2013年2月10日(日) 「御国での順位」 マタイ18:1-4 竹口牧師
この朝取り上げますマタイの話は、マルコの福音書、ルカの福音書にも取り上げられておりますが、それとは、少々違います。マルコやルカは、イエス様の方から話しかけられたと言います。
つまりマルコは、「道で何を論じ合っていたのですか」とイエス様の方から聞かれていますし、ルカの方では、「誰が一番偉いかという議論が持ち上がった」ので、イエス様は彼らの心の中の考えを知っておられ、話し始められたというように書いてあります。
どちらにしましても、弟子たちの中で、大変重要な問題の一つとして考えていたのは、「誰が一番偉いのか」ということでありました。
さて、マタイはこう言って話を進めます。 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。 『それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか。』」とです。
この1節にあります「その時」と言いますのは、前の事の続きとして時間的なことは指していないようですが、しかし、弟子たちが今回のような質問を投げかけるには、それだけの理由として、続けて読み、そのように指摘する人もおられます。
と言いますのは、ペテロとヤコブとヨハネの3人だけが、イエス様と一緒に山に登りましたし、今日の前の所の記事では、イエス様の税金分と、そしてまた、イエス様の弟子たちの中では、ペテロの分だけを払われた。そのように読んで、他の弟子たちとは差別をしておられる。そのように読むからであります。他の弟子たち11人の事は考えておられないように捉えます。
確かに、読みますとそのように読めないことはありません。 しかし、17章の最後の方の話は、ステタル1枚で、イエス様とペテロの分としなさいと言われておりますが、そうしたともなんとも結果は書いてありませんので、イエス様は、ご自分も含めて13人分、分け隔てなく税金を払われたのではないか、そう言う人もいるのであります。
イエス様も入れて13人分用意するのは、少し大変でしょうが、そのことに聖書は全く触れておりません。ですから、書いてないことをいろいろ詮索して、悪く考えるのは、あまり正しいこととは言えないでしょう。
さて、次に進むのでありますが、12弟子たちは、イエス様が自分をどう見ておられるか、大変気にしていたであろう事が想像できます。 しかし、それにしましても、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」という質問は、イエス様の弟子たるもの、大変次元の低い質問のように私は思うのでありますが、みなさんはどう思われるでしょうか。
天国に行っても、格差があるのかと言いたくなりませんでしょうか。 とはいえ、ある学者によりますと、当時のクムラン集団においては、階級制度がはっきりしていたので、イエスの弟子たちは、その影響を受けて、この問題を持ち出したのではないかと言います。
その一方で、「天の御国では誰が・・・」というような質問をするということは、自分たちは必ず、天の御国に行けると信じている、そのようにも受け取ることができるとも言えます。そしてこれは、実に大きな問題であります。
と言いますのも、天の御国に入ることができなければ、誰が一番偉いかなどという質問は愚問となるからであります。
そもそも、天の御国に本当に入れるのか、この事の方が実に大きな問であります。 弟子だから入れるというのは、大きな思い違いであります。なぜなら、ユダのような者もこれから出てくるからです。
ところで、イエス様はこう言われました。 3節「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」とであります。
イエス様は、会堂に入られて話をされましたが、野山でも話され、自然の中で実物教育もされました。今回は、そばにいる小さい子供を呼び寄せ、そして弟子たちの真ん中に立たせて説明されました。
実にわかりやすいたとえでありましたが、ただ、ここで私たちは、このイエス様の例えを、間違って捉える要素がある事を理解しておかなければなりません。 それは、子供に対する正しい見方をもっていないからですが・・・。
大人の私たちは、「子供たちのようにならない限り」と言われる時、 子供とは、純真無垢とか、疑わずに信じる素直さがあるとか、 感受性が豊かで、驚きや信じる心を持つとか、 そう言った良い部分の事を考えます。 確かにそういう良い面がないわけではありません。 イエス様もそういう点をも含んで言われた事でしょう。
しかし、イエス様は、それ以上のことをも含めて言われております。 即ち、子供たちが置かれている立場であります。 子供は、この社会において、誰からも注目されず、権力や財力、地位とは無関係に生きています。つまり、御国に入るには、そのような社会的な立場に自分の身を置く事こそとても危険であるといわれるのです。
つまり3節でイエス様が言われます「あなたがたも悔い改めて・・」と言われた「悔い改めて」と言いますのは、直訳をしますと「向きを変えて」となりますので、今のままでは、全く駄目だということになるのであります。
はっきりと方向転換をしなければならないということです。 イエス様は、これを弟子たちに言われているのです。 弟子たちに、ですよ!
現在の大人の私達もよくよく自分の歩みの事を考えてみますと、 もしも、野望の達成のために、また権力の獲得のために、生まれながらに持っている能力や権力のために、そしてまた他人からの称賛を求めているとするなら、それは、天の御国とは全く反対の方向を目指して、進んでいることになります。
なぜなら、天の御国の民は、自分を全く忘れ、自分を捨て去り、権力を得る為ではなく、奉仕のために自分を献げるものだからです。つまり、人が自分自身を最も重要だと考えている間は、天国に背中を向けているということでありまして、それではいけない、ということであります。
天国に行く者は、方向を転換して反対方向に向かわなければならないとイエス様は言われるのです。
それなのに弟子たちは、神の支配を受けて神の民となるにしても、恥ずかしい「小さい者」ではありたくない。「より大きい者」「立派な者」、神ご自身でさえ認めざるを得ない程の美徳、誰よりも強い信仰、模範的な業績を持つ者として面目を施さねば、天の御国に入る意味がない。イエスの弟子たる者は、他の小さな者とは全く違う。 そんな思いが彼ら弟子たちの心を支配していたのでしょうか。
イエス様の弟子として外側から見られれば、よく見られたい。 またその一方で、内側から弟子の目として仲間を見るならば、自分の方が立派である、 そうイエス様から見られたかったのでしょうか。
そういう思いは、気持ちとしてはわからないこともありませんが、 しかしイエス様は、そういう彼らの思いに対して言われたのでした。 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」とであります。
イエス様の弟子は、沢山いました。 イエス様は、その中から、夜通し祈られ、12人を選ばれました。 それは、今後の働きを考えての選択でありました。
外部から見ますと、それだけでも十分に人々から優れていると思われていたでしょう。 私も、イエス様と共に歩みたい。弟子の仲間の一人して一緒に働かせていただきたい。 そう思っていた人たちは、沢山いたかもしれません。
実際のところ、名前こそ挙げられていませんが、悪霊につかれていた人が癒された時、お供をしたいと願いましたが、その人はイエス様に、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マル5:19)と言われ、お供する事をお赦しになりませんでした。
陰で、イエス様や弟子たちの身の回りの世話をする人が何人もいたであろうことは想像できるのであります。イエス様の弟子の一人といえば、ほかの人から見れば、もしかしたら、少しばかり鼻高々であったかもしれません。
しかし、イエス様から見れば、それこそが、神の国の民としては必要のないもの、いいえ、邪魔にさえなるものでありました。 だから、悔い改めて子供のようにとか、直訳では、「向きを変えて、子供のように」となりますが、そういう風にならなければならないとイエス様は言われたのでした。
ここで、私たちは、とても注意が必要なのですが、 子供のようになることを勧められていますが、 子供になれとは言われていません。ここは大変注意が必要です。 その違いは、こういえばお分かりいただけるのではないでしょうか。
私は時に、あの若かった中学生、高校生時代を思い出し、あの頃に戻れたらなになれたならなあ、とそう思ったことが何度もあります。みなさんは、どうでしょうか。
なぜ、そんなことを思ったかといいますと、あの時、もっと勉強していれば、 今はもっと、簡単にこんなことぐらいできるのだが、 あんなことができるのだが、そう思うことが度々あったからです。
では、中学生、高校生の時に大人になんと言われたでしょうか。 「今のうちにしっかり勉強しておいたほうがいいよ。 社会に出たら勉強など出来ないのだから」そう言われていたのです。 「後悔することになるのだから」、そう言われながら大きくなったものです。
でも、その時には、その理由がわかりませんでした。 大人になってみれば、そう言えば、あの時こう言われたなあ、 あの時、もうちょっと頑張っておけばよかったなあ、 そう思う事がたびたびあったわけであります。
大人になって初めて、ああそうだったのかとわかるわけです。 つまり、確かに子供には子供の良さがあります。 しかし、年齢を重ねた大人の考え、大人の知恵というもの、 歳を重ねたが故にわかる経験から生まれたものが子どもにはないのです。 だから、子供のようになっても、子供になってはいけないのです。
子供から学ぶことは確かにあります。 大人の言うことを聞く素直さがあります。 自分の弱さを知って、大人に頼ることを知っています。 必要なものは、親が与えてくれるという信頼があります。 そういう素直さ、依頼心、信頼などは、大人の私たちが神様に対して心から持つべきものなのです。
「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」という質問は、 もしかしたら、大人が子供になった子供の質問ではないか、 そのようにさえも私には見えてくるのです。
私たちは、時を戻すことはできません。 時は前に向かって進むだけです。 だから、大人の感覚を持ちながら、子供の良い点には学ぶことが必要なのです。 イエス様は、その子供の良い点に学ぶよう、この朝、私たちに求めておられるといえましょう。
もし、12弟子の中で、ペテロがトップで、その次にヤコブとヨハネが続き、第4番目に偉いのは、更にその下にほかの弟子たちが続いていると、弟子たちの中で考えていたとするなら、それはあまりにもこの世的でありますが、しかし、人間的にはあり得るでしょう。
それはまた、イエス様の弟子の中での差別化であり、 この世と全く変わらない状態であったということもできます。 それは、決して正しいあり方とは言えません。
つまり、「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか。」という質問自体が、弟子たちの中から出てくるべきではないのです。本当に恥ずかしい話であります。 イエス様はそういう弟子たちを、子供をそばに置きながら教え、弟子たちを訓練し、導いておられたのでありました。
イエス様は言われました。 「まことに、あなたがたに告げます。 あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」とであります。これは、とても厳しいお言葉であります。弟子たちの質問から言いますと、本当に、天の御国に入るには恥ずかしい状態であります。
と言いつつも、では私たちは、自分たちの教会の中で、どのように考え、感じているか考えてみる必要はないでしょうか。 今のこの状態で、天国に行ったなら、天国はどういう状態になるでしょうか。 天国が天国ではなく、この世そのままということになりませんでしょうか。 もしそうなら、そんなところに行きたいと思われるでしょうか。 みなさんは嫌でしょう。私も嫌です。
神様のみ前に皆同じで、心から主の御名を褒め称える所でありたい。 また、実際そういうところだと私は思います。 子供のようになるとはどういうことか、イエス様はイエス様ご自身の身体で、私たちに示してくださいました。それがあのキリストの誕生であり、そして又この地上で仕えて下さったその行為そのものでありました。
ピリピ2:6-8にこうあります。 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とです。
神である方が人となってこの地上に来てくださった。 あのイエス様の謙遜な姿こそ、私たちが最も注目しなければならない見本なのです。 人に仕える。これが大切なのです。 誰が偉いか、どうのこうのと競うことではありません。 この地上でそうなら、まして、天の御国においてはなおのこと、そのように考えること自体が、間違っていると言えましょう。
イエス様の弟子である者が何故、その様な質問をするのか、 本当に理解しかねるのですが、 それはまた、私たちの教会の中でも言えることであります。
同じ屋根の下で、兄弟姉妹が、優劣を競っているとしたなら、 それは、主の歩まれた道、姿から離れていますよ、との警告でありましょう。
もし仮にですが、そうであるなら、弟子たちを笑う前に、自らを吟味し、悔い改めへと導かれ、謙遜に仕え合う兄弟姉妹という間柄にしたいものです。
2013年2月17日(日) 「躓きを与えない」 マタイ18:5-9 竹口牧師
先回の所でイエス様は、こう言われました。 3節以下「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」とでありました。
このイエス様のお言葉は、子供のようになることを勧めておられましたが、子供になることは、勧めてはおられませんでした。即ち謙遜であることを勧めておられたわけでした。
また、天の御国においては優劣がある、そういうようなことも、そのたとえでは言おうとしておられませんでした。つまりは天の御国では、功績、業績、立場、能力、資格、人徳、評判などといったこの世の一切のものが無価値だと言われたという事でありました。
そしてきょうの箇所は、先回の続きでありまして、ここでもまた、私たちは、非常に注意深くイエス様のお言葉に耳を傾けなければならない所であります。
ところで、今日の話の前に、話の区切り方で一言申し上げますと、4節で区切る人と5節で区切る人とに別れるのですが、私は、4節で区切りました。それは、5節と6節とが繋がるように読んだからですが、そしてその6節は、更に7節へとつながっていくのであります。どちらにしましても天の御国について述べられています。
今回、私は5節から9節までを範囲としましたが、この中から3つの点を取り上げて考えてみたいのです。まず最初に、5節、6節とで、一つの大切なことを私たちは教えられると思うのであります。もう一度、5節を読んでみます。
「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」とあります。
ここで、「このような子どものひとりを」とイエス様が言われた時、「このような」とは、当然ながら前の文章から繋がってきています。しかしまた、それは6節へと繋がっていることも確かです。では、6節は、どう書いてあるか、続けて読みますと、
6節「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでも躓きを与えるような者は、・・」とイエス様は言われているのです。つまり、注目していただきたいのは、6節の最初の方で、イエス様は「わたしを信じるこの小さい者たち」と言われている事です。 18章2節だけを読みますと、「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、」とありますから、イエス様の近くにいる手近な子供を呼び寄せられた。それは、イエス様を信じている、あるいは信じていないはあまり気にしておられないように思われます。
しかし、6節を見ますと、それは単なる手近な小さな子供ではなく、「わたしを信じるこの小さい者たち」なのでありました。私は、ここには、とても大切な点があると思うのです。
イエス様は、弟子たちに教えるために子供を呼び寄せ、真ん中に立たせられましたが、しかし、その子供は単なる子供ではなかったのです。イエス様を信じる小さな者であった。これは、非常に注目に値するのではないでしょうか。
信仰においては、子供であろうが、大人であろうが、そこには少しも区別がないということでもあります。信仰の強さ、弱さ、期間の長さ短さ、経験の豊富さ、貧しさ、そういうことは一切関係しないのです。イエス様を信じる者は、誰一人違いがないということです。
それどころか、そういう小さな子供でも、イエス様を信じる者であるならば、その者に躓きを与えるような者は、6節後半、「大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」と言われるのです。
それほど小さい者でも非常に大切にイエス様は考えてくださっているということです。この点にまず、私たちは目を向けなくてはいけないでしょう。
私たちの教会では、子供たちのために教会学校をしています。 それも、大人とほとんど同じように、プログラムがきちんとあり、奏楽、献金は、子供たちが奉仕をしております。
子供は子供なりに、神様にお仕えしているのです。 献金の祈りにおいても子供ですから、自分の信じていることを上手には言い表すことはできないかもしれません。しかし、しっかりと信じている子供はいるのです。
そういう子供たちを、私たちは、主にあって大事に育てていく責任を神様から頂いているといえましょう。子供だからと低く見ることは決してあってはならないのです。6節のイエス様のお言葉にありますように、「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と言われるほど、イエス様を受け入れているかどうか、その点にも大変重要な部分がかかっているのです。
そう言う意味で、教会学校の働きをぜひ覚えて祈っていただきたい。 子供たちが、小さいながらも信仰を告白できるように、近くで見守ってやっていただきたいのです。とかく、うるさい、邪魔な存在、落ち着かない存在ではなく、イエス様は、この子にも愛を注いでおられることを覚えましょう。
第2番目にこの朝、目を止めて頂きたいのは、7節の言葉であります。 「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。」とイエス様が言われている点です。
これが何を指しているのかと言いますと、誰が偉いのか、自分はイエス様から見られれば、何番目か。そのような事ばかりに目がいっていると周りの人との競争のほうばかり見て、小さい者には目が届かなくなるという点であります。
そればかりでなく、躓きを与えてしまう。つまり、加害者になるということです。 小さい者に目が向けられない。弱くて躓いて倒れていても、それでも気にならない。 なぜなら、小さな者の存在価値を見失っていて、大きいものばかりに目が注がれるようになっているからです。
信仰において一番になること、それが、この世において目標であるなら、天の御国においてはなおのことそうでありたい。そういう思いを持つ人がいるとするなら、この朝のイエス様の言葉は、大変な警告であると思います。それが信仰者の求めるところではないからです。
もっとも、信仰において一番になるとはどういうことか、それも考えてみなければなりませんけれども。
アブラハムのようになりたいとか、モーセのようになりたいとか、ダビデのようになりたいとか、エリヤのようになりたいというように聖書から有名な人を挙げれば、いろんな人が挙げられるでしょう。
しかし、私たちは、決してそういう人を見るのではなくむしろ、アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤなどなど信仰者に働かれた神を私たちは見上げなければならないのです。そのことを間違えると、信仰の偉人としての偶像崇拝という間違いを犯すことになるのであります。
上を見上げるとき、主を私たちは見上げなければなりませんし、また自分の信仰に目を留めるとき、ヤコブの言葉にも、目を留めなければならないと云えましょう。 即ち、ヤコブが、ヤコブ書2:14でこう言っています。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」とです。17節では、「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」と、そう書いております。
いつも私たちは、見上げるべきは天であり、まことの神であります。 それはまた、他のキリスト信仰者と信仰の深さ、強さ、大きさなどなどを競うことでもないわけです。私たちの行いは、主に導かれて行うことであって、何の栄誉も、賞賛にも値しないのです。むしろ「なすべきことをしたまでです」という思いで有りましょう。
ところで、私たちが信仰生活を行っていく上で、「つまずきが起こることは避けられない」ものです。その原因が自分にあるか、他人にあるかは別としまして、です。
ただここでは、その躓きを起こす張本人になってはならないとイエス様は教えられるのです。そのような者は、「大きい石臼を首にかけられて、湖の深みで溺れ死んだほうがましです。」とさえイエス様は言われます。
7節ではまたこうも言われています。 「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。」と。
非常に厳しいイエス様のお言葉ではないでしょうか。 「躓きを与えるこの世」とは、「躓きの原因であるこの世」でもあり、 また「躓きをもたらすこの世」でもあり、更には「躓きの手段であるこの世」というようにも訳せるそうです。
イエス様は、この世の本性を「躓きを与えるもの」とみなされました。 この世とは、イエス様の時代の聴衆を指すとともに、キリストの御国が始まり、それが完成するまでの世界を指します。
今の世は、神の絶対的な支配の中にありながら、なおかつサタンの活動のもとにあります。それゆえに、信仰者が神の完全な支配に入ることや、その支配の中で生きようとするのを妨げようとする力が働きます。ですから、この世にある限り、躓きが起こることは避けられないのです。
けれども、躓きを与える張本人にはならないように気をつけることはできます。 それはまた、他人に対してだけでなく、自分自身にも科さなければならない命令です。 人に躓きを与えないことは勿論のこと、自分自身にさえ躓きを与えないように気を付けようではありませんか。
人にばかり配慮しながら、自分自身に対することはおろそかになる、これは、よくあることだからであります。特に信仰熱心な人は、人を責めないで自分を責める。そういう人を私は見かけるからであります。
自分自身にも気をつける。これもまた、非常に大切であります。 自信を喪失している人は、この世にいくらでもいます。 しかし、信仰者である私たちは、主のお言葉によって、守られ、励まされ、 また、確かな約束を頂いていることに安心したいものです。 自分で自分を責めるのではなく、主のみ前に出て、平安をいただきたいものです。
さて、この朝の3番目に申し上げたいことは、 8節、9節の言葉でありますが、これは仮定法で書かれております。 「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と。
これもまた、厳しいイエス様のお言葉でありますが、これだけ厳しい戒めをいただきながら、しかも、大切な教えでありますが、実は、これを完全に守られる人がおられるでしょうか。なかなか難しいお言葉であります。
ですから、これを完全に守ろうと、この世から退き、山に閉じこもった人もおられます。しかしそれで本当に問題を解決したことになるのでしょうか。主の求めておられることの意味での完全と言えるのでしょうか。私は、甚だ疑問に思います。
なぜなら、不完全な人間が、どこに身を隠しても、所詮、すること成すことは不完全であるからです。また、そのような隠遁生活することを主が求めておられるわけでもないのです。 さて、私は、この朝の話の第一番目に、小さな子供に対しても大人に対しても、イエス様を信じている事には、差がないと申し上げました。それは、比較することではないからです。
第二番目は、人はとかく他人が気になるものですが、自分自身も大切にして、自分をも躓かせてはならないと申し上げました。 なぜなら、私達の本当の弱さをイエス様はよく知っておられるからであります。
私たちは、どう頑張っても自分の力では、完全にはなりえません。 では、イエス様は、何を私たちに求めておられるのでしょうか。 それが、きょうの第3番目に見たい点であります。
それは、イエス様が、私たちに求めておられることの本当の意味は何か、 それを私たちが知る事でしょう。
イエス様は、私たちの手や足が切り落とされることを望んではおられません。 イエス様は、私たちの目がえぐりだされることも望んではおられません。 イエス様の求めておられるのは、言うまでもなく、人を躓かせたり、自分を躓かせたりしてはいけないということです。
しかし、それができないので、人は悩むわけであります。 イエス様の教えに従いきれないと諦めたり、力を落としたり、がっかりしてイエス様の下から去っていく者も出てくるのです。
それだけですめば良いのですが、中には、自分ができなかったので、キリスト者を偽善者呼ばわりする者までも出てくるのです。
でも、イエス様は決してそうなることを望んではおられません。 イエス様から去るどころか、むしろ、イエス様により近く近づくことを求められるのです。なぜなら、イエス様が愛されるのは、そういう弱い人だからです。
自分の信仰は絶対大丈夫だと信じている人ではないのです。 そういう人は、もうすでに、その報いを受けているのです。 高慢という罪からの罰を、であります。
1節の所で私たちは見たのですが、弟子たちは、「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」と弟子たちが言ったとありました。 なぜ、彼らが、そのようなことを言ったのか、自分こそは、イエス様に良く思われたいと思っていたのか、あるいはまた、12弟子の中の一番下の12番目だとは、誰一人信じたくなかったからなのか、確かな理由はわかりません。
でも、そもそも、そういうことを考えること自体が正しくない。 間違っていたのです。 だからイエス様が指摘されたわけでした。
実は、弟子たちにとってそこに大きな落とし穴がありました。 弟子たちはみんな、一人ひとり違います。 イエス様は、それを知って弟子とされたのでした。 弟子それぞれが、それぞれの役目を果たすように選ばれたのです。 そこには、誰が偉くて、誰が偉くないか、そういう事はないのです。
イエス様の周りには、パリサイ人や律法学者たちのような人たちが、いっぱいいたのです。そういう状況の中で弟子たちが、偉さを競っている場合ではなかったのです。
私たちがこの朝、特に覚えたいのは、イエス様は、ここにおられるみなさんの誰ひとりをも、隣の人と比べてみてはおられないということです。その事が、次回の話で明らかにされます。
イエス様は、私たちを比較の中で見ておられないということを、この朝覚え、私たち一人ひとりが同じように愛されている、そのことに感謝しようではありませんか。 そして、人に躓きを与えるのではなく、むしろ人を高める働きをさせていただきたいものです。
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