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2013年4月14日(日) 「無限の赦し」  マタイ18:21-35    竹口牧師

この世は、犯罪で満ちております。
そして、被告を裁くために裁判所があり、最近では、我々一般市民も陪審員として裁判に参加しなければならない、そういう時代になりました。昔も今も犯罪はあり、その犯罪も実に巧妙で、簡単には犯人が誰であるのか特定できない事件も多々あります。

今日のところで、ペテロが言っていますことは、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と言っていますが、その罪の大きさは全くわかりません。

振り込め詐欺のような罪なのか、人に睡眠導入剤を飲ませて溺死させ、自殺に見せかける。そのような殺人というような犯罪から、何月何日の何時にどこそこで会おうと約束しながら、約束を破って来なかったというようなことまで、例えばと言って挙げれば、いろいろ考えられますが、神様の前には、どんな罪も罪に変わりはありません。

それゆえに、今回、話しますことは、よくよく考え、受け入れなければならない教えであるとそう云えましょう。

ある本には、ここで言われていることは、「共同体内の一般的出来事というよりは、自分とごく親しい関係にある人との問題だった事を強調している。そのことは、さらに『私に対して』という言葉が付加されていることからも明らかである」というふうに、殺人のようなものは指していないように言われています。

確かに、考えてみますと私に対して、殺人の罪を一度犯したなら、私はもうこの世にはいませんので、死んだ者に対しては、罪は重ねられないことからもそういうことはできるかもしれません。

その本には、こうも書いてありました。
「なお、ここでは『罪』というだけで、具体的にはどのような罪なのか触れていない。罪の種類は、この話の趣旨にとってどうでもよかったからである」そのようにありました。

ですから、最初私は深刻な話から始めましたが、「兄弟が私に対して罪を犯した場合」という場合、ごく身近な話として考えていくことにしたします。また、聖書の話の流れからしましても、15節で「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。・・」云々という話からきょうの話は続いていますので、教会内のこととして話を見ていくことにいたします。

さて、ペテロは、こう言ったと、先ほど21節の言葉を引用しました。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」とです。

これは実は、ペテロの頭の中には計算が働いておりまして、これ以上はないだろうと予想して言った言葉だと思われます。と言いますのは、あるラビは、こう言っているそうだからです。

「隣人からゆるしを3回以上請うことはできない」とか、また別のラビもこう言っているのだそうです。

「もし人が一度罪を犯した場合には赦される。二度犯した場合は赦される。三度犯した場合も赦される。しかし、四度目に罪を犯した場合には、赦されない」とです。

つまり、4度目以上はダメだということになります。
これは、どういうことかといいますと、4度目は駄目なのだから、7度まで許すなら申し分ない、そのようにペテロは考えて言ったものと思われます。

それに対してイエス様はどう言われたでありましょうか。
22節で、こう言われました。
「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とでありました。

これは、単純に計算しますと、490回赦すということになります。
しかし、イエス様は、そのように言われたわけではありません。
大体、人が自分に罪を犯した回数を数えて、記録している人など、果たしているのでありましょうか。いないでありましょう。

その前に、大抵は爆発するのであります。
ということはイエス様は、何をそれで言おうとされたかであります。
3回ではなく、7回でもなく何回でも赦しなさいという事なのです。

そして、それを説明するためにイエス様は23節で「この事から、天の御国は、地上の王にたとえることができます。」と言って話を始められました。

「王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」と27節までにあります。

特に最後の27節は、注目に値します。「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」とあり、借金がどれくらいあったのか、その額が気になる所であります。

「一万タラントの借り」とは、一体どれくらいなのでしょうか。
これを、当時の生活事情と、現在の生活事情とは違いますので、同じようには比較はできないのですが、それでもあえてするとしますと、1タラントは、6000デナリ、そして1デナリは、当時の一日分の労賃に相当するそうですので、これを計算しますと、1万タラントは、6000万デナリ。これを1年365日で割りますと、約16.4万年分の労賃になります。

これは、「自分も妻子も持ち物全部も売って」もそれも一生働いても、払いきれる額ではありません。それを26節を読みますと、「『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。」というのであります。

払える可能性のないのにあえてそう申し出るというところに、自分の非を認め誤っている姿がよく現れております。いわば、憐れみにすがるしか方法がなかったわけです。

それゆえに主人は、27節にありますように、「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」というのであります。

借金を軽くしたのでもなければ、猶予期間を設けて、延ばしたのでもありません。
借金そのものがなかったことにした、免除したのでありました。
これはもう、借金をした者にとって、どんなに嬉しい事でしょうか。

バブルがはじけて借金に追われ、夜逃げをした人、
あるいは、自殺に追い込まれた人などの話を聞きますと、
お金が人それぞれの人生の中で、どれだけ大きな重みを持っているか、非常に考えさせられます。

イエス様の時代、ユダヤ社会では、子どもが奴隷に売られることはなかったそうですし、男の人が奴隷として売られても、最も高い値段で、1タラント平均では、その20分の1から5分の1位だったそうですから、借金を免除された人が、どれだけ主人に感謝しても感謝しきれない、そんな憐れみをいただいた事になるのでありました。
そんなに赦されたその人は、その後どうしたかであります。
意気揚々と主人のところから出て行きました。
そして28節「ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、
彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。」というのです。

それに対して彼の仲間は、29節「ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ」というのであります。何かさっきと逆転しているのを、その免除された人は、感じなかったでありましょうか。
30節を見ますと、感じなかったようですね。

「しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。」とあるのであります。牢に入れたなら、なお借金を返してもらえないはずなのに、そうまでして残忍な行動にさえ出ているのです。憐れみの心が全く見受けられません。従って31節「彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。」というのであります。

当然ながら主人は怒ります。
32,33節「 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、
おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」とです。

そして34節では、
「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。」ということであります。これはすなわち、牢から出られることはないということです。しもべ仲間に貸していた100デナリならまだしも、1万タラントなのですから、永遠に出られることはなくなった、そういうことであります。しかも、これはもう反省しても遅いのであります。主人の好意を無にしたからです。

さて、私たちは最初、21節で、ペテロがイエス様に聞いた質問から始まりました。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と。

それに対してイエス様は、
「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われ、限度なく、無限に愛しなさいということでした。
そしてそのたとえとして、王としもべの話をイエス様はされました。それを細かく見てきたわけでありました。

では、結論として、何が言えるのでしょうか。
なぜ、人は、無限に、何度でも許さなければならないのでしょうか。
どうしてでしょうか。

その理由の一つは、人は、神さまに何度も赦していただかなくてはいけない存在だから、そういうことができるでしょう。神によって赦された恵みの大きさを考えるなら、それは、それは、とてつもない大きな赦しの恵みをいただいている。だから、その赦されていることに感謝して、自分に対して犯された罪に対しては、受けた恵の方が大きいので、赦すことが求められているということではないでしょうか。

だから、イエス様は言われるのです。
「それが神の民とされた者の姿です」と言われるのです。
自分が人を赦さないのに、それでいて、自分が犯した罪は赦されることを願う。
これはあまりにも身勝手だと言えないでしょうか。

赦さなければ、赦されない。これは人間の世界ではなく、神の民としての世界なのです。なぜなら、イエス様は、この時点ではまだ十字架にかかっておられませんが、私たちのすべての罪のために、あの十字架にかかり、神のみ前に精算してくださったからです。

父なる神様から無限の赦しを受けた私たち神の民とされた者は、他の人が自分に対して犯した小さな罪を赦すべきである、その事を今回の話しで教えられるのです。

罪の大小、それは、罪と罪とを比べていうものではありません。
なぜなら、私たちはイエス様によって赦された罪は、個々に犯す罪、一つひとつを全部まとめても、イエス様の贖いの十字架で払ってくださった代償は、比べることができないからです。

それこそ、16.4万年分の労賃と100日分の労賃との違い位の差、
いいえ、それよりももっと比べることのできない赦しを、私たちは、イエス様から頂いているのです。その事に、私たちがもし気がつかなかったなら、あるいはまた、赦された事の大きさを忘れているとするなら、イエス様に対して感謝の心もなければ、信仰の友が小さな罪を犯しても決して赦すことができない、すぐに怒り、爆発し、周りに悪い影響を与えてしますのです。

実際の所、家庭で起きた小さないさかいは、決して、家庭だけで収まることはありません。やがて、その家庭から会社に、あるいは学校に、あるいは、近所の人にと、
家庭から出て行った先々で、問題が尾を引くのであります。そしてそれは、さらに悪い広がりを見せることになります。従ってそのような信仰生活が正しいあり方とは決して言えません。

35節のイエス様のお言葉を、私たちは心に深く止めておかなければならないでしょう。
「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」とあるのであります。

赦すことは難しいことです。
でも、逆に赦さなければ、自分も赦されない事は、知っておかなければならない真理であります。この世には、理不尽なことが数多くあります。常識では考えられないような事が起きるものです。常識と思えること自体が、相手には常識ではなく、また自分自身も間違っていたりもいたします。

それゆえに、私たちは常に、イエス様に目を向けなければならないのです。
そして、イエス様に本当の正しい基準というものを教えていただき、神様の基準で物事を見ていかなければならないと言えましょう。

まずは、神様のみ前に、どれだけ罪が赦されたのか、そして今も犯している罪がどれだけあるのか。一つひとつ数えてみる必要があるでしょう。そして、イエス様のあの十字架によって罪赦されたことが、どんなに大きな犠牲であったか、繰り返し、繰り返し考えて見たいものです。

キリストが祈られた十字架上のあの祈りを思い出したいものです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのでした。

イエス様は、反抗する能力をお持ちでありながら、しかし、反抗されず、されるがままに任され、祈られたのでした。大祭司としてのイエス様の執り成しが今も、
父なる神に対してなされていなければ、どうでしょうか。また十字架のあの贖いの業が、もしなかったなら、どうでしょうか。

私たちは決して、平穏のうちにこの世をさることはできません。
どんなに大きな赦しを頂いているかを覚えつつ、兄弟姉妹に対して、本気で赦し、愛して行くことを、この朝、私たち一人ひとりに神様は求めておられます。
私達は互いに赦し、赦された関係で主にある交わりを深めて行こうではありませんか。

2013年4月21日(日) 「神が合わせたもの」   マタイ19:1-6   竹口牧師

この朝は、マタイ19:1-6までをみることにいたします。
イエス様は、あちこちと移動しながら、神の国の福音を宣べ伝えておられましたが、
今日の19章に入りまして、また新たな段階へと入っていかれるのであります。
1節にこうありました。

「イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。」とであります。ここにあります「ヨルダンの向こう」と言いますのは、当然ながらヨルダン川を中心にして、西側から見て東側のことを言っているのであります。

ですから「ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた」というのは、現在で言いますとヨルダン王国に行かれたということになります。それは即ち、川向こうの外国の地に行かれた。そのように思えるのですが、その当時、イエス様の行かれたそのあたりは、ペレヤ地方と言われまして、北はガリラヤ湖を少し南下した辺りから南は死海の中央近くにまで及ぶ東側地域をペレヤ地方と言われ、

しかもガリラヤを支配おりました国主ヘロデが、そのペレヤ地方をも支配していたわけでありまして、イエス様は、その同じ支配者が支配しているペレヤ地方へと足を延ばされたということになります。

とはいうものの、イエス様のこの旅は、その後一直線にエルサレムに向かって南下されるものではなく、今回の旅、ペレヤ地方を回って、どうもまた西側に戻られたようであります。

それにしましても、イエス様は、ガリラヤ伝道を終えられて、これからエルサレムに向かって進まれ、更には十字架に掛けられるという経過を辿られるのであります。

ですからイエス様としては最も大切な部分に、いよいよ入られる事になっていくのであります。そういうイエス様に対して、2節によりますと、「すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった」とありますように、多くの人をここでも憐れんでくださったのでありました。

しかし、そういう憐れみ深いイエス様に対して、3節を見ますと、相変わらず、イエス様を試みようとするものが、やって来たのでありました。イエス様の行かれる所どこにでも、執拗について回る。まことにうっとおしい人たちでありました。

パリサイ人たちは言いました。「何か理由があれば、妻を離別する事は律法にかなっているでしょうか」とでありました。
この質問は勿論、イエス様を試すためであって、決してわからなくて、また困って聞いているわけではありません。

また、ここには律法(ノモス)という言葉がありますが、これは分かりやすくするために補って入れてあるのでありまして、実際にはありません。ですから、他の訳では、こう訳してあるものもあります。
「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか。」とであります。
あるいはまた、直訳をしますと「どんな理由からでも彼の妻を去らせることは、人にゆるされるかどうか」というふうになります。さしつかえないかとか、赦されるのかという疑問です。

まあいずれにしましても、パリサイ人たちは難しい問題をイエス様に突きつけた格好になっています。何が難しいかと言いますと、離婚というこの夫婦の問題は、いつの時代でも、またどこの国においても、起きておりまして、また、非常にデリケートなものを含んでいるからであります。残念ながらキリスト者同士の結婚でも決して例外ではありません。

それだけに、私たちはまず、結婚について神様はどう言っておられるのか、それを正しく見ておきたいと思うのであります。それから次回にその次の離婚についての問題を取り上げたいと考えております。

イエス様はまず、創世記1章27節を引用されました。
それは、こう書かれております。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とです。

つまり、人をご自身のかたちに創造されたというのは、大変大きな点なのであります。
そして、そのように造られた男と女は、どうすべきかが、同じく創世記2章24節を用いてイエス様は言われております。

「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」という結婚へと結びついて行く、そのように御言葉を用いられたのでありました。

そこでまず私たちは、これらの御言葉より教えを学びとっていきたいのであります。
そのまず一つの点は、人は神さまによって造られた者であるという点です。

「創造者は、初めから人を男と女に造って・・」とある通り、人が神を造るのではなく、また人が人を造るのでもありません。神様が人を造られたという、真理であります。これは、非常に大切な真理であります。もしかしたら、この実感は、結婚した者にしかわからない事かもしれません。しかも、子供が欲しくても与えられない、そういう夫婦には、よりいっそう真理として迫ってくることかもしれません。

現代においては、人間の手によって科学のメスが入り、人口受精、妊娠、出産、人口調整などなどどんどん人の手によって、それはあたかも、調節可能かのような誤解さえ持たれかねない、それが現代の実情であります。

ですから、気をつけませんと神の御手の働きがあり、その中で行なわれているにもかかわらず、人の手によってどのようにでもなると、錯覚するとするなら、それはそれは、大変恐ろしい事になるのであります。

真の神の働きを忘れて、人間の医術に信頼しているなら、その報いは、人間自身が刈り取らなければならない、そのことは、覚えておかなければならないでしょう。

この世界を支配しておられるのは真の神である。
そのことを、私達キリスト者はしっかりと自覚し、どんなに医学が進歩しようとも、神の御手の赦される範囲から外れての出来事はない。行き過ぎたことをするなら、その罰は必ず、遅かれ早かれ下されることを覚えておきたいものです。

ということで、神様が、人を男と女とに造られた。
これはまず第一に覚えておきたい点であります。
人間がよく考え、計画し、実行しているようで、実はそうではない。その事に気づかなければなりません。そうしませんと、私達は神様の御前に傲慢の罪を犯す事になります。

第二番目の真理は、聖書には、「人をご自身のかたちに創造された」とありますように、
私たち人間、一人ひとりが、神のかたちを持っている。そういう存在であるという点です。それは、他のどんな生きものとも違うという点でもあります。

猿でもなければ、他の動物でもない。人は、必ず神のかたちを、その人の内にもっているのです。ですから、その神のかたちを持っている人間一人ひとりを
私たちは、大切に扱わなければならないのであります。これは私の体、だから自分で自分の体を自由にして良い。そうではないのです。

神様が造られたものであり、しかも、神のかたちをもっている。
だから自分の体でありつつ、また神の身体でもあるのです。
聖書の他の個所では、パウロが、「私達は生ける神の宮なのです」(Uコリント6:16)とそういう風にも言っているのであります。ですから、肉体を壊すような、むちゃくちゃな事は出来ないのです。また、してはいけないのです。

神様のかたちをもっている私たちは、この世に、神様のお考えがあって、生まれてきたものですから、従って、私達は神様が自分に何をさせようと計画されているのか、
この世に生まれさせて下さったのかを知って、そして知ったなら、その役目を果すように生きる事であります。

昨年の交通事故死が、4411人で、連続12年減少だそうです。
しかし、残念なことに自殺者数は、2000年以降3万人を超え、しばらくその状態が続いていましたが、昨年2012年、やっと3万人を欠け、2万7766人だったそうです。

それでも、交通事故死よりずっと多い自殺者数であります。
これは、いかに社会が病んでいるかの証しでもあります。
ですから、国も真剣に何とかしようと取り組んでその結果がやっと、減少に転じたというわけであります。

いじめとか、過酷な労働とか、さまざまな理由がありましょう。
しかし、私たちは、一人ひとりが、神様のかたちをもっている。
ならば、そう簡単に命を絶ってはいけない、そう言えるでしょう。
とは言いましても、この複雑な時代に生きている、あるいは生かされている私達ですから、それも少なくとも多くの人の中からイエス・キリストによって選ばれ、
神の子とされているのですから、兄弟姉妹として、主にあって互いに重荷を負い合い、
助け合ってイエス様の歩まれた道を歩んでいきたいものであります。

第3番目に申し上げたいことは、神様はこの世に、男と女を造られました。
そして、その性の違いによって、それぞれの果たすべき役割を持たせられたという点であります。それがまた、結婚へと結びついて行くのでありますが。

時代によって、また国によって、環境によって、男女の状況は様々でありますが、そして日本にもある時代は、男尊女卑の考えが非常に強い時代もありました。
しかし、現在は、男性の職業だと思われていた職業に女性がどんどん進出し、その一方で、男性は女性化して、どちらが男性だか女性だかわからなくなった。そんな感じもしない訳ではありません。

あるいはまた、経済的格差というものもありますが、まあ、この場合は、性差別はあまり関係ないかもしれませんが、人が人として扱われず、物のように扱われたり、
あるいは、働く道具として扱われたりと、人間の貪欲という罪から起こってくる様々な事態に、この世界は、大きく痛みを感じ、うめいています。

富める者は更に富を求め、貧しい者は何とかそれから抜け出そうとしておりますが、なかなか根本から変ることは難しいようです。競争社会は更にその度を増してきて、
本当に日本だけでなく、世界全体が、ストレス社会になっている、そんな気が私はするのであります。

ともあれ、人間を男と女に造られた神様は、それぞれの性に相応しい役目を与えておられることを、覚えなければなりません。聖書は、男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだと明確に言っている点もあります。

それは、それに聞き従う必要があります。
ただし、それは正しく受け取らないといけません。
聖書の1か所だけでもって決めつけてはいけない事は言うまでもありません。
聖書全体で受け取らないと、それは、間違った解釈になります。
大変、注意深さが必要です。

またその一方で、聖書は、あらゆる場面を想定して書いているわけではありませんで、
自由で、選択できる余地も与えていますので、その事にも、注意を払わなければなりません。

創世記1章18節には、こう書いてあります。
「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」
こうして、男性の助け手としての女性が造られました。しかし、では女性には、助け手は必要ないのかといいますと、そうではありません。

女性にも助け手が必要なのです。それが男性であります。
即ち、お互いが助け合う必要がここに生まれてくるのです。
ですから、創世記のその1章の所で、男性女性の優劣が言われている訳ではありません。それぞれが、足りないところを補い合う。それが、男と女の関係、特には結婚した夫婦はそれが必要なのであります。

もし、これを補い合わなかったならどうなるでしょうか。
不満が生じるのです。軋轢が生じるのです。そしてそれは、結婚の破綻へと突き進むのです。イエス様が言われた6節の言葉は、大変重い言葉です。
「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」とであります。
人は、結婚した時から、二人で一人となったのです。
神様の望んでおられる人となったのです。
否、ならせて頂いたのであります。

一つになったカップルにとって、どちらが欠けてもいけないのです。
だから、それを壊してはなりません。ただし、年齢を重ねれば、必ず、どちらか一人になります。それによって、二人で一人の歩みは終わるのです。従って、結婚した夫婦は、二人の間を神様が分かたれる時まで、二人はお互いが、足りないところを補い合い、助け合って生きて行く事に意義があるのであります。

この世界に多く人がいる中で、二人を神様が合わせて下さった故に、二人が力を合わせて生きて行く。そこに神の祝福があるのであります。ですから、最初のパリサイ人の質問に戻りますと、3節「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」というのは、良い質問ではないわけであります。

なぜなら、離婚を正当化しようとするものだからです。
法律的に問題がなければ、離婚してもかまわないですね。
これは、この世の考えです。
因みに、日本の法律では、どのように規定されているか正確には、私は良く知りませんが、ある本を引用しますとこうあります。
離婚が成立する場合は、「配偶者の姦通」、「悪意ある遺棄」、「3年以上の生死不明」「癒しがたい強度の精神的な病」その他には「合意による離婚届」等もあるようです。

他にもあるかもしれませんが、いずれにしましても、法律的に認められても、キリスト者は、神様の御前にはどうなのかという事になります。

2000年前のあのユダヤの地において、離婚に触れる法律は、申命記24章1節だけでした。「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」でありました。

これを巡って、イエス様とパリサイ人たちの論争が次に続くのでありますが、それは、次回に譲るとしまして、今回私たちが教えられたことは、
まず一つの点は、人は神さまによって造られたものである。人が人を造ったのではないという点でありました。

第2番目は、人は神様のかたちにつくられた。だからどんな人にも神のかたちが反映しているという点でした。
第3番目は、その神のかたちを反映した人間が、それも、男と女、それぞれの役目を持たせられた。結婚した夫婦に限って言いますなら男と女は、それぞれの足りないところを互いが補い合うように神様は合わせて下さったということ。だから、二人を引き離してはいけないという事でした。

言うまでもなく、私達は生まれた時から罪びとであります。
ですから、弱さを互いに持っている訳であります。
その結果、全く罪を犯さないということはあり得ません。
それだけに、夫婦はお互いが、
相手の事を思いやることの大切さを教えられます。
イエス様が言われた「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」とは、非常に重い、そして大切な真理として、受け止めたいものです。


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