2012年3月11日(日) 「内側の大切さ」 マタイ12:30-37 竹口牧師
この朝のみことばは、マタイ12:30−37節であります。 この所に入る前に、少し前の話しを思い出しておきたいのですが。 それはイエス様が、目が見えず、口もきけない人を癒されますと、二つの反応が起きた話しでありました。
その一つは、群衆であります。 彼らは、イエス様のなさった奇跡を見て驚き、「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言っておりまして、もしかしたら、メシヤではないかと23節で言いました。
一方、それに対してパリサイ人の反応はと言いますと、それを真っ向から反対するものでありました。彼らは「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているだけだ」と言って、非常に敵意をむき出しにして、悪意に満ちた反応を示しました。
すると、それに対してイエス様は、その当時のユダヤ人社会において行なわれていた悪霊を追い出すまじない師の例を挙げられてこう言われました。
「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう・・ 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」そう言ってパリサイ人のいうことを論破されたのでした。
それが先回までの話しであります。 きょうは、その続きで30節でイエス様はこう言われたのでありました。 「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、 わたしとともに集めない者は散らす者です」とであります。
これは、何を意味しているかと言いますと、中立的な立場はないということであります。これは、宗教が好きだとか嫌いだとかという好みの問題ではなく、また宗教はあってもなくてもいいとかというそういう必要性の問題でもなく、更にはどんな宗教にも私は中立だとか、そういう所属のことではなく、真理に従うかどうか、それが問われているという事です。
従わなければ、それは逆らうものだとはっきり言われている、そういうことであります。イエス様がこの地上に来られ、羊飼いとして、一生懸命、羊を集めようとされているというのに、その方を好きだ嫌いだ、必要だ、不必要だ、更には中立的な立場だなどと言っている場合ではないという事です。
イエス様が来られるまでの旧約聖書では、神の民が集められる事を繰り返し、繰り返し言われていたからです。
例えば、イザヤ書11:12にこのようにあります。 「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」とあります。
またエレミヤ32:37では、「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。」ともあります。
更にエゼキエル20:34では「わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。」などというように、集める、集めるとあるのであります。
この12章よりずっと後で見る事になりますが、イエス様も、マタイ23:37で、このように言われることになるのであります。
「ああ、エルサレム、エルサレム。 預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」というふうにであります。
イエス様は、それほど、集めよう、集めようとされていたのでした。 しかし、パリサイ人たちは、それを妨害したのでした。 即ち、神様が集めようとされるのを邪魔したり、遠ざけたり、自らも集まろうとしなかったのでありました。
集まるとすれば、イエス様の働きを否定する行動をとるという、大変大きな罪を彼らはおかしていたのでした。
そこで、イエス様は31節でこう言われました。 「だから、わたしはあなたがたに言います。 人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。 しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。」とであります。
あるいは引き続き32節でもこう言われています。 「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。 しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、 この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」とです。 どれだけ、聖霊に逆らう事が大きな罪であるかお分かりでしょう。
ところで、ここにあります「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」とか、 「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。」とかというように、かなりの大きな罪と思える事でも赦されますとイエス様は言われているのには、非常に何か違和感を持たれないでしょうか。
人はどんな罪も冒涜も赦してもらえるのか、とか 人の子に逆らうことばを口にする者でもゆるされるのか。 それなら、パリサイ人達のしている事の多くは大丈夫なの? という風に思われないでしょうか。
そしてこれは、普通の考えでは、ちょっと通らない話しを イエス様はされているなと、私達は受け取らなければならないのであります。 つまり、イエス様の語られた言葉に意味があるという事です。
それはかつて、11章で見たのですが、イエス様は、21,22節でこんなことを言われておりました。 「ああコラジン。ああベツサイダ。 おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」というようにありました。
この時にも申し上げましたが、これは決して、ツロやシドンやその他にソドムという町もありましたが、その町の罪が問われないのではない。ただ比較において罪が軽いにすぎない。だから、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町々は、厳しく罰せられると共に、ツロやシドンやソドムも罰の軽さはあるけれども、同じように裁かれるということでした。
というように今回も、対比的に語られているという事にほかならないのです。 それは即ち、罪の大きさの比較であって正しさの比較ではない、という事であります。
ですから、「人はどんな罪も冒涜も」、「人の子に逆らうことばを口にする者でも」、 それは赦され、罪を問わないということではない、そういう事であります。 これは、とても注意が必要であります。
なぜなら、罪を嫌われるイエス様が、何の条件もなしに、帳消しにするということなどあり得ないからです。つまり、罪の大きさ、程度、その同じ条件をつけても、聖霊を冒涜する罪だけはもっと赦されないという事です。
なぜなら、聖霊によって悪霊を追い出すイエス様の奇蹟をパリサイ人は、ベルゼブルの力で追い出したと言って聖霊のお働きを冒瀆したからです。
聖霊は、昔も今も同じように、変らずにいろいろな形で、いろいろな領域で、特には、生命、知恵、信仰の源として働いておられますが、そういうひそかな聖霊の御業を知らずに冒涜する罪ではなくて、明らかに、はっきりとした奇跡的証拠をもって現われている聖霊の働きを故意に冒瀆する・・それは赦されない事だと言われるのです。
もう一つは、この時の聖霊の御業は、奇跡的であるという以上に、特に人の心に住みつく悪霊を追い出して、心を清めるという形で行なわれました。
つまり、悪魔に押さえられているその人の心を新たにし悔い改めの思いを植え付ける聖霊を故意に拒否しているならあるいは、邪魔をしているならば、結局、いつまでたっても悔い改めない事になり、永久に赦しを得る事も無くなってしまう。 それゆえに、イエス様は激しく彼らを責められたのでありました。
パリサイ人たちが、大変な事を言ってしまった。 そこまで考えていった訳ではなかったのだが、つい口が滑って言ってしまったというなら、それは大変な間違いですよとイエス様は言われるのです。
どんなに周りの人に大きな影響を与えているか、 その事を知るように迫られるのであります。
と同時に、そのようにイエス様を激しく攻撃するのには、それだけの原因がある事も明らかにされるのであります。それは、こういうことではないですかと次にたとえで 33節でこう言われたのでありました。
「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。 木のよしあしはその実によって知られるからです。」とであります。
私達は、どんなにきれいに装っても、私達の心の中を見られる神様は、全てをご存じです。まして、あからさまにイエス様に対して攻撃する者の心の中が、良いはずもありません。悪いのです。それならば、良い実も結ぶ筈もありません。
すでに見ました12章14節では 「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した」とありましたように、その正体は、ありありと見えてくるのであります。
イエス様は、きょうの所、34,35節でこう言われます。 「 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。 心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、 悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」とです。
良い人の口から出てくる言葉は、本当に良いものであります。 しかし逆に、悪い人の口から出てくる言葉は、人の非難や、人の悪いうわさや、人の失敗などを話し、盛り上がるのであります。それは決して、人の徳を高めるものではありませんし、神様の喜ばれる事でもありません。
神様の喜ばれるもの、それは、イエス様によって心の中が清められた者だけが発する事の出来る知恵ある言葉でありましょう。
私達は、イエス様によって変えられたものです。 死んでいた者が生かされ、かつての自分ではなく、新しくされた自分であるゆえに、キリストにある言葉が出てくる、そうありたいものです。
イエス様は36節でこう言われております。 「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。 人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」と。
本音と建前、それをうまく使いこなすのが、私達大人です。 しかしそれが、神様の御前にも同じようであるなら、神様は、どのように私達の信仰を見られるのでしょうか。私達は、人の前にも真実であることの大切さと共に、神様に対してはなおの事、全くごまかしのきかないお方に対して、真実である事が求められるのではないでしょうか。
37節で、イエス様はこう言われました。 「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」と。
私達にとって、これは非常に恐ろしい言葉ではないでしょうか。 私達の発する言葉によって正しいとも罪ともされると言われるのです。 パウロは、ローマ人への手紙でこう言いました。10章8節 で 「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」 と言っているのです。
これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。 そして続けてパウロはこう言っています。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせて下さったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 聖書はこう言っています。 『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」とであります。
罪の中でも、聖霊に逆らう冒瀆は赦されませんと言われました。 私たち信仰者は、罪の大小に関係なく、責任ある言葉によってまた主にある言葉によって、更には、私達の全てを正しく導いてくれる御言葉によって、私達自身がもっともっと変えられていかなければなりません。
それ故に、主の喜ばれる器にしていただこうではありませんか。 私たちの口から出るものは、神を賛美し、主の御名をほめ称える、 イエスは主なりと声高らかに宣べ伝えるものでありたい。 私達は決して今の状態で、満足していてはならないのです。
もっともっと主に内側を変えていただき、より主に近い者にしていただこうではありませんか。
2012年3月18日(日) 「イエスを前にして」 マタイ12:38-42 竹口牧師
先回は、人はどんな冒瀆も赦してもらえるけれども、聖霊に逆らうことをいう者は赦されないというところをみました。
「あなたがたが話したことばによって、 審きの日には言い開きをしなければならない。 あなたが正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、 罪に定められるのも、あなたの言葉による」とありました。
そしてその出てくる言葉というものは、心に満ちているものが話すのであると、私たちの内側の大切さをイエス様は指摘されました。そして今回は、その様に言われたにもかかわらず、イエス様を試そうとして律法学者、パリサイ人たちがこう言ったというところから始まるのであります。
「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」とです。 当時、イスラエルは救い主の到来を待ち望んでいました。そして、イエス様をみて、ある人たちは、「この人は、ダビデの子なのだろうか」と言い、メシヤかもしれないと、そんな思いを抱いていました。しかし、それを信じたくない律法学者、パリサイ人は、しるしを見せて欲しいと要求しました。
こういうことは、この聖書時代だけでなく、いつの時代も同じでありまして、ちょうど2か月前でしょうか。一本の電話がありました。1時間半ほど話したのでありますが、聖書は、神の言葉であるという人がいるけれども、人があれやこれやを集めて作った本ではないのかとか、聖書は誤りなき言葉であるという人もいるけれども、聖書は間違いだらけだという人もいる。一体、どっちが正しいのですかとか、
イエス・キリストは本当に神の子なのですかとか、そういう所から始まって、自分は信じたい、納得したいのだけれども、その根拠となるものがほしいとの事でした。
私自身も、最初大変悩みましたので、その人の言っていることが、痛いほどわかりました。本当にこの世に神様がいるのなら、その根拠が知りたい。神がいるのなら、そのしるしとなるものがほしい。そういう思いでいっぱいであった事を思い出しました。
ですから私はあの時代、信じたい一心でキリスト教入門書を一生懸命、読みあさったものでした。たとえば、何を根拠に信じるのかとか、イエスは神なのかとか、人生の意味を求めてとか、といったたぐいの本でした。
でも、今だから言えることですが、 よくよく考えてみますと、出発点で、もう決まっていることであります。 なぜなら、神がいるで出発していれば、結論として神がいる事で終わりますし、 神はいないということで出発すれば、やはり結論は、神はいないとなってしまうからであります。
それでは、証明にはなりません。 自分を納得させることはできません。 その内に、悩んだ挙句、祈りも、本当に神様がおられるのなら、それを教えてくださいという祈りとなりました。神がいるのかいないのか分からないのに。
ですから、そう祈る事すらおかしいのですが、それでも私は、変な気持で祈ったものでした。しかし、今考えてみれば、無駄ではなかったと思います。
確かに自分の信仰に関してはたいして役に立ちませんが、 同じ悩みをもつ方々の思いを理解する事が出来るからです。 だからこそ、神の存在や、イエスが神かなどという本が、書かれる。 そして買って読む人がいるという事になります。
大体、頭で理解して、そして気分も高揚して、 更には、誰も経験しないような奇跡的な事を経験しなければ信じられないのでしたら、 この世には、そんなに多くのキリスト者は存在しないでありましょう。 神様はそのようにして、私達に教えては下さらないからであります。 ほとんどの場合、平凡に教えてくださるものです。
ところで、きょうの聖書の所では、そういった、信じたいのだけれも信じられない。 何とか、イエスがメシヤである事を知りたい。納得したい、だから印を見せてほしい、 というような純粋さは見られません。
それどころか、イエスはメシヤではない。 そういう否定の心でイエスに印を求めているのであります。 ですから、先ほども言いましたように、出発点がもうすでに、違っていたわけで、 ということは、イエス様の答え方もそうなってくるのであります。
イエス様はこの時、こう言われました。39節、括弧の中ですが、 「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。 だが預言者ヨナのしるしの他には、しるしは与えられません。」と。
イエス様がこう言われるまでに律法学者やパリサイ人たちは、 人々に交じって、イエス様のなさっていることを見てきたはずです。 その中には、数々の奇跡も当然入ります。 でも、彼らは、それが神の業であるとは認めませんでした。
「悪霊どものかしら、ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」(24) とそう言って、信じなかったのでありました。
そうであれば、この上に何を見せたら信じてもらえるでしょうか。 最初から否定してかかっているのですから、 何をしても信じてもられないと言えないでしょうか。
そこで、イエス様はこう言われたのだろうと私は思うのです。 39節の途中からですが40節にかけて 「だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」と。
ここに出てきます「預言者ヨナのしるし」とは何かですが、旧約聖書をよく読んでおられる方は、頭にピンと来られるでしょう。それは勿論、ヨナ書に出て来るヨナのことであります。
預言者ヨナは、紀元前8世紀に北王国イスラエルに現われた人です。 彼は、不思議な体験を致しました。 その当時、イスラエルを脅かしていたのは、アッシリヤ帝国でありました。 そのアッシリヤ帝国に北イスラエルは紀元前721年、か722年に滅ぼされてしまうのであります。ですから、そのアッシリヤ帝国の首都ニネベに神の審きがあるから、悔い改めなさいと勧めることは、敵を助けることになるのであります。でもヨナは神様から命令を受けるのであります。
ところが今言いましたように、アッシリヤはイスラエルを脅かしていましたので、そんな国が悔い改めでもしたら、イスラエルにとってとんでもない事だとヨナは思ったわけです。
そこで、ヨナは神様の命令に逆らって、ニネベではなく逆方向のタルシシュに行こうと船に乗りました。そして、そんな彼を、神様は嵐を起こし船を難破させ、その原因が、自分のせいでそうなった事を申し出る事によって、海に投げ込んでもらったのでした。
普通でしたら、そこでヨナは死ぬ事になるのですが、何と神様は、大魚を用意され、その大魚に飲み込ませ、三日三晩、大魚の中で過ごす事になってしまいます。 そして三日目に神様は大魚に命じて陸に吐き出させ、ヨナは神様の命令に従い、ニネベにやってきました。
そして、ヨナが一番恐れていた事が起きたのでした。 ニネベの人々は悔い改め、紀元前612年までアッシリヤ帝国は続くのであります。
ところでイエス様はここで何をおっしゃりたかったかと言いますと、それが41節の言葉であります。
「ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」という事です。
ヨナがニネベに行って、神の言葉を伝えた。 するとニネベの人たちは悔い改めた。 しかし、あなた方は悔い改めないので罪に定められる。 ヨナは三日三晩大魚の中にいたけれどもといい・・ 自分自身は、それよりももっと驚くような事をする。 それは、ご自身が殺され、葬られ、三日目に甦る、 そのことを心に留めつつ、言われたのでした。
「見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」とです。 何が、ヨナより優っているのか、 それは、ローマ1:3、4にあるのですが、こう書いてあります。
「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」ということです。
イエス様は、復活されたから人間イエスが、神の子に変わったのではありません。 イエス様は、最初から神の御子であり、人であったのでした。 ただ御子が十字架で殺され、三日目に甦られた事により、神の御子である事が決定的となり、立証される事になるのです。 今のこの時点では、人々にはそれが分からないのです。
では、イエス・キリストの甦りがなければ信じたくても信じられないのか、というとそうではありません。信じられないのは仕方がない事なのだともいえません。 そうではないでしょうか。
実際の所、ヨナは、ニネベに遣わされましたけれども、 何か特別な物をもって行った訳ではありませんでした。 ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、 「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言っただけなのです。
しかも、その語ったニネベの人たちにとって、ヨナは、外国人であり、しかもイスラエルという、いわば、ニネベの人たちにとって自分たちの国力でどうにでもなる、そうニネベの人たちは考えていましたし、イスラエルの人たちもまた簡単にやられてします、そう思っていたのです。
ですから、むしろイスラエルは、ニネベが滅びてほしいとさえ思っていたのです。 それなのにその彼らが、ヨナの言葉を聞いて悔い改めたのですから、驚きであります。ヨナの行為は、ニネベの人たちの喜びそうな事を言ったのではなく、むしろ聞きたくないことを聞かされたのでした。 にもかかわらず、彼らはそれを聞いて信じ、悔い改めました。
さて、42節でイエス様はまたこのような事を言われました。 「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。 しかし見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」と言われました。
この42節に出てくる南の女王と言いますのは、 T列王記10章に出てくる「シェバの女王」のことです。 これは、今の国で言いますと、イエメンに相当し、アラビア半島南西部にあります。
その国は、インドから黄金を輸入するオリエントとヨーロッパの船が陸揚げする交通の要衝であり、金は、シェバから先、陸路ヨーロッパに運搬されました。
ところが紀元前千年頃、ユダヤのソロモン大王は、広い土地を支配するようになり、富と力によって、アラビア半島とシナイ半島の間の紅海に面するエラテに近いエツヨン・ゲベルに大貿易港を設け、そこから直接インド貿易を始めてしまいました。 これは、シェバにとって、大変な痛手でありました。
そこで、ソロモンのうわさを聞いた女王は自ら、ソロモンに会いに来て、直談判となったわけであります。 T列王記10章にはこう書いてあります。 「ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。 彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、 らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。
ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。 王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。」とでありました。それほどソロモン王は、優れた知恵が神より与えられていたのでした。しかし、「ここに、ソロモンより優った者がいるのです」とイエス様は言われたのでした。
考えて見ますと、シェバの女王も大胆な人であります。 多くの贈り物を携え、一国の女王として、外国の王に会おうとし、会って様々な質問をし、聞き及んでいたうわさが本当かどうか確かめたのです。
自分自身で行って確かめる。 これほど確かな事はありません。 とするなら、今ここでイエス様が取り上げられたこのような二人の例は、律法学者やパリサイ人とどう違うのでしょうか。
大きく違うと言っていいでしょう。 なぜなら、律法学者やパリサイ人たちは、神から選ばれた民であり、また律法に通じており、彼らが目の前にしているのは、同胞イエスであり、決して外国人ではないからです。
ましてや、商売敵でもなければ、神の御前には、民に対して仕える身なのです。 パリサイ人たちは、人々が神に正しくあるように、指導する立場でありました。 それだけに、イエス様のなさっていることに、同調はしても、決して反対や、足を引っ張るような事はすべきではない、言うべきではないのでありました。
それなのに、イエス様のなさっている事を否定したのでした。 だからイエス様は、二人の人を登場させ、「しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのですと言われ、 「しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」と言われたのです。
私達がイエス様を目の前にして、一体どういう態度を取っているのだろうかとこの朝、 考えさせられるのであります。困った時だけ、イエス様、助けて下さいと叫んでいないだろうか。 イエス様を本当に自分の罪からの救い主として、信じ、感謝し、あがめているのだろうかと思わされます。主の御前に本当の恐れをもって出ているのだろうかと迫られます。私達は、イエス様を批判はしないにしても、はっきりとイエス様に従う者として行動しているのか、あるいはまた、友達関係のような思いでいるとするなら、それは、大きな間違いである事を、指摘されているとしてこの朝、真剣に悔い改めようではありませんか。
確かにイエス様は、私達に対して友と読んで下さいます。 しかし、私達は本当は滅びるべきものでありました。 その私達を救って下さったのが、イエス・キリストなのです。
数々の失礼な言葉、働きにもかかわらず、 主が、私達一人ひとりを憐れんで下さって今日があるのですから、恐れをもって、また感謝しつつ、お仕えしていきたいものです。私たちはいつも、イエス様を前にしている思いで、信仰生活をおくらせていただきましょう。
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