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2012年2月5日(日) 「主の日を守る」   マタイ12:9-14  竹口牧師

先回に続いて、今回も安息日論争が取り上げられておりますので、それを見る事に致します。

安息日にイエス様は会堂に入られました。
するとそこに、片手のなえた人がおりました。
生まれた時からなのか、生まれてから後に、そのような状況になったのか、
そういう事は全くわかりませんが、
イエス様の目には、すぐに目がとまったと思うのであります。

そして、そういう人に対してイエス様の憐れみの心が恐らく周りの人に伝わったのではないかと思います。いろいろな人を癒されておられたイエス様でしたから、あの人に対しても、何かをなさるに違いない、そういう期待をする者もいたかもしれません。

しかしまた、良い意味での期待ならいいのですが、そうではなく、10節の終わりの方にありますように、「イエスを訴えるため」に癒しの業をされるのを期待する者もそこにはおりましたので、こういう質問となっていくのであります。
「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」とであります。

いつもパリサイ人を悪者にするようでありますが、しかし、それには、それなりの理由と言うものがあります。なぜなら、彼らはいつも自分の行動に対して誇りを持っておりまして、自分たちは「安息日には、してはいけない事をした覚えはない。、私達は、安息日を規則通り、きちんとこれだけ守って来たのだ。あなたもやる気があれ、守れますよ。」という自信、確信と自負心があり、人を見下げていたからであります。

私達クリスチャンもまた、現代において、そういう間違った感覚や思いを持たないように気をつけなければならないと教えられるのであります。

安息日とは別の事ですが、イエス・キリストによって、罪赦された私達は、時として、救われたことによる安心感から、まだ救われていない人を差別し、自分が何か偉くなっているような、そういう錯覚をもちかねないからであります。

あの人たちは、滅びに行ってしまう。しかし、自分は違う。
イエス様が救って下さったのだからというおごりであります。
救って下さったのはあくまでも一方的に神様がして下さったのであり、
自分の行ないや、思いや、言葉によったのではありません。
ただ恵みによってであるという事をいつも覚えつつ、まだ救われていない方々の事をみていただきたいのです。そして一日も早くその恵みに与ってほしいと、そういう思いや願いで、行動しまた証ししてほしいものであります。

ところで、きょうの個所は、先ほども言いましたように、「イエスを訴えるためであった」とありますので、なかなか穏やかならぬ状況でありました。
彼らの言う「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」とは、してはいけない事に決まっている。癒しを安息日にする事は、完全に律法違反だ、何も、よりにもよって、きょうする必要はないではないか。否、してはいけないのだ。
そういう思いでの質問であったわけでありました。

なにしろ彼らは、モーセの十戒にあります「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたは、どんな仕事もしてはならない」とあるからです。

これは、出エジプト記20:10節に出ているのであります。
神様は、この時、仕事とは何かと言う事を具体的にあらわして言われませんでした。

安息日に働いていたという事で罰せられた例は、民数記15:32-36に出ている事が唯一ではないでしょうか。そこには、こういう事が書かれているのであります。

「イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。
たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。
すると、主はモーセに言われた。
「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。」以上であります。

これなどは、本当に恐ろしい例であります。
今の時代に、このようにされたなら、何人の人が滅びなければならないでしょうか。
まことに恐ろしい例であります。それだけに、ユダヤ人は、真剣に神様の言われる仕事とは何かを一生懸命探ったのであります。

そして律法学者が考えに考えた末、あらわしたのが、40に一つ足りない、39の項目であったわけであります。その中には、先回も見た部分も含まれておりますが、
1.種蒔き、2.耕し、3.刈り入れ、4.束造り、5.打穀、6.もみがらふるい、7.作物を洗う事、8.粉をひく事、9.ふるい、10パンこね、11パン焼きなどなどがあるのであります。

しかし、どうも、39の項目全部を見ましても、癒す行為はそこには挙げられておりません。

ところが、パリサイ人たちは、「癒す行為は、働きに入る」と考えたようです。そこでイエス様は、生き物のぬくもり、暖かさ、それを引き合いに出され、律法が本来目的としている事は何かを彼らに問いかけられたのでありました。

律法は、人を縛り殺す事でしょうか。
それとも、自由にし、生かす事でしょうか。
そういう思いを込めて、イエス様は、言われました。

「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。」とです。
当然そこには、「ほおっておく事はないでしょう」という意味が含まれております。

パリサイ人たちにしてみれば痛い所を突かれたわけであります。
あれもいけない、これもいけない、といいながら、しかし、あれは仕方がない。これも仕方がないというように、「働いてはいけない」という神様の命令に例外を自分たちで作っているではないか。その事の指摘をイエス様はされました。

12節「人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。
それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」と。
これには、パリサイ人も困っただろうと思うのであります。

ちょっと昔のことですが、安息日論争がこの日本であったようです。
戦後、どっと外国の宣教師がやってきて、あちこちで伝道が開始されました。
そして伝道しているうちにこんな事が言われるようになりました。
安息日に働いてはいけないと言うけれども、電車に乗って、教会に来ていいのか。
電車に乗るという事は、鉄道会社の人に働いてもらわなくてはいけない。
自分たちは、主の日を守りますと言うけれども、あの人たちに対する配慮は考えなくていいのか。

あるいは、警察官や、消防職員はどうなのか。更には、病院はどうなのか。
医者や看護婦さんはどうなるのかといった議論が盛んになされたと聞いた事があります。あるいは学生が日曜日の夜の12時の時報を待ってさあ、勉強を始めるぞと始めたというのは、有名な話でありますが、それほど真剣に主の日を守る事、働いてはいけないという事の意味、それが真剣に考えられ、実際にいかに適用させるか、考えられた時代があったそうです。

現代では、そういう意味からは、少しいい加減になって、
自分の生活が優先しているのではないか、その事を私は思わされております。

主の日の礼拝を死守する。
これは、何が仕事かを議論する以前に、非常に大切な点である事を、この朝、確認したいのです。

礼拝に出て寝るのと、寝て礼拝するのとでは同じではないか。それなら、寝て、自分の家で礼拝するほうがいいという人がいた、そのような例を聞いた事があります。
そういう人には、ヨハネ4章24節のイエス様のお言葉をもう一度、学びなおしなさいと言いたい思いであります。

イエス様はこう言われております。
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と。霊とまこと、霊と真実、誠実に礼拝しなければならないのです。自己中心の考えではいけないのです。怠け病の所に主は決しておられない、それどころか、御言葉を曲げて、自分中心に生きる者には、それ相当の報いを神様は下さる事を覚悟しなければなりません。

ところで、話を元に戻しますが、イエス様は11節でこう言われました。
「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。」と。

そしてこの中の「一匹の羊を持っていて」という表現は、
この一匹の羊が全ての財産で、他には生きる糧をもっていない、という貧しい状況を示唆しているのだそうです。

とすれば、このイエス様の質問はパリサイ人にとっては、非常に難しい質問であったわけです。と言いますのも、口伝伝承のあるものは、安息日であっても穴に落ちた動物を救う事は許していたからです。一方、そうはいうものの、また別の伝承では、
生命の危険にさらされていない限り、安息日に病人を癒す事を禁じていた、のだそうです。

さあ、どちらの伝承に従うか、パリサイ人は困るわけです。
しかしそれはまたイエス様がどう判断されるかも興味深いものです。
イエス様はこう言われました。「安息日に良いことをすることは、正しいのです。」と。
つまり、人間も動物も救う事については、良いとされたのでした。

先ほども言いましたように、パリサイ人たちは、仕事とは何かを39の項目で挙げていました。人間自身について、それも癒しについては項目がない。イエス様は、動物に適用する事を人間にも適用された。これは、パリサイ人にとって、びっくり仰天でありました。

イエス様のなさった事と、パリサイ人のしてきた事との違い、そこには、大変大きいものがありました。イエス様のなさった事は、病気を治し、健康な体で、神様を礼拝できるようになる事であり、仕事も出来るようになる。

一方、パリサイ人たちのしてきた事は、病人を、いつまでも苦しませてきたことです。
まあ、そうはいっても、何もきょうしなくてもいいではないか。明日だっていいではないか。時間にしてみれば、夕方まで待てば、安息日は終わる事だし、それが待てないのかという気がしないでもありません。

でも、それは、正しくありません。
人がこの世に生きている時間というものは限られていますので、私達は一分、一秒も、大切にし、用いる必要があります。また、主をほめたたえる時間が多ければ多いほどいいのであります。それゆえイエス様は、病人がいれば、どんな時であろうと、よい事は、されたのでありました。いわんやそれが、パリサイ人の訴える口実とされてもです。

13節でイエス様は、その手のなえた人に向かって言われました。
「手を伸ばしなさい」とです。
イエス様は、その人の手に触られたわけではなく、お祈りをして下さったわけでもなく、原因となっている事に対して、癒されなさいと何かを命じられた訳でもありません。「手を伸ばしなさい」と言われただけであります。「そんな事をいきなり言われても、今まで動かなかったのだから無理です」とは、その病人は言いませんでした。

信じるか信じないは別にして、思わず手を伸ばしたのではないかと私は思います。
その結果として、「彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。」のでありました。

穴に落ちた動物を救いだすには、なかなか力のいる仕事です。
道具も、人手も必要でしょう。
しかし、イエス様が今ここでされたのは、言葉を発せられただけなのです。

こんにちの私達が、そして今私たちは礼拝をお献げしておりますが、その私達に司会者が皆さんに向かって、「一同、ご起立下さい」とか、「御着席下さい」とか、「讃美しましょう」と言っています。

そういう風に考えますと、「手を伸ばしなさい」というのは、ある意味では、礼拝とは関係ないと言いますとそうですが、単なる命令形を発せられただけであります。
確かに、とんでもない方向に向かって言われたとは思われません。
きちんとその手のなえた人を意識し、その人に向かって言われた事だけは確かであります。

それでもその事によって「手は直って、もう一方の手と同じようになった。」というのは、これは、本当にすごい事だと思います。会堂いっぱいに、喜びが、讃美が、驚きが起きても決して不思議ではありません。

しかし、またそれだけに、パリサイ人たちにとっては、大変面白くなかったのであります。ますます人々の心が、イエス様の方に向かってしまった。また向かってしまう。
自分たちが民を教え、守らせようとした事が、意味を持たなくなる。
そういう事でパリサイ人たちはあせっただろうと思うのです。

パリサイ人たちの最初の質問はこうでした。
「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」
イエス様が癒される事を感じ取っての言葉であったでしょう。
そしてまさにイエス様は、それを行なわれた。
これは完全に律法に違反する事をされたことになる。
さあ、これで告訴する事が出来るとパリサイ人はするのであります。
そして14節「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」のでありました。

邪魔者は消せ、ではありませんが、今の場合、まさにそう言っても過言ではないでしょう。私達は一体、この一連の流れから、何を教えられるのでしょうか。

一つは、パリサイ人たちが安息日の守り方について間違っていたにせよ、今日の私達の守り方は、本当に主が喜んで下さるものになっているのか、それを、かえりみる必要があるのではないでしょうか。

第2番目には、イエス様は父の御心を正しく適用されました。
それゆえ、私たちはもう一度、安息日とは何か。安息日を守るとはどういう事か。
考えてみるように教えられているといえましょう。
イエス様は、神様が定められた本来の安息日の意味を正しくあらわし、イエス様ご自身が安息日そのものである事を示されました。
その方によって、本当の平安を与えられている事を確認したいものです。

私達は、今や律法に縛られず、キリストにあって、自由を頂いている事を、心から感謝し、これからも主の日に喜びをもって礼拝に与ろうではありませんか。
安息日は、安息の日です。
主を心から喜び、明日から始まる働きの日々の力のもととなる一日としたいものです。

2012年2月12日(日) 「僕としてのイエス」  マタイ12:15-21  竹口牧師

私達は今、マタイの福音書12章を見ているのですが、きょうで3回目になります。
第1回目は、1-8節に於いて、パリサイ人たちが、イエス様に弟子たちが、安息日にしてはならない事をしていると言って指摘したところを見ました。
その時イエス様は、ダビデが空腹の時に、神に供えられているパンを食べた歴史的な事実を引用されました。そして緊急で必要な時には、儀式的な規定を破る事も許された。その事を言われました。

そして旧約聖書のホセア書6:6を引用され、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということばがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」、とお答えになりました。

そして第二番目に見ましたのは、9-14節に於いてですが、
安息日に片手のなえた人がいましたのでパリサイ人たちが「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言って、イエス様を訴える口実を作ろうとしたところでした。
そこでこれまた安息日に穴に落ちた子羊を例に挙げてこう言われました。

「もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」とそう言ってこれまた、パリサイ人達の指摘を正されました。そして、先回の最後の所14節では、こんなふうにありました。

「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」とであります。このようにしていよいよイエス様に危険が及ぶようになります。

さて、そんな状況の中できょうの所15節に入って行きます。
15節「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。」とであります。
ここに書かれています「・・それを知って、・・去られた」と言いますと、
何となく、怖くなってイエス様が逃げ出されたかのようにある人には受け取られるかもしれませんが、決してそうではありませんで、イエス様は、ご自分の時と言うものをご存じでありましたので、そこを去るような行動を取られたのでありました。

つまり、ご自分がこの世に来たのは、人々の罪を負って十字架にかかるために来たのだ。それゆえに、今はまだその時ではない。ということで立ち去られたという事であります。
そして15節のその続きを読みますと、「すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、」とあります。そして16節に続きますが、「そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。」という事になるのであります。
パリサイ人たちは、イエス様の命を狙おうと画策を始めます。
一方、民たちはそんな事は知らず、イエス様にいろいろと助けを求めるのでありました。それは即ち、ますます有名になって行くことでもありました。そしてそれは、イエス様の死の時が近づく事でもあります。

私達は、自分の死の時というものを知りません。
しかし、イエス様は、ご自分の時をよく知っておられました。
この地上に於いて、父の御心をあますところなく行なった後には、十字架にかかるという「その時」をよく知っておられたわけです。それだけに、パリサイ派の人たちと直接、衝突する事は、今の時点では避けることを選ばれたのでありました。

従って、人々の病気を癒し、喜ばれても、その彼らが決してその喜びを他の人に知らせてはならなかったのでありました。しかし、嬉しい事を話さないというのは、なかなか難しい事ですが、今のイエス様には、それが必要であったわけです。

ところで、この頃の時代の人たちは、神がこの世に遣わすメシヤとは、どんなイメージだったのでしょうか。

それは、こういうものであったといえましょう。
主なる神が全権を委ねて世に遣わすメシヤであるなら、栄光に輝いて、鉄の杖で敵を打ち砕く人である。そうでなければ、メシヤとはいえない。そのメシヤがひと声あげれば、人々がたちまちのうちに震え、また叫べば、イスラエルの全軍が呼応して鳴りどよめく。そのような主のしもべ像が一世を風靡していたようであります。

ところが、マタイはそのようには見ておりませんでした。
メシヤが、強く雄々しくあるというよりは、弱々しいまでに影が薄く、頼りなく見えた。他の人々には、さほど魅力的には映らなかったようです。なぜなら、イエス様を殺す相談を始めたパリサイ人とイエス様は対決することもなく、静かに目立たぬように立ち去られるイエス様であったからです。

勿論、死ぬ目的で来られた訳ですから、最初の方で申し上げましたように、死を恐れて隠れられた訳ではありませんでした。天の父がお定めになられた時が来るまでは、誰が命を奪おうとしても奪う事は誰にも出来ない事でありました。

生きて働いて、なお多くの病人を癒されているイエス様の姿は、奇跡の人、超人的でありながらも、まるでこの世にいないかのように退いておられるイエス様でした。
このイエス様のことをマタイは、イザヤ書42章の言葉に重ね合わせて見たのでありました。

どうして、そのように見る事が出来たのかといいますと、聖霊なる神様のお働きであった事は言うまでもありません。マタイはこう書いております。
17節「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。」とであります。そしてマタイは、その預言者イザヤの言葉として18−21節にそれを書くのであります。

まず、18節でこう書いております。
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。
わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。」

この18節の最初の2行は、繰り返し、繰り返し読んでいただきますと、どこかで聞いたことのある言葉に聞こえないでしょうか。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。」であります。

実はこれは、そのままぴったりではないのですが、マタイが、バプテスマのヨハネの事を書いた時に、つまりヨルダン川でバプテスマをイエス様に授けた時、天からイエス様にあった言葉と似ているということです。

今見ています12章からこの同じマタイの福音書の3章17節後半を見ていただきますとこう書いております。
「また、天からこう告げる声が聞こえた。
『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』」とであります。
きょうの所12章18節とを見てみると確かに似ております。

天の父なる神様がお選びになった愛する者。しかも、イザヤの引用は、
「これぞ、私の選んだわたしのしもべ」とあり、
そのしもべと言うのは、欄外注では直訳は「子」とでています。
つまり、子でもあり、しもべであり、完全な服従者でもあり、
父の御心を知って、父が望んでおられる事を
全身全霊をもって極限まで遂行する者、それがイエス様でした。
そういう事が出来るでしょう。
マタイは、預言者イザヤの言葉を通して、そう伝えております。

考えて見ますと、イエス様は、ご自分の事を、
「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。
さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:11)といわれましたし、
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさる事は何でも、子も同様に行なうのです。」(ヨハネ5:19)
と、父と子とが一つである事をイエス様は言われています。

そしてなぜ、イエス様がそうであり得たかといいますと、きょうの12:18節の言葉、
「わたしは彼の上にわたしの霊を置き、」とありまして、天地の主である方が断言されているからであります。そして、神の霊を受けた者のみが神の思いを知る事が出来るのです。

そういう意味では、私たちもまた、御霊を頂いたものですから、その御霊の働きによって御言葉を理解する力も与えられているのです。旧約時代にも、神の霊をいただき、活躍した者もいますが、ここで語られていますのは、しもべとしてのイエス様の事であります。それ故に、意味合いが全く私達とは違うのであります。

マタイは、このイザヤ書の引用の中で、18節の終わりで「異邦人に公義を宣べる」とか、あるいは、20節の終わりから21節で
「公義を勝利に導くまでは。 異邦人は彼の名に望みをかける。」と書いています。

ここには、異邦人と公義ということばが2回使われております。
そして、この異邦人と言うのは、ユダヤ人から見ますと真の神を知らない外国人の事を指し、軽蔑の対象であります。また、公義と言いますのは、審きを指す意味を含む言葉であり、ですから、欄外注には、審きとも出ている訳であります。

それと共に、この言葉の引用の元となりましたイザヤ書では、審きと正義との両方を合わせたような言葉で、「神様ご自身が正しいと判断された正しさ」なのだそうです。
神様ご自身の判定と言われます。それを告げ知らせるしもべがイエス様であるということです。

19節、20節は、有名な言葉です。
「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼はいたんだ葦を折る事もなく、くすぶる燈心を消す事もない、公義を勝利に導くまでは。」とあります。19節は、現実をそのまま述べていると言っていいでしょう。

そして20節にでてきます「いたんだ葦」と「くすぶる燈心」ですが、
葦と言いますのは、イエス様が11章7節で、バプテスマのヨハネを見に行った群衆に対して「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。」と言われましたように、葦と言うのは茎が弱く、折れやすい。
つまり、自分の力で立っている力もない、そういうもの。
そして、くすぶる燈心と言いますのは、燭台の芯が悪く、くすぶるばかりで燃え上がらない。人の迷惑にはなっても役には立たない事を指しています。芯を入れ替えるしかない、そういう状態の事を指します。

今の時代、能率主義、効率主義、成績第一主義というように、とにかく競争する時代であります。イエス様の時代も、同じであったのでしょう。

しかしマタイはきょうの20節でこういうのであります。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」と。
つまり、競争時代、乗り遅れた人々、落ちこぼれた人々、この世では、目に留めてもらえない人々、そういう人々にイエス様は、目を留めて下さったと、20節でマタイは書いているのであります。

実際に、イエス様の所には、悪霊につかれた、目も見えず、口のきけない人が連れて来られるのであります。次回この所を見ようと思うのでありますが、マタイの目にした事と言いますと、まさに、この世の弱者、足が立たなかったり、目が見えなかったり、体が硬直して動かなかったり、そういう人たちがいっぱいイエス様のもとに連れて来られたのでありました。

イエス様は、そういう彼らを見捨てることなく、深い憐れみをもって臨んで下さいました。イエス様は、その肉体の弱さの奥にある、霊的な面に於いても目を向けておられたのでありました。まさに「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消す事もな」く、生かし用いようとされるんです。

パリサイ人たちは、律法を守らないような者、あるいは守れない者、そういう人を切り捨ててきました。ましてやユダヤ人ではない異邦人などなおのことでありました。

ところが、イエス様は、その異邦人にさえも目を留めて下さったのでした。
ですから21節「異邦人は彼の名に望みをかける。」事になるのです。

傷んだ葦など使いようがない。くすぶる燈心など捨ててしまえ!
そのように切り捨てるパリサイ人に対して、天の父が選び遣わされたお方であるイエス様は、救いをこの世にもたらされるのであります。父なる神様ご自身は、「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。」と言われるのです。

父なる神様が保証人となって、この世にイエス様が遣わされました。
ヨハネは福音書1:4でこう述べております。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」

この罪の世にあって苦しんでいる者に対して救いの手を差し伸べて下さったイエスは、まさに人の光であったと言えましょう。
同じくヨハネは、Tヨハネ1:9で「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と書いております。

私達の罪の清算を、このイエス様が後に行なって下さるのであります。
しもべとして遣わされたイエス様は、弱き者の心を知り、決して見捨てることなく目を留めていて下さる。それ故に、私達は、その方に頼るのです。信頼して御頼りするのです。そのようにするようマタイはイザヤ書42章を用いて
現代の私たちにも呼び掛けているといえましょう。

それはまた、父なる神様からの呼びかけでもあります。
その主の憐れみに、感謝の応答し、その恵みに私も与らせて下さいと、素直に願うのか、それとも、パリサイ人のように批判し、受け入れない者でいるのか、この朝、それが問われているのではないでしょうか。

神の御子であるイエス様がしもべとしてこの世に来て下さり、多くの人々に仕えて下さいました。また現代の私達のためにも父なる神様へのとりなしの祈りを通して仕えて下さっております。

私達はその神様に、心から感謝しようではありませんか。
イエス様がしもべとして仕えて下さったように私たちもまた兄弟姉妹が互いに仕えあうようにもっともっと謙遜にしていただこうではありませんか。

2012年2月19日(日) 「真の敵を知る」  マタイ12:22-29  竹口牧師

今回の聖書箇所を読んでいただきますとお分かりのように、「悪霊」と言う言葉がたびたび出てきます。

そこで、皆さんにお尋ねしたいのですが、皆さんの中で、これはまぎれもなく悪霊の仕業だ、と言う場面に遭遇された方がどのくらいおられるでしょうか。

実は、私は、そういう場面に遭遇した事がないのであります。
聞いた事はありますが、本当に悪霊の働きだったのかどうか、疑問に感じながら、聞いたのを覚えております。ですから、悪霊そのものはどういうものであるのか、聖書から説明する事しか出来ません。

ただ、今回の話しは、間違いなく22節で、「そのとき、悪霊につかれた、目も見えず口もきけない人が連れて来られた。」とありますので、確かに、ある人に悪霊がとりついておりました。

その人は、目も見えず、口もきけない状態でありましたが、その原因が悪霊の働きによってなのかどうかは、先を読みますと、その事が原因である事が分かります。
イエス様が、悪霊を追い出して下さり、目が見えるようになり、口がきけるようになるからであります。

さあ、ここで問題なのですが、この現実、この事態を、この状況を、どのように受け取るか、理解するか、これが、実に重大なのであります。
なぜならイエス・キリストに対して、どういう意思表示をし、行動するのかが、今後の歩みにかかっているからです。

聖書はいつも、あなたが神の側につくのか、それとも神に敵対する側につくのか迫られるからです。決してその中間はあり得ません。

状況を見て、今回の場合は、イエスの側に、そして、都合が悪くなると、身の危険を感じてパリサイ人の側につく、つまり、この世の体制側につくということは、表向き、人にはそうできても、皆さんの心の中を見ておられる神様には、決してごまかしはききません。神様の側についているようで、実はそうではないと、はっきり見られるのであります。

ところで、きょうの聖書箇所では二つの見方がありました。
そのまず一つは、群衆のような見方でありました。
23節「 群衆はみな驚いて言った。『この人は、ダビデの子なのだろうか。』」とであります。

ダビデの子とは、偉大な救い主、解放者、待ちに待っていたメシヤ、
ユダヤ人が長い間待ち望んでいたお方ということになります。
果たしてそうなのか、そういう疑問を含んだ見方であります。

一方、別の見方もありました。
パリサイ人の見方であります。
「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」という見方です。

ただここで、注目しておきたいのは、24節に「これを聞いたパリサイ人は言った」とある事です。「これを聞いた」とは、どういう事なのでしょうか。

もし、群衆が22節のように言わなかったなら、即ち「この人はダビデの子なのだろうか」と群衆が言わなかったなら、パリサイ人も「悪霊どものかしらベルゼブルの力で
悪霊どもを追い出しているだけだ」などとは言わなかったのでしょうか。

と言いますのは、パリサイ人は群衆の目を大変気にしていたからであります。
群衆の支持を得ないような言動は、彼らにとって不都合でした。
群衆の支持を得て初めて、イエスを捕える事が出来る、
そのことを、よく承知していたのがパリサイ人でありました。

ところが今や、イエス様は、あちこちで癒しをなさり、多くの人に喜ばれていたのであります。それもイエス様が、人々に知らせないようにと言われておりましたので、表立っては、イエス様の名前を口にする者は少なかったのが現実です。

しかし当然ながら、癒された人の喜びは隠せるものではなく、表立っては言えなくても、多くの人に知れ渡っていたのであります。やはり長い間、病気でいた者が、イエス様に癒されたなら、口止めされても、その喜びは隠しきれないものでしょう。
そういう背景のもとで、今回の出来事は起こったのでありました。

ところで、パリサイ人の言った言葉の中に、「ベルゼブルの力で」というのがありますが、これは一体何なのかと言いますと、24節にも書いてありますが、悪霊どものかしらと言う事です。

悪霊どものかしらといいますと、悪霊どもがいっぱい存在し、その中でも一番偉いのが、ベルゼブルということになります。

では悪霊とは、一体何かということになりますが、悪魔の支配下にあって働く霊的存在であります。

聖書辞典によりますと、悪霊は人に働きかけ、人の中に入り込んで、精神的に、あるいは肉体的に病的な状態をもたらす、とでています。ですから今回、目が見えず、口もきけない人は、まさに悪霊の働きの典型的な例と言えるでしょう。

さて、イエス様が行なっておられるのを見て、イエス様を見る見方に二つの見方があることをお話ししました。
一つは、待ちに待っていたメシヤなのかというもの。
もう一つは「悪霊どものかしらベルゼブルの力で」とありますので、イエス様は悪魔である、という見方であります。
これは、随分見方が違っています。

皆さんは、この時点で、イエス様をどう見ておられるでしょうか。
同じ現場に居合わせても、こんなにも見方が違うものかと、本当に驚かされるのであります。私達一人一人が持っている背景、バックグランドによって、一つのものを見ても、全く違った見方になってしまう。これが現実であり、それはまた大変恐ろしい事でもあります。

そういう意味では、私達がイエスをキリスト、即ちイエス様を油注がれた方、メシヤであると告白できたのは、過去の状況を神様が全く変えてくださったからこそ、そういう事が出来たと言えるでしょう。そしてそれは、私達の力では、なし得なかった事であります。

神様の大いなる働き、そして憐れみが、私達一人ひとりになければ、神の子としての特権を頂く事は出来なかった。イエスを主と告白出来なかった。逆に言いますと、神様の恵みの有難さをこういうときにも私達は味わうのであります。

ところで、今見ました二つの見方に対してイエス様はどう言われたでしょうか。
25、26節「イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。
『どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、
どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。
もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、
どうしてその国は立ち行くでしょう。』・・」とであります。

この言葉を読むたびに思い出すのですが、
非常に個人的な話しで恐縮ですが、父親との思い出であります。
私の父親は、全く聖書を知らなかったのですが、
よく「内輪もめしては家は立ち行かん」と言っておりました。
家族の中で争うような事は、意識して避けていたようです。
私が育った時代は、家族は父親夫婦、兄夫婦、その子供3人、
それに祖母、そして私と9人家族でした。

とってもにぎやかな食事でしたし、平和そのものの中で育ちました。
少なくとも、私はそう思って育ちました。
父親が周り近所の家を例にして、内輪もめしてはその家は立ち行かんとしきりに言っていたのを思い出す訳です。

そこで、話しを現在の教会に戻しますが、会堂建設についても、私は同じであると考えます。「内輪もめしては教会は立ち行かん」そのためには、一致の方向に向けて、皆さんで努力しなければならないと思っています。そして、それは、神にあって一致することであります。

その事によって悪魔のつけ入るすきを与えないようにしようではありませんか。
どんどん、事を決めていかなければならない時が来ます。
その時、一人ひとりが祈り心をもって話しあいたいものです。

さて、また横道にそれましたが、26節に入ります。
イエス様の話しが続いております。
「もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。」と言われています。

イエス様は、きょうの所で二つの反論をされており、
そのうちの一つが、この26節、「内部で争う国は自滅する。内輪で争う町や家は立ち行かない」ということです。

使徒の働き10:38にはこうあります。
ペテロが話している話しの中ですが、37節からお読みしますと、
「あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。
神はこの方に聖霊と力を注がれました。
このイエスは、神が共におられたので、巡り歩いて良いわざをなし、
また悪魔に制せられている全ての者をいやされました。」以上です。

ここには、「悪魔に制せられている全ての者をいやされました。」とでているのであります。実際には、「悪魔」が手下の「悪霊」どもを用いて、人々を押さえつけていたのです。それをイエス様は解放して下さったのでした。
それを、「悪霊のかしらベルゼブル」によって悪霊を追い出すということは、
「サタンがサタンを追い出す」ということになり、イエス様の行為は全く愚かな行為としか言いようがないわけで、そんなバカな事がありますかとイエス様はおっしゃるのです。

イエス様の第二の反論は、当時のユダヤ教側の悪霊追放を皮肉った論証です。
27節「もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らは誰によって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。」と言われました。

ここで、イエス様はどういうお方であるかを表している聖書箇所がありますので、そこを読んでおく事にします。ユダヤ人の魔除け祈祷師の話であります。使徒の働き19章13-16節を見ますと、こんな話が載っているのであります。

「19:13 ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。
そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。
すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。
そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。」
以上であります。

つまり、お聞きになられたように、ここに当時、あちこちにユダヤ教まじない師がいた事が分かります。彼らは、まじないで悪霊を追い出すと自称しておりました。

こうした迷信的呪文で追い出したのが、聖書のいう真の悪霊つきであったかどうか、また、呪文で追い出したというのが、果たして本当であったのかという事は別としまして、仮に、彼ら魔術師の言い分が本当だとすれば、その場合、パリサイ人たちは、彼ら魔術師もベルゼブルのおかげで悪霊を追い出していると承認したでしょうか。
明らかにそうではありません。彼らは、自分たちのまじない師のする悪霊追放は、神の力によるのだと自画自賛するでありましょう。

では、同じ悪霊追放、いいえ、彼らまじない師さえイエスの名前をかたりたがる程に見事な奇跡的追放をしているイエスだけ、ベルゼブルのせいにするのはどういう事なのでしょうか。

これは、どう考えてもおかしいです。
つまりは、イエスに対する悪意に満ちた先入観から出た中傷にすぎないではないか、ということになります。

このように、二重の反論によって論破されますと、後に残るのは、イエスの悪霊追放は、神の力による、ということになります。

そこでイエス様は言われます。28,29節
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」とです。

強い人の家財を奪うには、その前に強い人を縛っておかなければなりません。
強い人サタンを縛り上げなければ、その家財とされている犠牲者を救い出す事は出来ないのです。

イエス様が今、悪霊どもを追い出し、人々をサタンの力から奪い返しておられるのは、予め、イエス様が強いサタンを征服し、縛り上げておられたからであります。
つまり、イエス様のメシヤ的王国と支配は、今頃、パリサイ人によって問題にされる以前に、彼らの中にあらかじめ来ていたのであります。

イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられ、
その後、荒野で試練を受けられました。

その時に、「引き下がれ、サタン。」と言われ、悪魔はイエス様から離れていったのでありました。後にイエス様は、弟子たち70人をあちこちに遣わされます。そして彼らが帰って来た時、彼らにこう言われました。
ルカの福音書10:17-20をおよみしますが、

「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。
『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』
イエスは言われた。『わたしが見ていると、
サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなた方に服従するからといって、喜んではなりません。ただあなた方の名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」であります。

私達の敵は誰であるのか、よくよく考えましょう。
そして、敵を間違えて、同士打ちしないようにしましょう。
私達の敵は、サタンであり、兄弟姉妹ではありません。
「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。」

私達の心に葛藤があるとするなら、それが、どこからきているのか、正しく見極めようではありませんか。
御言葉による判断基準以外には、今の私達には判断の方法は与えられていません。
巧妙なサタンの策略に誘導されることなく、サタンに勝利されたイエス様に信頼し、常に、イエス様につながり続け、イエス様から知恵と力、助けをいただきながら、前進していこうではありませんか。



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