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2012年6月17日(日) 「イエスに躓く」  マタイ13:53-58  竹口牧師

イエス様は、いろいろな所へ行って、神の国の福音を語られました。
その結果、当然ながら、その福音を受け入れる人と、拒絶する人が出てきました。

常識的に考えまして、一人の人の話しを聞いて全ての人が、100%賛成し、同意し、行動するとはまず考えられません。必ず、反対者がいて、違った考えを述べ、
その事によって真理がより明確になるというものであります。

そういう意味では、一人の人が話す事に何の問題も感じないで全員一致し、行動するというのは、ある意味では、その集団は暴走する恐れがあり、怖い面があることを思います。違った意見でも、小さな意見でも言うことができる雰囲気がどうしても必要です。

ところで、この朝、取り上げました聖書箇所は、そんな問題ではなく、つまり話された内容ではなく、話された内容と話した人との間に、自分たちが考えている人物像と大きな開きがある、そこに、人々が戸惑いを覚えたという所であります。

イエス様は、きょうの聖書箇所に入る前の所で、天の御国の素晴らしさを話されました。それは、何としても手に入れたいと思うほどのものである、という事でした。
その後、ご自分の郷里つまりナザレに帰られ、そこにある会堂で話しをされるのであります。

イエス様は、カペナウムを根拠地として、あちこちに行って活動されました。
そして御自分の郷里でも話したいと思われたのでしょう。
ナザレに帰り、会堂で人々に教え始められました。

会堂で公の礼拝を行うためには、成人男子10人の出席が必要で、そういう会堂は、至る所にありました。そこにはまた会堂管理者がいまして、そこにいる長老たちの合議制で運営されており、長老たちは会衆の中から選ばれ、会堂管理者は輪番で任命され、会堂で話す人も決められる決定権がありました。会堂で話す人は、必ずしも学者でなくても、会堂当局が認可しさえすれば、一般人でも出来たと言われます。

ということで、イエス様も話すチャンスが与えられたのでありました。
イエス様は、あちこちで話しをされ、また人々の病気を癒され、そんな事が郷里のナザレにも伝わっていたと思われます。ですから、会堂管理者がイエス様に話しを頼んだのは、何の問題もなかったと思われます。

イエス様としては、ご自分がメシヤである事を知ってもらいたい。そのような思いで、話されただろうと思うのであります。

ルカの福音書によりますと(4:17-20)、このように書いてあります。
「預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。」と、であります。

ここまでは、何の問題もありませんでした。
イエス様のご意思どおりが行なわれていたわけであります。
問題は、次の段階でありました。

郷里の人たちはイエス様のお言葉を聞きました。そして驚いたのであります。
では、なぜ驚いたかでありますが、彼らはこう言っております。
まず一つは、「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」という事でありました。

イエス様の公の生涯は、約3年半と言われます。
その内の約2年間は、ガリラヤ伝道に専念されました。
その終わりの頃の事がきょうの場面であります。
そこで人々は言うのであります。

『たったの1年や2年で、こんなにも人が変わるものか。いったいどうしたことか。
自分達の知っているイエスは、大工の息子だ。』というようにです。

ここで、お断りしておきますが、この大工の息子と言いましても、ご存じのように、この日本ではかつて昔の家は、木造でした。今でこそ、木造もあれば、鉄筋コンクリートもあれば、鉄骨造りもありで、いろいろですが、昔は木造でした。

そしていうまでもなく、パレスチナでは、昔は、石造りまたは、レンガ造りであったわけであります。ですから、大工と言っても、木造の家を建てるような仕事ではない訳です。

ものの本によりますと、この大工という言葉は、「細工する人」の事で、石工も木工もこの言葉で表し、従って、木材大工は、家の中の調度品や造作を扱う便利大工的な職業ではなかったかと言われます。こういう種類の職業は、ユダヤではかなり尊い職業として尊ばれていたそうであります。

ですから「この人は大工の息子ではありませんか。」という言い方は、決して一般人より見下げた言い方ではないと言われます。
むしろ、我々と同等の人だという意味の言葉であるそうです。

従って、イエス様が今回話された言葉と、
と言いましても、きょうのところでは、聖書箇所の解釈の部分は何も書いてありませんが、いずれにしましても、ついこの間、1,2年前のイエスと、今先ほど話したイエスとでは、一体どういう変わりようなのだというわけであります。

「彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」という事になったのでありました。

これは、イエス様が公の生涯に入られる前の姿を身近にし、
約30年間共にした人たちならば、当然、こういう風に感じても不思議ではありません。

人は、堕落するのは、そんなに時間は必要とはしません。
新聞やテレビや週刊誌に載ろうと思えば、簡単にできる事です。
でも、それは、良い意味での取り上げられ方ではできません。
凶悪事件を起こせば、マスコミは飛びつきます。

では今、ナザレの人たちがなぜ、イエス様を見て、
そして語られる言葉を聞いて驚いたかといいますと、
堕落ではなく、凶暴ではなく、その逆だったからであります。

「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」でありました。
ナザレの人たちは、イエス様は生まれながらにして、そういう能力、力をお持ちであったのを知らなかったので、驚きもひとしおであったわけであります。

イエス様は、人の子として、小さな赤ん坊で生まれられました。
小さな赤ん坊であるから神の子ではなかった、ではないのです。
小さな赤ん坊であっても、神の御子でありました。

12歳の時の逸話だけが残っていますが、30歳までは、普通の人として歩まれた。
そして、公の働きに入られて、ご自分の力を明らかにされたのでありました。
ですから、人々は、その現われの変化に戸惑ったわけであります。
ここには、父親のヨセフが出てきませんので、父親は、もうすでに亡くなっていたのだろうとも言われております。

いずれにしましても、普通のありふれた家族から、あのような立派な事を話すイエスになろうとは、一体これはどういうわけだという事になるのであります。
57節にこうあります。
「こうして、彼らはイエスにつまずいた。」であります。

なぜ、躓いたのでありましょうか。
ある本にこう書いてありました。

旧約聖書の大預言者は、モーセもサムエルも、系図も生まれもはっきり公表されています。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、ヨエル、ヨナ、ゼパ二ヤ、ゼカリヤのような預言者は、むしろ自ら進んで氏素性を名乗り出ます。アモスのごときは、はっきりと元はテコアの牧者にすぎなかった、と自己紹介するほどです。

ですから、預言者たちは、こつ然と前歴も分からずに出現したから信じられたのではなくて、父母兄弟が分かっていても、元の職業が分かっていても信じられたのです。
特に自分の郷里の村人から侮られた例はほとんどありません。
エレミヤは、郷里アナトテの人々から迫害されたが、それは彼の氏素性のせいではなく、彼の説教が好まれなかったからである(エレミヤ11:18-23)、とであります。

ナザレの人たちが、イエス様の事をよく知っていたから、イエス様に躓いたというのは、正しくないという事です。

しかし、ここで問題となってきますのは、イエス様がこう言われている事です。
57節途中からですが、
「しかし、イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。』」とです。

これは一体どういう意味だという事になってきます。
確かに、氏素性が分かっているとやりにくいという面はあります。
別の本にこう載っていました。

今日、日本でも、誰か伝道者が、自分の郷里で伝道しようとすると、
「そんな無理するな。預言者は故郷では受け入れられないとおっしゃっているではないか。」と申します。中には、それでも伝道して成功しますと、「イエス様にも出来ない事を私はやった」と内心ひそかに自負することになるのです。

「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われない事はない」
伝道者のことだけではないでしょう。皆さんが、それぞれに、自分が預言者、神の言葉を語る人間だ。とお考えになればよいのです。

例えば、一人の家庭の主婦が、信仰者として熱心に教会生活をして伝道をします。
友人を教会に誘い、信仰に導きます。
それはうまくできても、なかなか自分の家族には伝道しにくい。
自分の家庭では、なかなか重んじられない。夫に分かってもらえない。息子や娘にも理解されない。

その時、自分を慰めるためにも、この言葉を用いる事が出来るかもしれません。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
私も、だいぶ預言者らしくなったものだ、と言えるかもしれません。
しかし、どういう風に読もうが、一体それで、ここにおける、本当の主イエスの姿を読みとった事になるのでしょうか、とであります。

話しは、まだまだ続きますが、
この問いかけは、非常に大切であると思います。
先ほど、別の本を引用し、旧約の預言者の例を挙げました。
それは、氏素性のわかっている預言者が用いられたという事でした。

私達は、体験的にも、伝道のしにくさを感じることも確かです。
では、イエス様は、何を意図して、あのような事を言われたのか、
私達は、そこに目を向けなければならないと言えましょう。

マタイは、その結論を、58節で言います。
「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかた。」とであります。
つまり、「彼らの不信仰のゆえに」ということになってまいります。
イエス様の小さいころからの事を知っているか知らないか、そういうことは、一切関係ない。彼らの不信仰が問われるべきであるという事です。

ある人は言います。
「主イエスの郷里ナザレの人が、イエスを天からのものとして認めなかったということは、メシヤの故郷であるユダヤ民族そのものが、メシヤをメシヤと認めない事の象徴的な出来事だったと言えます。」
ヨハネ1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」のとおりです。福音の種が、あちこちにまかれています。それは、他人から運ばれて来ている事もありますし、肉親の兄弟姉妹、家族から伝えられているかもしれません。あるいは、1冊の身近にある本からも語りかけられているかもしれません。

いずれにしましても、神様はあらゆる方法を通して、
イエスは主なり。イエスは救い主なり、
イエスは、あなたのために十字架にかかった救い主である、
その事を語り続けておられるという事であります。

それに対して、真摯に受け止め、受け入れるべきであって、
決してイエスに躓いてはならないという事でありましょう。

今もイエス様は、あなたに語りかけておられます。
イエス様の語りかけに素直に応答する事は何という幸いな事でありましょうか。
逆にまた、イエス様に躓く人は、何という愚かな事でしょうか。
イエス様を主と認めて、その方に従う事の幸を、ここにおられる全員が、
実際に従う事によって、その素晴らしさを味わっていただきたいものです。


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