタイの書いているこの流れの中で考えてみたいのであります。
まず最初に、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は」とありますが、 この「すべて疲れた人、重荷を負っている人」とは、 イエス様の時代、どんな人を指して言っておられたのでしょうか。
病気の人を指して言われたのでしょうか。 それとも、働きに疲れた人を指して言われたのでしょうか。 あるいは、人々から嫌われ、除け者にされている人たちを指しておられたのでしょうか。
確かに、そういう人たちの事も想定に入っていたかもしれません。 しかしまた、この11章の最初の話しの流れから言いますと、また違った見方が出来るのであります。なぜなら、イエス様がこの言葉を発せられた背景があるからです。
ではどんな背景があったかといいますと、 それは当時の宗教事情というものが大きく関係しておりました。
その宗教事情と言いますのは、 律法学者やパリサイ人たちの働きが大きく関係していたのです。
彼ら宗教指導者は、人々に平安を与えるのではなく、「重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはし」ないものであったわけでありました。 これはイエス様がマタイ23:4で言われているお言葉であります。
即ち、イエス様が言われ、またマタイが受け止めたイエス様の言葉の意味は、苦労とか、不幸とか、傷ついたとか、挫折したとかという事よりも、罪と義について意味しており、疲れていた、重荷を負っていたという事です。
それは、この汚い悲しい者が、神の御前に聖く正しい者と認めていただく道はあるのか、どうしたら良いのかその解決方法が分からない。そんな状態なのに、その問題に、次から次に重荷を負わせ、疲れ果てさせる者がいた。 それが、律法学者やパリサイ人達であったわけであります。
従って、イエス様は、その苦しんでいる人たちに対して、助け手を差し伸べられたのでありました。全て疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい、とです。
では、具体的にパリサイ人たちは、どんな重荷を人々に負わせていたのでしょうか。 これは実に大変なものでした。ある本を引用しますけれども、本当に読んでいて、息が詰まるような気がいたしました。 こう書いてありました。
「ユダヤ人にとって、宗教は破ることのできない無数の戒律、規則であった。 そこで人々は、生活のあらゆる行動を規定する戒律の束縛の中で、絶えず、『汝・・・するべからず』という声に耳を傾けていなければならなかった。」とあります。
私も一時期、クリスチャンとして生きる事に、非常に息苦しいものを感じた事がありました。それは勿論、自分で自分を縛っていたからでありますが。
誤った考えで、クリスチャンはこうでなければならないという理想を自分で作り、自分を縛り、どんどんその中に入り込んでいったのでありました。
ですから、それから抜け出した時には、いいえ、神様が抜け出させて下さった時には、 本当に、その苦しみから解放されて、自由の有難さを思いっきり味わったものでありました。今も自由であります。
私の体験はともかく、その本には続けてこう書いてあるのであります。 「ラビすらもこのことを知っていた。(この事とは、先ほど申し上げましたように、 生活のあらゆる行動を規定する戒律による束縛の事です。) コラが語った言葉として、痛ましい話が残っている。コラとは、ラビあるいは宗教指導者の一人でしょう。 「これは、律法の要求がどんなに拘束的で、重荷であるか、また、それを満たす事がどんなに不可能なことであるかを物語っている」と言って、具体的な話しに入るのであります。
「私の近くに一人の貧しいやもめが住んでいた。 彼女には二人の娘と僅かな畑があるだけだった。 この女が畑を耕し始めるとモーセが来て言った。 (モーセとは、モーセの律法の意味と注釈があります) 『牛とロバとを組み合わせて耕してはならない』
次に種をまき始めるとモーセは言った 『あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない』 やがて刈り取って、穀物の束を作り始めると、モーセは言った 『あなたが畑で穀物を刈る時、もしそのひと束を畑に置き忘れたならば、それを取りに引き返してはならない(申命記24:19) また、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない(レビ記24:19)』。
彼女が穀物を打ち始めると、モーセが言った。 『あなたは全焼のいけにえと、はじめの十分の一、 また、次の十分の一を捧げなければならない』。 そこで彼女は、この掟に従って、穀物の全てをモーセに捧げた。 それから、この気の毒な女は何をしたであろうか。 彼女は畑を売って二匹の羊を買い、その毛で衣を作り 子を産ませて利益を得ようとした。
子羊が生まれた時アロンが言った(祭司の要求であります)、 『私に初子を渡しなさい』そこで彼女は、その命令に従って、 初子をささげた。毛を刈る時が来ると、アロンが来て言った。 『羊の毛の初物を与えないさい』(申命記18:4)」 そこで彼女は考えた、 『この男にはかなわないから、羊を殺して食べてしまおう』。
するとアロンが来て言った。 『肩と両方のほうと胃とを与えなさい』(申命記18:3)。 そこで彼女は言った。 「私は羊を殺してもまだあなたから逃れる事が出来ないので、 この羊を主の聖なる物とします。」
するとアロンが言った。 『その場合、奉納物は、みな私に帰する』(民数記18:14)。 こう言って羊を取り、泣いているやもめと二人の娘を後にして 立ち去った」というようにであります。
この話のまとめとして 「この物語は、律法があらゆる行動、あらゆる生活面に、絶えず要求してくる事を示している。律法の要求はまことに重荷だったのである」という風にありました。
長々と引用してきましたが、 今までお聞きになって、どのように感じられたでしょうか。 こういう話を初めて聞かされますと、聖書をあまり知らない人は、まことに聖書に従うのは、大変だなあと思われるに違いないのであります。
旧約聖書を読みますと、このコラが語った言葉は、本当に聖書にそう書いてありますので、旧約聖書に従うには、そうするのが正しいのであります。 でも、本当に疲れますし、重荷と感じますね。 そんな彼らにイエス様は、「わたしの所に来なさい。」と言われ、 「あなた方を休ませてあげます」と言われたのでした。
人々は、律法の重荷に押しつぶされそうになっていました。 そこへ、イエス様が、来て下さり、多くの重荷をイエス様が負って下さったのでありました。だから、イエス様は、人々にそういう事が出来たのでした。
ただ、私達は、ここで、29節の言葉があることは見逃せません。 つまり、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」という言葉であります。
イエス様は「わたしは心優しい」と言われ、 さらには、神に御子でありながら、人となって来られましたので「へりくだって」おられます。しかしそのイエス様が、イエス様の元に来た人々にこう言われたのです。 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」とであります。
だから28節の言葉だけで終わってはならないのです。 「あなたがたもわたしのくびきを負って」とあるからです。 多くの人は、これを見落としがちであります。 イエス様は、疲れを取り去り、重荷を軽くして下さる。 何と言う素晴らしいお方であろうか、とそこだけで止まってしまいます。 そして、次の御言葉を見過ごすのであります。
もう一度言いますが、 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」とあるのです。 なんだ、それじゃあ少しも楽ではないではないか。そう思われる方も出てくるかもしれませんね。
そこで問題となるのが、イエス様の言われるくびきです。 では一体、ここで言われているくびきとは何でしょうか。 ユダヤ人がこのイエス様のお言葉を聞いたとき先ず感ずるのは、何だったでしょうか。それは「服従」だそうです。いろいろな律法への服従を意味したと言われます。
では、イエス様も同じような意味で言われたのでしょうか。 そうではありません。 イエス様は、そういう意味で言われたのではありません。 では、どんな意味で言われたのでしょうか。 それは、牛が畑を耕す時に、用いる道具。 いわゆる鋤をひっぱらせるために牛とをつなぐ道具を指します。
イスラエルでは、牛二頭に、畑を耕す鋤一つを引っ張らせるのです。 そこには、二頭の調和と、正しい器具、ぴったり合った用具が必要でした。 その負わされるものがイエス様の言われるくびきでありました。 そのくびきを指してイエス様は、30節でこう言われたのです。 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と。
私達は、ただ何もしないのではありません。 くびきは負わなければならないのです。 ただそのくびきは、イエス様がくださるくびきでありますから、 負いやすい、そしてその荷は軽いのです。
私達がこの世を歩む時、 それぞれに与えられた重荷を背負って生きなくてはいけません。 しかし、それをイエス様が、背負って下さるゆえに、 その重荷は軽くなるのであります。 しかも、イエス様がくださる荷は軽いのです。
ですから、キリスト教はそんなに大変な宗教なのか、 「自分はとても救われそうにない。」 「無理だ」とそう思わされている人に向けてイエス様は語られた、 と、そう取って頂いてもかまわないでしょう。
あれを守らなければ、これを守らなければとして、 自分で自分を痛めつけてはならない。 むしろ「重荷で押しつぶされそうな人はみんな私の元に来なさい。 罪赦され本当の自由を喜びとしないさい」と勧めておられるのです。 本来なら、もっともっと重い重荷を背負う事が求められるのです。 でも、イエス様がそれを軽くして下さるのです。
私達が、重荷に耐えかねてイエス様から離れようとも、 一旦イエス様が目を留めて下さるならば、 イエス様は、決して見放されることはありません。
なぜなら、旧約聖書イザヤ書53章で語られている事を、 イエス様は、実際に行なって下さった方だからです。 ですから、最後にその一部分を読んで終わりにしたいと思うのです。 旧約聖書イザヤ書53章4−6節をお読みいたします。 この朝の交読文でも読みしましたが、もう一度お読みします。 あとで交読文39番イザヤ書53章をもう一度お読み下さっても結構です。 まずはお聞きください。
「53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」以上であります。
イエス様のお言葉が、どんなに当時の人たちの心を癒し、 疲れを取り除いた事でしょうか。 そして、今日もまた、どんなに多くの人の心を打つ言葉として、 この御言葉が用いられている事でしょうか。
イエス様が、私達の重荷を背負って下さったからこそ、私達の背負う重い荷は軽くなっている事を覚え、感謝しようではありませんか。
昔のイスラエルでは、牛二頭に畑を耕す鋤を一つ引っ張らせたと言われます。 片方をイエス様が負って下さるのですから、どんなに助かる事でしょうか。 ある時には、私達を丸ごと背負って下さる事もあります。 だからこそ、私達クリスチャンは、その方から離れないのです。 離れられないのです。 あなたもイエス様の御前に来ませんか。
2012年1月29日(日) 「安息日の主」 マタイ12:1-8 竹口牧師
突然ですが、タイムマシンというものがあるとして、それを利用して今から約2000年前、イエス様の時代に私たちが歴史をさかのぼり、一般人としてイスラエルに生きていると仮定して、今朝の話を始めます。
そんな私達に対してパリサイ人たちは、きょうが安息日という状況であったならどう言うのでありましょうか。多分こう言うでありましょう。
その1、買い物をしてはいけません。 その2、歩く距離は1キロ以内にしなさい。 その3、食べ物は昨日作ったものをきょう食べましたか。 その4、神様だけに心を向け、集中していますか。 その5、朝と寝る前に、私の教えた祈りをささげましたか。 その6、金曜日の晩から土曜日の夕方まで清くあって、 汚れた事は何一つ行なってはいけませんよ。 あなたは、これらを全部守っていますか、というように、です。
そしてこれを毎週、毎週言われ続けていたらどうでしょうか。 実に大変ですね。 一つでも破ったなら、罪意識でさいなまれるのではないでしょうか。
実は、ユダヤ人達には、今ここにあげた例も含めて、安息日にはしてはいけないとされている39の項目がありまして、細かくいろいろな事が規定されていたのであります。
イエス様の時代、それを守る事が当然のように言われていた。 そして、守れる状況にある人は守っていた。 しかし、誤って罪を犯しやすい人、否、それが罪と言えるかどうかは別として、 また、仕事上、どうしても守れない人もいたわけでありますから、 そういう人は、どんな思いで過ごしていたでありましょうか。
恐らく、律法を守れないという事で、負い目を感じ続けて、あまり堂々とこの世を渡り歩く事は出来なかったのではないでしょうか。
ところが、パリサイ派の人たちは自分たちが律法を解釈し、その解釈した律法を守るように教えるだけでなく、自らも守っていると確信し、自負しておりました。 ですから、他の人にもそれを押しつけていたわけであります。 それがパリサイ派の人たちの生き方でもあったわけです。 そしてきょうの話しに出てくる弟子たちがとった行為もまた 彼らパリサイ人にとっては、してはいけない項目の一つでありました。 そこで、イエス様に指摘した訳であります。 事の次第はこうであります。
イエス様は、安息日に弟子たちを連れて麦畑を通られました。 弟子たちはその時、お腹がすいていたのでしょう。 麦の穂を摘んで食べ始めました。 人の麦畑ではありましたが、これは決して罪にはなりませんでした。
というのは、彼らが大事にしている律法書の中に、つまり申命記23:25にこうあるからです。これは旅行者用の規定ですが、イエス様の弟子たちの場合でも何の問題はありませんでした。その申命記にはこう書いてあります。
「隣人の麦畑に入った時、あなたは穂を手で摘んでもよい。 ただし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない」とです。
このような規定があるくらいですから、パリサイ人たちは、弟子たちを泥棒呼ばわりはしておりません。鎌を使って本格的に取らなければ、取って食べても良かったし、また刈り取りの終わる時期であるなら、その畑の持ち主は、全部を刈り取らないで刈り残しておくこともしなければなりませんでした。
レビ記23:22には、こうあるからであります。 「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人の為に、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」とであります。
そういうふうに規定されているイスラエルの社会事情の中で、パリサイ人が弟子たちを見てこう言ったのでありました。 「ご覧なさい。あなたの弟子達が、安息日にしてはならない事をしています。」と。
取って食べる事はして良い。しかし、きょうのような安息日には、してはならないですよ、ということであります。 なぜなら、麦の穂を摘むことは、刈り入れの仕事に入る。 もみ殻を取って食べられる状態にする事は脱穀という仕事に入る。 そして、この行為全体は、安息日に食事の用意をした事に入る。 安息日に食べる食事は前日に用意しておかなければならない。 たとえば、火をつける事でさえも仕事に入りますから、前日から燃やし続ける事で、それを回避するといった具合に、彼らは細かく規定し、守っていたのでした。
ですから、イエス様の弟子たちのしたことは、パリサイ派の立場から言いますと、立派な律法違反でありました。それゆえに、行為を指摘する事はパリサイ派の人たちにとっては間違いではありませんでした。
一方、イエス様は、弟子たちに、麦の穂から食事をするように勧められませんでしたので、そういう意味ではイエス様に対して罪は問われなかったのですが、弟子たちが罪を犯す事を赦した点が罪に当たるとパリサイ人は考えたのでありました。
ではそれに対してイエス様は何とお答えになったかと言いますと、 ひとつは、ダビデのした行為を例にあげられました。
イエス様は言われました。3節、4節ですが、 「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。」とでした。 これは、Tサムエル記21:1-6の記事であります。
ダビデは、いわれのない捕らわれ人としてサウルに追われていました。そんな時、ノブの祭司アヒメレクの所に行って、何か食べる物はないかとダビデは申し出ました。
すると祭司は、普通のパンは手元にないけれども、聖別したパンならあると、言われたものですから、それを頂いて食べたわけであります。これは、もともとは安息日ごとに取り換えられる供えのパンで、しかもこれは、聖所で祭司だけが食べる事が出来たパンでした。しかし、それを祭司は、その時ダビデに与えたのでした。
イエス様は、その祭司アヒメレクのした行為、ダビデのした行為、それらを誰も非難していないではありませんかというわけです。
人間の必要、人間の飢えを満たすことの方が、儀式よりも大切であるとされたのでした。このような人を大切にするイエス様の行為は、これからも次から次へと出てきます。そして、それはまたパリサイ人を一層怒らせることにも発展していくのであります。
弟子たちの行為を指摘されたイエス様は、第2番目に、こうまた反論されました。 5節の言葉です。 「安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。」とです。
実は、律法には罪にならないというのではなく、むしろ、安息日には、これこれの事をしなさいと命じられています。命じられているくらいですから、さすがにパリサイ人もその事には気がつかなかったのでありましょう。当然ながら、神殿の儀式は、働きを必要とする訳であります。
いけにえを捧げるためにその処理を、また火の管理を、また、いけにえを祭壇に載せて焼く働きなどなどいろいろです。それらを祭司やレビ人が担当していたのでした。 それも、毎日、朝夕ささげる物がありましたが、安息日には、それに更にささげる物が加わり、その働きは二倍となったのでありました。
民数記28:9-10にこう書いてあります。 「28:9 安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。 28:10 これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである」という風にです。
このように規定されていますので、祭司を始めレビ人たちとは一体となって、神殿で神様に仕えていたのでありました。それは、今も言いましたように普通の日もそうですが、祭司やレビ人は、特に安息日にはもっと働いていたわけであります。
これを普通の人がしようものなら、律法を破った者であり、安息日を汚すことになったでありましょうし、旧約時代、祭司が止めるのも聞かず王が勝手にささげようとして、神の罰が下ったという例さえあるのであります(U歴代26:16-19)。
神様のために立てられた祭司、そしてそれを助けるレビ人が、神殿の礼拝を司る。これが律法にかなうものでありました。神様に捧げる礼拝が、安息日に関する全ての規定に優先したのです。だから安息日に働いてはならないと言っても、祭司やレビ人は、働いたのでした。そこをイエス様は言われたのです。これは、なかなか意表を突くような例であります。それがまた、正しい故に、パリサイ人は何も言えませんでした。
ところで、イエス様は、何か特例をあげて話しをされ、混乱させられたわけではなく、話しは更に続くのであります。つまり第3番目は、7節の言葉であります。 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう、という言葉であります。 この7節の二重括弧の中は、ホセア書6:6の言葉でありますので、それを読んでみますとこうあるのであります。 「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。 全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」とであります。
神様は、いけにえよりもむしろ誠実、まごころ、真実を喜ばれ、神様ご自身を知る事を喜ばれると預言者ホセアはその時代の人たちに語ったのでした。そしてそれをイエス様が引用されたのです。
神様は、人間の必要を満たすことの方が、律法を守る事より大事であり、優先してくださるという事でありましょう。ただし、私達は、神様が人間のしもべのように仕えてくださる方であると勘違いしてはならないのは言うまでもありません。
神様が言われた事を、自分の都合のよいように解釈してはならない。 運用してもいけない。 人に適用してもいけないということであります。 神様の言われている事の本当の意味を正しく捉えなければ、私達は、いくらでも怠ける事が出来ますし、逆に間違って、締め付ける事も出来るのであります。
しかし、それは神様の御心ではありません。 最初の方で、安息日にしてはならないこととして39の項目をユダヤ人たちは挙げている事を申し上げ、2、3の例をあげました。もう少し、紹介しますと、ある本にこのように書いてありました。
「正統派のユダヤ人はこの安息日の律法を厳格に守っていた。 ヨベルの書には、安息日の守り方を記した1章がある(50章)。 これによると、安息日に妻と寝た者、安息日に何かしようと計画した者、 旅行の計画を立てた者(働こうと考える事すら禁じられていた)、 売買しようと思った者、水を汲んだ者、荷を持ちあげた者は皆、罪に定められた。 安息日に何かの働きをした者、旅に出た者、畑を耕した者、自分の家、または他の場所で働いた者、火をともした者、動物に乗った者、船で海を渡った者、何かを打つか殺したかした者、動物か鳥を殺した者、動物、鳥、魚のいずれかを捕えた者、 断食をした者、安息日に戦った者―――――これらの人たちは殺されなければならない、と定められていた。」という風にであります。
なぜ、このようになったかと言いますと、レビ23:3にこう書いてあるからであります。 「 六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」
そして、そこに書いてあります仕事とは何かを突き詰めていって、先ほど言いましたような禁止事項が決められたわけであります。そしてそれは、先回見ました所にありましたが、イエス様が人々に、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい。私があなた方を休ませてあげよう」と言わなければならないほど、人々を苦しめる結果となっていたのでありました。
いろいろ彼らは、規則を作りました。 しかし、規則のために人間があるわけではなく、むしろ人のために規則があるのです。 だから、その事をイエス様は、言われたわけであります。 イエス様は6節でこう言われました。
「あなた方に言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」とであります。 ダビデが供え物のパンを食べた。あるいは、安息日に祭司たちは働いていた。 そういった点と、弟子たちのした行為との関係よりも、実は、権威の問題がそこにはありますよ。もし、神殿での奉仕ならば、安息日に「仕事」をしても合法とされるのならば、「宮より大きな者」はなおさら、合法とする事が出来るのではありませんか。
宮よりも大きな者、即ち、イエス様のことであります。 そのイエス様がそう言われるのであります。 イエス様の働きに於いて、神の新しい御業が、 それも旧約聖書で定められていた神殿での祭儀を超越した御業が始まっているのです。
神殿が神の民の間における、神の臨在の中心であったように、今や神が見出されるのは、イエス様とその新しい共同体の中にあるのであります。 その事を指しております。
神殿を拒否するのではなく、神殿には未来を期待する役割があり、その神殿が、イエス様が来られた事によって、より大きく神様の臨在を指し示すようになったと言っていいでしょう。
それ故に、イエス様は8節に於いて、「人の子は安息日の主です」とはっきり明言されたのでした。パリサイ人は、神様の意図されたことからかけ離れ、律法によって人々を縛りました。
一方、イエス様は、その間違った事を一つひとつ解きほぐすように、これからまた指摘されていかれます。そしてその事は、イエス様ご自身の命の危険へと発展するのですが、それは後の事で、今私達は、律法の奴隷にはならず、イエス様によって自由の身にされている事を感謝しようではありませんか。
神殿よりも大事な方が目の前におられたのに、その方に気付かず、安息日の正しい在り方を知ることなく、多くの人を迷わすことになっていた。それが、彼らパリサイ人の姿でした。
「私は神の前にこれだけ真剣で純粋だ」というおごり、高ぶりがあった。 「他のふまじめな人と同じにしてなるものか」という自信があった。 それが、今回のイエス様を攻撃することになりました。
私たちもまた、パリサイ人を笑いながらパリサイ人にならないように、おごり、高ぶりを捨てて、あるいはそうならないようにして頂き、安息日の主にお従いさせていただこうではありませんか。
安息日、私たちで言いますなら、主の日ですが、その主の日の礼拝を守ることが義務であるというよりは、喜びである、楽しみである。 イエス・キリストを神とする者が一堂に会して主にある幸いをともに味わう日でありたいものです。
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