2012年10月14日(日) 「思想の嵐の中で」 マタイ16:5-12 竹口牧師
きょうの聖書箇所は、私たちが大変陥りやすい危険について書かれていますので、注意しながら読み、心に留めたい箇所です。
その一つは、イエス様が言われた事を正しく受け取らないで早飲込みして、勘違いするという点です。5,6節にまず、こうあります。 「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。』」というふうに、であります。
私たちが、心の中に心配事、失敗した事がありますと、そのことで頭がいっぱいになりまして、それに関係する言葉を聞いただけで、自分勝手に話しを造り上げて心配したり、失敗した事を思い出す事があります。それも、話しの前後をよく考えないで、 直感的に捉えてしまいやすさがあります。
今回の話しも、それに当たるのではないかと思います。 「パンを持って来るのを忘れた。」 だから、イエス様は、遠まわしに注意をされているのだとです。
もう一つ、きょうの所で目を引きますのは、7節で彼らは、議論を始めた、という点であります。イエス様の弟子たち、それも個性豊かな12人でありました。 また、誰にでも長所短所のある者の集まりです。 更には、うっかりミスというのも、誰でもが犯す事であります。 配慮に欠けるという事もまた、人生の中にはあるものです。 注意深くしているつもりでも、失敗はするものであります。
今回の話しで誰が不注意であったのかは取り上げられていませんが、パンを持って来るのを忘れた、そのことでここでは、弟子たちは、イエス様のお言葉に、非常に敏感に反応し、議論を始めたというのです。
イエス様は「パンがないからだとなぜ論じ合っているのですか」と言われていますが、 彼らは、果たしてどういう議論を始めたのでありましょうか。 議論に値する話し合いだったのでありましょうか。 誰が持って来るのを忘れたのか、責任追及か、 どうして忘れたのか、原因追究か、 いつ準備すれば良かったのか手順の問題なのか、一切分かりません。 ただイエス様が言われた「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と言われた時、「パンを持って来なかったからだ」ということで 頭がいっぱいになっていたように思います。
議論の内容は、全く書かれておりませんのでわかりませんが、内容はともかくも、弟子たちでも、そういう話しをするというのは、必要であると同時に、ひとつにまとあげる必要はあります。仲間同士、非常に愛あるグループである必要があるからです。
しかし、ここにはどうもそのようには見えてきません。 論じると言いますと、聖書の他の個所にも出てきます。 マルコの福音書9:34ですが、イエス様が弟子たちに「道で何を論じ合っていたのですか」と問われますと、弟子たちは黙っていたとあります。 なぜなら「誰が一番偉いか論じ合っていたからである」ともその後に続けて書いてあります。
弟子たちの中で、誰が一番偉いかなどということは、考えただけでもバカバカしいと私達は案外思いがちなのですが、しかし、私達も気をつけませんと、兄弟姉妹同士で競い合うということも無きにしも非ずであります。
互いが高め合うための競い合いならまだしも、足の引っ張り合いをしているなら、それは主の御心ではありません。パウロは、Tコリント12:20-21において、その前の方で、
「たとい、足が、『私は手ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 たとい、耳が、『私は目ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。」
そして20、21節でこのような事を云っております。 「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。 そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うこともできません。」とです。
つまり、私達はキリストの身体の、どこかの部分を担う事を赦されているのです。 しかも、どの部分も大変必要なのです。無くてはならない存在なのです。 その事を考えますと、誰が一番偉いか等という事を考える事自体が愚かな事であります。
そんなことは考えないにしても、あの人よりはまだましだ、などと考えるなら、 それもまた、正しくない心の状態である事を覚えたいのです。 人と比較して何の益にもならないのであります。 それよりも、主に如何にしてお仕えするか、その事に心を注ぎたいものです。
ところで、弟子たちがきょうの所で、「パンを持ってくるのを忘れた」ということは、 どれほど重要であったのか、それともさほど重要なことではなかったのか、そのあたりも気になる事でありますが、実は、今回の場合、真剣に考えなければならない理由というものが彼らにとって、全くなかったわけではないようであります。
と言いますのは、5節の所でこうあるからです。 「弟子達は向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。」つまり、イエス様をはじめ、弟子たちは向こう岸に行った、その点にありました。なぜなら、厳格なそして正当なユダヤ人であるなら、異邦人が焼いたり、手を触れたパンなど食べなかったからです。
従って、対岸でパンを買うことなど出来ない。 そういう事も考えられたからだとある人は言います。 もっとも、言うまでもなくイエス様や、その弟子たちは、そういう事はことごとく守らない、言い伝え、慣習には従わない。なぜなら、パリサイ人たちが言うような事の多くは、聖書では言っていないのでイエス様は、言い伝えの多くには従われなかったからです。
ですからイエス様をはじめ弟子たちは、現地で調達しても問題はなかったように思います。行った場所で準備しても、何の問題もありませんでした。
ところでこうして考えて見ますと、弟子たちが議論したというようなことは、話の内容にもよりますが、私達にもあり得る事であります。そして私達となんら変わらない事に気づかされると共に、その事を思うと、時に情けなくもなってくるのであります。
とは言いましても、このような弟子たちでありましたけれども、イエス様は忍耐され、愛をもって弟子たちの訓練に当たられるのであります。そして同じように、私達に対してもイエス様は、忍耐をもって接して下さるのは、何と言う幸いでしょうか。 イエス様は9-11節でこう言われました。
「16:9 まだわからないのですか。覚えていないのですか。 五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。 16:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。 16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、 どうしてあなたがたには、わからないのですか。 ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」とであります。
考えて見ますと弟子たちは、イエス様がなさったパンの奇跡を実体験しているのであります。それも、何十年も前のことではありません。長くて1年、短ければほんの数ヶ月前の事であります。
ある時は、5千人養い、またある時は4千人養い、しかもその後、残りのパンくずを集めさせられました。有り余るほどのパンとなったのでありました。
イエス様が、残りのパンを集めさせたのは、「弟子たちが、そのイエス様の御力覚えておくためであった」、そのようにいう人もおります。ですから、彼らがパンを持って来るのを忘れたくらいでああだこうだと議論する必要などさらさらないのであります。
もっとも、イエス様のなさる奇跡というものは、イエス様がご自分の必要の為になさるとは思えません。また、人々を救う事が目的だと言って、イエス様のもとに来ない病人をも全て癒すなどという事もなさらなかったのは、そういう事でありましょう。 何々地区の人の病気は、どんな病気でもその地区にいるだけで癒された。そんなことはされませんでした。やはり限定的であり、父の御心を行うためであったと言えましょう。
神様が、イエス様を遣わされたのも、また、弟子たちを通して福音を伝えられたのも、みな、深い神様のご計画の中で進められていますので、なんでもかんでも、奇跡を起こされ、御自分が神の御子である事を示された、そういうこともなさらなかったと言えましょう。
そういう意味では、パンを持って来なかったというのは、自分たちの失敗であり、弟子たちにとっては、心配の種であったともいえます。そして、それが、イエス様のお言葉とリンクして、横道にそれて行ったと言っていいでしょう。
イエス様は11節でこう言われました。 「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただパリサイ人やサドカイ人達のパン種に気をつけることです」と。
実は、本当に警戒しなければならないのは、パンではない、パン種の事なんだよとイエス様は言われるのです。勿論、ここでは、パン種は悪い例として挙げられていますが、聖書に出て来るパン種は全て悪いという風に受け取る必要はありません。
すでに13:33で見ましたように、 イエス様はたとえで、「天の御国は、パン種のようなものです」と言われておりましたが、そのパン種の働きは、世界全体に浸透していき、内側から変えていく生命力をそこでは示しており、良い意味で使われておりました。 ですから、良い意味か悪い意味かは、このパン種という言葉からは気をつけて読まなければならない言葉であります。
ところで、「ただパリサイ人やサドカイ人達のパン種に気をつけることです」と言われておりますが、では、パリサイ人やサドカイ人の共通している注意点とは何でしょうか。彼らのパン種に相当するものは何か、という事になるでしょう。
マタイは12節で、こう解説しております。 「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、 パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」とであります。
では、パリサイ人やサドカイ人達の教えとは何か、ということになるでしょう。 私は、話しの途中でイエス様は、聖書の言っていない「言い伝え、慣習には従わない」お方である事を申し上げました。
では、そもそも、パリサイ人とかサドカイ人とは一体どういう人たちだったのかということになりますが。 パリサイ人又はパリサイ派と言いますと、律法主義ということにあります。 律法を厳格に解釈し、出来るだけ忠実に実行しようとしました。 しかし、それと共に、解釈の問題でどんどん複雑になり、父祖の伝承として、口伝律法なるものも時代の流れと共に出来てきました。
しかもそれが大変重要な位置を占めるようになって行きました。イエス様の時代が、まさにそうでありました。ですから、律法に垣根をめぐらす者として非難をされましたが、しかし、彼らは、一歩も引きませんでした。
一方、サドカイ人は、エルサレムの神殿を中心とする祭司家系に連なる裕福な上流階級でした。特に特徴的なのは、パリサイ人と違って復活はないと主張し、肉体の甦り、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を否定し、そのような宗教的な事よりも、むしろ政治の方に関心がありまして、政治的な混乱を極端に恐れておりました。
ですから、当時の支配者であるローマとは出来るだけ問題を起こさないよう立ち回っていたのでした。つまりは、イエス様の働きには、非常に困っていたわけでありました。イエス様のなさることは、これまでの考え、行ないに対して、いろいろな点で、衝突していたからです。
安息日の問題、汚れの問題、罪の赦しの問題などなどであります。 それらの問題は、パリサイ人にとっては、容認できない事。 サドカイ人にとっては、人々を混乱に巻き込む危険人物という事で、 パリサイ人もサドカイ人も自分たちの共通の利益のために、 一致して事に当たるようになっていました。
ですから、イエス様ははっきりと11節でこう言われたのです。 「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」と。
ここでも、パン種とイエス様は言われておりますが、そのパン種が何を意味するか、弟子たちは悟った事をマタイは12節で書いております。
「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。」とであります。
教えに問題があったのです。 間違った教えが少しでも入れば、それはどんどん大きくなり、全体を変えてしまいます。その恐ろしさをイエス様はパン種にたとえられたのでした。
今、この時代も、いろいろな教えがあります。 聖書の教えと関係なく、異教の教えがあります。 聖書の教えだと言って、聖書を引用するのですが、 間違った捉え方で教えている異端もいるわけであります。 長い歴史の中で、歪曲された部分もあります。 そういう意味で、聖書を正しく読む事は、いかに大切か、痛いほど分かります。
それだけに、パンに入れるイースト菌がほんの少しでもパン全体に大きな働きをするように、間違った小さな教えでも、やがてその働きは、大きく威力を発揮し、襲いかかってきます。
それだけに、聖書の正しい教えであるかどうか、絶えずチェックが必要のように思います。聖書が、どのように教えているか、私達は何を信じているのか。それによって、どんな希望が約束されているのか。常に確認しながら歩みたいものです。
そのために、私達は、バプテスト教理問答を鈴木先生を通して訓練会の時間に学んでいますし、鈴木先生が訳されました第2ロンドン信仰告白は、非常に大きな働きをしてくれます。現代の思想の嵐の中で、正しい聖書の教えを見失わないようにしようではありません。
2012年10月21日(日) 「真の答えは父から」 マタイ16:13-17 竹口牧師
先回見ました所では、イエス様は、パリサイ人やサドカイ人達のパン種には気をつけなさいと言われ、彼らの教えには大変注意をするよう弟子たちを教えられた、そういう所を読みました。
イエス様は、これまでに第1回ガリラヤ伝道、第2回ガリラヤ伝道、そして更に、第3回ガリラヤ伝道をされた後、今度は、イスラエルから離れ、ツロ、シドンへと行かれ、更には北に東にと移動しながら、弟子たちを訓練する時を持たれました。
今回見ます個所は、その中でも非常に大切な所であります。 と言いますのも、イエス様が弟子たちに究極の質問をされるからです。 その答えいかんによっては、イエス様にお従いしている意味すら違ってくるからです。
これは、ここにおられる皆さんもイエス様をどのように見、どのように感じ、行動しておられるかが改めて問われるともいえる質問であります。
さて、イエス様は、弟子たちに質問をなさいましたが、それが、どこであったかと言いますと、場所は、13節にありますようにピリポ・カイザリヤでありました。 ピリポ・カイザリヤとは、国主ピリポ・ヘロデが支配するカイザリヤ地方という事になります。位置的には、ガリラヤ湖の北の端から更に北西に40Km行った所で、ヘルモン山のふもと、ヨルダン川の水源近くにあった町であります。
父ヘロデ大王の死後、国主となった息子のヘロデ・ピリポは、町を拡張し・補修し、カイザルに敬意を表し、町の名前をカイザリヤと改め、これに自分の名前を加えて、ピリポ・カイザリヤと命名しました。地中海側に父親がつけたカイザリヤという町がありますので、それと区別するために、自分の名前を入れたと言われます。
ところで、このピリポ・カイザリヤは、偶像崇拝の盛んな所でありまして、自然の神、あの偉大な「パン」という神の町の出生地であり、川、泉、洞くつ、林の精霊ニンフとが祭ってありました。パレスチナの中でも最も美しい避暑地でありましたが、宗教的には、ギリシャの神々が祭られた異教礼拝場であり、また、ヘロデ家にとって皇帝崇拝の場として用いられた所でもあります。
そこには、ヘルモン山からの水が豊かに湧き出ていて、ガリラヤ湖へと流れ込んでおりますし、ですからエルサレムより南とは、まるっきり違う風景であります。湧水が豊富で、緑豊かな所であります。
1993年に行った時には、ここには、偶像の神の神殿があったなどという説明を受けました。そして昨年行きました時には、遺跡が発掘され、随分、昔の状況が再現されておりました。昔は、そこはパニヤと呼ばれ、現在ではバニヤスと呼ばれます。
ところで、ずっと後になって、ヘロデ・アグリッパは、その土地を、ネロ皇帝に因んで、ネロニヤと呼んだそうです。ピリポ・カイザリヤを遠く眺めた者も、輝く大理石の堆積を見て、ローマの威厳と神聖を思い起こしたと言われるほどのものだったようです。
さて、そのような所でイエス様は、弟子達に質問をされたのでした。 しかもそれは、大変重要な、先ほども言いましたように、究極の質問でありました。 その一つは、「人々は人の子を誰だと言っていますか。」というものでした。
人の子とは言うまでもなく、イエス様のことであります。 つまり、「人々は私を誰だと言っていますか」という質問です。 すると弟子たちは、めいめいが答えたのであります。 弟子たちのそれぞれが、うわさを耳にしていたからであります。
弟子たちは言います。 「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」とであります。
人々はいろんな事を言うものであります。 でも、思いつき、勝手な事を人々が言っていた訳ではありませんでした。 そのように言うには、それなりの根拠があったわけでした。
では、どういう根拠があってバプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤだとか、預言者のひとりだ、というような事を言っていたのか、そういう事になるでしょう。
まずは、バプテスマのヨハネだという人たちの事は、私達はすでに14章の所で見たのですが、ヘロデ大王の子どものヘロデアンティパスが、自分の罪を指摘したバプテスマのヨハネの首をはねさせました。それ以来、罪責の念からでしょうか。
自分が殺したヨハネがよみがえったのではないかと恐れ、イエス様を彼がそう言っておりましたので、どうも人々もそう言っていたようです。 またある者は、エリヤだと言っていましたが、これは、エリヤが預言者の中の預言者、最高の預言者だと人々には思われておりまして、それはまた、イエスがメシヤの先駆者である事を意味していました。
と言いますのも、旧約聖書の最後の書、マラキ書にこう書いてあるからです。4:5-6にこう書いてあります。 「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」という風にでありました。
メシヤが来る前に、エリヤが来るとそう人々は考えていました。 それをバプテスマのヨハネとは考えなかったのでした。
ところで、メシヤとは、へブル語の言い方です。 それを、ギリシャ語であらわすと、キリストになります。 そして更にそれらを日本語に訳すと油注がれた者という意味です。 つまり、救い主が来る前に、エリヤがまず現われる。 そしてそのエリヤに当たるのがイエス様だと人々は考えました。 そこが、間違っていたのですが。
次にまたイエス様をエレミヤだと見ていた人たちもおりました。 理由はこうであります。
つまり、イスラエルが異国に捕らわれて行く前に、エレミヤは神殿から契約の箱と香をたく祭壇を取りだしてそれを誰も知らないネボ山の洞窟に隠したとされ、メシヤが来る前には戻って来て、彼がそれを取りだすと神の栄光が再びイスラエルの上に輝く、そういうまことしやかな事が信じられていたのだそうです。 イエス様の数々の働きを見れば、人々には、もしかしたらエレミヤかもしれない、そう思えてきたのではないでしょうか。
また、預言者の一人だとも言っていますとあります。 やはり、イエス様のする事なす事見ていると、普通のいわゆる一般人とは違うと見ていたと言えましょう。
ところで、イエス様はここで、話しの向きを変えられます。 つまり、人々の言っている事はよく分った。 では一体「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と弟子たちに切り返されたのでありました。この質問は、非常に大切な質問です。 そして、この質問は、終生問われ続けられる質問であります。 また、問われ続けられなければならない質問であります。 なぜなら、この答えいかんによって、弟子達の取るべき行動が定まるからであります。 生き方そのものに関係してくるからです。
弟子たちにとってはまさに、命がかかっていたのです。 私は、こんな感じに思っていますとか、こんなお方だと思っていますとか、 そんなあやふやなものではいけないのです。 それは、今日の私達の生き方にも現われてきますように、 信仰告白は、その人の生き方を明確にするものだからです。
ところで、実は、イエス様は、今回改めて、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と聞かれていますが、そういう風に聴かれるまでもなく、ヨハネの福音書1章を見ていただくとわかるのですが、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、ペテロに向かって「私達はメシヤ(訳して言えばキリスト)に会った」とか、
イエス様に出会ったナタナエルは、「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」そのように告白している場面も出ております。
更には、この同じマタイの福音書14章においても、嵐の中で、イエス様が湖の上を歩いて近づかれた出来事の中で、イエス様が舟に乗られた後、舟に乗っていた者は、「確かにあなたは神の子です」と言ったとありました。
ですから、弟子たちの中では、イエス様が誰であるか、当然のように分かっていた中で、それでもあえて、イエス様がここで聞かれた所に、大きな意味があったと思うのです。
それに対してペテロは迷うことなく、ズバリ答えました。 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とであります。 これは、人々の考えを全く否定しての答えであります。 つまり、バプテスマのヨハネでもなく、エリヤでもなく、エレミヤでもなく、預言者の一人でもない、まして、今いる場所の神のパンでもなければ、精霊ニンフでもない。
そういう偶像の神ではなく、という意味も含めてでありましょうが、 「あなたは生ける神の御子であり、キリストです」とペテロは答えたのです。
最初の方で私は、キリストとは、油注がれた者という意味である事とキリストとはギリシャ語の言い方で、へブル語ではメシヤと言うふうに申し上げました。
昔、ユダヤでは、神が特定の聖職に人を召した時、神が任務遂行に必要な御霊と力を授けられたことの象徴として、油を注いで任職式が行われました。 この油注ぎは、特に選民を神に代わって治める王の任職、 そして、選民を神に近づかせる為の祭儀を司る祭司の任職、 更には、選民に神を教える預言者の任職において行なわれました。
しかし、預言者マラキ以降の400年間、イスラエルには王も、預言者も途絶えてしまいましたので、旧約の預言に従って、王、祭司、預言者の職を一身に兼ね備えたような救い主が現われるのを待ち望む心が強くなり、そしてその油注がれた方メシヤを人々は待望するようになりました。
イエス様の時代、王でもなく、祭司でもなく、預言者でもなく、それら全部を併せ持った来るべき救い主メシヤつまりキリストを待ち望むようになっておりました。 そしてまさに、ペテロが答えたのが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」だったのです。
ペテロの答えは果たしてどうだったでしょうか。 正しかったのでしょうか、間違っていたのでしょうか。 イエス様は、ペテロの答えに対して、こう答えられました。 「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。」
バルヨナとは、聖書の欄外に出ていますように、ヨナの子という意味です。 ですから、「ヨナの子シモン。あなたは幸いです。」と言って、そのイエス様の事を正しく言い表した事をほめられました。
ただし、その後のイエス様のお言葉は、非常に大切です。 イエス様は続けてこう言われました。 「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。・・」とであります。
ここは、非常に大切な点です。 そして、これこそが本当に心からイエスはキリストですという告白でなければならないのです。
私達は生まれてから、今日までどれだけ試験を受けてきたでしょうか。 その試験を受けるには、その前に誰かが問題を用意しなければなりません。 しかもその問題に対する答えは、たった一つでなければなりません。 あれでもあり、これでもありではいけないのです。
そうやって、問題が造られます。 そして問題を作った人の求める答えを書くには、 その問題を作った人に答えを聞いて書けば、決して間違える事はありません。 一生懸命考えて、正しい答えを導き出すことも出来ます。 そして正解へとたどり着く事も出来ましょう。
ところが、信仰の問題はそうはいきません。 もし、信仰の問題でも、と言いますか、そのなかでも特に救いに関する問題は、非常に難しいものを含んでおります。
なぜなら、イエス様の言われた17節最後の言葉が決定的な決め手となるからです。 つまり、神様がその人に明らかにされなければならないからです。 それは、質問に対する答えはすでに分かっているからです。 あなたは、神の存在を信じますか。はい。信じます。 あなたは、自分の罪を認めますか。はい。認めます。 あなたの罪の為にイエス・キリストは、 この地上に来て下さいました。その事を信じますか。 はい。信じます。 あなたの為に、イエス様は十字架にかかって死んで下さいましたが、 その事を信じますか。 はい。信じます。
というように、聖書を勉強するなら、また罪からの救いについて学びさえすれば、知識的には、立派な答えが口から出てきます。信じます、認めますという言葉が口から出てきます。
しかし、知識と信仰とには、大きな開きがある事を、この朝、もう一度確認してほしいのです。イエス様が質問され、ペテロが正しく答える事が出来た。しかし、それは、彼の経験から出たものではなく、学問にもよらず、また、イエス様との交わりの中で自分で得たものではなく、「天にいますわたしの父」が明らかにされたということです。
これこそが、この世における試験に対する答えと全く違うところです。 知識の豊富な人、人生経験の長い人、どんな人生の難しい問題も乗り越えて来られた人、そういう人が、イエス様の質問に対して、正しく答えられるとは限らない。 たとい答えられたとしても、それが、自分から出たものか、神からきたものか、 それによって全く中身が違うのであります。
バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤだとか、更には、預言者の一人だとも言っている人がいる中で、弟子たちは、父なる神様から「あなたは生ける神の御子キリストです」という真理をいただいた、これは非常に大きな事実です。
そして、皆さんもその一人ではないでしょうか。 誰かに教えられて、正しい答えを言えたのではなく、 神様が教えて下さったからこそ、告白する事が出来た。 それ故に、今後の事について一切を神様に委ねることができるようになった。 不安が取り除かれたのではないでしょうか。
用意された答えを言うのではなく、 神様が個人的に臨んで下さり、教えて下さった答えだからこそ、 この世ではなく、この天地を造られた神様に通用する答えなのです。
真の告白をさせて下さった主に感謝し、その方が、これからも導いて下さる事を信じて、委ねて行こうではありませんか。
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