2013年5月12日(日) 「最上の生き方」 マタイ19:7-12 竹口牧師
先回は、マタイの福音書19章1節から6節までをみました。 そして、そこで見ましたのは、人は、神様によって造られたものであるということ。 また人は、神のかたちに創造されたということ。そして第3番目は、イエス様のおことばで6節にありました、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」 ということでした。
そのように見た所で、きょうの7節へと入って行くのでありますが、先回見ましたその6節の所で、イエス様がなぜ、「「人は神が結び合わせたものを・・」と言われたかと言いますと、それは、3節のパリサイ人の言葉があったからでありまして、その3節で、パリサイ人はこう言っておりました。
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」とです。 しかも、その前にマタイは「イエスを試みて、こう言った。」と書いておりました。 試みる為、即ちイエス様を試すための言葉であったというのです。 つまり、パリサイ人の質問の目的は、イエス様を論争に巻き込むことでありました。
では、どういう点で、その質問は、試す事が出来るのかということになるでしょう。 そこには、こういう背景があったわけであります。イエス様の考えが、離婚に対して厳しければ、「それなら誰も守られませんよ」と言えるし、実際の所イエス様の弟子たちでさえ、きょうの10節において「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」と言っているくらいです。一方、逆に、あまりにも緩やかな解釈をしますと、「それなら律法には厳しさがない」という事になります。
ところで、では律法では、どのように離婚について言っているのか、そういうことになるでしょう。実は旧約聖書に「離婚」という言葉が出ていますのは、10回です。 (レビ21:7,21:14,22:13、民数記30:9、申命記24:1,24:3、イザヤ50:1、エレミヤ3:8、エゼキエル44:22、マラキ2:16)
その内、はっきりと離婚が成立する場合が書かれているのは、私が読みました限りでは、申命記24:1節だけでこう書かれております。 「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」という部分です。
そしてまさにその所の解釈を巡っての論争が今日の所ではおこなわれているわけであります。離婚という言葉が出てきます10か所のうちの一つが、今言いました申命記24:1でありますが、他にもう一つマラキ書2:16には、「わたしは、離婚を憎む」とはっきり書かれております。それ以外の8か所では、「離婚された女はめとってはならない」とか、離婚された女性のその後のことが書かれております。ですから、今回パリサイ人が取り上げましたのは、離婚についてまさに1か所しかない所から、質問を投げかけたわけでありました。
もう一度、申命記24:1を読んでみますと、「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」であります。
その中で特に、問題となりますのが、「妻に何か恥ずべき事を発見したため、」という所の「何か恥ずべき事」のところを巡って、一体それは何なのか言う事で、大きく二つにイエス様の時代には、分かれていたのでありました。
その分かれている二つの考えを、ある本を引用して、紹介しますが。こう出ております。「この点に関して、ユダヤのラビ達の間には激しい対立があった。イエスに向けられた質問は、この論争の中にイエスを巻き込むためのものであった。
シャンマイ学派は、恥ずべき事を淫行と解釈し、淫行以外には、どんな理由でも離婚を許さなかった。たとえ女がイゼベルのように悪くても、淫行を犯さない限りは離縁する事が出来なかった。
一方、ヒルレル学派は、恥ずべき事を出来るだけ広範囲に解釈した。 たとえば、女が調理に失敗した場合、別の本ではこれを、焦がした場合というふうに 具体的な事を挙げておられましたが、まあ、それはそれとしてあるかもしれませんが、その他に、道路で糸を紡いだ場合、髪を編まないで外出した場合、町で男に話しかけた場合、夫の前で夫の両親に対して不謹慎な事を言った場合、隣の家まで聞こえるような大声で話した場合には、男はその女を離縁する事が出来た。
ラビのアキバは、人が妻を「好まなくなった」という句を更に広い範囲に適用して、もしその人が、自分の妻より好きな女、妻より美しい女をみつけた場合には、離縁する事が出来る、と言った」、そのようにありました。更に悪い事に、と言って離婚できる理由が更に続けて書いてあるのですが、それは、先回お話ししました、こんにち日本でも法律上認められているようなことが、挙げられておりました。肉体的な事、精神的な事、その他もろもろの事であります。
ところで、きょうの個所の場合、何が問題かと言いますと、モーセがなぜ、離婚を認めるような事を書いたのか、そこをパリサイ人は突いて来たわけでありました。彼らはこう言いました。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」というふうにであります。イエス様はそれに対してこう答えられました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」とでした。
つまり、大前提はどこにあるのかをイエス様は6節で明らかにされ、そしてモーセが書かざるを得なかった理由を8節で述べられたのです。
テレビのニュースを見ておりますと、否が応でも芸能界の結婚、離婚を巡っての話題がでてきます、結婚する時は、好いた、惚れたのと浮き浮き話しでありますが、それが一端こじれ、離婚騒動になりますと大変であります。結婚の時は、堂々とテレビに出ていた者が、離婚となると、カメラを避けるようにして沈黙状況になります。
ある人が言っておりましたが、結婚は簡単にできるが、離婚は、相当なエネルギーを必要とする、とであります。二度とあのような思いはしたくないと言いつつ、また結婚するという人もおられます。今の時代も離婚の数が大変多いのですが、イエス様の時代も離婚問題があり、大げさに言いますと、社会問題の一つであったようにも思われます。
ところで、パリサイ人たちの目的は何か。それは言うまでもなく、イエスは律法に違反した事を言っている、そのように事を運びたかったわけでありました。先回申し上げましたが、最初アダムが造られ、その助け手としてエバが造られました。
しかし、アダムとエバとの関係は、一方が助け、他方が助けられる、そういう一方的なものではない事を申し上げました。お互いが、なくてならない者、互いが助け補い合う。そのための男であり女であるという事でした。
ただ、アダムとエバが造られた当初は、離婚なんて発生しようもありませんでした。 お分かりのように、離婚しようにも二人しかいないからです。 しかし、カインとアベルが生まれ、更には、地に人々が増え広がる事によって、加えて罪の世界になると、当然ながら離婚の問題は起こるべくして起こったのでありました。 さて、ここでパリサイ人の訴えに目を向けたいのですが、彼らは、イエス様を訴える口実を何にしたかったかであります。
それは、7節の言葉に、端的にあらわれております。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」であります。あなたは、モーセの教えを否定なさるんですか、という事でした。神からの教えとして、モーセの言葉を大事にしてきた我々としては、聞き捨てならぬ言葉ですよ、という訳です。
そこでイエス様は、はっきりとこう言われました。何度も引用いたしますが、8節、9節、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです」とです。
イエス様のお言葉は明解であります。神が離婚を認めておられるのではなく、認めておられない。神のご意思は、離婚してはならないということ。そして、結婚の理想は、アダムとエバの分離できない完全な結合、その中に見る事が出来る、という事であります。
クリスチャンの結婚式には必ずと言ってよいほど、言われることばが、6節のことばであります。「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」です。これは、とても大切な教えであります。
では、これに対して弟子たちは、どんな反応を示したでしょうか。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」とさえ言っております。これを私達は、一体、どう捉えるべきなのでしょうか。イエス様の弟子たちの中で、何人が結婚していて、未婚の人は、何人いたでしょうか。 全員、未婚だったのでしょうか。
少なくともペテロは結婚していましたね。マルコ1:30やTコリント9:5などからしますと、です。イエス様のお言葉を聞きながら、結婚は神様が下さる恵みの一つで、素晴らしい事とは取らないで、「結婚しないほうがましです」とは、なんという、消極的な言葉でしょうか。
確かに、結婚してこの地上で地獄を味わっておけば、死んで地獄に行った場合、もうすでに地獄を味わっているので驚かない、そういう皮肉を言う人も中にはいます。 でも、本来、結婚は素晴らしい事です。もっとも私たち夫婦は、助け、助けられの夫婦ではなく、どちらかと言いますと、私は助けられ、助けられの夫婦ですから、私が一方的に、私の感想を述べても意味がありませんが、聖書は明らかに、結婚は神様が祝福して下さる祝福のかたちの一つであることは確かであります。
ある人が、こんな事を書いておられました。5節の「一心同体となるのだ」というところからですが。新改訳の「一心同体」というのを口語訳では「二人は一体となる・・」と訳されている所から、「一体」と訳した言葉からですが、英訳では、one flesh とあるように、「一つの肉」です。
One body とは違う書き方がしてあります。(実際の所、ギリシャ語ではサルクスであり、肉という意味です)この「肉」という呼び名は、聖書では神の前に立つ肉なる存在としての「人」を指す言葉です。人間、肉にすぎない者、神の前に己の立場を謙遜に知る者の言葉が、この「肉」です。
この角度から見ると「もう二人ではない。肉として一人、one flesh である」という事の意味は恐らく、第一に社会に対しても、神の前にも、一人の人間として責任を取って立つ、という事でありましょう。
「私は夫のしたことは何一つ感知致しません」とか「妻が足をひっぱって、私は主に従えません」とかはもともとあり得ないのです。もし足が引っ張られて歩けないように思うのなら、それは、タコが自分の足で自分の足を引っ張って、不平を言うのと同じことなのです。」というようにありました。
私は、このタコをたとえに出された事に非常に良い言い方だなあと思ったのでありますが、それはともかく、結婚とは、本来素晴らしいものであり、弟子たちが言うように、「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」とは、 男性としては非常に良くない言葉であるように私には思えます。
それでもイエス様は、原理原則を述べた後で、こう言われました。「その言葉は、誰でも受け入れることが出来るわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。」と。
何か、今回の話しは、殆ど離婚を前提に話しが進んでいる。そんな気がしないでもありません。確かに、結婚しなければ、離婚もあり得ません。しかし、うまくいかないかもしれない事を恐れて、結婚を考えないというのは、何か本筋から外れていないでしょうか。
神は人を男と女とに造られた。そして二人は、一体となるように造られた。互いが助け合い、補い合い、一つの身体として成り立たせる。これは素晴らしい事です。
だがしかしです。全ての人がそうかというと、そうではないとイエス様は言われるのです。それが、12節に出て来るような人たちであります。「母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国の為に、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」とです。
全ての人が結婚するように神様は人を造っておられる訳ではなく、人、それぞれに歩むべき道を備えておられるということでしょう。それは、肉体的な問題を抱えている人とか、職業上、宦官のように、去勢された人とか、天の御国の為に自分から独身を選んだ人もいるということです。もっとも、今の時代、職業上、去勢されるような国はないと思いますが、実際はわかりません。
いずれにせよ、パリサイ人たちは、イエス様をはめようとたくらみましたが、イエス様は、本来神が人に与えておられる事を明らかにされました。結婚を考える時に、離婚からまず考えるべきではない事を教えられますし、また、モーセもイエス様も神の教えに背くようには言っていないし、言われていないこともお分かり頂けたと思います。
いつの時代でも、神様がその人その人に与えておられる最上の生き方をする事が、何よりも大切であると教えられるのです。結婚は、神様が与えて下さった祝福の一つです。しかし独身もまた神様の与えて下さった祝福の一つです。大切なのは、一人ひとりが、自分にあった生き方で、神様に心から仕えて行くことでありましょう。 それこそが最上の生き方であります。
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