2012年11月11日(日) 「何が正しいのか」 マタイ16:18-23 竹口牧師
先回は、イエス様が弟子たちをピリポ・カイザリヤに連れて行き、そこで「人々は、人の子を誰だと言っていますか」と質問された所を見ました。
あの時、弟子たちはこう、答えました。 「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」とでありました。 人々は、いろんな事をいうものであります。
しかし、またそう言うからには、それなりの理由というものがありました。 先回の繰り返しになりますが、バプテスマのヨハネは、とても良い働きをしておりました。しかしヘロデ・アンティパスは、彼を殺しましたので、ヨハネが死人より甦ったのではないかと考えましたし、他の者もそう思っていて当然でした。
あるいはエリヤだという人たちは、預言者の中でも最も偉大で、旧約の一番最後の書マラキ書に「預言者エリヤをあなた方に遣わす」というくだりもありましてエリヤだと思っていました。あるいは、エレミヤだという人たちは、ユダが捕囚となる前に、 神殿から契約の箱と、香をたく祭壇を取りだして隠したが、メシヤが来る前にエレミヤが、それを取りだし、そうすれば神の栄光が再びイスラエルの上に輝く、そう信じていた者もいたようであります。
更には、預言者の一人だという人もいました。 と言うようにさまざまですが、いずれにしましても、イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたので、自由にはならずかつての栄光を取り戻したいとの願いから、メシヤの来臨を待望していたわけでありました。
ところで、人々はイエス様のことを、いろいろ言うだろうけれども、 では「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」 と今度は弟子たちに向かってイエス様は問われたのでありました。
で、ペテロは、イエス様に向かってこう答えました。 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とであります。 そしてイエス様は、その答えが正しいので「あなたは幸いです」とおっしゃいました。 ただしその時こうも言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と。
イエス様のことを、メシヤ、キリスト、油注がれた者、そのように言う事が出来たのは、天におられる父が明らかにされたからですと言われました。そしてそれはまさに、そうでありました。なぜなら、誰一人、イエス様を見たり、聞いたりしても、また、信じた人が語っても、持って生まれた罪の為に、霊の目は曇っていて、正しく見る事が出来なかったからです。神様が明らかにして下さらなければ分からない事でありました。
さて、きょうのところの最初の2節、つまり18,19節は、大きく二つに解釈の分かれる所であります。つまり、私達プロテスタントとカトリックとに分かれます。カトリック教会では、このイエス様のお言葉からローマ教皇の権威が全教会を支配するという教義の根拠とします。
ペテロを基礎として、その上にイエス様は御自分の教会をお建てになった。 だからそのペテロの後継者である代々のローマ教皇は、教会の首長としての権限を主から頂いている、というのです。
これに対して、私達プロテスタントは、ギリシャ語の原文からペテロと岩との違いから話しを進めて行きます。ペテロという名は、ギリシャ語ではペトロスで男性名詞、岩は、ペトラで女性名詞で、意味の上では、ペトラスは「石ころ」を指すのに対してペトラは、地に根を生やしたような巨大な岩盤を指します。
ですから、「あなたはペトロス(石ころ)です。 わたしはこのペトラ(岩盤の上)に私の教会を建てます」と言われた事になります。
ペトロスとペトラとは、言葉の響きが似ています。 片方は石であり、もう一方が岩です。 ですからこれは、イエス様の一つのユーモアさえ感じます、 そういう学者もおられます。
ヨハネの福音書1章をみますと、もともとイエス様は、アンデレが連れてきた兄弟シモンに対して、「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶ事にします」と言われて、ニックネームをつけられた名前でした。
ニックネームと言いますと、マルコ3:17には、こういうニックネームをつけられた人もいます。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人には、ボアネルゲ、即ち、雷の子という名をつけられた。」とであります。 ヤコブとヨハネは、もしかしたらすぐにキレル性格だったのでしょうか。 怖い感じがしないわけではありません。 が、まあそれはともかく、イエス様は大切な事を言われている中で、ユーモアも交えて言われているのかもしれません。
イエス様は言われます。 18節後半のことですが、・・・。 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。」とです。
ここで言いますハデスとは、死後の世界とお考えください。 人は、この世から去ると死後の世界に入ります。 私はこの事を考える時、金持ちとラザロの話しを思い浮かべます。 死んだら、必ずどちらかに行く事になるとであります。 その中間状態はありません。
神様は、全ての者の支配者であられますので、アブラハムのふところであろうが、 金持ちの行った苦しみの所であろうが、どこにでも王として君臨されます。 私たちは死んだら死の世界に入る事になるのですが、御存じのように、イエス様は後に、死に勝利されて甦られる訳です。ですから、イエス様のなさる事はハデスなど問題にならない訳です。
19節でイエス様はこう言われています。 「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。 何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、 あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」 とであります。
これは、ペテロだけの特権でしょうか。 実は、そうではありません。 20節に、その一つの根拠があります。 「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」という事です。つまり、弟子たちみんなに言われているのです。
弟子たちみんながその周りにいて、その話を聞いているのです。 更に、このことを補強するとするなら、少し先の話しになりますけれども、 18章18節以下ではイエス様は、こうも言われているのであります。
「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、 それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。 もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とであります。
ですから、きょうの所では、一見しますとペテロだけに言われているようですが、実はそうではないわけであります。イエス様の弟子たちみんなであり、更には、私たちをも含まれているというのが正しいのです。だからこそ、私達は、みんなで執り成しの祈りをするのです。また、それを神様が聞いて下さる訳です。
この世界の、誰か一人、特別に選ばれた人の言葉だけを神様が聞いて下さるというのではありません。私達の唯一の仲介者はイエス・キリストなのです。このお方以外にはおられません。だから、イエス・キリストの御名を通して祈るのです。
イエス様は19節で 「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます」と言われました。 それは、何も特別製の鍵ではありません。 もし、それが特別製であるとするなら、この世からしますと特別製である、とは言えるかもしれません。
しかし、ペテロだけの特別製を意味していません。 それは、先ほども言いましたように、イエス・キリストの御名によって集まる所にはキリストもおられ、また、献げる祈りを聞いて下さるからです。
ところで、先ほどイエス様のお言葉20節を引用しましたが、「御自分がキリストであることを誰にも言ってはならない」とは、イエス様のこの地上でのお働きの中で、時というものを大切にされ、その時がまだ来ていないから言われたことであって、決して不思議な言葉ではありません。
そして21節「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とマタイは書いております。
イエス様は、この時を境に、何度か、このようなことを繰り返し言われます。 (マタイ17:9,12,22,23、20:18,19) つまり、これを境に、イエス様は十字架への道を行かれるという事でもあります。従って、時を心得ておられるイエス様は、その時が早くても、遅くてもいけないので、今回の20節の言葉となったのでありました。
ところで、弟子たちはこれまでにも、イエス様のなさった数々の奇跡を見てきましたし、また、山上の教えのように、さまざまな事を教えられてきました。人々がイエス様のことを正しく見ていないのに対して、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」との告白をした、そういう弟子たちでありました。
しかし、今後のイエス様の歩まれる道を告白されると、 22節、ペテロがこう言ったとあるのであります。 「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。 『主よ。神の御恵みがありますように。 そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」とです。
皆さんは、このギャップをどうみられるでしょうか。 つまり、「あなたは生ける神の御子キリストです」と言ったペテロ。 その同じペテロが22節のような事をいうとは。 とってもペテロが言ったとは思えないのですが、 しかし、マタイはしっかりと書きとめているのであります。
人とは不思議な動物だと私は思います。 悲しい時には泣き、楽しい時には笑います。 しかし時に長い人生の中では、泣きながら笑う事もあります。 なぜか悲しいのに、笑いも同時に湧きおこってくる。 逆に、笑いながら泣く事だってあります。 私達の心の思いは大変複雑であります。 非常に感情の浮き沈みの激しい時も、時に経験いたします。
ところで、ペテロは、ここで、どう言う思いでこの言葉を発したのでありましょうか。 先ほどはイエス様に、とてもほめられたのに、 22節では、イエス様の怒りを買うようになってしましました。
実際の所23節では、イエス様は、ペテロをサタン呼ばわりされておられます。 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とです。
どうしてこうもペテロは、浮足立った言動をするのでありましょうか。 根っからの天真爛漫な性格だったのでしょうか。 思った事、感じた事をすぐその場で言い表してしまう。 そういう性格だったのでしょうか。
ペテロの性格はどうであろうと、イエス様のお言葉は、真摯に受け止めなければならないと言えます。特に私たちが物事の判断を下す時に、 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とか、 「あなたはわたしの邪魔をするものだ。」と言われた言葉は、 私達は、自分の信仰の生き方、歩み方、間違っていないか。 否、正しいのかとさえ、そう問われた言葉のように思うのです。
人間的な思いで、 「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。 いいえ、起こってはならないのです。」 という意味が含まれているとするなら、 これは、本当に神のご計画を邪魔することになります。
義理、人情、思いやり、どれもこの世を歩む上において大切です。 しかし、ペテロが実際、どう言う思いで言ったのであれ、 イエス様を23節のように言わしめたという事は、23節の意味が含まれていたことだけは間違いありません。
何が正しく、何が間違っているか。それは、私達の信仰の生きざまが問われることであり、イエス様に主に本当に喜ばれる歩みになっているかどうか迫られるのであります。
そして、その歩み方は常に、イエス様から教えていただかなくてはならないのです。 謙遜に、またへりくだって神のみ前に立ち、静かにイエス様のお言葉を反芻し、繰り返し、繰り返し考え、神様の御旨を正しくとらえさせていただき、そのお言葉に立って、歩んでいこうではありませんか。
2012年11月18日(日) 「イエスに従う」 マタイ16:24-28 竹口牧師
イエス様は弟子たちに「あなたはわたしを誰だと言いますか」と聞かれました。 が、その前には、この世の人はどう見ているかも聞かれました。 そして、その答えというものは、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤだとか、預言者の一人だとも言っている、そういうふうに答えていました。
ところで、ペテロは言いました。 「あなたは生ける神の御子キリストです」とでありました。 ペテロはイエス様の弟子とはいえ、このように応える事が出来たのは、イエス様も言われた通り、「明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」でありました。神様が教えて下さったわけでありました。
イエス様はその後、これから御自分に起こることを述べられました。 マタイはそれをこう書いております。 21節「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」のであります。
ところで、次に出たペテロの言葉と言いますと、「主よ。神の御恵みがありますように。 そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」でありました。そして、この言葉に対してイエス様は、厳しく責められました。
この一連の流れを見て行きますと、 わたしたちは、どうしても人間の弱さというものを感じないわけにはいきません。また、その弱さというものが、神の御心に反するものである、という事も分かってきます。
結論は分かっている。けれども迷う。今、目の前にいる方が殺される。そんなことがあってはならない。感情的にはそうであって欲しくない、という思いもあります。
しかし、それではいけないということで、その事をイエス様は、きょうの所で、明確にされるところであります。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とです。
皆さんが信仰に入る出発点は何だったでしょうか。 あるいは、きっかけと言ってもいいかもしれません。 恥ずかしながら、私自身の事を言いますなら、信頼すべきものを失ったことの寂しさ。 先が全く見えなくなったことの恐ろしさでありました。 そうなってきますと、不思議なもので、普段出来ていた事も出来なくなってくるんですね。そこでますます、恐ろしくなってきました。そういう中で、とにかくその恐ろしさから救われたい、その一心で教会に行くようになりました。
そこに至るまでの過程には、勿論いろんな事がありましたが、ここでは、それは省くと致しまして、いずれにしましても、私にとって、キリスト教は、この世から見れば、逃げ場であったわけでありました。
ところが、どっこいであります。 逃げ場であるはずの教会で、イエス様は、私に言われたのでありました。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と。
自分を捨てる。そんなことが出来るのか。 自分が可愛いからこそ、自分を生かしたいがために教会に来た。 その自分を捨てることなど出来るのか。 果たして、自分を捨てたなら、そこには何が残るのか、 何も残らないではないか、そうなっていきました。
自分の十字架とは何か。これもわからない。 しかし、イエス様の要求は、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、「わたしについてきなさい」でありました。
私は悩みの中で、この三つの命令に答える事ができませんでした。 ただし、別のイエス様の招きの言葉に私は従う事が出来ました。 だから、こんにちの私がある訳です。 その言葉というのが、この同じマタイの福音書11:28であります。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 というイエス様の招きの言葉でありました。
あの当時の自分の姿を思い浮かべますと、本当に幼い信仰であったなあと思わされるのであります。では、今の信仰は、格段に成長し、昔と今とでは、全く違うのかと言いますと決してそうではありません。これまた、非常に恥ずかしいのでありますが、 たえず、御言葉に、たじろいでいるのが現実であります。
では、どこが違ってきたか、でありますが、 昔と今とでは、イエス様の求めておられる事がなんであるか、分かるようになり、昔の悩み方と今の悩み方とでは実に大きく違うという点にあります。
ですから、悩んでいること自体は変わっていません。 なぜなら、イエス様は私の全てを求めておられるからです。 そして、十分にそれを果たしているかと言いますと、 それは、まことに残念ながら不十分と言わざるを得ません。 まことに恥ずかしい限りであります。 だからまた、悩むわけでありますが。
ところで、話しを元に戻しますと、 言うまでもなくイエス様は、ここで3つの事を言われております。 一つは、イエス様に着いて来たい者は、自分を捨てなさいという事であります。 で、先ほども言いましたように、自分、自分、自分で生きてきた者が、自分を捨てたなら何が残るか、何も残らない、ということで悩んだと申し上げました。
でも今は違います。 まだまだ、昔の名残はありますし、死ぬまであるでしょうが、 キリストが私の欠点の全てを受け入れて下さった時から、 私の背負っていたものが、ふっと軽くなったからです。 そこが大きく違う点でありましょう。
イエス様に受け入れられた時の喜びは消える事がありません。 そして、自分、自分と自分中心に生きてきた者が、今では、イエス様を中心に生きる者に変えられている事に気付かされるのです。
一週間一週間、一日一日を自分の為ではなく、神様の為に生きる。 これが即ち、自分を捨てるということでしょう。
自分を捨てると言いますと、何か、嫌々ながら、無理やり何かを捨てるというように感じますが、そうではなく、イエス様に喜んでいただける事の方が嬉しい。 つまり、イエス様は自分を捨てるように求められましたが、捨てられない弱さをご覧になりながら、言われておられた訳です。
自分を捨てられない者がどうなるか、ちゃんと言われています。 また、捨てるとはどういうことかもしっかり言われています。 具体的にあげてみましょうか。
私は、救われる前は、教会に行くのが大変苦痛でした。 なぜなら、自分の時間を失う、そういう気持ちだったからです。 でも、救われてから教会に行くのは、とっても楽しみとなりました。 だがしかしです。 自分の都合のいい事、優しい事を言われると行きたいが、 自分の都合の悪い事、やりたくない、出来ない事を言われると、 行きたくない、そういう感情に左右される信仰になって行きました。
そして、主の日は守らなければならないと言われると、 でも、これは絶対にしなければ、困るではないかと、自分の中で格闘しておりました。 皆さんは、どうでしょうか。
主の日を守った事によって良かったと感じた事があるでしょうか。 勿論、毎週、毎週そのように恵みを感じられるならば、それは素晴らしいことです。 でも実際は、健康状況が優れない中での礼拝、 朝方まで仕事での礼拝という方もおられますので、 その事を考えて申し上げているのですが・・・。
私は、神さまの下さるめぐみはいつも変わらないと信じています。 だから、受け取る側の私たちに問題があると思っております。 その事を理解した上で、毎週同じというわけには行かない。 それは、素直に受け入れるとしまして、 逆に、では来なければよかったと感じられたことがおありでしょうか。
私は、ここに非常に大きな問いかけがなされていると思うのです。 それは、どんなに些細なことでも、また大きければなおのこと、突き詰めて言いますと、あなたの心を支配しているのは、自分ですか、神様ですか、そうなってくるからです。
自分を捨てたならどうなるか。 自分は果たして空っぽになるのでしょうか。 少なくともキリスト者はそうではありませんね。 私達の心を支配しておられるのは、イエス様だからです。 だから、イエス様に反することを考えるなら、あるいは行うなら、心に痛みを感じるのです。
でも、だからといってここでがっかりしてはいけません。 なぜなら、心に痛みを感じる人は、 まだある意味では、立ち返る可能性があるからです。 イエス様は、自分を捨てるように言われました。 それは、本当の平安、喜び、楽しみを味わうために、私達にとってどうしても必要な事だとイエス様はしっておられるからです。そしてイエス様は、それらを与えてくださるのであります。だから自分を捨てる必要があるのです。
第二番目に取り上げたい事は、自分の十字架を負う事であります。 人の十字架ではありません。自分の十字架です。 十字架とは、明らかに良いものではありません。 嫌なものです。辛いものです。
イエス様の負われた十字架は、死にいたる十字架でした。 あれは、私達の罪そのものでした。 イエス様は、私達の罪を背負われた訳でありました。 イエス様が私達に求めておられるのは、なにでしょうか。 ここには罪とも書いてありません。 単に、自分の十字架を負いなさいと言われているだけです。
では、自分の十字架とは何でしょうか。 25節を読みますと「いのち」と関係している事が分かります。 なぜなら、21節のイエス様のお言葉からつながっているからです。 あの21節の言葉があって、この25節の言葉があるのです。 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、 わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」と。
つまり、自分の十字架とは、自分を殺す事です。 少しどぎつい言い方でありますが。 いのち、それはたった一つ、私達みんなに与えられています。 そのたった一つのいのちを失ってはいけないと思うあまり それを救おうとする者は、それを失うとイエス様は言われます。 否、むしろ「わたしのために、(イエス様のために)いのちを失う者は、それを見いだすのです。」とも言われています。
イエス様のために、むしろいのちを失う事の方を勧められています。 でも人は誰でも、これを聞いたら一瞬、考え込みます。 一瞬ならいいのですが、ずっと考え込んで、イエス様から去って行った人もいます。 後で見る事になりますが、この同じマタイの福音書19:16以下に このように書かれております。
「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。 『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』 イエスは彼に言われた。 『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。』
彼は『どの戒めですか。』と言った。 そこでイエスは言われた。 『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。 偽証をしてはならない。父と母を敬え。 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この青年はイエスに言った。 『そのようなことはみな、守っております。 何がまだ欠けているのでしょうか。』 イエスは、彼に言われた。 『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、 あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。 そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。 そのうえで、わたしについて来なさい。』
ところが、青年はこの言葉を聞くと悲しんで去って行った。 この人は多くの財産を持っていたからである。」
最後のところ、 「この人は多くの財産を持っていたからである。」というのは、目を引きます。 つまり、この青年は、神様の教えをきちんと守っていたようですが、実は、心を支配していたのは、財産であった訳です。神様が支配されてはおられないで、財産が支配していた。これは、誰でもが気をつけないといけない部分です。
理由は、きょうの26節のイエス様のお言葉の通りです。 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」だからです。
無い者のひがみでいうわけではありませんが、 アメリカの大富豪の住まいを空から撮影したのを観たり、 取材のために玄関にレポーターが許可なく立ったら、 ガードマンに銃を向けられたリと、 そうとう厳しく守られている姿を目にしたことがありました。
金持ちには金持ちの悩みがあります。 襲われる、盗られる、放火される、 そういうことからあらゆる対策を講じなければならないわけです。 大富豪が亡くなれば、今度は遺産相続でもめる事になります。 あまり持っていても、結局は人の手に渡るものです。
そうしてみますと、やはり、私達は永遠に残るもの、 それこそに価値ある事をこの機会に確認したいのです。 それとともに私達は、この地上で行なった全ての事について、 裁かれる事も、覚えておかなければなりません。
イエス様は言われました。 27節「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」と。
人は必ず裁かれます。そして、行なったことの報いを受ける事になります。 肝に銘じておきたいものです。 さて、27,28節を読みますと、イエス様の時代に再臨がありそうな、そんな雰囲気を感じられる方もおられましょう。
そしてまさに、その時が近い事をイエス様は強調された訳です。 だがしかし、まだあれから何年も経つのに、 再臨は起こっていないではないかという人もおられるのも確かです。
私は、このような時、「神の時と人の時」に対する感じ方に非常に興味を持ちます。 再臨がすぐにでも起こった方が良かったのか、 あとに延ばされた神が間違っているのか、とであります。 そしてそれは、延ばされていることが、決して間違いではないと気づかれるでしょう。 なぜなら、私たちが、こうして救いの恵みに与る事が出来たのは、そのためだからです。
ある考えの中に、17章に入って、イエス様の変貌の記事が載っていますので、そのことを言われたのではないかという考えもあります。 しかし、その所では、審きをイエス様はなさっておられません。 従って、変貌の事を指して言われた訳でもありません。 ですから、私たちがここを読む時に再臨が近い事を指して言われた。 それだけで十分であるととるべきでしょう。
「主の前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」 とペテロが言っているからです(Uペテロ3:8)。 それ故に、私達は常に主の再臨と、それに続く審きがいつ起こってもよいように、いつも備えて歩むべきであると教えられるのです。
そして、その歩み方は、自分を捨て、自分を殺して、その上で、イエス様に従って行く事です。主の期待される信仰者へと、どんどん変えていただこうではありませんか。 そういうイエス様に従う信仰者でありたいものです。
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