2012年4月15日(日) 「邪悪なこの時代」 マタイ12:43-45 竹口牧師
イエス様は、7章22節以下でこう言われました。 「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』という風にであります。
きょうの話しは、なかなか厳しいイエス様のお言葉から始めましたが、つまり今引用したことは、こういう事が出来るでしょう。確かに、あなた方は、悪霊を追い出したかもしれないが、私の思いに叶った働きではなかった。だから、「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言わざるを得ない、とこう言われるのです。
またイエス様は、このようにもされたと言われています。 8章16節でのことですが。 「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。 そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみな、お直しになった。」とです。
イエス様のお働きによって悪霊が追い出されたわけです。 あるいは、同じ8章の28節以下では、 豚の群れに悪霊が入るように命じられ、その結果、多くの豚が死ぬことになりましたが、悪霊につかれた人は癒されたのでありました。このように、イエス様は、悪霊を追い出し、病気の者を癒してくださり、数々の奇跡をおこなわれました。
そんなイエス様が、きょうは、こんな話をされた所を見るのであります。 43節「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。」とです。
この話はまず、ある人の中に汚れた霊というものが入っていて、自分から出て行ったというのです。この自分から出て行ったという事に特に注意して読んでいただきたいのです。
汚れた霊は誰かに命令されたのではない。 自分から出て行ったというのです。 何か魔術師が、魔術で汚れた霊を追い出したのではなく、 また、イエス様が追い出されたのでもなく、 自分から勝手に出て行ったという話で始まっています。 この点になぜ、まず私達が注目しなければならないかと言いますと、 私達は、神様のお働きによって、救われましたし、 その時、聖霊なる神様が私たちのうちに入ってくださいました。 そして、聖霊様ご自身が一旦私達の内に入って下さるなら、 聖霊様は、出て行かれるような事はないからです。
私達の目には見えない聖霊様のお働きは、一旦、ある人の所に入られると、 外見では、クリスチャンらしからぬ行動をしていても、確実に、内側では、天の御国に入れるように、その準備をして下さっているのであります。
そういう意味で、きょうの話しは、イエス様を信じている人の事を言っておられるのではない。そのことをしっかりと確認しておきたいのです。
ですから、今から取り上げる人は、イエス様のお働きとは無関係に、まじないで悪霊を追い出してやると自称している人の事です。つまり、呪術を使い、あるいは呪文を唱えて、汚れた霊を追い出したようにみえても、そうではなく、実は、今回の場合、たまたま、自分から出て行ったというのです。
「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。」「そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見る」わけであります。 そしたらどうでしょうか。 なんと「家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。」
最近は、物騒な時代ですから、玄関ドアは、二重ロックされ、インターホンは、玄関に誰が来ているか見る事が出来、おまけに、その画像を残す事も出来ます。留守中に誰かが来ますと、しっかりとその人の顔が映っています。
郵便配達か、宅配便か、米屋か、何かのセールスか、我が家では分かるわけであります。そういう家庭が増えてきました。ただ、そのように外部に対しては、整えているのですが、その家に住んでいる我が家はどうもよろしくない。いらない物をいっぱい溜めこんでいる。捨てられない事で困っている訳であります。
従って、きょうの話しのように、家を出ているうちに、「家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。」となれば、一度試してみたい。そんな思いがします。
がしかし、そんなうまい話は、この世には存在しないのであります。 泥棒が一旦入ったなら、きれいに掃除をし、かたづけるどころか、煩雑な部屋を更に煩雑にして、大切なものは全部持って行ってしまう。 これが現実であります。
ですから、そういう実際の家の話しをイエス様がしておられる訳ではない事は、ご承知の通りであります。
今ここでイエス様が話されている事は、心の問題、魂の問題です。 で、イエス様がなさっている悪霊の出し方、汚れた霊の出し方は、一旦追い出したが、又舞い戻るような、そんな追い出し方をされてはおられなかったことをまず皆さんには心に留めていただきましょう。
マルコの福音書9:25節などによりますと、 「わたしが、お前に命じる。この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない」 とまで言って、舞い戻る事を禁止されているのであります。
それほどイエス様の命令には、威力があったということも私達は心に留めておきたいものです。この世は、安易な解決を求めて、その時、その時に問題が解決すれば、それで構わない。そういう人が多いように思います。
しかし、真の解決なくして、将来の解決はないのであります。 だから、この世のしているような解決を求めるのではなく、イエス様による解決がもっとも大切であり、これ以外は、真の解決ではない事を覚えましょう。
ところで、家のぬしが帰って見ると、「掃除してきちんとかたづいていました」そうしたら、その家のぬしは、どうしたかと言いますと、45節にある通りです。 「そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。」とあります。
悪い霊というのは、一つでも十分なのですが、類は友を呼ぶというのでしょうか。 「悪いほかの霊を七つ連れて来」たというのです。 自分よりも悪い霊を連れてきたというのですから、その家がどうなるか、分かるでしょうか。それは、惨たんたる状況が想像できますでしょう。
ですからイエス様は続けて言われたのです。 「そうなると、その人の後の状態は、初めよりも更に悪くなります。」とであります。 ここには、汚れた霊が出て行って、悪い他の霊を七つ連れてきたとありますが、 ですから、数的には8つの悪霊がある人には住みついている、そういう状態が想定されます。
マルコの福音書16:9やルカ8:2によりますと、 イエス様に7つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリヤという女の人の事がでていますので、実際にそういう人がいなかった訳ではありません。
では、そういう人の実際生活というものがどうであったのか、私には、想像すらできないのであります。今回の最初の方で取り上げましたマタイ8章にでてきました悪霊に取りつかれた人の場合、その悪霊自身が豚の群れの中にやってくださいとイエス様に願い、それをイエス様は聞かれたのですが、
では、悪霊の出て行ったその男の人の状態はどんなだったかと言いますと、出て行く前は、何と墓にいて、ひどく凶暴で、誰もその道を通れないほどであった、と言われるほどの有様でした。
ですから、7つの霊に取りつかれている人というのは、 どんな状態であったのか、非常に想像しがたいのであります。 それでも、イエス様の手にかかれば、たちどころに悪霊は追い出されたのであります。 ここに、イエス様によって救われている私達の平安、安心、強さがある、そういても過言ではないでしょう。
汚れた霊に取りつかれた人が、ある人から出て行ってまた戻って見ると、それも7つの悪霊を引き連れて戻ってくることの悲惨さ、それを考える時に、「邪悪なこの時代もまた、そういう事になるのです」とは、非常に恐ろしいことが予想されるのではないでしょうか。
ただ、ここでお断りしておかなければならない点があります。 それは、これまでの話しの流れから、パリサイ人や律法学者を一方的に悪くは言えないという点です。彼らには彼らの果たした役割もあった。その事を認めなければならないでしょう。
なぜなら、決してイエス様は、パリサイ人のしている事の全てを否定されているのではないからです。 もし否定されているのなら、イエス様は、神殿に礼拝に行かれなかったでしょうし、 都上りもされなかったでしょう。
ちょっとイスラエルの歴史を振り返ってみますと、 イスラエルが神様の御心にそむき、バビロン捕囚を経験しなければならなかった。 神殿は壊され、いけにえを捧げる事が出来なくなった。 外国の地で、真の神をどのようにして礼拝していくか、その期間、イスラエルは試されたわけでありました。
そういう時代の試練の中でイスラエルは、まず神の言葉に聞くことの大切さを改めて教えられました。
それならば、外国の地でも出来るではないか。神殿がなくても出来るではないかという事でした。神の言葉を聞き、祈り、従う。それが彼らのそれからの道でありました。 そして待ち望んでいた時、主は道を開いて下さいました。それが、ゼルバベルの神殿と言われるものでありました。 神様はイスラエルの願いを聞き、 再び神殿での礼拝をする事を許されました。
しかし、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配の中でイスラエルは、大変もまれました。 その中で、行き過ぎがあったとはいえ、真の神信仰に踏みとどまるように踏ん張ったのは、彼らパリサイ人の働きであった事は、見逃すわけにはいきません。 この世に迎合し、時代の流れに乗ったのがサドカイ派でありました。 神様のお言葉に踏みとどまっていると自画自賛していたのがパリサイ派でありました。
イエス様は、いつも、彼らの間違っている所を指摘されましたが、 そこで彼らが、自分たちの間違いに気付き、悔い改めればよかったのです。 でもそうはいきませんでした。 ますます彼らの心は頑なになって行きました。 それ故に12:14節で見ましたように、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」 そこまで、発展していくのであります。
「邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです」と言われたイエス様のお言葉が、イエス様の時代を指していると共に、今の私達の時代にも当てはまるのは、何という恐ろしい事でしょうか。
パリサイ人のように、宗教的に熱心さは必要です。 しかし、間違った熱心さは、人を間違った方向に導きます。 イエス様いわく、強いかしらサタンを神の力で征服してから、その他の悪霊どもを追い出さなければならなかったのに、パリサイ人たちは、悪霊が出ていくことだけで満足していた。それは、大きな欠陥だよと言われるのです。
空き家にしておいて、またそれが自分の家だと思わせ、更には、元に戻る事を赦す。 しかも、更に悪い霊を引き連れて住むようになる。これは、本当に最悪のパターンであります。悪いものが出て行ったあと、真の神信仰で満たされなければなりません。 単に、その当時のギシリャ文化、ローマ文化に反対するだけでなく、正しい信仰でイエス様に立ち向かうなら、イエス様をメシヤとして受け入れる事が出来たでありましょう。イエス様のなさることに反対はしなかったでありましょう。
今日の私たちもまた、偶像に対しては、厳しい態度で臨みますが、 それでほっとして、神様の大切な教えから逸れるとするなら、 それは、パリサイ人たちの行為と同じ事をしていると言えます。
ある先生が、このような事を書いておられます。 部屋の汚れた空気を美しくするには、どうするか。 まず、部屋を閉め切り、中の空気を出して真空にして、 その後に、新しい空気を入れる人などいない。 そうではなく、新しい空気をまず入れて、きれいな空気で、古い空気を押し出してもらう。それが一番賢い方法です。
同じように、迷信とか異教とか、悪霊を追い出す正しい方法は、 まず、真の神信仰と救い主信仰とをどかっと心の中央に据える。 あるいは迎える。 そうでなければ、結局は、自分以上に悪い七つの霊が戻ってくる。 形式主義、律法主義、自力本願主義、功徳を積むという考え、 そういった形で戻ってくる、とであります。
私達の信仰は、自分たちの行ないによらず、ただ恵みによって救いを頂いたのですから、誰に対しても誇ることなく、イエス様の教えて下さった教えに、ただ忠実に生きる事であります。
なぜなら、私達の内で働いていて下さる聖霊ご自身とともに、イエス様が、来るべき時には、証人になって下さるからです。邪悪なこの時代は、しるしを求めます。 しかし、信じるためのしるしは、主の甦りで十分であります。それ以上に何が必要でありましょうか。
私達の心はいつも、主の言葉と、主の愛でイエス様によって満たされ続けていこうではありませんか。そして、この世に良き証し人として歩ませていただきましょう。
2012年4月22日(日) 「真の家族」 マタイ12:46-50 竹口牧師
今、私達はマタイの福音書を見ておりますが、いよいよ12章も最後の所に来ました。 この12章だけを見ます時に、マタイは、いろいろとイエス様の働きに反対する人達の事を取り上げて来ておりました。
一番最初の方では、安息日にしてはならない事をしたと言ってパリサイ人たちが、抗議したことを見ました。
しかし、イエス様は、ご自分の事を、人の子は安息日の主です、と言われ、 ご自分の行なっている事の正当性を主張されました。 次に見ましたのは、イエス様がしておられることは、 悪霊どものかしらベルゼブルの力で悪霊どもを追い出していると言われたので、こう言われました。
「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、 どんな町でも家でも内輪もめして争えば立ち行きません。」とです。 つまり、決して悪霊の力によってしているのではないと、そう反論されたのでした。
更に、今度はイエス様が「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」と言われましたので、 それに対するように、それならそのしるしを見せて下さいとパリサイ人や律法学者の中のある者が迫りました。
そこでイエス様は、 「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。 だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」 と言って、毅然とした態度を取られたのでありました。
このように、イエス様の周りの人たちから、攻撃あるいは、反対行動が起きましたが、決して動じることなく、イエス様はこれからも行動されるのであります。
さて、そういった外部からの攻撃だけでなく、内部から、あるいは身内からと言ったほうが正しいでしょうが、心配がおきたことが取り上げられている所、それが今回の個所であります。外からだけでなく身内からもイエス様の働きに対して、止めようとする動きが起こってくるのであります。
これは、イエス様にとっては、なかなか辛い所であります。 今回の記事は、このマタイの福音書だけでなく、他の福音書、マルコ、ルカも書いているのであります。つまりマルコは3:31-35に書き、ルカは8:19-21で 書いております。それらを合わせて読みますと、状況がより良く分かってまいります。
つまり、事の次第はこうであります。 このマタイの福音書4:23によりますと、イエス様は、ガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民のあらゆる病気、あらゆる患いをいやしておられました。
そんなイエス様でしたが、きょうの話しの舞台はと言いますと、 イエス様がガリラヤ伝道を拠点にしておられたのは、いつもカペナウムでしたから、 そこでの出来事のようであります。
イエス様がお育ちになられたのは、ナザレでありますから、そのナザレからカペナウムまでの距離は、直線距離にして約35kmくらいでありますので、道成りに歩きますと、40kmは十分にあるのではないかと思います。そんなに離れている所から家族がわざわざ、イエス様の所にやって来たのでありました。
ということは、これは何か大きな意味があったと言えましょう。 と言いますのも、イエス様の母親と兄弟たちが、わざわざイエス様の故郷ナザレからカペナウムにやって来た。車で、ひょいと家族そろってやってきたのと訳が違うからです。つまり、並々ならぬ出来事があったからだと思うのであります。
家族総出でイエス様に会いに来る。 因みに、46節にありますイエスの母とはマリヤであり、 兄弟とは、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」(13:55)であり、 マルコ3:32では、姉妹たちも来ていた事が分かるのであります。
この頃、イエス様の家庭での父親はもう亡くなっていたと思われ、登場する機会はありませんが、つまりは、父親を除く全員がイエス様の所にやって来ていた、ということなのであります。
この事を、皆さんの家庭に置き換えてちょっと考えて見ていただきたいのです。 家族みんなが集まるとは一体どんな時が、想像できるでしょうか。 まず夏の8月の休みか年末年始の休みが思いつくでしょう。 それでも、全員が集まるという事はなかなかありません。 誰かが欠けるものであります。
たとえば、私個人の事を申し上げますと、 家族全員が集まるというのは、何か不幸があった時だけであります。 それも、集まるのは、実家であり、わざわざどこかの町に集まるなどという事は、 した事がありません。
私の場合、6人兄弟の一番下の私が目黒に住み、その他5人のうち二人が広島と兵庫にいて、後は、東京の近辺に私を含めて4人住んでおりますが、東京に出て来て40年経って、昨年やっと一度だけ、東京近辺にいる兄弟4人全員そろって昔話に花を咲かせたのであります。
それくらい、近くにいても集まらないものなのですから、今回の話しは、親、兄弟がそろって、わざわざ、40km離れていると思われますカペナウムにまで全家族がやって来たと言いますのは、それはそれは、よほどの事があったに違いないのであります。
46節をもう一度読みますが、 「イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。」というふうにあるのであります。
つまり家族は、目的があってわざわざやって来ていたのであります。 では、どういう目的が考えられるでしょうか。 イエス様の名前は、あちこちで語られるようになり、 先ほどマタイ4章を引用しましたが、そこによりますと、 「イエスのうわさはシリヤ全体に広まった」とありました。 それくらいイエス様の働きは、方々に伝わっていたのでありました。
その中には勿論、良いものもあれば悪いものもあるわけであります。 良いうわさと言いますと、当然ながら、権威あるお話しをされていることや、 さまざまな病気で苦しんでいる人を癒すお方であるということなどでしょう。
そして悪いうわさと言いますと、この12章でも見ましたように、律法を破っているとか、「悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出している」などということがまことしやかにささやかれていたといえましょう。
更には、マルコ3:21には、このように書かれているのであります。 「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ。』と言う人たちがいたからである。」とです。 この『気が狂ったのだ。』とはまことにひどい人たちでありますが、つまりは、ナザレの家族の所にまでイエス様のうわさが届き、家族としても、イエスをそのまま放置しておけない。 自分の家に連れ戻さなければという思いが家族全員の思いであった。 だからナザレからわざわざカペナウムにまでやって来ていたと言えましょう。
しかしながら、この連れ戻しに、イエスの母マリヤも加わっていた、 というのには、ちょっと首をかしげたくなるのではないでしょうか。 なぜなら、マリヤこそ、イエス様の誕生に際して、神様によって特別な体験をしていたからであります。ルカの福音書にはこう書いてあります。
御使いがマリヤに言った言葉ですが。 「怖がることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。 また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」とであります。
マリヤは、その時、とても驚きましたけれどもしかし、彼女はその時、信仰を持ってこう言ったのでありました。
「ほんとうに、私は主のはしためです。 どうぞ、あなたのお言葉通りこの身になりますように。」とです。 あるいはまた、出産の後、清めの期間が終わり、 夫婦は、イエス様を主にささげるために、エルサレムに登った時、 シメオンという人からこう言われたのでありました。
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」とシメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえたのでした。
また、このようにもシメオンは言いました。 「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」とです。
つまり、自らも体験し、人からもこのように言われ、彼女は、心に留めていたはずなのです。自分の息子が、将来、神様のために、イスラエルのために、更には世界の人々のために大きな働きをする者となるとです。
あれから、約30年は経っているとはいえ、自分が産んだイエスは特別な働きを担う事になっている事は、その成長段階において、神と人とに愛されて育った育ち方からして、十分、イエス様を理解できるはずではなかったでしょうか。
しかしながら、もしかしたら、そういう事を心に覚えながらも、周りに気を使い、 不本意ながら、自分の子供たちと一緒に行動せざるを得なかった、そういう事はあり得るでしょう。実際の所、イエス様の兄弟、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダが、イエス様を信じるようになるのは、イエス様の十字架と復活があって後の事であります(使徒1:14)。
ですから、今はとにかく、家に連れ戻そうと家族総出でやって来たのであります。 ところが、イエス様の周りには人だかりで、声をかけることすらできないありさまでありました。その様子を見て、イエス様の家族はどう感じたのでありましょうか。
昔、と言っても、私の言う昔は、50年前の話しですが、 都会に行く時には、お金は腹巻に入れておけ。 すぐ使う必要な分だけ、財布に入れてポケットに入れておきなさい。 人がお金を落としても拾ってはいけないよ。 いい事をしたと思っても取ろうとしたと思われてはいけないから。 また決してうまい話には乗ってはいけないよ。 などと、さんざん言われて都会に出たものであります。
ですから、テレビなどで、あの昔の時代の事を目にしますと、本当についこのあいだのように思い出すのであります。都会は生き馬の目を抜く、そういうところだから気をつけろよ、そういうことばかり聞かされて出てきておりますから、大変緊張したものでありました。
イエス様のお育ちになったナザレは、カペナウムと比べれば、少々田舎であります。 ある人に言わせれば、非常に田舎であるとも言います。 しかし、その田舎から出て来て、イエス様の周りには人だかりができるほど、人気があり、注目されている姿は、決して狂っているとは言えなかったのではないか、 そのように私は思うのです。
むしろ、場違いなところに来てしまった、 そう思わないでもない、そんな感じがしてならないのですが、 しかし、ナザレで聞いた噂の事を思えば、やはり、どこがおかしいのか、心配であったのかもしれません。 都会に子供を出した親が心配するのは、元気でやっているだろうか。 人ごみの中で、まじめに働いているだろうか。 悪い者に引っかかっていないだろうか。 そういうではないかと思います。
しかし、それは、学校を卒業したばかりの子供に対してであり、イエス様は、長男故、殆どナザレでは父親代わりをしていたような状況であったでしょうし、更には、公の生涯に入られたのは30歳ころと言われていますので、立派な大人でありました。
その大人を連れ戻そうというのですから、これまた、大変であります。 世の学者が、悪霊どものかしら、ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ、と言われれば、本当にそうなのだろうかと心配になるのが親でありましょう。
学者のそういう悪意ある見方ではないにしても、 イエス様の働きにストップをかけるのは、たとい家族と言えども やはりイエス様にしてみれば、嬉しいことではありませんでした。 兄弟として、家族として思うあまり、イエス様の働きを留める事は御心ではなかったのでありました。
きょうの47節の所にこう書いてあります。 「すると、だれかが言った。『ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。』」とです。
するとイエス様は言われました。 「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」とであります。このイエス様のお言葉は、聞き方によっては、あるいは読み方によっては、非常に冷たさを感じられでしょうか。イエス様は、家族の心配を気にすることもなく、神の国における家族というものがどういうものであるのか、その事を語られたのでありました。
イエス様は、弟子たちを指して、こう言われました。 「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と。
勿論、これは肉親としての家族という意味ではなく、 信仰における霊的な意味での家族という意味であります。 当時の邪悪な時代には、多くの人々が狂人扱いしました。
しかし、少数ではありましたが、イエス様を救い主と信じて、家族を捨て、職を捨て、 イエス様に従う忠実な弟子たちがいたことも確かであります。このような「父の御心を行なう者」こそ、本当の家族であると言われたのでありました。
確かに、多くの反対者に取り囲まれているイエス様にとってそのような少数の弟子たちこそ、肉親の家族にもまして、身近に感じられる存在でありました。 イエス様を正しく理解する事が出来なかった肉親と、イエス様を信じて従った弟子たちとの間には、大変大きな開きがある事がお分かり頂けると思います。
現代に生きる私たちもまた、特に、この日本においては、実にキリスト者は少数派であります。しかし、イエス様は、そんな私達に対して、友と呼んで下さり、兄弟姉妹と読んで下さる事は、何と言う幸いな事でしょうか。
実の母親に対してイエス様は、ここでは、冷たい態度をしておられるように思えますが、十字架上においては、母マリヤを弟子のヨハネに託しておられます。
それ故に、ここを読むにあたってイエス様の本当の心を私達は読み取り、良き弟子であり、良き家族でありたいものであります。私達が互いに兄弟姉妹と呼びあえるのは、 イエス様によってまことの家族にしていただいたからである、その事を覚え、感謝すると共に、家族の一員として、喜んで労していきたいものであります。
この世の人がイエス様をどう評価しようと、私達にとっては、罪からの救い主である事は、いささかも変わらないのですから、イエス様を愛し、また、神の家族として兄弟姉妹が互いに愛し合いながら歩んでいこうではありませんか。
2012年4月29日(日) 「幸いな者」 マタイ13:1-23 竹口牧師
きょうからマタイ13章に入ります。 司会者の方には、1-9節までを読んでいただきましたが、今回扱います範囲は、1-23節までであります。この13章全体を見ますと、その多くは、次から次へとイエス様がたとえ話をされるところであります。従って、そのたとえ話を見ていく前に、たとえ話のもつ意義について、触れておくことにします。
これは何と言っても、あることを説明するために、より分かりやすくするために用いられるものであります。ですから、分かりにくい事柄を、良く知られているものを傍らに置き、その類似性から理解を助けるものであります。そういう意味で、イエス様は、今回のたとえ話しも、「天の御国」とは、どういうものであるかを生き生きと明確に、日常的な事を用いて語られたのでありました。
しかし、イエス様の話されたたとえには、ひとつの隠された事柄があり、 それが、今回の所では話されているのであります。
イエス様は、今回の聖書箇所の3-9節で、種まきのたとえを話されました。 非常に分かりやすいたとえであります。 しかし、それは、表向きは、誰にでもわかる話でありまして、本当に伝えたいことは、 18節で「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい」と言っておいて、 19-23節で、本当に伝えたい事を明らかにされるのであります。
つまり、イエス様は分かりやすいたとえで話されておりますが、 それを正しく受け取ることのできる人と、そうではない人とに、はっきり分けられるのであります。そこでまず、最初のたとえから申し上げますが、その前にまず、1節−3節までをお読みいたします。
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。 すると大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。」以上であります。
ここを読みながら、状況を想像していただきたいのです。 実にのどかな風景が、頭に浮かんでくるのではないでしょうか。 舟に乗り、海から陸に向かって立っておられるイエス様。 聞き耳を立てている群衆。 そして、そんな状況の中でイエス様は、舟から陸に向かって話されたのでありました。
これは、非常に理にかなった方法であります。 現代のように、拡声器はありませんから、海側から陸に向かって話しかける事は、 非常に言葉が届きやすい状況で話されたという事であります。 音が拡散しないで、集中するのであります。 話の内容も、人々が日常経験している事柄を話題にして、語られたのでありました。
で、どんな話かを3節以下に書かれているのであります。 こう書いてあります。 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。 すると鳥が来て食べてしまった。 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。 土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」以上であります。
ここには、4種類の土地が書かれています。 一つは道端、二つ目は岩地、三つ目は茨の中、四つ目は良い地です。 そしてまた、ここで、私達は、当時の種まきの方法を知っておく必要があります。 その方法とは、どんなものがあるのかといいますと、いろんな方法があったようですが、おもなものは手で蒔く方法であります。
これはまあ一般的でありますが、その他に、 種を詰めた袋に穴をあけ、それを家畜に負わせて、歩きながらこぼれおちるのにまかせて、種をまき散らす方法もあったそうです。
あるいはまた、完全な畝(うね)を作ってから種をまくのではなく、はじめにざっと畑の手入れをしてから、種をばらまき、その後で、再びクワを入れて土を柔らかくしたのだそうです。時には、全然準備耕作しないで原っぱに種をまき散らし、それから開墾するという方法もあったようです。
いずれにしましても、蒔かれた種は、色々な状況の中で、その実りには差が出てくるというというのは、当然な事でありました。
ここで、確認しておきたいことがあります。 それは、種はみな同じで、種自身には善し悪しはないという事です。 種はみな同じなのですが、落ちた所がいろいろだったというのです。
このたとえをイエス様は、18節で「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。」 と言われて、そのたとえの種明かしをされるのです。 そこもまた、お読みいたしますが、19節以下、こうあります。 イエス様が話されたお言葉ですから、解釈上の間違いは皆無であります。 19節以下にこうあります。
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、 その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」以上であります。
実に分かりやすいたとえの本当の意味です。 そして、これを読んで、多くの人は、当然ながら、実を結ぶものになりたいと望むのであります。皆さんもそうでありたいとお望みでありましょう。
ところが、全ての人の心がそういう良い地ではないと言われるのです。 だから、実際はそうはならないという事であります。 実を結ばない場合が出てくるのであります。
ところで、先ほど種に善し悪しはないと申し上げました。 それもそのはずであります。 種は御言葉ですから、悪いはずはありません。 ということは、それを受け取る側が大きく関係してくるという事になります。
しかも、10節11節の弟子とイエス様との会話を聞きますと、非常に驚かされるのであります。12節までお読みしますが、こう書いてあります。
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。 「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」 イエスは答えて言われた。 「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」以上です。
これでお分かりのように、種が悪いのではなく、 受け取る側が、その種を求めながらも与えられないのでもなく、 同じように受け取りながら、差が出てくるという事になります。
そこには、私達の知ることのできない奥義があるという事です。 神様の選びがあると言ってもよいかもしれません。 と言いますのは、13節でイエス様は、こう言われているからです。 「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、 聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」と。
なぜ、イエス様がたとえで話されるのか、理由がここにあります。 見ているのに見ていない。聞いているのに聞こえていない。 従って、悟ることもないと言われるのです。
私達の心は、どうでしょうか。 打てば響くような、そんな反応の良い心でありましょうか。 どうもよくわからないという状態でしょうか。 なぜ、そうなるかをマタイは、次に言うのです。 つまり、見ているのに見ていない。聞いているのに聞こえていない。 従って、悟ることもないと言われるのかを14節でこういうのです。
「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。」と。 預言者イザヤの言葉の実現だというのです。 では、そのイザヤの言葉とは、どんな言葉でしょうか。 14、15節の二重かっこの中であります。 『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。 確かに見てはいるが、決してわからない。 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、 その心で悟って立ち返り、わたしに癒される事のないためである。』
特に最後の方の言葉は、私には非常に気になるのであります。 つまり『・・・わたしに癒される事のないためである。』との言葉であります。 これはまさに、神様のお働きであるという事です。 神様が見えなくされ、聞こえなくされ、悟らないようにされている。そういう事であります。
とするなら、これからどういう事が出来るでしょうか。 それは、当然ながら、見えるようにされ、聞こえるようにされ、悟るようにされた者は、どんなに素晴らしいかであります。
16節でイエス様は言われます。 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。 また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と。 つまり、神の人イザヤの口から神の意志を聞かされながら、 せっかくの神の意図が通じない人たちの悲劇であります。
耳は、間違いなく音声を捉えているし、聞こえている言葉も全部分かっている。 しかし、聞けと言われる肝心のことが聞き取れない。 目はイザヤその人を見ているのに、そこに神の人が見えない。 その悲劇と、イエス様を見る大多数のユダヤ人の悲劇とが共通しております。
私達は、物を探す時があります。 と言いますか、私くらいの年になりますと、 下手にかたづけようものなら、大変であります。 あそこにあったファイルは、どこにしまったか。 あそこにあった本は、どこに移動したか、大騒ぎであります。
実は、目の前にありながら、見えていないという事はよく経験する事であります。 信仰においても同じでありましょう。 聖書を通して御言葉を聞きながら、悟ることのない者であるなら、 それは、神の本意ではありません。 私達は、見て、聞いて、悟る者でなければならないのです。
それ故に私達は真剣に神様に真理を祈り求めるべきでありましょう。 そして、確信のある歩みをしたいものであります。
イエス様は17節でこう言われています。 「まことに、あなたがたに告げます。 多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」と。
これはどういう事を指しているのかと言いますと、 神の人イザヤから神の御旨を聞かされながら、 せっかくの神の意図が通じない人たちの悲劇が描かれているのです。
耳は間違いなく音声を捉えていますし、言葉も分かっているのに、 主が聞けと言われている肝心の事が聞き取れない。 目は確かにイザヤその人を見ているのに、そこに神の人を見ていない。 その悲劇と、イエス様というメシヤを目の前にしながら、大多数のユダヤ人がイエス様をそのようには見ていないという意味です。
でも、そういう中にありながらも少数である弟子たちは、 何という幸いなことだろうかとイエス様は言われるのです。 イザヤの預言と、種をまく人のたとえを結びつけるなら、 イエス様が来られた結果、その周りに起こった事と、 蒔かれた種がどんなふうになったかが話しが並行しています。
さすがに預言者イザヤであっても、旧約時代の人ですからメシヤを実際に目にする事はなかった。アブラハムも体験する事はなかった。
とするなら、イエス様から直接、生涯をかけて学ぼうとしている弟子たちは、何と言う幸いであったでしょうか。あるいは更に時代を今に持ってきますと、私達はもっと幸せだと言えるでしょう。
なぜなら、イエス様が来られ、罪を贖うための全ての業を終えて下さっているからです。そして救われているからです。救われているという確信は、イエス様を救い主と認めているという事であります。そしてそれは、16節のイエス様のお言葉をもう一度引用しますが、
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。 また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」 と、イエス様が言って下さることの幸いを覚えたいものです。
踏み固められた道端のような心閉ざした人、 あるいは、神の言葉という新しいものに目を向け、 取り組もうとしながら、すぐにあきらめてしまう人、 色々な事に目を奪われ、結局のところ、キリスト第一に出来ない人、 色々この世にはおられます。
しかし、目を見えるようにしていただき、耳を聞こえるようにしていただき、 悟る心を与えられた人は何という幸いなことでしょうか。
たとえ100倍の実を結ばなくても、60倍、30倍でなくても、 少しでも、主の御用に役立つなら、それは何という喜びでしょうか。 イエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中から甦らせて下さったと信じさせていただいたことは、私たちにとって、それは自分自身から出たことではなく、 神から出たことである故に、決して消えることが無い確信なのです。
ここに集っているお一人お一人が、そういう幸いなものとされていることを神様の御前に感謝しようではありませんか。 また、今一つわからないという方は、「わかるようにしてください」と素直に神様に求めていただきたいものです。
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