2013年3月10日(日) 「一人に注がれる愛」 マタイ18:10-14 竹口牧師
先回のところで私たちは、たとい小さい子どもであっても、イエス様を信じる者には、愛が注がれていて、その愛には大人と子どもの差はないということ、 また他人を躓かせるのは良くないが、他人だけでなく自分自身をも躓かせる事はよくないということ、 更には、誰が一番偉いかなどと競っている場合ではない。 「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と言われたところを見ました。
私たちは、とかくほかの人を差別したり、見下げたりしやすいものです。 ですから、弟子たちの質問に対してイエス様は、厳しい警告を与えられたのでありました。
さて、この朝は、10節から14節までを見るのですが、最初の2節つまり10節、11節をまず最初に見ることにします。 10節前半は、こうあります。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。」とです。
このように、イエス様が言われるということは、弟子たちは、そうしていたからでありましょうか。それは即ち、私たちも同じであると言えないでしょうか。その点にまず私たちは目を留める必要があると言えましょう。
主に救われた者は、同じ神の子とされた者であり、それは、大事な一人であるということにほかなりません。それが、年齢の差であったり、キリスト者としての経験の浅さ深さの差であったり、あるいは、知識の差であったりといろいろ考えられますが、神様の選ばれた一人には変わりはないのであります。だから、どんな人をも見下げてはならないということになります。
次に10節の後半でありますが、こうあります。 「まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」と。
ここで「天の御使いたち」とは何を指すのかと言いますと、イエス様は、当時のユダヤ人の間で一般に信じられていた御使いたちの守護、つまり御使いたちの守りを引用することによって、父なる神の小さい者たちへの特別の愛と憐れみを示されている。そのように考えられている説があります。
また、別の本によりますと、「御使いたちは」とは、ダニエル書10章と12章1節において、諸国民の天における代表者であり、黙示録1:20では、教会(複数)の代表者達であるというふうにも言われています。
ここでは、個人さえも、天における代表者を持っており、代表者は「いつも神の御顔を見ている」ので、この小さい者たちを、一人でも見下げたりしないようにしなさい、そういうことになります。
代表者は、高慢な偉い者たちではなく、見下げられるような小さい存在の者たちを見守っている。つまり、神はこのように小さい者も特別に顧みてくださるのである、そうイエス様は言われていることになります。そして、この話の流れは12節へと続くわけですが、その前にカッコ付きで11節が入っているのであります。
〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕とです。 欄外注を見て頂きますと分かりますように古い写本の多くは、この節を欠くと書かれておりますが、多分、これから見ます12節以下の序言、まえがき、あるいはまた、はしがきとしての役目を果たすものと言われますので、そのように読んでおくことにいたします。
さて、それでは12節以下の「迷える羊の例え話」を見ることにいたします。 イエス様は言われました。 12節、13節「あなたがたはどう思いますか。 もし、だれかが100匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、 その人は99匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。 その人は迷わなかった99匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」と言われました。
このたとえで、まず私が最初に心配になりますのは、一匹を大事にしすぎると、 他の99匹はおろそかにされないかという思いであります。 皆さんも、そんな心配をお持ちにはならないでしょうか。
実は、そのような心配をする人たちに対して、 つまり、そのような心配をするのは私だけではないようでありまして、 ある人がちゃんと 註解書で答えてくれているのであります。 それには、こうありました。 「ユダヤでは羊がよく道に迷ったが、それには理由があった。ユダヤの国の中央を丘陵地帯が縦走しているが、その上部の幅は、わずかに三キロから五キロで、牧草はここにまばらに生えていて、牧場を仕切る壁のようなものがなかったから、羊はよく迷い出た。
そして、一度高原の草地を離れて両側の峡谷に落ち込めば、岩角にひっかかって身動きができなくなり、そのまま死んでしまったのである。パレスチナの羊飼いたちは迷った羊を探し出す名人で、何キロも羊の足あとをたどり、ときに、岩や急な坂道を下って、羊を連れもどすのであった。
イエスの時代のパレスチナでは、羊は個人のものでなく、共同の所有物として村に所属する場合が多かった。そこで、羊にはたいていの場合二、三人の羊飼いがついていた。だから99匹を残しておくことができたのである。
この場合、羊飼いが一人しかいなければ、残された羊を見守る者がいなくなるから、羊飼いが帰ってきた時には、他の羊も迷い出ていたかもしれないが、同僚の羊飼いがいたので、その人たちに羊の世話を頼んで、道に迷った羊を探すことができたのである。
羊飼いは迷った羊を探し出すためには、すすんで危険をおかし、どんな努力もおしまなかった。彼らの間にはきまりがあって、羊を連れ帰ることができなかった場合には、できるだけ羊の毛か骨を持ち帰って、羊が死んだことを証明しなければならなかった。
この話では、仲間の羊飼いが夕方、羊の群れを村にある羊のおりに連れ帰ったときに、まだ山で迷った羊を探している羊飼いのことを報告している様子が目に浮かぶ。村の人たちは、その羊飼いがいつもどるかと山のほうに注目している。
羊飼いが、疲れ果てた羊を肩にかけて、無事に山道を急いで帰る姿が見えると、村中に歓声があがる。村人はみんなでこの羊飼いを出迎え、一度迷って見つけ出された羊の話を聞こうとして集まってくる。この羊飼いの中に、イエスが好んで用いられた神と神の愛の描写がある。」というふうに出ておりました。
お聞きになられてお分かりのように、残された99匹についても、ちゃんと見張る人がいて心配しなくても良かったのであります。 まあ、当然といえば当然な配慮ではあります。一匹を探す事によって99匹がいなくなっては元も子もありません。
ところで、イエス様の話の中で、もう一つ私には気になるところがあるのであります。 それは、13節の最後の部分です。 「その人は迷わなかった99匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」という言葉です。
迷った羊1匹と99匹とどちらが多く愛されるかという問。 この13節を見ますと、迷った一匹の方に分(ぶ)がある。 そのようにも私には受け取れます。
だがしかし、本当にそうでしょうか。 それとも、そういうことを考え、問うこと自体が愚問でしょうか。
私は決して愚問だとは思わないのであります。 なぜなら、自分自身をあの迷った羊一匹に当てはめてみてください。 また、同時に99匹の中の一匹にも当てはめてみてください。
どちらが他方より愛されているのか。 全く気にならないとしたら嘘になるでしょう。
人間の親子関係でいいますなら、 たくさん子どもがいれば、一番出来の悪い子どものことが親は一番気になると言われます。また、一番愛を注がなければならないし、実際に親は注ぐものであります。 そういった人間の考えで今回のことを考えるのは、実は正しくないのであります。
この世のことを、天の御国に適用するという間違いを犯したのが、イエス様の弟子たちでした。「それでは、天の御国では、誰が一番偉いのでしょうか」と質問をイエス様にしているからです。
そして今、イエス様のたとえでも、同じように考えるなら、これまた、間違った結論へと行くことになります。なぜなら、神様の愛は、私たち一人ひとり同じように注がれているからです。
でも、イエス様は「99匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」と言われているではないかと言われるでしょうか。
確かに、迷った一匹の羊が見つかったことは喜ばれます。 でも、その迷った羊が特別かわいかったわけではありません。 だから、見つかって喜んだわけではないのです。 その理由はこういうことができるでしょう。
今回たとえで迷子になった羊を、99匹の中にいれ、 99匹の羊の中から別の一匹が迷ったらどうでしょうか。 羊飼いたちは、探さないでしょうか。
とんでもありません。 良い羊飼いは、命をかけてその迷子になった羊を探すのです。 それは、100匹を預かっているからです。
私は、このイエス様の例えを聞きながら、私自身を100匹の中の一匹とは考えません。 私という神様にとって大切な羊が、100匹いる。 私という一人の人間がいて、そのような集まりの100人の集まり、 そのように私は考えますし、イエス様もそうだと思います。
神様はそのように、私を見ていてくださると信じています。 羊飼いも同じであります。 全部の羊が大切なのです。 あの羊はいらない。この羊はいらない、ではないのです。 一匹、一匹が大切なのです。 100匹のうちの1匹くらいいなくたって、構わないではないのです。
だからイエス様は言われるのです。 「あなたがたは、この小さい者たちを、 ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。」とです。 つまりこれは、大変意味ある言葉であります。
イエス様は、この12,13節の例えのあと、14節でまとめられます。 「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、 天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と。
神様は、ご自分の愛する者が滅びることをゆるされません。 多くの中の一人を愛されるのではなく、愛する一人が多くいるとして扱われるのです。
旧約聖書のヨナの話を思い出してみてください。 ヨナは、アッシリヤの人たちが滅びても良いと考えていました。 しかし、神様は言われました(ヨナ4:10-11)。 「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」とそう言われました。
都会の雑踏の中の一人。 誰も振り向いてはくれない。 私なんか必要ないのだ。 いてもいなくてもいいのだ。 そう思っている方がおられるでしょうか。
しかし、実はそうではないのです。 あなたがいて、周りの人がいるのです。 あなたを絶えず見ておられるお方がおられるのです。 それが、あなたを創られた造り主なのです。 そしてその方が、あなたにはあなたの使命があると言われるのです だから、この世の計りで測ってはならないのです。 それをまた、天の御国に持ち込んでもいけないのです。
「人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。」と11節にはありました。 イエス様は、滅んでいる者を救うためにこの世に来られました。 そしてイエス様の働きを推し進めるために12弟子たちを選ばれました。
彼らは、選ばれなかった他の人に比べて、飛び抜けて賢かったわけではありません。 どういう審査基準で選ばれたのか、私たちにはわかりません。 教会に集まってきている信仰者もまた、同じです。
なぜ、どういう理由で、この教会に遣わされたのか誰も知りません。 これは、神様の奥義であります。 私たちの知ることのできない奥義なのです。
しかし、これだけははっきりと言えます。 私たちはみな、一人ひとり、神様に選ばれ、救われたのだと。 その私たちは、神様に誰よりも良く見られるために、 人を蹴落とすことではない、とであります。
「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでも つまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、 湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」と言われるほど、 小さい者にも目を留め、等しく愛してくださっているのであります。
神様の愛、思い、願いは、聖書によって明らかにされています。 それ故、その御言葉を通して、主に愛されている事を覚えつつ、 主の愛に答える歩みをこれからもさせて頂こうではありませんか。 神様が用いてくださる大切な一つの器として、 私達一人ひとりが、お互いに協力し合ってお仕えして行きたいものであります。
2013年3月17日(日) 「主の名において行う」 マタイ18:15-20 竹口牧師
先回私たちは、神様が私たち一人ひとりを愛してくださっている、 その事を、例え話でイエス様が話されたところを見ました。 それは、100匹の羊を世話していて、一匹が迷子になった場合、99匹の羊を残して、その迷子なった一匹の羊を捜すという例えでありました。
14節では「このように、この小さい者たちのひとりが滅びる事は、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と言われたところを見ました。
私たちは、神様の目から私たちをご覧になる場合、決して大勢の中の一人ではなく、 大切な一人ひとりが集まった大勢であり、神様は、私達一人ひとりに愛を注いで下さっているという事でした。
この話の最初は、御国では誰が一番偉いか、という話から出発しておりましたので、天の御国では、大きい小さいはない。みな、同じように愛されていることが述べられていました。
では、その愛されている兄弟姉妹の誰かが罪を犯した場合、私たちは、どうすればよいのか、それについて教えて下さっているのがきょうの所であります。
教会は「神の愛」「神の赦し」を語るところ、だから、人を裁いてはいけない。赦すべきだ。そういう考えがどこか根底にあるようでありまして、あまりさばくいう点については、話題にしないようにしている。そういう教会もない訳ではありません。
では、私達の教会ではどうでしょうか。 私達の教会では戒規がありまして、やはり人の集まる所には規律というものが必要であり、教会として、時に運用しているのであります。
ところで、昔の私たちの教会の姿と今の教会の姿とで、大きく違っているでしょうか。私は、あまり違いを感じません。もしここであえて言うとするなら、人が入れ替わりつつあり、従って、新しい世代になりつつあるということでしょう。 それによって活気が出て来ていると思うのですが、どうでしょうか。
さて、教会は、キリストの愛を伝える所、キリストの赦しを伝える所ですが、それだけではないことは言うまでもありません。イエス様は、間違っている者に対してははっきりと指摘され、きょうの所で、こう言われたのでありました。
15節「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」とであります。
今、ここに書いてあります「あなたの兄弟」とは、言うまでもなく、イエス様を信じた人の間柄であり、その兄弟が罪を犯したなら、まずは、「二人だけでの所で責めなさい」と言われました。
公にする前にまず、二人だけで話し、忠告しなさい。それも「責めなさい」とありますので、悔い改めを迫るように求められております。これは、なかなかきついものがあります。
まあ、これくらいいいかとして見て見ぬふりをする、これは、罪を犯した者に加担することであります。そしてほおっておきますと、更に大きくなっていきます。 そうならないためにも、罪は罪として指摘し、また、神様のみ前に出て認め、悔い改める必要があるのであります。そこには当然ながら、相手の名誉も関係してきますので、一対一ですることが、大切であります。
しかし、神様に罪赦され、神の子とされたとはいえ、罪の指摘を素直に受け止められない場合とか、性格的にも聞くことのできない兄弟も中にはいます。自分の言葉、行動に間違いはない、そう確信を持っている人も、中にはいるものであります。自分のことは自分でよくわかっている。そう言う人も中にはおられます。
ですから、指摘された場合、 「そういうあなたは、何なのよ。あなたにも、こういうことあり、また、ああいうことがあるでしょう」ということになり、そしてそれは、双方の対立へと発展しますので、非常に難しいところがないわけではありません。
ただ、この時点で、素直に罪を認め、神様のみ前に赦しを求める人は、何という幸いでありましょうか。実に謙遜を学ばせられる場面でもあります。自分の歩みが、神様のみ前にどうなのか、御言葉を通して、よく吟味してみなければなりません。互いに責め合っていては、神様に喜ばれることはないのであります。
15節の最後の方に、 「もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」とあります。 この「兄弟を得た」という「得た」というのは、 「獲得する」「もうける」「味方にする」などの意味があるそうです。 それは、対個人の関係の回復であり、更には、教会の中での交わりが続けられるということでもあります。
もし、この時点で、神のみ前に悔い改めがなければ、それは、交わりから去ることを指します。物理的には、どんなに近くにいても、同じ主の交わりの中にはいないのです。と同時に、その人は教会の中で孤立を意味します。
しかし、それでは、主にある交わりから分離した状態で、同じ兄弟姉妹の中の間柄とは決して言えません。だからイエス様は、次の手段を勧められるのです。 16節であります。 「もし聞き入れないなら、他に一人か二人を一緒に連れて行きなさい。二人か三人の証人の口によって、全ての事実が確認されるためです」とであります。
ここにあります「二人か三人の証人の口によって」というのは、申命記19:15から来ているものと思われます。即ち「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」という言葉です。
しかし、この申命記の場合、裁判でのことですので、今回の場合と全く同じというわけにはいきません。 が、とは言いましても、第三者が入ることは、やはり違った目で吟味されることでありますので、大変大切な点であります。
一方的に責められるのではなく、公平な目で見られることは、「ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるため」には良いことであります。 忠告している者の語っていることが、単なる中傷や非難ではなくて、事実に基づいた罪の指摘、忠告、訓戒であり、兄弟愛から出たものであることを証言してもらうためであります。
17節では、「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」とイエス様は言われます。
ある学者は、イエス様の時代はまだ教会というものがなかった。 だから、おかしいと言いますが、そして確かに、現代のような教会を考えますと、少々違いがあります。
実際に、ペンテコステ以降に徐々に今の形になってきたのですから、このところで同じように考えるわけにはいきません。つまり、ここでいう教会とは、本来の意味である「会衆」とか「集まり」を意味しておりますので従って、イエス様の時代のイエス様を中心とした共同体を指して言っておられるということになります。
ちなみに、イエス様が話された教会という言葉の最初は、16:18が最初であり、ここで二度目であります。相手のことを考え、一対一でなされた忠告に聞かないで、更には、「ほかに一人か二人を一緒に連れて」忠告しても駄目。そのような場合には、「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」とイエス様は言われます。
つまり、共同体の一員とはみなすな!ということでありましょう。 それは、交わりを一切断つということであり、またそれは、霊的な死を意味するのであります。言うまでもなく異邦人とは、イスラエル人以外の人たちを指します。
肉においては、私たちは異邦人でも、霊においては、イスラエルであります。 異邦人は、神の契約の外にありますし、取税人は、当時、徴税の働きをしておりましたので、しかも、ローマの管轄下にありましたので、ローマ帝国の手先とみなされていました。それほど厳しい扱いをしなさいと言われるのです。
イエス様は愛なるお方であるという捉え方しかできない方は、こういう厳しいイエス様のお言葉には、目をそむけるか、ある方は、耐えられないことでしょう。 しかし、これが現実であります。自分の耳障りの良い言葉ばかりを求める人は、教会生活が嫌になったり、ある意味で、耳を塞いでしまうのではないでしょうか。
でも実際、教会が教会であるためには、そしてキリストの体を保つためには、 キリストと違うものが、キリストの体に繋がる事はできないのです。
ところで、イエス様は次にはこう言われました。 18節「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」とです。
イエス様はここでまた「まことに、あなたがたに告げます。」と言われて、 次に述べることは重要ですよ、と言われています。
ちょうど、預言者が「主はこう仰せられる」と言った時と同じで、以下に述べることは大変重要です、ということです。そしてその言葉は、16:19と動詞が複数形であること以外、ほとんど同じで、ここでは、弟子たちのグループ全体に与えられていることば、というふうに解釈される一方で、
しかし、この直前の15-17節で扱われているのは、イエスの共同体、あるいは教会の中での一般的に起こっていることがらであって、12弟子に限定する必要はないという考えもあります。
どちらの解釈が正しいのか迷うところですが、弟子たちに言われた、と取る場合、 弟子たちには、神の権威、特に赦しとさばきの権威が与えられていると解釈されますし、だからそのような権威が与えられている彼らには、罪を犯した兄弟に対して責任をもって対処する責任がある、そのように言われます。
一方、教会に言われたと取る場合、罪を犯した人が個人的な忠告や証人を伴った訓戒を聞き入れない場合、その問題は教会に持ち出さなければならない。しかもその人が教会の警告さえ無視している場合、15節から17節の流れからしますと、教会は、罪を犯した人に対する決定ということになり、更には、教会が禁止した事柄を天もまた拒絶する、という事になります。
その一方で、教会が許可したこともまた天でもまた受け入れらる。 つまり、教会は神の意思を反映していると考えます。これは、大変重要なことで、教会は重い責任が伴う事になります。
ところが、ここで問題があります。 それは、地上の教会はあまりにも問題が多すぎるという点です。 ある人は、罪人の集まりゆえに仕方がないことだよといいます。 しかし、そう言って済まされない重大さがあるところに私たちは、真剣に神に助けを求めなければならないのです。神の意思から離れ、自分勝手な振る舞いを教会がはじめる、そういうこともないことはないからです。
しかし、それでも神様が、ご自身のお考えを実現されるのは、キリストの体なる教会を通してなのであります。 私たちの教会もまた、そのことの重大さをよくよく考え、一つひとつの事を決定していかなければならないといえましょう。神様からの正しい知恵をいただきながら、 決定していかなければならないのです。
さて、19節、20節ですが、もう一度読んでおきます。 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあります。
この聖句は、一般的には、信仰者が二人あるいは三人が集まり、心をひとつにして祈るなら、そこには、主が伴って下さり、その祈りを聞き、そして答えてくださるという、祈りの大切さを言われ、小さなグループでも祈ることを勧められていると考えられます。
しかし、それも大切なことですが、聖書本文の流れからは、15節以下の流れ、続きとして読むことが大切であるのは言うまでもありません。
ただし、「あなたがたのうちふたりが、」とイエス様が言われる時、 15節の訓戒を与える人と受ける人の二人と読む必要はないでありましょう。
問題となっていることを、少人数でも集まって祈ることが大切だということです。 天の父は、それを聞いてくださるからです。 また20節の「ふたりでも三人でも」というのは、特に目を引きます。
と言いますのも、当時ユダヤ人たちは、会堂として集会が成り立つには、成人男性10人が必要であり、それ以下だと会堂としては認められていなかった、ということがあるからであります。
それなのに、イエス様がここではそれ以下でも、 「わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」 と言われているのは、大変、大きな点であります。
これは、当時の人たちからしますと、画期的な教えでありました。 私たちはみんな教会に属し、みんなで話し合い、神様の臨在のもとで、物事を決定していきます。間違った決断であるなら、神様が必ず、それを、どこかの時点でストップをかけるなどして教え導いてくださいます。 それ故に、臆することなくそして慎重に、更には、場合によっては謙虚に判断を下していかなければならないでしょう。
私たちは、今日の聖書箇所から学ぶことは、誰かに指摘されたなら、謙虚に耳を傾けることの必要と間違っていれば、悔い改めるということ、更には、教会会議にまで発展した時には、教会は慎重に、神の導きを求めつつ判断しなければならない。
そして、くだしたことには従うことでありましょう。 そして、そこには、祈りが絶対的に必要であるという点です。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。 もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とイエス様は言われているからです。
祈りを聞いてくださる主に信頼して、祈り求め、どのような問題でも、主に解決していただこうではありませんか。
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