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2012年12月9日(日) 「イエスの輝き」  マタイ17:1-8  竹口牧師

この朝は、マタイ17:1-8までを見るのでありますが、きょうの最初の1節には、「それから六日たって、」という言葉で始まっていますので、つまりは、それまでにいろいろなことがありましたが、これから起ころうとする事は、前の章にあったことの続き、
それも7日目の事であるとして始まっています。

では、その16章には、どんな事が書かれていたかと言いますと、
イエス様について人々は何と言っているかが書かれていましたし、
更には、弟子たちに向かってイエス様は、それでは「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と聞かれるという、大変大切な質問をなされた所でありました。

人は誰でも、先生、あるいは師としてつき従っている方が、どう言う方か知らなないで自分の人生を委ねるというのは、大変恐ろしい事でもあるからです。

ペテロは、その時、とっさに、「あなたは生ける神の御子キリストです」と言いましたし、そのことをイエス様は、「あなたは幸いです」と言って下さいました。正しい信仰告白を彼はしたからでした。

しかしながら、こうも言われました。
「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とでありました。私達もまた、イエス様の事を「誰だと言いますか」と問われますと、ペテロと同じように答える事になり、しかもそれは、父なる神様のお働きによってですから、決して恥じることなく告白出来るのであります。

なぜなら、私達は、神様のなさった真実を正しく受け取る事が出来ない状態であったにも関わらず、真の神様に出会う事が出来、神様が導いて下さったからでした。それだけ、この質問は、大切なものでありました。

イエス様は、そのあとで、その「生ける神の御子キリスト」である方が、「・・・長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」ものですから、ペテロは、大変慌てたわけでありました。

そして「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言って、22節では「いさめ始めた」とありました。自分たちの先生であり、師である方にそんな事があってはならない、そのような思いが働いたのでありましょう。

しかし、イエス様は、厳しくペテロの言葉を打ち消されました。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われて、はっきりと御自分の使命を明らかにされました。

イエス様は、これまでに僅かなパンと数匹の魚とで、5000人、更には4000人を養うという奇跡をされましたし、ガリラヤ湖の水の上を歩かれましたし、悪霊を追い出すこともされました。福音書に書かれている奇跡だけでも、相当数に上ります。そのようにして、イエス様が人間であると共に、神の御子としての姿を、あちこちで現わされていました。

私達は、これらの事を頭に置いておいて、その上で、きょうの話しへと入りたいのであります。なぜなら、前置きが少し長いようでありますが、今回イエス様がなさることは、これまでさまざまな奇跡を持って御自分が何者であるかを示されて来られましたが、それ以上にはっきりと弟子たちに示される所ゆえに、私は、それまでのことを確認する意味で必要と考えたからであります。

勿論、弟子たちと言いましても、12人のうちの選ばれた3人に即ち、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネという、限定はされておりますけれども、今の私達にとって、思い起こしは必要なのであります。

イエス様は、その3人を連れて、高い山に導かれました。
ここに書かれています高い山とはどこを指すのか、諸説あるようでありまして、イスラエルに行ったことのある方は、特に興味深いところだと言えましょうが、なかなかはっきりとしたことは、分からないようです。

ある説によりますと、タボル山というのがあります。
ガリラヤ湖より少し南下し、ヨルダン川より少し西側、ずっと地中海側に行きますとカルメル山がある、そこまではいかない、むしろヨルダン川に近いそんな山であります。でも、そこは軍の要塞があり、城がある所で、とても、今回の出来事が起こる所とはいえないと言われます。

それですからもしかしたら、ヘルモン山かもしれないという説もあります。
ヘルモン山は、高さ3000Mで、ヨルダン渓谷からは3400Mあり、実際に登って確かめた所、頂上に達するまでに5時間かかり、こんなところまで登る事は、肉体的には、大変ではないか、ということで、どうも頂上ではなさそうだとも言われます。

ある人は、頂上ではなくても、ヘルモン山のどこか中腹辺りで、しかも夜であっただろうと言います。ルカ9:32を見ますと「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかった」
とあるからであります。まあ、別に夜ではなくても、緊張状態が続きますと、昼間でも眠気を催すのは、人間の生理的現象ですから、一概には言えませんが、これから先を読み進んでいきますと、夜中の方が状況は一層、際立つような気は致します。

が、それはともかくとして、2節を読みますと今までに目にした事のない状況が起きるのであります。2節「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」とです。

この姿を想像してみていただきたいのですが。
今までイエス様と一緒に過ごしてきていたのに、その方とは別人のように、イエス様は変わられたのでありました。マルコは、この時の事を、目線を顔に向けないで体全体に向け、「その御衣は、非常に白くなり、世のさらし屋では、とてもできないほどであった」(マル9:3)とその白さを強調しておりますが、

いずれにしましても、この世ではあり得ない事がイエス様の身体に起きたという事です。しかも、続いて3節では、「しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。」とであります。

私は、こういうところを読みまして、いつも素朴な疑問がわくのであります。
なぜなら、イエス様が話された金持ちとラザロの話しでもそうですが、
その話には、アブラハムが登場いたします。

つまり、モーセにしてもエリヤにしても、アブラハムにしても、
ユダヤ人の間には、共通の姿というものがあったのだろうかとです。
誰もモーセにもエリヤにもアブラハムにも会った事はない。
しかし、はっきりと断定できている。
少なくともこのペテロにはです。

ということは、ユダヤ人の間では、ある一定の姿が象徴的にあったのでしょうか。
それにしましても、この同じマタイの福音書16章に「人々は人の子をだれだと言っていますか。」という問いに対して「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」というようにありますと、すぐには見分けがつかない、それぞれの姿を、それぞれが持っているという事ではないでしょうか。

そういう意味では、私達は、誰もイエス様を見た者はいませんので、
それぞれ違ったイメージを持っている事が予想されます。
しかし、天国に入れて下さった時には、誰でもが間違いなく、イエス様とはどのお方か、アブラハムやモーセやダビデやヒゼキヤやヨシヤがどの人か、分かるようにはなっているだろうと思いますが、そういうことは私たちが天国へ行ってのお楽しみであります。

ところで、ここでは、3節ではっきりと「モーセとエリヤが現われてイエスと話しあっているではないか」とありまして、ペテロとヤコブとヨハネは、共通した認識を持っていたようです。

なぜモーセなのか、なぜエリヤなのかという事になりますが、
ユダヤ人にとってモーセは、神の律法を人間にもたらした、至高、無類の人間であったとされ、一方、エリヤは預言者の中でもっとも偉大であり、彼を通して神の声が比べる事の出来ない鮮明さを持って人に語りかけた存在であった、そのように捉えられています。

山に登った3人は、何の迷いもなく、一人をモーセと認め、またもう一人をエリヤと認め、更には、姿が変わったイエス様と彼らが話しあっている、そんな光景を目にするのであります。

こういう時にはいつもペテロが口を出しますが、今回も4節を見ますと彼はこういったと出ております。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。
もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
とであります。

幕屋と言いますのは、出エジプト後の荒野の旅の間は、神の臨在をあらわす場所でありました。ヨシュアの時代は、カナンの地を占領していくために、契約の箱があちこちに移動し、その箱がある所に幕屋がありました。

ダビデ時代に入り、首都をエルサレムと定め、幕屋に契約の箱を運び込み、
神様の臨在の場所としました。その後、ソロモンが神殿を建て、幕屋が無くなりましたが、しかし、それまでは、神様の臨在の場所が幕屋であった事に変わりはありません。

イエス様の時代は、ヘロデの神殿がありましたので、そこに真の神様は臨在されておられると、イスラエルの人たちは信じて、都上りをしていたわけであります。そういう意味では、ペテロが言った言葉は、非常に大きな意味を持つのであります。
「もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
と彼は言いました。

では、ペテロがなぜ、こんな事を言ったのでしょうか。
ある人は、このように考えております。
「ペテロはこの山腹にとどまり、感激の瞬間が少しでも長く続くように願った。山を下って日常の平凡な生活に帰るよりは、ここにいつまでも留まって栄光を拝したかったのである」と。もしかしたらそうかも知れませんね。

教会に集い、主の御言葉を聞き、お互いに主の恵みに満たされている時、私達は、この時間がもっと長くあってほしいと思う事はあります。しかし、現実的には、そうはいかないものです。

昔、いろいろな聖会に参加し、主にある交わりを共にして励まされ、いよいよそれから、それぞれの元に帰って行く時の辛いこと、それこそ、涙を流し、祈り、力が与えられた。その同士と別れなければならない。そんな辛い思いを何度も私は経験したものでした。やはり現実に戻らなければなりませんでした。
当然と言えば当然なことでありましたけれども。
ですから、ペテロはそういう思いで言ったのかもしれません。

ところで、そうこうしているうちに状況は変化してきました。
5節にこうあります。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」とでありました。

ここにあります『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』と言いますのは、イエス様がバプテスマを受けられた時に、父なる神様が言われた言葉と同じであります。そして今回は、それに加えて、「『彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」とあるのです。

父なる神様が、なぜここであえて、そう言われたのでしょうか。
これまでにも、弟子たちはイエス様のお言葉に聞き従ってきておりました。
しかし、ここにきて、父なる神様は、初めの言葉に付け加えておられるのであります。
勿論、イエス様がバプテスマを受けられた時、その辺りに弟子たちがいたかどうかは分かりません。

けれども、『聞きなさい』との勧めは、それだけ大切な意味がある事だけは確かであります。旧約聖書の中で、特に申命記の中には、「聞きなさい。イスラエル」とか(5:1、6:4,9:1)「イスラエル。聞きなさい」とか(27:9)「おきてと定めとを聞きなさい」とか(4:1)あるいは単に「聞きなさい」(6:4)というように、繰り返し出ております。

ですから、これからのイエス様の歩みを考えますと、弟子たちは、イエス様のお言葉に信頼して、聞き従わなくてはならならない事を父なる神様は示されたように思います。

イエス様が「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」こととは、決して関係のないことではないと言えましょう。

イエス様が、公の生涯に入られ、神の御子である事を示され続けられて、しかし、その御子である方の最後が、あの十字架の死である事とは、なかなか信じられなかった事と思われます。

それだけに父なる神様は、イエス様に聞くようにという指示を出された、そのようにいう事が出来ましょう。今の時点での状況は、イエス様は、多くの人に支持され、ある時には王にさえなってくれると思いこむ民衆たち。しかし、それが全く逆の状況になって行く。そのような時であっても、忠実にイエス様に聞き従う事を神様は求めておられたと言えましょう。

もっとも、今の時点では、そこまで読みこむ事は、深読みと言えるかもしれませんが、父なる神様にとって、当然の事であったと思われます。
6節「弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。」とあります。

ホレブの山で神がエリヤに語りかけられた時と同じような神の語り口調だったのでしょうか(T列王記19章)。あるいは、モーセが同じくホレブの山で神の声を聞いた時と同じだったのでしょうか(出エジプト記)。

いずれにせよ、弟子たちは間違いなく恐怖におののいたことだけは確かであります。そしてイエス様が、そんな彼らに優しく手を差し延ばして下さったのでした。
「起きなさい。こわがることはない。」と言って弟子たちを安心させられました。

私たちが、神様の事を、愛なる神様とか、慰め主なるお方とか、いつも共にいて下さるお方とか、とかく優しい、頼りになる、友達関係のように思いがちですが、弟子たちの、きょうの姿を見る時、決してそうではない事が分かります。

本来、罪人には、近寄りがたいお方なのです。私達は、イエス様をどのように見ているのか、イエス様のお言葉にどのようにお従いしているのか、改めて考えさせられるのではないでしょうか。

イエス様は神の御子であり、人となって来られました。
この地上での歩みは、人として歩まれましたが、決して神としての力をあらわされなかった訳ではありません。数々の奇蹟をあらわされましたし、語られる言葉には力と権威がありました。

そのお方が、神の御子として、これからは十字架への道をひたすら歩んで行かれるのです。山で起こった事は現実でありましたが、過ぎ去って見れば、幻のごとく弟子たちの頭に刻み込まれた出来事でした。

実際に体験したことですから、終生忘れる事はなかったでしょう。
私たちもまた主にあって体験させて下さった神様の奇跡、
その一つひとつを大切に覚えて、主の御名をほめたたえたいものです。

たといクリスチャンホームで生まれ育った方でも、また、そうではなく、全くキリスト教のことを知らなかった、そういう方ならなおのこと、聖書の言葉が、神の言葉であると示された瞬間の喜びは、キリスト信者であるなら誰しもあるはずです。
それは、私たちにとっては奇蹟中の奇蹟だといっていいでしょう。

今回、聖書を通して見たペテロとヤコブとヨハネの体験は、奇蹟であり、
イエス様の輝き、それは神としての輝きであったでしょう。
そのような体験は、今の私たちはできませんが、今言いました聖書が神の御言葉であると示された喜びの瞬間、聖書が文字通り神のことばであり、それが、みんな自分の救いへと結びついていると知らされた時の瞬間は、そして今も御言葉をそう信じさせて下さっている事に、この朝、感謝したいものです。

イエス様は、この地上で選んだ人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけに、ご自身の栄光を表されました。一方、私たちは、み言葉を通して、イエス様が神であることをしっかりと知る者とされていますので御名を崇めようではありませんか。


2012年12月30日(日) 「時が来るまで」  マタイ17:9-13  竹口牧師

イエス様は、神でありながら、人となってこの地上に来られました。
またイエス様は、人となって来られましたが、そのために神ではなかった、ということではありませんでした。神であり、また人でもあられました。

ですから、そのことを様々な奇跡をもって表されましたし、今回見る聖書箇所のすぐ前にもその事が出ておりました。御姿が変わられたというのもまた神であった事を指しておりました。

ところで、ユダヤ人たちは、メシヤが来ると固く信じており、首を長くして待っておりました。にもかかわらず、メシヤがまさに自分たちの目の前におられる、というのに、しかし彼らはその事に気付いていませんでしたし、また、イエス様も気付く事を最初は避けておられました。

それ故に、きょうの最初の節、9節にこうありました。
「彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、『人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。』と命じられた。」とです。

ユダヤ人たちは、メシヤが来られることを待ち望み、その待望のメシヤが来られたのに、そしてまた、今まさに目の前におられるというのに、彼らは気付かず、また、イエス様もそれを明らかにする事を良しとはされませんでした。

それは、なぜだったのでしょうか。
皆さんがもし、イエス様の弟子のひとりでしたら、早く知らせたいという思いを持たれないでしょうか。私でしたら、伝えたいという思いにかられます。しかし、実際には伝える訳にはいきませんでした。

なぜなら、イエス様は、このマタイ16:20でも、そして、きょうの9節でも、「誰にも言ってはならない」と言われていますし、何よりも、5節において、父なる神様が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」と言われているからであります。

「彼の言うことを聞きなさい。」というのは、「聞き従いなさい」という事であって、
「聞き流しなさい」という意味ではない事を私達は知っているからです。つまり、イエス様が話してはならないと言われれば、それは、絶対命令であったわけでありました。

では、それに対して弟子たちは、どうしたでしょうか。
なぜ、「話してはならないのですか」と聞いたでしょうか。
彼らは、そうは聞いていないのです。

では彼らは、どう言ったでしょうか。10節にこうあります。
「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、
どうしてでしょうか。」と、そう言って聞いているのです。

弟子たちは、「なぜメシヤだと言わないのですか。言ったらいいではありませんか」
とはいわないで、律法学者達の思いを彼らは聞いているのです。
つまり、何となくイエス様が口止めされる理由が察しられていたということではないでしょうか。

実際の所、口止めされるには、それ相当の理由というものがありました。
それはユダヤ人たちが、メシヤとは誰かという事と共に、どのようなお方をメシヤというのかを正しく知らないままで、イエス様をメシヤだということは、非常に危険でもあったからです。

なぜなら、彼らが抱いているメシヤの観念は、それに、その前に遣わされると言われている先駆者という者がどういうものであるか、神の言われている事と大きく違っていたからでした。

10節をもう一度読みますが、
「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。『すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。』」とあります。

これは、明らかに、マラキ書から来ておりました。
マラキ書とは、旧約聖書の最後の書で、それも、最後の章にこう書いてあるのであります。4:4−6節です。

「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。
それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」とであります。

この事の故に、イスラエルは、バビロン捕囚になって、外国の地で礼拝しなくてはいけなくなった時も、また、戻って来て礼拝できるようになっても、ギリシャやローマといった外国の支配の中で礼拝する、こんな事が、神の民の国であってはならない事。
必ず神様は、メシヤを送って下さり、国を再興して下さるという、そんな夢や希望が根強くあったのでした。

ですから、まずは、エリヤを神様は送って下さる、そう信じて疑わなかったのでありました。従って、それと違う事を言う者が現われますと、大変な混乱状態に陥って来ていたのでありました。そういう意味で、イエス様は事を慎重に進められるのであります。

とはいえ、ユダヤ人の心に深く植えつけられていたことを変えるというのは、大変むずかしことでありました。というよりはほとんど不可能であったというのが現実でした。ですから、慎重にも慎重を期して、イエス様はことを進めておられたのでした。

エリヤが再び来るという思想は、時代の流れと共に、次第に複雑になっていき、ついにユダヤ人は、エリヤはただくるだけでなく、メシヤのために世のすべての秩序を回復して、メシヤを受け入れる態勢を整えるのだと信じるようになっていきました。

すなわちエリヤは、強力な恐ろしい改革者として、世界中をまわってすべての悪を滅ぼし、正義を打ちたてると考えるようになっていきました。エリヤが旧約聖書に登場しますのは、T列王記17章からですが、彼についての書き出しはこうなっています。

「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。
『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、
ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

こうして、当時の北イスラエル王国の王、アハブに対して彼の犯した罪を果敢に責め立てるのであります。バアルの偶像礼拝者との戦いもそうでしたし(T列王18章)、
ナボテのブドウ畑をアハブ王が捕った時も、エリヤは、その罪を堂々と指摘致しました(T列王21章)。そのように、時の最高の権力者に向かってエリヤは、神に遣わされた預言者として、恐れることなく神の言葉を伝えたのでした。

そのエリヤがまた来ると、旧約聖書のマラキ書にあるものですから、イエス様の時代、外国の支配にあっては、期待せずにはおれなかったというのが現実かもしれません。
だからこそ、エリヤに対する期待は、大変大きいものでした。

イエス様は言われました。
11節「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。」
その部分はイエス様も認めておられます。
そして12節
「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。
ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。
人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」

イエス様は、エリヤはもう来たと言われます。
そのエリヤに対して好き勝手な事をしたのです、とも言われます。
しかし、彼の道は苦しみと犠牲であった。人の子もまた同じ道をたどろうとしている」と言われました。

実際、バプテスマのヨハネの活躍はどうだったでしょうか。
彼は、多くの人を神へと導き、救い主到来の備えを致しました。
最後には、ヘロデ・アンティパスの罪の指摘によって牢獄へと入れられる事となり、
更には、首を切られることになりました。

王と王とも恐れず、罪を罪として指摘した結果、そうなりました。
パリサイ人たちは、バプテスマのヨハネの活動には特別に目を留めていましたが、
神の送られたエリヤだとは気が付きませんでした。

そしてイエス様の指摘のごとく、エリヤに対して「好き勝手な事をしたのです」とイエス様は言われました。そして、イエス様自らも、その道を辿る事を宣言されたのです。それに対して弟子たちの反応は、13節「そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」とありますように、旧約のマラキ書で書かれているエリヤが、まさにあのバプテスマのヨハネである事に気付いたのでした。

弟子たちは、その事の故に、イエス様が「誰にも言ってはならない」という言葉の意味を深く知ったに違いないのです。イエス様は、真の神を伝える方法は、人の権力や力で、そして神の圧倒的な力ですることではなくて、犠牲的な愛をもって、人の心を開かせることである。その原則を示され、また、ご自身もそのようにこれからも行動されて行くのであります。

弟子たちは、このことを学ぶまでは自分たちがメシヤと共に行動している事を黙っていなければなりませんでした。もしも弟子たちが、律法学者やパリサイ人たちが考えているような征服者であるメシヤがきたとふれまわったならば、悲劇が起こる事は必至でありました。

実際の所、イエス様が十字架にかかる前の百年間に、20万人以上のユダヤ人が革命や反乱を起こして、無駄に生命を失っているという歴史があったのでありました。

弟子たちはキリストを宣べ伝える前に、キリストとは誰であり、またどんな方かをもっともっと知らなければなりませんでした。そこでイエス様は、ご自分が十字架を避けられないこととして、事あるごとに話され、弟子たちが理解する時まで、人々には話さないように、そして黙って学ぶように命じられました。

マタイ16:21節「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とありますように、イエス様は時を読まれ、時を進め、時が来た時に行動する事を、いつも念頭に置かれて行動されておられました。

この世には、いろいろな思想があり、教えがあります。それは、全て人から教えられ、学ぶものです。けれども、私たちが心の内に頂いているものは、決して人から教わり、また学び、更には悟って得たものではなく、神様からの一方的な恵みによるものでありました。それを今も持ち続けているのであり、それはまた、天の御国へ行くまで、無くなる事はないのです。

そのようなものを、頂いたものだけが、他の人にも伝えることのできる特権が与えられているのです。キリスト教徒を大迫害したパウロ。キリスト教徒を見つけ次第、牢獄に入れ、死に至らせたそのパウロが救われてから、彼は、こうガラテヤ書に書きました。

「使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、
人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、
イエス・キリストと、キリストを死者の中から甦らせた父なる神によったのです。――
および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。
どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたの上にありますように。」とであります。

パウロという人は言うまでもなく、イエス様の12弟子の一人ではありませんでした。
彼曰く、「キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。(Tコリント15:7-8)と書いて、キリストを信じる者の迫害者としてではなく、キリストを宣べ伝える人に変えられた人でありました。

翻って、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられたイエス様。
時が来るまで、弟子たちは、沈黙を守りました。
そして、甦りの後、彼らは命をはって宣べ伝える人となりました。
現代の私達には、「時が来るまで」待ちなさいという命令は、もはやありません。
それどころか、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
と命じられているのです。

私達にとってイエス様のご命令は「時が来るまで」ではなく、「時が来た。さあ、刈り取りなさい」なのです。メシヤを目の前にしながら、気付かなかった当時の指導者たち、何という残念な人生であったでしょうか。

ペテロは言いました。(Tペテロ1:8)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」と。

私達は今、沈黙する必要はありません。
むしろ、語り続ける事が求められております。
時が来ているのです。
皆さんお一人おひとりが、神様に用いていただけますように。
新しい年が、もうそこまで来ています。
私たちは今や、主の再臨されるまで、
誰をも臆することなく、宣べ伝えることができるのです。
イエス・キリストの福音を、
今年以上に来年はもっと積極的に宣べ伝える者とさせていただこうではありませんか。


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