2013年1月13日(日) 「信仰、不信仰」 マタイ17:14-21 竹口牧師
この朝は、マタイの福音書17:14-21節までを見ることにしますが、その前にまず、きょうの聖書箇所の前の17章1節からのことを述べて今日の所に入ることにします。
イエス様は、その弟子3人(ペテロとヤコブとヨハネ)を連れて山に登り、 そこで、イエス様の姿が変わったという記事が書かれておりました。 しかもそのことを、誰にも今は言わないように口止めされました。
そのあと弟子たちは、山を降りて行くのでありますが、イエス様の弟子は12人ですから、あとの9人はどうしていたかと言いますと、山の麓で、イエス様達が降りて来られるのを待っておりました。それも、のんびりと待っていたのではなく、早く戻って来られないかという、一種の焦りというものを感じながら、待っておりました。
なぜ焦っていたかと言いますと、これから見て行く事が絡んでいたからであります。 では早速今日の聖書箇所にはいりますが、14,15,16節をまず、お読みいたします。 「彼らが群衆のところに来たとき、 ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。 『主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。 何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。 そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。』」とあります。
つまり、山の麓に残っていた弟子たちの所に、てんかんという病気を持った息子を持つ父親がやって来て、その残った9人の弟子たちに、癒してくれるよう頼んだのですが、9人全員が、癒す事が出来なかった。そこで、父親は、イエス様ならお出来になると信じて待ち、そして山から下りて来られるや否や、お願いのためにイエス様の御前にひざまずいた、というわけであります。
てんかんという病気を私はあまりよく知らないのですが、ここに登場している息子の場合、15節にありますように、大変な症状であったことがわかります。現在では、薬を飲む事によって症状をおさえられるようになった、そのようにも聞いております。 近年、薬を飲むのを忘れて、大事故を起こし、登校中の子どもが数名なくなったという事件もありました。
てんかんという言葉のギリシャ語は、「月の影響を受ける」という言葉から来ているそうでありまして、ですから、月の影響をうけると考えられていたようです。
今回話に出る人は、火の中に落ちたり、水の中に落ちたりという、大変な症状があったのでありました。ただ、今回の場合、病気の主な原因が悪霊の働きにあった。 そのことも、18節、19節を見ますと分かるのであります。そして、その悪霊をイエス様の弟子たち9人は追い出せなかったので、今回のようにイエス様に頼らざるを得なかったのでありました。
父親の言っている事をよく読んでおりますと、子供の病気のひどさもさることながら、 弟子達の無能さも併せて訴えているようにも聞こえて来るのであります。 「あなたのお弟子さん達に期待してお願いしたのに、癒すことはできませんでした。まことに残念です」とです。
それに対してイエス様はこう言われました。 17節「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」とです。 この「今の世」とは、「世代を」を指し、その時代に生きている全ての人を指しますが、ここの話しでは勿論、そこに居合わせた人たち全員を指しますし、 現代で言いますと、イエス様が来られた時代からこの世の終わりまでの人を指します。
つまり「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」とは、今の私達にも、言われている言葉であると意識して聞かなければなりません。
イエス様は、その続きでこうも言われております。 「いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。 いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう。 その子をわたしのところに連れて来なさい。」と、そう言われたのでありました。
確かに、イエス様の言われる通り、 イエス様はいつまでもこの地上にいる訳にはいきませんでした。 この地上での歩みは、イエス様の人生から言いますと、カウントダウンに入られていたと言ってもいいかもしれません。
いつも十字架を意識し、そのための準備を進めて来られた訳でした。 ですから、このマタイ福音書10章1節で、イエス様は弟子たちを呼び寄せて、彼らに、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすように、汚れた霊に対する権能を授けておられたのでした。
10章8節では、こうも書かれております。 「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とであります。
さて、弟子たちは、これだけの権能をいただきながら、今回の場合、9人の弟子たちは、どうする事も出来なかったという訳です。
では、イエス様はどうだったでしょうか。 勿論18節の通りであります。 「イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。」とあるのであります。
「さすがはイエス様」、「やはりイエス様にしかできないのか」、そういう声が聞こえてきそうでありました。弟子たちの面子、まるつぶれであります。弟子たちも恥ずかしかったのでありましょう。19節で「・・・そっとイエスのもとに来て、言った。 『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』」と、そのように聞いているのであります。
そっとイエス様に聞きました。 すると、イエス様は、20節で「あなた方の信仰が薄いからです」と言われました。 イエス様はそう言われましたけれども、それは、一体どういう意味でありましょうか。 実際の所、他の訳ではどうなっているかと言いますと、「信仰が足りない」とも訳されております。
ギリシャ語では、「小さい」という単語と「信仰」という単語が、くっついて一つの単語になっているのであります。 そして「小さい」という単語を調べてみますと「小さい」「少ない」「短い」という意味のほかに、「わずかな」という意味がありまして、それは大きさ、量、程度を指すのであります。ですから、新改訳の訳でも良いのであります。
そこで仮に、大きさとか量的に考えてみた場合、信仰を厚みで、濃さで言い表して、もしそれが出来ないとすれば、イエス様は、どういう意味で言われたのでしょうか。
イエス様は、あるいはまたこうも言われています。 「からし種ほどの信仰があったなら・・」とであります。 からし種とは、最も小さい種という事を意味しますので、これまた信仰を今度は、大小で言い表された事になります。
それは、一体どういう意味でありましょうか。 信仰を大きさで表す事が出来るのでしょうか。 もしできなければ、これもまたそのように考えることは、正しくないという事になります。
ある人が、このような事を書いておられます。 「信仰は量が問題なのではなく質が問題なのである。『信仰が薄い』というのは、 量的に少ない事を指しているのではなく、質的に濃さが足りない事を指している。 つまり、半信半疑の信仰である。
このような薄い信仰では、何の役にも立たない。 神がさせて下さるなら、どんなことでもできると無条件で信じる事が、真の信仰なのである。
ピリピ2:13には『神は御心のままに、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。』と言われている。この『志を立てさせ』というのは、野望を抱て、自分の意志で何かをしようと思うことではなく、神の御心によって、何かをしようと計画する事である。
そして、それが必ず神の力によって成し遂げられると信じる事が信仰なのである。 神が「事をおこなわせてくださる」神であると信じなければ信仰による計画は実現しない。神は、どんなことでも出来る神であるから(19:26)、その神を信じるなら、なんでもできるのである(17:20)。
たとい、そのためにどんな困難に直面し、どれだけ長い時間がかかり、どんなに多くの労力が必要であるとしても、神は必ず実現して下さる。信仰とは、神によって大きな可能性が自分に与えられている事を信じる事なのである。」と述べておられます。
これも、確かに信仰の一面が言い表されているとは思います。 しかし、今この場面では、それが当てはまるかどうか疑問です。 弟子たちは、癒しの権能を与えられていましたし、イエス様を信じて従っていましたし、イエス様のお名前によって、癒そうと試みた筈です。 しかし、現実には、癒すことができなかった。
では、どこに、どんな問題があったのかという事になります。 イエス様は言われました。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と。
「この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。」とは、大変なことです。
ある宣教師が話されたのだそうですが、ある人の家の裏に山があり、毎朝その人は祈って「ここから、あそこに移れ」と叫んだそうです。かなり長い間やってみたが結果が出ないので、ついに「わたしの信仰は駄目なのだ」と自分で結論をだして、信じるのを止めた、そうです。
その書かれていた著者は、これは実話ではないと思いますが、とそう書き添えられていました。
一つ、ここで気になりますのは、もしこれが事実であったとするなら、それは、本当の信仰ではなかったと言えないでしょうか。なぜなら、本当に信じていたなら、ずっと祈り続けていたはずです。信じていなかったので、本当に山が動いたかな?と、祈りつつも毎日見ていたという事でありましょう。
それは、本当の信仰とはいえないでしょう。 信じ切っていなかったからこそ、「やはりきょうもダメだった」という事になったと言えます。
次の話は、ある先生から私が実際に聞いた話ですが、山をも動かす信仰ということで話されました。それは、自分の家の近くに大きな山があった。どうもそれが邪魔で仕方がなかった。でもそれがある日、無くなりました。
では、その山がどこに行ったかと言いますと、海の埋め立てに使われたのだそうです。 そしてそれを称して、山が海に動いたのだ、とそのように先生は言われていました。 イエス様のお言葉の意味をよく考えず読むなら、そこにどうしても無理が起きて来ることを感じざるを得ません。
ところで、ある本によりますと、もともとこの言い方といいますのは、ユダヤ人がよく使う言い方だそうです。その事を知らずして読む時、とんでもない事になる訳です。
ではユダヤ人は、どういう意味でこの言い方を使っていたのかと言いますと、 「聖書の解明、解釈ができ、難問題を解決する優れた教師のことを、山を移す人、山を砕く人と呼んでいた。 山を壊し、移し、砕くとは、困難な問題を解決するという意味で、人がよく使っていた言葉である。 イエスはこのことを文字通りに解釈する事を期待されていない。 普通の人が実際に山を動かさなければならない場合など、殆どない。イエスは『もしあなた方に信仰があれば、すべて困難な問題は解決し、困難な仕事も完成する』と言われるのである」とそのようにある本にありました。
私達は、信仰という事を考える時、ついつい熱心さ、努力のすごさ、思いの篤さ、そのような事に目を向けやすいものです。しかし、もし本当に信仰というものが、そういうものに100%依存するものであるとするなら、それは、本物の信仰とはいえないのではないでしょうか。
私達人間の努力、熱心さによって、信仰が計られるとしたなら、私の信仰は、無に等しいかもしれません。勿論、どこにどの程度の基準を置くかによって、それは当然、違ってきます。
でも、実際は、信仰とはそういうものではありません。 信仰は、私たち人間が造り出すものではなく、主が与えて下さるものなのです。 確かに、聖書は、求めなさい、そうすれば与えられますと勧め、たえず祈りなさいと勧めています。非常に大切なことです。
しかし、一生懸命祈ったらその通りになった。 それも、1回や2回ではない、何回も私は経験してきた。そういう人もおられます。 でも、御心でなければ何一つ叶わないことも忘れてはなりません。
自分の願う事は全て神の御心なのだという傲慢にならないように。 そしてまた、何を願っても神は私の願いを聞いて下さらないという 卑屈という不信仰には、気をつけなければなりません。
大切なのは、信仰の厚みではなく、深さでもなく、強さでもなく、熱心さでもなく、 神様にはできるという信仰です。信頼です。 それは、もっとも小さい信仰でも神様がくださっているのです。
私たちは、こうでなければ、ああでなければと考えて、 信仰の勇者を頭に思い浮かべる必要はありません。 かつて預言者エリアがホレブの山で言いました。 「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。 私は先祖たちにまさっていませんから。」(T列王19:4)と。
バアルの預言者と勇敢に戦ったあのエリヤでしたが、そのところでは、死を願ったのでした。神様は彼の願いに、 「そうか、そうか、そんなに死にたいか。 では、願いどおりにしてやろう」とは言われませんでした。
神様は彼の願いどおりにしないで、それどころか、これからの使命を彼に託されたのでした。神様は、私たちが勝手に計画を進めることをお許しになりません。むしろ、御心だけがなるようにされるのです。
ですから、今回の出来事を通してイエス様は、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。 いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう。」と言われたのです。
即ち、それは、弟子たちの信仰の薄さ、小ささをイエス様が嘆かれたのではなく、 むしろ、今回の事を通して弟子たちを励まされたのだと言えましょう。
なぜならイエス様は、彼らに必要なものは全て与えておられたからです。 ですから、弟子たちは少しも慌てる必要はなかったのです。
次に、かっこ付きで書いてあり、脚注を見ていただきますと、 「古い本の多くは、この節を欠く」と書いてありますが、それはともかく、 聖書には、こうあるのであります。
「〔ただし、この種のものは、 祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」とであります。
もし、この言葉が、私たちの熱心、努力を求めているとするなら、それは、もう一度考えてみなければなりません。なぜなら、癒されることが神の働きではなく、それは、 人の手、人の力にかかっていると言っているのと変わらないからです。
聖書は決してそうは教えていないのです。 普段の生活の中での祈りだけでなく、もっと神に時間を献げ、祈る時、断食の必要な時も、あるいは必要でしょう。
しかし、熱心な祈りが癒すのではなく、また普段の生活と変わった断食が癒すのでもなく、癒してくださるのは、あくまでも神様である。その事を私たちは、決して忘れてはならないのです。
私たちはひたすら御心がなんであるかを追い求め、御心がなることを願って祈り、仕えて行く者でなければなりません。何が信仰であり、何が不信仰であるか、それを、自分たちの願っていることの実現したことで量ることのないようにしたいものです。
大切なのは、全能の神様は、いつでも信仰者に対して最もよい事をして下さるお方である、そう信じて信頼することなのであります。 私達は、その信仰で人生を貫き通したいものです。 それこそが、もっとも信仰的な生き方なのですから。
2013年1月20日(日) 「一匹の魚」 マタイ17:22-27 竹口牧師
この朝の聖書範囲は、大きく二つの部分に分けられます。 その一つは、22,23節で、イエス様の受難の予告であり、 もう一つは、24-27節で、宮の納入金の話しであります。
最初の受難の予告につきましては、今回で二度目になります。 一度目は、16:21において見たのでありますが、 話しとしては、こういう流れでありました。
イエス様が弟子たちに向かって、質問されました。 「人々は人の子を誰だと言っていますか」とであります。 そしてその後、それでは「あなた方は、私を誰だと言いますか」 という質問をされました。
後者の質問に、ペテロはこう答えました。 「あなたは、生ける神の御子キリストです」とであります。 そしてその後、イエス様はご自分の受難について話されたのでした。 この時は、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け」 と言われ、誰から苦しみを受けるかを言われていましたが、 今回の場合は、「今に人々の手に渡され」と言われまして、 一般的な言い方をされております。
その代わり、16:21の「多くの苦しみを受け」というのが、今回の所では「人々の手に渡され」という言葉に代わりまして、イエス様は、裏切られて人々の手に渡される事が示唆されています。
イエス様にとって、先の先が分かっておられるのでありますから、 つまり、ご自分の弟子の中から、裏切り者が出る事も勿論御存じでありますので、 どれだけ、これからの歩みが悲しい道であるか、その事を心に秘めつつイエス様は、進んで行かれるのであります。
しかしこの時、弟子たちは誰一人、そんな事を知る由もありませんでした。 弟子たちは、イエス様のお言葉を聞いて、23節によりますと、非常に悲しんだだけでありました。弟子たちはこの時、イエス様が、いつ人々の手に渡され、殺されるような事が起きるのか、気にはならなかったのでしょうか。
1回目は、ペテロが、「そんなことが、あなたに起こる筈はありません。」と言ったものですから、イエス様から厳しく責められましたが、2回目は、どのようなようすだったでしょうか。「彼らは、非常に悲しんだ」とだけあります。
先回、イエス様は厳しく戒められたこともあり、 ですから、マルコは9:32でこう書いております。 「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。 また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」とであります。
また、ルカは9:45で 「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。 このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。 また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。」と書いております。 弟子たちにとって、非常な恐れが支配していた事が伺えます。
ところで、このようにして、イエス様のこの地上での働きの終わりがだんだん近づいてくる時に、それを臭わすかのように、又一つの出来事が舞い込んできたというのがきょうの24節以下の話しであります。
それは、イエス様がヘロデ・アンティパスの領地に戻って来られた。 つまりガリラヤのカペナウムに戻って来られた時の話であります。 24節にこうありました。「また、彼らがカペナウムに来た時、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。『あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。』と言ったというのであります。
ユダヤ人なら誰でもが払っている。 律法にも決められている。 それらを守らないで無視することは赦されない事ですよ、という、そんな圧力ではなかったでしょうか。
実は、エルサレムの神殿を維持するためには、莫大なお金を必要としておりました。 と言いますのも、毎日、朝と晩に、一頭の若い雄羊ささげ、上質のオリーブ油とか、最良の小麦粉を献げる必要があり、(出エジプト29:38-41)あるいは又、毎日たくための香も用意しなければなりませんでした。(出エジプト30:7-8)
時には、祭司が身につける肩掛けと上衣も、新しくしなければなりませんでした。 それらは、大変高価な衣装でありましたので、随分お金がかかったようであります。 そして、これらのものを用意するためには多額のお金が必要で、そこで出エジプト記30:13-15などの規定に基づいて、20才以上のユダヤ人の男子は、毎年、宮の納入金として半シェケル納めなければならないことになっていたのであります。
因みに、そこを読んでおきますと、こう書いてあります。 「登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。 一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。 二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。 あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。」とであります。
現在、鈴木先生が第一週の朝、講解説教されていますネへミヤ記のネヘミヤ時代には10:32によりますと、人々の貧困のため3分の1シェケルに減額された、そういう事も書いてありますが、通常は、この半シェケルを納めるというのは、当然の義務でありました。
それは、イエス様の時代で言いますと、半シェケルというのは、ギリシャ貨幣ドラクマ二枚に相当し、納入金の金額は日本円にして75円に相当し、当時パレスチナの労働者の一日の賃金は約40円であったそうですので、それは二日分の賃金に相当するのだそうです。
今、引用しています本が40年前という古い本ですので、価値の違いはありますが、 それでも、二日分の賃金に相当するというのは、今の物価から大体の目安にはなるのではないでしょうか。
この税金は、20歳以上になりましたら、原則としては誰もが必ず納めなければならないものでありまして、神殿当局には、納入の義務を怠った者の財産は、差し押さえる権限が与えられていたそうであります。
神殿税ではありませんが、この日本においての税金について言いますと、地方税を滞納しながら、優雅な生活をしている者もいるという事で、最近では、強制差押えの手段に出るようになったというのを、最近のニュースで見たことがあります。
税金は、出来たら払いたくないという思いは、いつの時代でも同じでありましょうが、 しかし、必要なものであり、また正しく使われれば、何の問題もないのであります。
それはともかく、ローマに支払う税金、貢物と、神殿に払うものとは、全く別な用途であり、意味が全然違いますので、ユダヤ人で信仰者であるなら、払うのが当然と考えたでしょう。
そこでイエス様達が、宮の納入金を納めるかどうか、 反イエス派の人たちにとっては、様子をうかがうよいチャンスでありました。 と言いますのも、何しろ、今までにも安息日の規定を破っているし、 食前に手を洗うという、きよめの規定にも従いませんでしたので、 今度も、もしかしたら従わないかもしれない、 そういう思いがあったからであります。
一種の試す意味があったわけでありました。 イエスがもし納税を拒否するとするなら、律法にも規定がありますので、 正統派の人たちにはイエスを訴える事が可能という事になります。 「神聖な宗教を無視して、勝手な行動は赦さない」というのが、正統派の人たちでありました。
ところで、25節を見ますと、ペテロは「納めます」と言って、家の中に入って行きました。ペテロのとっさの判断だったのでしょうか。深く意味を考えずに言った言葉だったのでしょうか。
いずれにせよ、イエス様はこの時、ペテロと集金人との会話を聞いておられたのか、 それともイエス様ならではの力で、全てを見通して言われたのか、 そこの所はよくわかりませんけれども、ペテロが家に入ってくるなり、 イエス様の方からペテロに質問をされたのでありました。
ペテロがイエス様に報告する前にイエス様の方から言われた。 これは、ペテロにとってびっくりしたでしょう。 確か、自分のそばには誰もいなかったのに、 まるで宮の納入金を集める人達と一緒に応対していたようにさえ思えたからです。
イエス様は言われました。 「シモン。どう思いますか。 世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。 自分の子ども達からですか、それとも他の人たちからですか。」と。
考えて見ますと、自分の子ども達からは取り立てませんね。 なかなか良い質問です。 王は、自分たちの子どもからではなく、民衆から徴収します。 それと同じように神の御子であられるイエス様は神殿税を納める義務はありませんでした。父の宮だからです。
しかし、ここで、自分には払う義務はないと言ってしまいますと、 また、そのように行動しますと、そのことで躓く人も出て来る。 それ故に、人々を躓かせないためにイエス様は、ある方策を明らかにされます。 それは、宮の納入金を支払いなさいという事でありました。
イエス様は、ここで不必要な誤解と衝突を避けるために権利を行使なさいませんでした。イエス様の深い配慮が見えてくるようです。
もう一つは、私達キリスト者は、神の国に属する者ですが、 同時に、この世においては、国の一般市民である。その事も承知しておかなければなりません。ただ、だからと言って、この世と全ての点において妥協することは、決して赦されない事であります。
パウロはローマ人への手紙13:7において 「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。 みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、 税を納めなければならない人には税を納め、 恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」 とこのように書いております。
この世の一員として、するべきことはしなさいという事です。 これは、大切な勧めであると共に、その一方で、この世と調子を合わせてはいけないことも、ローマ12:2でパウロは命じております。
イエス様は、ご自分の時をよく考えつつ、正しく振舞うよう勧められます。 イエス様は、今回は、27節のように言われて、 宮の納入金を集める人たちに答えるよう言われています。
27節「しかし、彼らにつまずきを与えないために、 湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。 その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、 それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」とでありました。
ステタル一枚、これは、脚注を見ますと、シケルとも出ていますので、つまり、価値としては、1シェケルが魚の中から出て来る事になります。宮の納入金は、一人につき半シェケルですから、つまり、二人分の税金が払えるという訳であります。
イスラエルに行きますと、必ずと言っていいほど、ペテロフィッシュなる魚が出てきます。味は淡白であまりおいしいとは思えませんが、 こっそりこちらから持ちこんだしょうゆで食べますと、まあ食べられるというものです。
ペテロは、イエス様が命じられた後、実際に、漁をしたのでありましょうか。 この後の結果が何も書いてありませんが、イスラエルでは、ペテロが釣ったのは、この魚ですと言ってペテロフィッシュと言われ、イスラエルではしっかりと、商売になっております。
イエス様は、この時、「最初に釣れた魚を取りなさい」と言われましたが、 しかも、今も言いましたように、出て来る貨幣は1枚だけ、 それも二人分しか支払えない状態です。 あとの11人分は、どうしたのか、 そもそもこれは、本当に起きたことなのかと、奇跡を信じない人は、疑いを抱きます。
しかし、イエス様のなさった奇跡はあちこちに書かれております。 たとえば、当時の医者が治せない病気を治したり、悪霊を追い出したり、 水の上を歩いたり、嵐を静めたりと言った具合に色々あります。 ですから、もし、一つの奇跡を否定するとするなら、 全てを否定しなくてはいけなくなりますし、 それはまた、聖書の内容事態を否定することにもなってきます。 従って、これは、イエス様をあなたがどう見るか、 それにかかってくるでありましょう。
私達は、普段の生活を当然のことのように思って行なっています。 しかし、時には、ちょっとした食い違いで、どんどん予定していた事とずれて来る。そして全く予期しなかった事態へと追い込まれて行く事があります。 そのような事を考えますと、神様の働き、ご支配の中で私達は、守られ、生かされ、用いられている事を感じない訳にはいきません。
神様は、今回一匹の魚を用いられます。 躓きを与えないためにでありました。 魚がそんなに大きな働きに用いられるとしたなら、 人間である私達は、もっと大きな働きのために 私たち信仰者を用いようと 用意して下さっていると言えないでしょうか。
魚一匹、されど、 イエス様が十字架への道を進まれるその大切な一歩のために その魚は用いられたのです。 イエス様の周りには、何一つ不必要のないものはない。 必要があって存在する。 それならば、私達一人ひとりも、あの一匹の魚のように、 その時のために、またある時の為にというように、 主の御用の為に用いられる器として生かされている。 これは、何という光栄な事でありましょうか。 神様が用いて下さる事を感謝し、 私達は、神様に自分自身を喜んで献げて行こうではありませんか。
|