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2012年8月12日(日) 「神の言葉と言い伝え」 マタイ15:1-9 竹口牧師

私達は、時に、子を見れば、どんな親か分かるとか、子供を見ながら、親の顔を見てみたいものだとか、そういう言い方をします。それ位、親子の関係は似ていると言いましょうか。親の育て方が、子供によく現われてくるものであります。

田舎では、バスに乗るのに、お願いしますとか、ありがとうございました、とかいう子供がいます。東京でも、行っている学校によっては、学校の教育方針として降りる時には、「ありがとうございました」というように教えられているのでしょう。大きな声で「ありがとうございました」という生徒をみかけます。

その子供たちが大きくなった時、挨拶というものは、そのようにするものだということを身を持って教わっていることを感心して私は見ております。

近所の人に何か貰ったなら、必ず親に告げ、親は、その事のお礼を必ず返す、これが、田舎ではしきたりでありました。「ありました」というのは、もう長い間、田舎に私は帰っていないからでありますが、田舎では、さまざまなしきたりがあり、それが、代々伝えられて行くものであります。

よその土地から移ってくると、まず、それを覚えることからしなければならないのが普通です。しかし、土地によっては、何十年経っても、その土地の住人とは認めてくれない所もあるようで、古いしきたりの強い所は、そのように聞いております。
そのような所に、キリスト者が住みつくというのは、なかなか大変である事を思わされます。

ところで、きょう、取り上げました聖書箇所では、イエス様と弟子たちが、ガリラヤ周辺で伝道活動をされている時に、わざわざなのか、何かのついでなのか、特務命令を受けてなのか分かりませんが、パリサイ人や律法学者たちがやってくるのであります。

ある人は、彼らの事をガリラヤの異端運動を調査する査察官であった、などと考える人もいるようであります。いずれにせよ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからガリラヤに来て、イエス様に抗議する所であります。

彼らはこう言いました。
2節「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」とであります。

これは、決して、衛生的な面で指摘している訳ではありません。
宗教上の問題でありました。
つまり、パリサイ人や律法学者たちは、先祖伝来の言い伝え、伝承をきちんと守っているのにあなたがたは、どうしてそれを守らないのか、という抗議でした。
いわば、社会の秩序を乱さないでくれという事です。

日本で言いますと、日本古来の習慣に従ってくれ。
あなたや、弟子たちであるあなた方は知っているでしょう、ということになるでしょう。言うまでもなく、神の教えはこうだ。だからそれに従っていただきたいという訳です。そう言われているのは、イエス様をはじめ、弟子たちでした。

ということは、ユダヤ人ならではのしきたりというものが、やはり存在し、知っていたというわけであります。食事の前に手を洗う、これはユダヤ人なら一般的な事でありました。

それは、先ほども言いましたように衛生的な面ではありませんで、昔からの言い伝えで、いわゆるけがれという宗教的な面が関係しておりました。きよいものと、けがれたものという、相対することでありました。

ですから、ある人がきよいという場合、その人が神を礼拝し、神に近づく事が出来る、そういう状態である事を指します。

一方、その逆に、汚れている者と言いますのは、神を礼拝し、神に近づく事が出来ない状態にあることを指します。この汚れは、特定の人や物に触れたり、特定の物を食べたりすると、うつるとされました。

たとえば、血が出ている女性は、たとえその血が健康で正常な血であっても汚れていましたし、子供を産んだ後は、一定期間汚れていました。また、死体はどんなものでも汚れていましたし、これに触れた人は汚れました。また、異邦人はすべてが汚れていました。そのように伝えられていたわけであります。

この汚れは、他のものにうつる、いわば、伝染性のもので、たとえば、ネズミが土器に触れると、その土器が汚れ、その器は儀式によって洗いきよめられなければ、その中に入れられる物は全て汚れるとされました。

そこで、この器に触れたもの、この器に入ったものを食べたり飲んだりした者は、ことごとく汚れた。そして、その汚れた人に触れた人も汚れたとみなされました。

ということで、どこかに外出した場合、どこで汚れたか、汚れていないか分かりませんので、食事の前には必ず、きよめの手洗いが習慣となった訳でありました。
それは、習慣であって、具体的に手を洗わなくてはいけないという教え、律法からのものではありませんでした。強いて言うなら、レビ記9:2にまでさかのぼることになります。

つまり、「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」という言葉です。
神様が聖なるお方なので、その神の民である者は汚れていてはいけないということでありました。

しかし、それが、食事とどのように結び付いたかは分かりません。
パンは、主がお与えになる神聖なものと考えられましたので、そのパンに、汚れた手に不浄がつくと、食べた人の魂まで汚れると考えられたのでしょう。

ことは、それだけでは終わりませんで、同じ食卓につく家族や客人まで全員が神の目には汚れた者になる、というのがラビたちの考えでした。と言いますか、言い伝えでありました。

言い伝え、つまり律法を説明的に解釈しなおした規則であり、いわゆる口伝律法と言われるものでありました。食事の前には必ず手を洗うなどいう決まりは、律法にはありませんが(レビ記22:1-16)、ただ、祭司にだけ、汚れたものから身を清めるために食前には必ず沐浴する事が求められていたのでした。

沐浴ですから、単に手を洗うというのとは違っていました。身体を水に浸すのですから、特に冬の沐浴は大変な事でした。

が、それはともかく、ユダヤ人たちは、聖書の正しい解釈を求め、多くの議論を重ね、それらはいつしか神の言葉と同等、時にはそれ以上の拘束力を持つものと見なされるようになっていったのでありました。

で、イエス様は、彼らの2節の質問に対してどう答えられたかと言いますと、3節「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。』」とでありました。

イエス様は、問われた事に対して逆にまた問い直されたわけでありました。
そして、具体的な例を挙げ、反論されたわけであります。
4節「神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。」とでありました。

『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』とは、非常に厳しい、重い刑である事がお分かりでありましょう。死刑とは、いうまでもなく最高刑であります。父や母を殺したというのならまだしも、ののしる者は、死刑に処せられる、であります。

それは、両親が神に忠実でなければならないように、子供にとっては、親が神的な存在であって、親を通して神の教えを聞いて育つ事が求められていたのでした。それだけ、親には教育の責任もありました。

4節の「神は『あなたの父と母を敬え。』」とありますが、これは、十戒の第5番目に当たる大切な教えであります。その教えをあなた方は守っていますかと、イエス様は逆に質問されたのでありました。
「守っていないでしょう!」という断言的な言い方です。

そう言える理由をイエス様は続けて5,6節で、こう言われました。
「それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。
こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」とおっしゃいました。

特に6節の後半の言葉は強烈であります。
「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」とは大変な問題であります。神の言葉こそ大切にしなければならないのに、神のことばを無にしてしまうなどとは、あってはならない事です。
それが、まかり通っている。これは異常事態であります。

ユダヤのラビたちが考えた事は、神様にお献げしますとか、献金しますとか言っておいて、後で気が変わる事を防ぐために、一度口でコルバン、即ち献げ物です、と言ってしまえば、それを他の用途には使う事は許されないという決まりを、口伝律法として作ったわけでありました。人には気が変わるというそう言う弱い部分があるからであります。

ところが、それを悪用する者も出てくるわけであります。
具体的には、人に返す借金が手元にあった時、それは、献げ物という事にしておこうとか、人が困っているのだが、でも助けてあげたくない、そこで、コルバン、献げ物だからできいない、ということにしよう、ということになっていきました。

これは、Aさんにはコルバン、Bさん、Cさんにだってコルバン。
そう言って、「ごめんね。これらはみんな神様への献げ物なので」とそう言って、相手に返すとか、あげるとかしない、そういうようになってきてしまっていたのでした。

ある物を神様に一旦ささげると決めたなら、たといそれが、両親であろうと、それも両親の扶養のために必要な物であっても、口伝律法に基づいて、それを両親のために用いる事は禁じられていた、それが口伝律法の一つであった訳です。

言うまでもなく、神様への誓いは大変大切です。
従って、そう簡単に誓いを変更する事は許されません。
しかし、イエス様は、そのような誓いを機械的に絶対守らなければならないとは考えられませんでした。

一旦神への献げ物として、決めたものであっても、両親の扶養の義務を果たすことの方が優先して良い。イエス様は、しゃくし定規に律法を適用する事には反対でありました。

安息日に仕事をしてはならないというのも同じ事であります。
安息日に病人を癒したなら、それは仕事をした事になる。
そういう考えは、正しくないとイエス様は考え、行動されました。

何を神様は本当に喜ばれるのか、それをよく考えて行動をしなければならない、
そのことを、パリサイ人や律法学者に述べられたのでした。

7節でイエス様は彼らに対して「偽善者たち」と言われています。
これもまた、大変強烈な言葉であります。
面と向かってこのように言うのは、なかなか勇気のいる事です。
でも、イエス様は、権威を持っておっしゃいました。
「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。」とであります。

では、そのイザヤは、何と書いているでしょうか。
8節、9節
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』とです。

これは、紀元前700年頃に活躍しましたイザヤが書いた言葉です。
その当時の南ユダの王ヒゼキヤとその宮廷が、イスラエルの民に神の御前に敬虔であるように要求しました。その結果、民らの行動は変わりました。しかし、それは、実はうわべだけにしかすぎませんでした。

従って預言者イザヤは、そのような民の姿を厳しく非難したわけでありました。
それがイザヤ書29:13で言われている事でありまして、そして、同じような事が、このイエス様の時代のこの時、起きているとイエス様は指摘されているのであります。

イエス様の時代の宗教指導者たちは、先祖からの言い伝えをきちんと守っており、表面的には敬虔に見えましたが、しかし、実際は表面的であり、内実は全く異なっており、神様から離れていることをイエス様は見抜いておられました。それは、預言者イザヤが糾弾した時代の民衆と少しも変わらないということでありました。

ということは、では一体現代の私たちにはどうなのか、形式に陥っていないのか、言葉だけになってはいないだろうか。私達はもう一度、神様は私達に何を求めておられるのか、真剣に問い直す必要があると思うのです。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』と言われるような信仰生活になっていないだろうかと、です。

そして、もし悔い改める所があるなら悔い改め、神様の喜ばれる姿へと変えていただかなければなりません。主が皆さんを選ばれ、神の子の一人として受け入れて下さった恵みは、何にも変えられない素晴らしいものです。

そんな素晴らしいものを頂いている私達は、主の教えに正しくお従いし、また正しく応答していこうではありませんか。

2012年8月19日(日) 「聖か俗か」  マタイ15:10-20   竹口牧師 

先回は、15章1節から9節までを見ましたが、実は、話しはきょうの20節まで続くのでありまして、従って、今回は後半を見る事になります。

先回見ました所を、もう一度ざっと見ておきますと、パリサイ人や律法学者たちが
エルサレムからイエス様達がおられるガリラヤにやって来まして質問を致しました。

「あなたの弟子達は、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」とでありました。

これは、先回も申し上げましたが、こんにち、食事の前に手を洗うという習慣、それは、衛生上の問題ですが、そういう事とは全く関係がなく、宗教的なことであると申し上げました。

しかも、それは、神の御言葉に関係する事というよりは、それから派生した口伝律法で、ユダヤ人たちが大事に守って来ていた事に関係していました。パリサイ人や律法学者たちは、その先祖伝来伝えられ、守って来ていた事をしないのは一体どういう事だ、そう言って、イエス様に迫ったのでありました。

それに対して、イエス様は、形骸化した律法、それによって、神の言葉を無にしてしまいました、と言われました。

そしてそれは、どういう事かと言いますと、
預言者イザヤの言葉を引用されて、説明されたのでした。
8節、9節『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」と言われました。いわば、神に対する心が大切であると言われたのでした。

そして、きょうのところ入りますと、更に、その心の問題が大きく取り上げられるのであります。

10節11節に入りますと、
「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。』」と言われて、更に前の話しが続くのであります。

ここで「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。」とありますから、今、イエス様が話されている事は、多くの人に注目されている状態なのであります。そして、それだけならまだよいのですが、どちらが正しいか、見守っているという事態であります。

弟子たちは、この時、気を利かしたつもりでイエス様に、言うのであります。
「パリサイ人が、御言葉を聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」とであります。
あるいは、「腹を立てた」の所に印がついておりまして、欄外を見ていただきますと、あるいは「躓いた」とあります。

意味は、どちらでもいいのですが、要するに、パリサイ人や律法学者が自信を持って言った事に対して、予期せぬ言葉が返って来ましたので、否、否定された言葉が返ってきましたので、パリサイ人達の頭には「カチン」と来たというわけであります。

ここで一歩引いて物事を考えられればよいのですが、大抵は、そうはいかないのが現実であります。

が、しかし、ここではイエス様は、そうさせないで、更にたたみかけるように言われておりますので、この状況を想像します時に、パリサイ人や律法学者の心は、煮えたぎるような怒りではなかったかと思うのであります。

弟子たちは、パリサイ人や律法学者たちが憤慨したのを見て驚き、一体これはどういう事なんだとパリサイ人たちが腹を立てた意味が良くわかっていません。

ですから、イエス様が言われた言葉が分かっているようで今一つ分かっていない。
しかし、パリサイ人や律法学者達は怒っている。
そんな中で、更にイエス様のお言葉は続くのでありますが、恐らくパリサイ人や律法学者の心の中は、こんなものではなかったでしょうか。

イエス様に対して彼らは「そんな暴言は許されない。モーセの律法に何が書いてあるのか知っているのか。不浄の食べ物を口にする異邦人の汚れに染まるな。神の民は、自らを聖く保て。そのための律法であり、そのための口伝律法ではないか」と、そんな感じではなかったでしょうか。

そんな雰囲気を悟ってか否か分かりませんが、弟子たちはおろおろするばかりであります。「イエス様!ここには大勢人もいる事ですし、ここは何とか穏便にしてくれませんか」と弟子たちは言いたかったかもしれませんが、イエス様は、そうはされませんでした。

間違っている事は間違っているとはっきり言われるのであります。
13,14節であります。
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし盲人が盲人を手引きするなら、二人とも穴に落ち込むのです。」とでありました。

まあ、後半は、たとえとしては分かるとしましても、
一体それで、何をイエス様は言おうとされたのか分からない。
まして前半はなおのこと分からないというのが、私たちでしょう。

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。」とは一体どういう事だ、ということになります。

恐らくイエス様は、こう言われたのでありましょう。
「あのパリサイ人や律法学者たちは、神様ご自身が、この国に自ら植えて下さった木のつもりでいるが、それは、とんでもない。彼らは瞬く間に根こそぎユダヤの地から抜き取られて、焼き捨てられる。ただの偽物だ。恐れる事はない」とであります。

そして、後半は、パリサイ人たちが伝承、伝承、あるいは言い伝え、言い伝えというけれども、ラビの戒めばかりを気にして礼拝していると、間違った礼拝となってしまうよ、という事でありましょう。

言い伝えではなく、神の御言葉が大切であるという事です。
御言葉が私達に何を語りかけているか、それを正しく聞きとらなければならないという事です。

これは実に、パリサイ人や律法学者達には、大変強烈なことばでありました。
でも、弟子たちには今ひとつよくわからないということで、弟子たちを代表してペテロがイエス様に質問いたしました。

「イエス様。『私たちに、そのたとえを説明してください。』」とです。
そこでイエス様はこう言われました。
「あなたがたも、まだわからないのですか。」とであります。

弟子としては、申し訳ありませんという状況であります。
そしてイエス様は続けてこう言われました。
「口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
これらは、人を汚すものです。
しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」と。

何度も申し上げておりますが、
ユダヤ人が食前に手を洗う習慣は、普通の衛生上のためではありませんでした。
「汚れ」とか、「汚す」とかという宗教上のことでした。
あの人は不潔だとか、不衛生だとかそういう問題ではありません。
ユダヤ人たちは、地上でまことの神を知る唯一の民族として選ばれ、聖別されてきた神の民でした。他の民族は、彼らから見れば、異邦人であり、それはまた、汚れた民族を指しておりました。

つまり、神様はユダヤ人を特別に選ばれた民として立てられ、ユダヤ人はそれを意識して歩まなければならなかった訳です。あの手、この手で、神様は彼らユダヤ人に語られました。おもには、神の律法を持って教えられたのでした。

その中には、特に「聖別された状態」と「そうではない状態」との区別を明確にされました。それによって、「きよい」とか「汚れている」とかの区別がなされたわけであります。

選民は、異邦人が食べる俗の食事と区別され、きよいとされる食事しかできませんでした。従って、異邦人との宴会や交際も許されませんでした。
こうして、彼らは異邦人のように俗な民族にならないようあらゆる方面から注意すべき事が教えられていたのでした。

そういう状態ですから、パリサイ人は、町の賑やかな所へ出ると、どこで異邦人と接触しているかわからないということで、汚れが手についているかもしれない。手から食品に、食品から体内に入るかもしれない。そこで、食前の清めを始めました。

でも、やがては食後にも手を清め、時には、食事中にも手を清める程になったと言われます。イエス様は、そういう誤った教えに対してばっさりと切られたわけであります。

「あなたがたも、まだわからないのですか。
口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。」とであります。

でも、考えてみれば、口から入る物だって悪ければ、下痢は起こすし、食中毒にもなります。
でも、イエス様は、ここでそんなことを言おうとされている訳ではありません。
「口から入る物が人を汚さない」
「口から入れば、腹を通って、外に排出されるだけ」である。
だから、その人を汚す事はない、という事であります。

「それは、人の心に入るのではなく、腹の中に入るのである」
だからイエス様は、ここで、人の腹と心とをはっきり区別されているのであります。
確かに、口から入った物は、ある物は吸収され、血となり肉となります。エネルギーになります。いらない物は、排出されます。

それによって、人に迷惑をかける事もあるかもしれません。
しかし、心とは一線を画しているのであります。
口から入った物が、それ自体の物で、人の心を汚したり、清めたりする余地はないのです。大切なのは心なのです。
それをイエス様は、ここで言われているのです。

18節19節「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」と。

私達の教会学校では、礼拝の中で偶数月は、主の祈りを、奇数月には、十戒を言う事にしていますが、その十戒はこうであります。
1番目が、あなたには私のほかに他の神々があってはならない
2番目が、あなたは自分のために偶像を作ってはならない。
3番目が、あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。
4番目、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
そして5番目、あなたの父と母を敬えであります。
イエス様が、この15章で言われた4節の言葉であります。
6番目が、殺してはならないです。
7番目が、姦淫してはならない、です。
8番目が、盗んではならない、です。
9番目が、あなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならないです。
最後の10番目が、あなたの隣人の家を欲しがってはならないです。

こうして十戒を見て行きますと、今見ています聖書の所、19節でイエス様が言われている事は全て入っております。

そして、これは、食べ物で出てくるものではなく、心から出てくるものであることもはっきりとわかります。
手を洗って聖くなれるものでもなく、沐浴をしたから、きよめられる訳でもありません。まさにイエス様が11節で言われた通りであります。

「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
私達は、この汚れの問題を解決するためにどうしたら良いのか、それを真剣に考えてみなければなりません。そしてそれは、イエス様に敵対することではなく、イエス様を受け入れる事以外に解決はない、そのことに行きつくのです。

イエス様を殺そうとしたガリラヤのパリサイ人も、エルサレムから来たパリサイ人や律法学者たちも、彼らのしている事は、イスラエルの民を惑わす事はあっても、決して神との良い関係を築くように民を指導はしていないのです。

私達は、自らを省みる時、イエス様の19節の言葉が深く心に突き刺さります。
今もなお、深くその罪があることを覚えます。
けれども、それを自分の力ではどうする事も出来ない。
イエス様だけが、それを洗いきよめて下さる方である事を知って、
御前に出る事を許されているのです。

私達は、その事の恵みを神様に感謝しようではありませんか。
古傷がうずきます。
怒りがこみ上げてくることもありましょう。
しかし、それをすべて取り除いて下さるのはイエス様だけです。

ですからイエス様に敵対するものではなく、
イエス様により近くあることを願おうではありませんか。

聖なる者か、俗なる者か、それは、神様の目で見られての判断であるべきです。
そしてもし、ご自分を俗なる者とお考えであるなら、遠慮なく御前に出て聖なる者に
イエス様に変えていただこうではありませんか。

私たちは罪赦された罪びとです。
罪はイエス様の身代わりによって赦されましたが、今もなお弱さを持っている者です。
その事を自覚しつつ、聖なる者とされているに相応しい歩みをさせていただきたいものです。

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