2012年5月6日(日) 「御国の子ども」 マタイ13:24-30 竹口牧師
司会者の方には、マタイの福音書13:24-30までを読んでいただきましたが、 この朝取り扱います聖書範囲は、24-43までの長い範囲とします。
最初24-30節だけを取り扱おうと思っておりましたが、いろいろと調べていくうちに 区切りとしてはどうも43節までがひとかたまりですので、43節までを見る事に致しました。
そこできょうの範囲全体をざっと43節まで見ていただきますと、 3つのたとえがあることに気づかれると思います。
一つは、先ほど読んでいただいた24-30節で毒麦のたとえ、そして中を飛んで36-43節で、その解説であります。二つ目のたとえは、31-32節でからし種のたとえであり、三つ目のたとえは、33節で、パン種のたとえであります。
勿論、この13章でのたとえは、それでは終わりませんで、44節以下にも畑のたとえ、真珠のたとえと続くのでありますが、きょうの2つ目のたとえと3つ目のたとえは、 毒麦のたとえを正しく理解させるためのものとしてある、そのように考えられます。
そこで、まず最初に、2つ目と3つ目のたとえを最初にみて、それから、きょうの個所の全体を見ようと思うのであります。
きょうの2つ目と3つ目のたとえは、どちらも最も大きくなるというたとえであります。31節「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。 『天の御国は、からし種のようなものです。 それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、 生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、 その枝に巣を作るほどの木になります。』」とあります。
からし種、ここでは最も小さな種であると言われています。 しかし、実際には植物学的に言いますと、それよりももっと小さい種はあるそうでありますが、ルカの福音書には、「庭に蒔いた所」とありますので、庭に蒔く種の中で一番小さいという意味で、庭のどの草花よりも大きくなるという所からきているようです。
38節を見ますと「畑はこの世界のこと」とあり、「よい種とは御国の子供たち」とありますので、この地上における神の民の小さな集まりは、最初は弱かったけれども、だんだん成長し、今や、全世界に広がっていくということであります。
ですからそれは、イエス様の語られた時から文字通り実現し、今もなお広がり続けているということであります。
また、その次の33節には、このような例えが出ております。 「イエスは、また別のたとえを話された。『天の御国は、パン種のようなものです。 女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。』」とあります。
これもまた、パン種で言いますと、少量ですが、人で言いますと、この世にあっては、たとい少数であっても、社会に大きな影響を与え、社会を変える事が出来ると言われているということであります。そして、実際にそのように世界は動いていると言っていいでしょう。
ところで、そのように成長し、大きくなっていくと、問題が起きてくるようになるのであります。最初は小さな集まりで始まり、あまり周囲には影響を与えません。がしかし、どんどん成長し大きくなるに従って、神の子らしからぬ者も出てくるのであります。いわゆる毒麦に当たると言えましょう。
38節をもう一度引用しますが、 「畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。」とあります。
御国の子供たちが増えるだけでなく、毒麦に当たる悪い者の子供達も出てくるというのであります。それは、この世においてそうなら、この世に出かけていくその大元である教会の中に存在する。毒麦に当たる者がいるというのであります。
これは、非常に難しい問題をはらんでいます。 何が難しいかといいますと、もうお分かりでありましょう。 良い種と毒麦との見分けがつかないという事にあります。
37節でイエス様はこう言われております。 「良い種を蒔く者は人の子です。」とです。 イエス様が、良い種をまかれるのです。
ところが、成長してみると中には毒麦も生えている。 それはなぜかということになります。 そしてそれは、25節にありますように 「ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。」とありますように、サタンの働きがあるのであります。 かくして、良い種と悪い種が同時に成長する事になります。 今、現実にそうなのです。
聖書の真理は一つのはずなのに、一つとはなっていません。 何かが違っている。どこかが違っている。 ですから、無数に教団教派があるのであります。 そしてその違いの行き過ぎが、異端であります。
ある本に、このようにでておりました。 「私ども信仰を与えられている人間は、理想主義になりやすい。夢を見やすい。 神様が、造られた世界は美しいものであるはず、神様が私どものために御心を行なっていて下さるはず、そうであるならば、この世の中に悪いこと、醜いことなんかないはずだ。理想に燃えるのです。伝道の理想に燃え、愛の理想に燃え、正義の理想に燃えて生きようとするのです。
しかし、それはしばしば、ただ夢を見ているだけの事になります。 そして、夢見る人間は、現実に躓くのであります。 このような、私どもを躓かせるものは、教会の中にも、この世の中にもいくらでもあるのです。異物です。どうも気になる存在なのです。」とありました。
ところで、今ありました教会の中にとって異物とは何でしょうか。 ものの考え方、方法の違い、気が合うとか合わないなどで異物として分けるべきでしょうか。信仰者の見本のような兄弟姉妹であったけれども、人生のある地点で、大きな罪を犯した。しかし、その後その人は、全く悔い改め、神の道を歩んでいる。その人を教会はどうするのか。
教会は、その人を受け入れるのか、受け入れないのか。その人の一度限りの誤った点で、悪い者として切り捨てるべきなのか、考えさせられます。 これは、具体的な例を挙げないと分かりにくいのかもしれません。
たとえば、こういう例があるそうです。 ローマ帝国によってキリスト教がまだ公認されなかった時代、 あまりにも激しい迫害の中で、信仰を棄ててしまう者が出てくる。 ところが、迫害が収まるにつれて、信仰を棄てた者が悔い改めて、再び教会に戻ろうとする。
この時に、果たして、厳しい迫害の中にあっても耐えてきた人、 信仰を守り通した人が、信仰を捨てた人を赦すことができるのか、 そういう問題であります。
ある人は裏切ったかもしれません。 密告したかもしれません。 人生に一度限りそうしてしまった、 そういう人を教会は受け入れるのかという一つの例です。 その人は許されるのかという点であります。
ところで、イエス様の話されたたとえ、 最初のたとえと最後のたとえを見ながらもう少し話を進めますが イエス様は、このたとえを通して、今、この世の「神の支配」の世界も、 人間の罪の歴史を通り抜けていく間は、決して平穏無事ではない。 何事もうまくいくとは言われていないという事実です。
痛みや矛盾はある。 神が人を救うために御子を遣わし聖なる働きをしておられる。 しかし他方では、敵意と憎悪を持って、 躓きを与える者、不法を行なう者がやってくる。 サタンが執拗に神の働きを妨害し、挫折させようと向かってくる。
神様が救って下さったその救いに対して、 信頼を失わせ、更には命をも失わせようと働きかける。 これが、現実の世界であります。
38節で「良い種とは御国の子ら」であり、神様がその種をまかれるのであります。 そして育ったのが、取税人マタイや漁師のペテロやヨハネなど 更には普通の人々でありました。
彼らは、ひたすら信仰に生きようとした聖徒たちです。 イエス様は、その「良い種」を蒔いて世界という畑を変えて行かれるのですが、 しかし、そこには神を憎むサタンが逆行するように働くのです。 そして、罪と死という毒麦を送り込むのであります。 それを見て28節でしもべは言うのであります。 「私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」とです。
私達も、そういいだしかねません。 目の前で羊がやられているのを見過ごす訳にはいかないからです。 何とかしなければいけないという焦りが出てくるからです。
しかし、ここでイエス様は言われます。 「毒麦をそのままにしておきなさい。 なぜあなた方は、そこで、毒麦を抜く事に夢中になるのですか。」 でも、しもべは言っております。 「私たちが行ってそれを抜き集めましょうか」と。 するとイエス様は、言われます。 「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。 収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、 焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」とであります。
時を待てと言われたのでした。 考えて見ますと、パウロにしましても、 キリストの恵みの真理のために戦い続けました。 宗教改革者たちもしかりでありました。 私たちもまた、真理に固執する事を決して恥じません。 これからも真理を語り続けて行かなければなりません。
ただ、毒麦を毒麦として決めつけ、それを根絶やしにする事に夢中になるとするなら、 それは、決して神様の求めておられることではないでしょう。 なぜなら、神様は「待て」と言われているからです。
過去の多くの宗教戦争が、この「待て」との指示を無視し、暴走したために、多くの犠牲者が出ました。「待て」と言われても、いつまで、どこまで待つのか。 その受け取り方は人さまざまでありましょう。 それゆえに、これまでに悲惨な殺戮が起きたのでありました。
とはいえ、待つという事は、 罪や腐敗を際限なく容認しなさいということではありません。 これは、パウロが、あちこちの教会にあてた手紙を見れば、明らかであります。 彼は厳しくあちらの教会、こちらの教会にと悔い改めを迫っているのであります。
そしてここで言えることは、何が純粋な聖書信仰であるのか、 何が憎むべき異端なのか、その物差しの必要性です。
同じ聖書に立ちながら、それぞれが違う事を言っている。 そして、それでもって徹底的に戦って根絶やしにする。 これは、これまでしてきたキリスト教会の大きな過ちです。
私たちは、自分たちがよって立つところの信仰基準というものを持っています。 それは、聖書より導き出されたものであります。 鈴木先生が訳されましたバプテスト教理問答がそうでありますし、 第2ロンドン信仰告白もそうであります。 それらは、聖書から導き出された真理です。
だが、しかしであります。 私たちの信仰だけが全く正しく、他はみな間違っているとするなら、 それは、自分たちの信仰以外はみな毒麦という事になります。 果たして、それが正しいのでしょうか。
自分たちの信仰は正しいと私たちは信じております。 そして、その正しさは、主のみ前に行ったときに明白にされるのです。 それゆえに、神さまと同じ位置に立って現代の私達が 人を裁くことをしてはならないし、 あの人は毒麦だと決めつける事もまたしてはならないのです。
裁きをされるのは、真の神様であり、私たちは、その子とされたものです。 神の子とされたのですから、それにふさわしい歩みを普通に続ければよいわけであります。
ある本にこのように出ておりました。 「このたとえ話の情景は、パレスチナの聴衆にはなじみが深く、 実際、目に見る事が出来るようなものであった。 毒麦は農夫の頭痛の種で、これを取り除くのは大変な苦労であった。 毒麦は毛状の「ほそむぎ」と呼ばれる一種の雑草で、 若い苗の間は、麦と非常によく似ていて、ほとんど見分けがつかないが、 穂が出てくるとその相違がはっきりわかった。 しかし、その頃には麦と毒麦の根が絡み合っているので、 毒麦を抜き取れば、良い麦の根まで抜けてしまった。」とであります。
ですから、刈り入れの時までは、両方とも育つままにしておかなければならなかったわけであります。
待つというのはなかなか忍耐がいります。 それでも、この世の終わりは必ず来るのですから、 そして、この世の終わりが来たなら、 神様は正しく裁くお方でありますので、 それ故に忍耐をもって待ち続けなければならないのです。
39節「 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。 そして、刈り手とは御使いたちのことです。」とあります。
この世の終わりには、良い麦と毒麦との違いが明白になります。 私たちは、その時を期待しつつ待とうではありませんか。 世の終りにはどうなるか41節以下にある通りです。
「人の子はその御使いたちを遣わします。 彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、 御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。 彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。 耳のある者は聞きなさい。」
神の御言葉こそ、私たちに何が正しいかを教え、 また、毒麦でないことの確信を与えてくれます。
主の恵みによって救われた私たちは、御国の子どもとして 主の求めておられることにどこまでも忠実であろうではありませんか。 主の日の礼拝を待ち望み、御言葉を頂くことの喜び、 愛する兄弟姉妹との親しき交わり、 そして主にあって共に労することの充実感、 それらは全て神様のためなのです。 この世の人が味わう事の出来ないものを、 それも、御国の子どもの一人として味わう者として頂いていることを感謝しましょう。
2012年5月13日(日) 「天の御国」 マタイ13:44-52 竹口牧師
天国と地獄、これはよく対比的に言われます。 そしてまた「私は、天国の間際まで行ってきたよ。 前には川が流れていて、その向こうは花がいっぱい咲いていた。 とてもきれいな所だったよ」とも聞いたことがあります。
あるいはまた、戦争を体験した人は、 「そりゃあもう大変な状況で、地獄とはまさに、あのことを言うんだな! 二度と戦争には行きたくないよ、思い出したくもない」と 戦乱の悲惨さを語られるのを聞いたこともあります。
しかし、その経験者はどちらも死を経験して、今があるわけではありませんので、 天国が、そして地獄が本当はどんな所なのかを知りません。 人間的に言うなら、唯一、イエス・キリストだけが、死を経験され、甦られ、 弟子たちと共に40日間過ごされた、それだけであります。
きょう取り上げている聖書箇所は、まだイエス様は十字架刑で死を経験されている訳ではありません。
しかしながら、イエス様は、神の御子でありますから、 天の御国の素晴らしさをよくご存じでありますので、 そして、人の子としてこの世に来て下さったお方でありますから、 金持ちとラザロの話しをする事がお出来になったのでありました。
そこで、その天の御国の素晴らしさを、この世に生きている私達に説明するためには、 この世の物でもってしか私達が理解するのは難しいと知っておられ、 そこでイエス様は、きょうの所で、たとえで話されたのでありました。
一体、私達は天国の素晴らしさをどの程度に考えているのでしょうか。 別に今は、考える必要はない。もっと後のことだ。 今を生きるのがやっとだと言われる方もおられましょうか。
しかし、人の死というものは突然にやって来るものでありまして、 私達の計画通りには決して行かないのであります。
ところで、マタイは天国という言い方をしませんで、 といいますか、そういう言い方を、聖書はしておりませんで、 きょうの所にもありますように、 マタイは「天の御国」という言い方をしておりますし、 他の所では「神の国」という言い方をしています(6:33,12:28,19:24など)。
一方、マルコは、神の国という言い方をしていますし、 (1:15,4:114:26,4:30,9:1,9:47,10:15など) ルカも同じように神の国という言い方をしております。
また強いて言いますとルカは天の御国という言い方も3回だけ使い(11:2,12:32,23:42)また父の家という言い方を2回(2:49,16:27)使用しています。
では、ヨハネはどうかと言いますと、神の国という言い方を2回(3:3,3:5)だけ、 その他は、わたしの国(18:36)とわたしの父の家(2:16,14:2) という言い方がそれぞれ1回ずつなされ、その意味する所は、 個所によって違いがあるのですが、きょうの所では、マタイが書いているのは、素晴らしい所という風に取っていただいてよいでしょう。
さて、その事を踏まえたうえで、 きょうの所には3つのたとえが載っていますので、それを見ることにいたします。 一つは隠された宝であり、もう一つは良い真珠のたとえであります。
44-46節にこうあります。 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。 人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、 持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、 行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」とです。
これを読んで素直に受け取れないという人も 中にはおられるのではないでしょうか。
「そりゃあちょっとずるよ。 どうして、持ち主に教えてやらないんだ」というようにであります。
しかし、ユダヤは当時、ローマの支配下にあり、 ローマの法律の適用を受けておりましたが、 日常の些細な事は、ユダヤの律法が適用されていたようでありまして、 それによれば、見つけた人は、見つけた物に対する拾得権があったのだそうです。
また、常に戦争に巻き込まれる地域でありましたので、 宝は地下に隠す習慣もあったと言われます。
ですから、たとえに挙げられているのはずるい事ではありませんし、 また、たとえの解釈は、意図された意味以外には取ってはならないという原則が ありますので、気をつけていただかなくてはなりません。
ここでのたとえの目的は、天の御国は素晴らしいという事を、畑に隠された宝、良い真珠を例にされてイエス様は話されたという事であります。
ですから、その素晴らしさは、持ち物を全部売ってでも手に入れたい。 それほど素晴らしいものである事を指しているわけです。 それだけに、それを求めるようにとイエス様は勧められるのです。 そんなもの、今のわたしには関係ない、ではいけないのです。 いつ命が、燃え尽きるか分からないからです。 いつ、心臓が止まるか、誰にもわからないからです。
ところで、皆さんは、イエス様にいつ頃出会われたのでしょうか。 ある方は、生まれた時から教会に来ていて、 イエス様に若い時に出会ったという方もおられましょう。 またある方は、定年を迎え仕事を引退して、 これから余暇をどう過ごそうかと感じた時、 ふと心の充実さを求める思いが与えられて、教会に来るようになった、 そしてイエス様に出会ったという方もおられましょう。
あるいは、私のように学生時代、不安な毎日の中で、 すがるような思いで求めてイエス様に会った方もおられましょう。 更には職場の人間関係、様々な問題の中で苦しみもがきながら、 本当に大切な物ってなんだろうと考えて行くうちに、 この世の富でも名誉でも地位でもなんでもない、 キリストに救われる事だと気づかされて救われた、 そういう方もおられましょう。
イエス・キリストによって救われる。 そのきっかけ、状況、導きは人それぞれであって構いません。 ただ大切なのは、イエス様の話されている宝とは何か、 それに気づくことなのであります。 そしてキリストに出会う事なのです。
畑を見ても、宝と思わなければ、 持ち物を全部売り払ってなどして行動は起こせないものです。 真珠を見ても、その価値が分からなければ、 やはり持ち物を全部売る行動にはなりません。
イエス様が言われている事は、 天の御国とは、それほど素晴らしいものですよ、と言われるのです。 これは、イエス様の第一のお勧めであります。 そのお勧めをどう受け取るかによって、 あなたの永遠の世界が決まりますよと次の段階でイエス様は迫られるのであります。 それが、47-50節に書かれている事であります。
「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。
御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、 火の燃える炉に投げ込みます。 彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」とあるとおりです。
いわゆる選別がなされるわけであります。 良い者と悪い者。必要な物と不必要な物というように。
イエス様がガリラヤ湖近くで伝道をされていた時、日常ありふれた光景というのは、 人々が魚を獲る情景だったでしょう。 それには、投網方式と、刺し網方式、地引き網方式がありました。 投網方式は、マルコ1:16に出てくるのですが、 シモンとシモンの兄弟アンデレが陸地近くで 網を投げて捕っていた方法であります。
また、刺し網と言いますのは、ルカ5:4-6にでてくるもので、 舟で沖に出て、網を張り舟で引っ張る方法であります。 イエス様が「深みにこぎ出して網をおろして魚をとりなさい」というお言葉に対して、シモンは「夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でもお言葉通り・・」 と言って網を下ろした所、いっぱい獲れたという場面がそうであります。
そして今回の話しで言われていますのは、地引網方式で、海に網を仕掛けておいて、 魚が入ったと思われる頃みんなで陸地から引く方式です。
どちらの方式にしましても、網の中に入ってくるのは、 大小様々な魚やごみでありましょう。 今でも漁は行なわれていますが、殆どは観光の為のようであります。
聖書に出てくるペテロフィッシュと言われる魚は、多くの観光客の胃袋に入りますので、とてもガリラヤ湖で取って賄う事はできません。 従って、大きないけすで養殖されております。
ところで、ここで大切なのは、先ほども言いましたが、 捕れた魚の中で、選別がなされるという事であります。 食べられる程の大きさの魚ならば、入れ物に入れますが、 それ以外のものは捨てられるという事です。
しかも、捕った魚の場合は、食べるか食べないかは人が選別をしますが、 イエス様のたとえの場合、 49節をご覧になりますと分かりますように、 「御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、」 とありまして、神様が選ばれるわけであります。 これを私たちはしっかりと覚えておかなければなりません。 私達は、選ばれる側にあるという事であります。
ある本にこのようにありました。 引き網は、その性質上良い物だけをより分けて捕る事はしないし、出来もしない。 引き網は水中を通って行く間になんでもかまわず引いて行くから、 その中には、雑多な混合物が入ってくる。
これを教会にたとえるなら、教会は選択的、差別的であることはできない。 地上の教会には、善、悪、有益、無益と色々な種類の人たちが入り混じっているが、我々はそれを裁く事は出来ない。
教会には、排他的と包括的と二通りの考え方がある。 排他的考えとは、教会は善良な人たち、いわば全面的に献身している人たち、 つまり、この世の人とは違った種類の人たちのものである、そういう見方である。
これには確かに魅力的な点もあるが、新約聖書の教えに反している。 なぜなら、ここには、誰が裁くかという問題があるからです。 そして、我々は裁いてはならないと教えられている(マタイ7:1)。 人間には、他人を裁く権限はない。 我々は誰がキリストに献身し、誰が献身していないかを決める事は出来ない。
一方、包括的な考え方とは、教会は全ての人を迎えるべきだ、 という直感的な感じ方である。 教会は人間によって形成されている限り、引き網のようにあらゆる種類の人達を 受け入れなければならない。これが、このたとえの教えである。
同時にこのたとえは、善悪がえり分けられる時、 即ち、善と悪とがそれぞれの報いを受ける時がある事を教えている。
しかし、これを分けるのは、人間ではなく、神である。 それゆえ、我々は教会に来る者をすべて集め、裁かず、区別せず、最後の審判を 裁きの権能を持つ神に任せなければならない」という風にあります。
考えてみますと、私達の教会はどなたにでも開かれています。 ですから、色々な人が来られます。
一度だけの人もおられれば、続けて来られる方もおられます。 教会員として加わりたいと申し出る人もおられれば、 教会員としてはちょっと遠慮したいという人もおられます。 礼拝だけに出て、すぐに帰る方もおられます。 旅行途中で、礼拝に立ち寄ったという方もおられます。
いずれにしましても、本当にいろいろな人がおられる中で、 この日、この時にこの場所で、皆さんと御一緒に真の神様を礼拝している事は、 これはまことに感謝なことなのであります。
この今のメンバーで、来週も同じく礼拝がささげられるかどうかは、 全くわからないからです。 そういう意味では、貴重な一時間と思えるのであります。
それだけに主の備えて下さったこの日、この時の礼拝を 私は、とても大切に思うのです。 また大切にしたいのです。 この中におられる全ての人が神の国の人であってほしいと私は願いますが、 それを決められるのは、真の神様であります。 それだけに、差別する事は出来ません。
私達は、見かけによって振り分ける事をしてしまいがちですが、 あくまでも分けられるのは神様である事を覚えたいのです。 これは、どんなに強調しても強調しすぎることはありません。
さて、イエス様の話されたたとえの部分で第三の部分、 最後の部分が残っていますので、そこに進みたいと思います。 51-52節であります。 「『あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。』 彼らは『はい。』とイエスに言った。 そこで、イエスは言われた。 『だから、天の御国の弟子となった学者はみな、 自分の倉から新しい物でも古い物でも 取り出す一家の主人のようなものです。』とであります。
何と、イエス様の話されたことを弟子たちはみな分かったと言いました。 どの程度分かったのか、私たちにはわかりません。 単に元気よく「はい」と言ったのか、 少ししか理解していなくても「はい」と言ったのか、 良くわかりませんが、いずれにしましても、 主は彼らの返事をそのまま受け取られ、話を進められました。 そこには、学者が出てくるのであります。
学者と言いますと、律法学者をすぐ私は思い浮かべますが、 まさに彼らこそ、学者と言われるに相応しい人たちでありました。 でも、イエス様の言われているのは、 「天の御国の弟子となった学者はみな」と言われています。 天の御国の弟子となったとは、イエス様を主と告白した者たちであります。
それがどんな人かと言いますと、畑に隠された宝を見つけた人、 あるいは、値打ちの真珠を見つけた人、 沢山捕れた魚の中で漁師に選ばれた魚に当たる人 そういう人たちを指していると言えましょう。
また一方で、弟子たちは、まさに宝を受け取った人たちであります。 なぜならその弟子たちは、自分の倉から新しい物でも古い物でも出せるからです。 そうイエスさまは言われるのです。
ユダヤ教の学者はその点、古い物しか出せない。 そういう皮肉も込めて言われているのかもしれません。
新しい物、古い物と言いますと、イエス様の新しい教えは、 「世の初め」にまでさかのぼるものとされています。 イエス様の教えは革新的でありますが、 その教えは、神の永遠の真理に基づいております。
イエス様のたとえの意味が分かった者は、神の国の奥義を学んだ学者であり、 イエス様の弟子たちは、「無学な普通の人間」でありましたが、 イエス様の弟子になることによって、イエス様の弟子たちは、 神の奥義を教えられ、律法学者よりもすぐれた「学者」に なることができたのでありました。
弟子たちは、「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す」事が出来る者とされました。
ここで、「新しい物」と言いますのは、 イエス様のたとえによって示された、神の奥義についての正しい理解であります。 律法学者たちは、それを理解することができませんでした。 それゆえ、弟子たちは、律法学者よりもはるかに優れた 神の奥義という宝の持ち主となったのでありました。
皆さんは果たして、 イエス様の話されている神の奥義とは、何であるかお分かりでしょうか。 畑に隠された宝、真珠を買う商人のたとえのように、 それまでの自分のすべてを捨てても、神の奥義を手に入れ、 キリストを知る事の素晴らしさを知っておられるでしょうか。
もしまだでしたら、今、あなたの前にその道が開かれていることを 知ってほしいのです。 なぜなら、イエス様のたとえの真理を理解して信じる者は、 天の御国という素晴らしい宝の持ち主としていただけるからです。
ここにおられる全ての方が、神様によって選ばれたものであってほしいものです。 そして、ご自分の命をも捨ててまで愛して下さったイエス様に 心から喜びをあらわし、天の御国の一員とされて 御一緒に歩んで行こうではありませんか。
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